fc2ブログ

Lablog

鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

納戸にコアを作る-構造補強(Ⅱ)

P1050558.jpg


コアの完成にむけて

12月25日(構造補強3日目)
 24日に引き続き、納戸の構造補強をおこなった。押入風コアの格子を取り付け、この部分は合板を取り付けるだけとなった。この日、新たに取り掛かったのは南側(厠側)の間口一間の障子部分だ。ここは、構造用合板で障子の半分を塞いで耐震壁に変える。合板によって片側の塞がれた障子は不格好なので、廊下側から見れば引き違い障子が2枚納まっているよう見えるように工夫した。廊下の先には厠がある。人が頻繁にとおる廊下なので、廊下側から合板が見えないように、敷居と鴨居を廊下側に出して合板を隠すことにしたのだ。廊下の幅が敷居分だけ狭くなるが、歩行を邪魔するほどではない。

P1050482.jpg 敷居・鴨居の取り付けにかかるため柱間寸法を測っていると、柱の傾斜があきらかになり、部材加工に苦労することになった。障子自体はほぼ長方形なのだが、柱間は楕円形に変形している。敷居・鴨居のために両脇にも縦に柱状の材を取り付け枠を制作するのだが、その枠は障子にあわせることにした。柱と角度が違うので若干違和感があるかもしれないが、障子に加工を施すより新たに取り付ける枠を障子にあわせるのが良いと判断した。障子や柱などの古材に極力触らないようにすることが、保存修復のあり方として相応しいからである。

 敷居・鴨居を制作していたとき、廊下の下の大引きが外れていることが問題になった。大引が外れているため、廊下の水平が保たれておらず、枠が設置しづらい。そこで、廊下の板を一枚めくり、外れている大引と土台を元に戻すことにした。土台はひどく腐蝕していたが、土台を持ち上げ西側の正常な状態の土台に繋ぎあらせることで問題は解決した。土台の差し替えも考えたが、それをするためには大規模な修復工事が必要となってしまうので、今回は元に戻すまでとする。
 土台を元に戻したことで、納戸と奥座敷をつなぐ廊下が問題なく通れるようになった。ただ、板の強度がやや不安な箇所もあるので、体重を気にしている方は注意が必要かも??
 障子の枠や半柱を作っていると、あっという間に陽が落ちてしまった。本日の作業はここまでだが、明日、鴨居・敷居の取り付けをおこない、合板を貼り付ければ完了となる。

[納戸にコアを作る-構造補強(Ⅱ)]の続きを読む
  1. 2009/12/30(水) 12:49:59|
  2. 建築|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0

シンポジウム「信仰の山-三徳山の世界」に参加して

パネリスト


 12月20日、卒業研究の参考になればとエアポート、アシガル、武内、私の4名で三徳山を考える鳥取県・鳥取大学合同シンポジウム「信仰の山-三徳山の世界」に参加してきました。私の卒業研究にも大きく関わる三徳山や山岳信仰、修験道の話まで専門家が実際に講演されると知り、このような機会を逃すまいと倉吉へ向かったのです。
 シンポジウムの次第を紹介します。

 会場  倉吉未来中心 セミナールーム3(定員195名)
 プログラム
 13:00~13:15 主催者あいさつ
 13:15~14:35 特別講演:「三徳山-人と自然のいとなみ」  山折哲雄潤ツ
 14:45~16:55 パネルディスカッション:「自然と人々の信仰からみた三徳山の姿」
  コーディネーター  濱田竜彦
  パネリスト     山本義孝、永松 大、山本邦彦
  総括        山折哲雄
 16:55~17:00閉会のあいさつ

 まず、山折先生の特別講演では山岳信仰の成り立ちについて話されました。昔から、日本では死者の魂は抜け出て山に登っていき、やがて神になると信じられ、魂の行方に大きな関心が持たれていたといいます。山の世界はあの世、麓の世界はこの世で、そこを行ったり来たりするのが、死者の魂だと考えられていたのです。やがて、6~7世紀に仏教が伝来し、その影響を土着の神信仰が受けました。
 その頃、太陽が沈む方角の西には生命の衰え、季節の衰えを象徴する魂の集合世界があるという信仰が世界中に存在していて、西のほうに浄土があるという理解がされていました。インドでも無限大という思想が発達しており、西の無限の彼方に浄土があるという考えでした。日本に仏教とともにこの考え方が伝わってきましたが、日本人にはこのように抽象的な「無限大」などの考え方を感じ取ったり、理解することが難しかったようです。そこで、日本では浄土はそのような彼方にあるのではなく、自分たちの生活圏を取り巻く山々にこそ存在すると読み替えていきました。ここで、インドにはない、国土のほとんどが山岳地に囲まれている日本ならではの山中浄土という考え方が生まれたのです。
 また、仏教が伝わる際にインドの観音は男でしたが、中国そして日本に伝播するにつれて女性に近づき、やがて子供を抱いた母子神信仰に結びつきました。山岳信仰はこれ以降、母子神信仰により家族の絆、特に母と子の絆を重要視していた側面もあったようです。
 この話を聞いて思い浮かんだのは、摩尼寺の竜女伝説です。この伝説では、帝釈天は男であるにも関わらず、産見長者の娘が帝釈天に変化したと描かれているので、どちらかというと女性的な印象を受けます。長者夫婦が所在知れずになった娘を必死に探したという記述も家族の絆を感じさせます。何か、観音が変化しながら伝わるプロセスと竜女伝説の成立が時期的に結びつきそうな気がしたのですが、どうでしょうか。

[シンポジウム「信仰の山-三徳山の世界」に参加して]の続きを読む
  1. 2009/12/30(水) 00:00:51|
  2. 景観|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0

本家魯班13世

11 | 2009/12 | 01
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

Recent Entries

Recent Comments

Recent Trackbacks

Archives

Category

Links

Search