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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

千手院窟堂の謎(Ⅰ)

千手院復元3D2


仮面の建築

 1月21日(木)におこなわれたプロジェクト研究2&4「修験道トレッキング」の発表会で、新聞記者さんも聴講されており、22日(金)の朝刊に千手院の内容が記事として掲載されました。そこで、千手院復元の経緯と「洞穴の金鶏」伝説の真相(仮)を3年轟&武内がレポートさせていただきます。

全体平面図1)全体配置図
 これは測量によって得た千手院の岩窟、周辺の平坦地とそれに接する道路との関係性を示した配置図です。山間の杉植林地に段状の平坦地がひろがっていて、左の図よりもはるかにひろい範囲にもさらに広がっています。石垣に縁取られたこれらの平坦地の大半は棚田・段畑の跡地で、道路に近い一部は黒住教会(茅葺き)の敷地だったそうです。平坦地にある有本神社も黒住教のものです。その他、五輪塔や梵字の彫られた石仏を測量調査中に発見することができ、江戸時代に作られた石仏には「千手院」と彫られているものも含まれていました。

建物跡遺構詳細平面図2)建物遺構平面図
 千手院窟堂(いわやどう)の岩窟の平面図です。窟堂自体を発見したこと自体が驚きでしたが、『稲葉誌』に「小畑の窟堂」の木造仏堂の版画を発見したときにはさらに驚きました。そして、地表面をよく観察すると、礎石らしき石敷きが地面から顔をだしています。測量をおこなった結果、赤丸で示した位置に仏堂本体の柱の礎石と思われる遺構が並んでおり、手前には向拝の縁石が3個連なって残っていました。

復元平面図3)復元設計図
 礎石位置と絵図の対照関係から、建物の平面図を復元しました。梁間2間×桁行3間の妻入で、柱間は1間=6.5尺で、総長は妻側13尺、平側19.5尺。不動院岩屋堂(若桜)の年代と千手院窟堂の年代があわないため、外観はとくに似ているとは言えない。本体の屋根は切妻で、江戸時代風の桟瓦葺きとしました。窟堂の周辺で桟瓦の破片がたくさん転がっているのです。雨・湿気対策として、瓦が選択されたのでしょう。屋根勾配は3/10とします。また、絵図には唐破風つき向拝も描かれているので、向拝は向唐破風銅板葺きとしました。なお、窟堂内地形にわずかながら傾斜があるので、低い床ではありますが、不動院岩屋堂と似た懸造としています。

0121発表会07因幡誌

 絵図や復元千手院CGを見るとあきらかなように、千手院窟堂は岩窟をふさぐように建っており、奥に鎮座していたであろう千手観音像を拝むには仏堂に入らなければなりません。言い換えるならば、仏堂の外から千手観音像はまったくみえないのです。つまり千手院は岩窟内部や千手観音に対して「仮面」の役割を果たしているということが言えます。「洞窟に金鶏が住んでいて、不動院と千手院の岩窟は細い抜け穴でつながっている」という伝説は、仏堂の外にいる限り、確かめることができません。実際には、抜け穴となるような細い岩窟は存在しないにも拘わらず、「金鶏の洞穴」(抜け穴)伝説が長く語り継がれてきたのは、千手院と不動院の仏堂が岩窟を遮蔽していることと不可分に係わっていると言えるでしょう。(続)

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  1. 2010/01/24(日) 00:00:58|
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