下層遺構はいつの時代か 8月28日(土)。この日も下層遺構の検出をおこないました。昨日からL字トレンチの深掘りが始まり、この日はA区・B区のL字トレンチに加え、C区西壁沿いに設定した台形状のトレンチも下げていきました。昨日、轟担当エリアから出た凝灰岩石敷列の発見が刺激になって、この日の現場は下層遺構の検出に活気付きました。しかし、はやる気持ちとは裏腹に、午前中の作業ではそれらしいものが一向に出てきません。
沈黙を破ったのは、武蔵が掘り下げていたC区西側トレンチでした。C区西側トレンチは平坦地と崖の境目です。先生がガリで試し掘りすると、ほどなくして長形大土坑から連続する凝灰岩敷石が出てきました。これを武蔵が追っていくと、この敷石は平坦地側には伸びる気配を感じさせるものの、崖側では崖の少し手前で完全に切れていることがわかりました。この切れ目は南北軸というよりも崖に平行です(↑)。先日先生が検出された斜面(崖)の凝灰岩とどのように接続するのか、今後の展開が注目されます。また、このエリアからは上層のタタキと凝灰岩敷石の間から、瓦器風の土器片がいくつも出てきました。これらは上層遺構の竣工年代を知る重要な手がかりです。
部長が担当したA区L字トレンチは、深さ30センチになり、凝灰岩の粒がまじった「茶灰土」層(上層タタキ)の下から赤みがかった凝灰岩粒まじりの「赤褐土」層があらわれました。この層からは握拳大の凝灰岩片が2~3出るぐらいで、下層基壇敷石や礎石らしきものはみつかりません。試しに轟のエリアから出た凝灰岩石敷列とA区L字トレンチ底のレベルを比較すると、A区L字トレンチの方が10センチほど低いことがわかりました。仮にこのエリアの凝灰岩石敷が飛ばされていたとするならば、凝灰岩粒まじりの赤褐土層は下層の基壇土である可能性が高いでしょう。ここで、C区西壁トレンチから出てきた土器が正真正銘の瓦器であれば、上層が中世前半の造成ですが、下層基壇の築成年代は不明なままでした。

↑武蔵が発見した「瓦器?」 ↑エアポートが発見した「須恵器」
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- 2010/08/31(火) 00:22:03|
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ひろがる下層基壇 8月27日(金)。この日から下層遺構の検出が本格化しました。午前は、残っているD区レベル測量と併行してA区とB区の両方でL字トレンチを掘り下げていきます。B区の担当は轟、A区の担当はナオキさんです。また、B区の長形大土抗でも、いよいよ五輪塔の取り上げをエアポートさんが始めました(↓)。五輪塔については、上層のタタキを切り込む土抗に廃棄されたものだけでなく、タタキにくい込んでいるものもあります。前者は上層建物の廃絶にともなう遺物であり、後者は上層建物の竣工にともなう遺物です。五輪塔の編年をおさえることができれば、上層建物の竣工/廃絶年代を知ることができるわけです。
B区のL字トレンチでは、前回発見された礎石ホゾ穴の周辺を精査し、下層基壇の凝灰岩石敷列の延長を確認していきました。ところが、A区に向かって伸びていた凝灰岩がホゾ穴から30cmほど掘り進めると突如、途絶えてしまいました。基壇範囲は、どう考えても、もっとひろいはずですが、ともかくこの位置でいったん凝灰岩石敷が消えるのです。
午後からは五輪塔の取り上げを終えたエアポートさんがB区のL字トレンチの北端を掘り始めました。この辺りは木の根が網の目のように張っており、掘り進むのに苦労されていたようでした。
一方、D区のレベル測量ですが、3人がかりでやっているわりにはなかなか進みません。だれもが、レベルは午前中で終わり、ただちに下層遺構検出に加わってもらえると期待していたにも拘わらず、いつまで待っても測量に3人の員数をとられている状態が変わらず・・・とうとう先生の激がとびます。14時過ぎにやっとレベル測量が完了し、全員が遺構検出の作業に専念できる体制となりました。

A区のL字トレンチを担当していたナオキさんは、先生の指示に従って、タタキ面を約5センチずつ掘り下げていきました。5センチさげて遺構がみえないと、また5センチ下げて下の平坦な面をみます。あれよあれよというまに20センチほど掘り下げていき、凝灰岩まじりの層(上層タタキの一番下か下層基壇の最上層)に辿り着きました。先生によると、ナオキさんは道具の使い方、体の使い方がいちばん上手いそうです。私はといえば、午前中にマンジュウの使い方を先生に指導されました。ナオキさんを見習わければなりませんね。
16時を過ぎたころ、先生が轟担当の掘り下げ部分から再び凝灰岩石敷列(↓)を検出しました。途切れていた凝灰岩から1mほど東に大きな凝灰岩の塊がみつかったのです。黄色みの強い石で、目地をはっきり確認できます。どうやら途切れていた部分は後世の攪乱なんですね。ここで遺構検出していた轟が発見できなかったことは悔しい限りです。この凝灰岩を南北グリッドと比較してみると、目地の方向は国土座標系グリッドから約45度ふれていて、昨日発見されたホゾ穴の方位と一致しています。下層基壇は岩陰仏堂との平行関係を重視し、北東-南西の方位を軸としていた可能性が高まってきました。上層はあきらかに東西南北の方位に従っているので、これはまた大きな発見と言えるでしょう。
この日、おおきな凝灰岩の発見はこの部分だけでしたが、周辺には凝灰岩の破片が散乱しており、部長さんが担当するC区の一部でも先生が試し掘りしたところ、やはり凝灰岩が伸びてきています。また、すでに述べたように、ナオキさんが掘り下げた最下層にも凝灰岩の粒がたくさん含まれています。さて、この凝灰岩石敷はどこまでひろがるのか?
この時点で、重要なカギを握っているのは、いうまでもなく、轟の担当箇所です。先生が検出された凝灰岩がどこまで伸びているか、そして、下層建物の竣工年代を特定する遺物を発見できるかどうか・・・この日、先生は畦でも上層の礎石を一つ発見されました。学生が見逃しているものを次々と見つけていきます。学生も負けてはいられません。一体誰が決定的な遺物を発見するのか、乞うご期待! (轟)

↑新たな凝灰岩(左)と上層の礎石(右)。下層基壇面と上層基壇面のレベル差がよく分かる。
- 2010/08/30(月) 00:08:30|
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今日はオープンキャンパス。今年から8月末にもオーキャンが開かれることになりまして・・・ゼミ生たちは摩尼寺「奥の院」の現場にあがっています。わたしは、これから30分のミニ講義。ただでさえ講義は苦手なのに、高校生むけの講義だからね・・・またすべっちゃうんじゃないかな・・・30分の講義が終わったらただちに現場に駆け上がる予定です。
あっ、また放送している。
今日は気温が上がっています。熱中症になる危険性があるので、
こまめな水分補給を云々・・・
ったく、8月も終わろうというのに、この夏の熱さは尋常じゃありませんやね。でも、暑いほうがよいのです。夏は暑いほうがいい。でもでも、少々ばてました。顔が細くなったって言われたもの。食が細くなっていて、現場の昼休みはコンビニで買った冷やし麺しか食べられない。おむすび弁当とか幕の内だと、喉を通らないのです。ぶっかけ麺を勢いで胃袋に放り込んで、あとはエネルギー補給のアミノ酸&ローヤルゼリーをチューと吸い込んで終わり。こういうゼリー状のものもみんな冷凍庫で凍らせて現場にもってあがるのです。11時の休憩か昼休みに、ちょうどシャリ旨になっている。まぁ一度ためしてみてください。
よくよく考えるんですが、現場が辛いわけじゃない。現場は楽しい。楽しいから体力を消耗しているのはたしかですが、体重も順調に減っているし、現場がわるいわけじゃない。問題は睡眠時間ですね。わたしの場合、夕方、直帰で帰宅し、シャワーを浴びて、汚れた衣服を洗濯機に放り込んでから、2時間近く眠ってしまいます。そうしないと、体がもたない。しかし、目覚めてから、また別の仕事があるので、大学へ。「校正マシーン」状態はいっこうに変わることなく続いているし、今日のような講演の準備もあるし、学生のブログのチェックもあるし、床につくのは日が変わってからですが、寝付きがよくない・・・しかし、目覚めは早いですからね。いつもは午前は眠ってるんですが、寺町の下宿は暑くて自然に目が醒めるし、なにより現場に行かなきゃなんない。
現場に向かうと心は弾むのです。山道を歩き始めて、体が生き返り、1日はあっというまに過ぎてゆく・・・
今夜、奈良に向かいます。今月、奈良にいたのは5日間だけ。いつもなら、夏休みや冬休みは鳥取から消えてしまうのですが、今年はずっと鳥取だ。まぁ、奥の院は異国のようなものだけれどね。
9月になったら即、中国へ。麦積山石窟をみてきますので。硬臥の辛い旅になりそうです。
- 2010/08/29(日) 13:08:53|
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下層基壇敷石に残るホゾ穴 8月26日(木)。この日はA区の再実測とC区のレベル測量から始めました。前日はB区の長形大土坑で大量の五輪塔などに苦しみましたが、C区も礎石風の石列があり、なかなか測量が進みません。A区の再実測は、レベル測量組が苦戦している間も、着々と実測を済ませていきました。どうやら、昨日の間に修正箇所を細かくチェックしていたため、描き直しを早く終えることができたようです。
実測終了間際、3名のお客様と一緒に先生が現場に到着しました。そのお客様とは、開学当初から数年間、政策学科教授の職にあったT先生、そのお弟子さんのKさん(1期生OB)、そして現在本学で非常勤講師をされているM先生です。前夜、先生とお客様たちは、魏志倭人伝に記された「邸閣」について意見を交換しながら、楽しいお酒を酌み交わされたようです。なんでも倭人伝の記載が租税に関するもっとも古い文献記録なのだそうですが、浅川先生が倭人伝の建築用語を網羅的に分析した論文(「正史東夷伝にみる住まいの素描」)を書かれていて、それをまた佐原真さんが『魏志倭人伝の考古学』で引用されているので、驚いて浅川先生に連絡をとられたそうです。お三方は会計学をご専門とされているのですが、「邸閣」を学ぶうちに倭人伝の虜となり、今では九州や大和などで倭人伝に係わる遺跡をめぐる旅を続けておられます。ただ、発掘中の現場をみるのははじめてらしく、先生の実演する堀り方や遺構の出土状況、あるいはまた大きな岩陰を見て、歓喜の声を上げられていました。記念に私たちも一緒に写真撮影していただきました(↓)。その後はいつものコースで、岩陰・岩窟を経由して立岩(山頂)へと登っていかれました。
そして、A区の実測が終わったころ、先生が山頂からおりてこられ、ついにB区L字トレンチ下層遺構の検出が始まりました。
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- 2010/08/28(土) 16:23:31|
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レベル測量と遺構実測やり直し 8月25日(水)。昨日、4区すべての実測がほぼ完了したので、この日からレベル測量に移りました。実測と同様、下層遺構の検出を控えているA区とB区を優先して測量します。しかしながら、A区の実測図が一部未完成のため、午前は担当していた学生が引き続き実測をおこない、残りの学生でB区のレベル測量をしました。
B区は長形大土坑から五輪塔や礎石、礫が大量に出ているので、レベルをとるのも一苦労です。一つの遺物に対して、十字に5~9点値をとっていくので、土坑周辺の実測図はレベルの数値でびっしり。これを見やすく記入していくのにはなかなかのセンスが必要です。そんなわけで、一人ひとりのセンスを確かめるため・・・ではなく訓練のため、作業は「スタッフを持つ」「数値を書く」「数値を読む」の3つの役をローテーションでおこないました。昼休憩を挟んで、午後2時半ごろにはB区のレベル測量が完了。同時にA区の実測もようやく終わったようです。

↑レベル測量図 ハ-2 ↑レベル測量図 ハ-3
午後からは、A区の測量に移行しました。まずはL字トレンチの部分から測量。その後、すり鉢状土坑の測量をしようとしたとき、スタッフを持っていた学生の手が止まります。どうも遺構カードに記載されていない描線がいくつも実測図に載っており、作業は一時中断。どうやら木の根がつけた段差と遺構の段差の区別がつかず描線してしまったようです。とりあえず2班にわかれ、周辺のレベルをとる係りと遺構の確認と実測図の修正をおこなうことにしました。しかし、実測図は修正箇所が多く、用紙もずいぶんくたびれてしまったので残念ながら描き直しすることに。
よって明日の作業は、Aトレンチを再実測。終わったらレベル測量(C区とD区も)。この作業と併行して、いよいよB区の下層遺構検出を開始する予定です。
ときにはつまずくこともありますが、これも訓練です。めげずにがんばりましょう!(Mr.エアポート)
- 2010/08/27(金) 20:29:09|
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3次元レーザースキャンにむけて 8月24日(火)。引き続き、上層遺構の平面実測をおこないました。この日から実測初参加の面々がおりますが、1人2枚の実測図完成がノルマであるのは前日と変わりません。黙々と実測を続けるのですが、やはり初参加の面々は神経質になるのか、思うように作業がはかどらないようでした。「死のC区」でも日差しにやられた武蔵くんが実測に苦戦していました。昼休憩も早々に切り上げ、この日のうちに実測図の完成をめざし、皆が奮闘したんですが・・・
昼過ぎには、先生が測量会社Aコンサルタントのお二人を連れて現場に上がってこられました。このまえの日曜日、先生と山村カメラマンが協議した結果、岩陰仏堂の測量は
3次元レーザースキャンしかないだろう、ということになり、以前大学でデモンストレーションしていただいたAコンサルタントに白羽の矢がたったのです。といっても、まだ見積もりの段階でして、3次元レーザースキャンが実現するかどうかは分かりません。先生の思惑は、岩陰地形を3次元レーザースキャンでCG化し、さらに復元建物をCADでCG化して、両者を複合したり切り離したりできるようにしたいようです。
ところで、コンサルタントのお二人によれば、「先生は山登りの足が速すぎる」そうです。とくに、若いFさんは元サッカー選手の41歳ですが、山道で早々にばててしまい、現場にあがってからもなかなか体力が回復しません。そうこうしているうちに、岩陰・岩窟を経由して立岩(山頂)まであがることになり、先生はまたしても足速に登っていかれるですが、岩窟まできてFさんはダウン・・・山頂制覇を断念されました。結果、先生とIさんのお二人(いずれも50代)だけで立岩に上がられたそうです。先生は、嘆かれておりました。
かのホカノでも上がってきたし、後期高齢者のカメラマンさんだって登り切ったのに、
41歳の元サッカー選手が断念とは・・・都市社会の労働は若者の体力を奪ってしまう
んだな・・・
昼前から雷がごろごろ鳴始めました。普段なら雷が鳴っても雨なんてちっとも降らないですが、ついに作業中にパラパラと大粒の小雨が方眼紙を濡らします。いつもテントの6柱のうち前方の3柱だけを斜めに立てて片流れ屋根のようにテントを使っていますが、雨に備えて6柱をすべて直立させ、荷物を中心部に押し込み、いったん全員がテントに待避しました。ところが、5分もすれば雨は止み、実測再開。恵みの雨、アーメンはいまだに遺構を湿らせてくれません。
さてA区(イ-3、イ-4)のスリバチ風大土抗を実測するどんべえさんも苦戦中で、遺構と縮図を交互ににらめっこ。それでも、この日でイ-4を残しましたが実測図はほぼ完成しました。これでレベル測量に移行することができます。
8月初旬とくらべ近頃は現場の陽落ちが早くなってきているうえに、天気も曇りがちなので、帰り道が暗くなってくることもあります。遅くまで作業しないように1日1日大切に作業していきましょう。(轟)

↑実測図(轟)
- 2010/08/26(木) 23:10:35|
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実測スタート! 8月23日(月)。いよいよ上層遺構の実測が始まりました。平面実測とレベルの測量が終了次第、下層遺構の検出に移行するので、断面観察用のL字トレンチのあるA区とB区を優先して、A3の方眼紙に縮尺1/20で描き込みんでいきます。1枚あたり、2mグリッド×6マス分の範囲を記入。4区画すべてをA3サイズの方眼紙で実測していくと合計15枚になるので、目標は1人1日2枚のペースになります。がんばりましょう!
なお、実測図の番付はイ、ロ、ハで分け、上からイ-1、イ-2、イ-3、イ-4、イ-5としました。

↑実測区番付図 ↑実測図(エアポート)
さてさて作業に取り掛かると、遺構カードよりも正確に描き込まなければならないという緊張感に、作業は遅々として進みません。昼休憩の時点で各自の成果を見てみると、1枚目の1マスができたかどうか・・・先生に叱咤されたことは言うまでもありません。午後からは、遺構全域が太陽光にさらされ、全員汗びっしょりです。実測図に汗が落ちないように、こまめに顔や腕の汗をふき取ります。これには本当に気を使いました。
この日の成果は、優先区であるイ-3、ロ-3、ハ-1、ハ-2、ハ-4が完成。1人2枚以上描いた学生もいれば、1枚目がまだ完成していない人もいたりして、状況はさまざまです。これも訓練です! 訓練!!
実測の最中、昨日から除草作業をしていた斜面(C区西側)に露出している礎石風の石のまわりを先生がガリで掻き始めました。すると、石の周辺に三和土(タタキ)がある部分とない部分に分かれることが判明。そして、三和土がない部分を少し掘り下げていくと、大きな凝灰岩(切石)が面的にひろがっています。B区長形大土坑の底で検出された凝灰岩の石敷(
下層基壇上面?)と同じ状況が崖面でも確認されたわけです。一方、D区の東北隅(やはり崖面の下)でチャックさんがみつけた「
転倒礎石?」も凝灰岩であることが分かりました。これにより、下層基壇は加工段(整形平坦面)の左右にひろがる懸造であった可能性が高まっています。
上層遺構については、下の写真の苔むした石がそれに対応します。そのうち、いちばん上にみえる平らな石が礎石で、周辺の三和土の状況からみて元位置を維持しているようです(下の2個の石は動いている可能性が高い)。しかも、南北グリッドの方位に沿ってみてみると、平坦面の礎石列と対応しており、上層遺構はやはり「懸造」の建物跡であったのはほぼ確実な情勢です。上層だけでなく、下層も懸造であることがみえてきた貴重な一日でした。(Mr.エアポート)
- 2010/08/25(水) 16:11:36|
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七転八倒 水糸配り 8月22日(日)。高校球児の戦場、甲子園は昨日で幕を降ろしてしまいました。それにひきかえ、われわれの奥の院での戦いは、まだまだ佳境です。ASALABもグラウンドの球児たちに負けず劣らず、爽やかな汗を流していますよ。
さてさて、相も変わらず暑さ厳しいなか、遺物の取り上げと、実測用水糸配りの作業をおこないました。
実測用の水糸は、部長さんが図面上に作成したグリッドのポイント位置をトータルステーション(TS)で算出し、ポイントとポイントを水糸で結んで、X軸・Y軸(縦横)2mごとの正方形を作っていきます。
X軸・Y軸にそれぞれ2本ずつラインを引き、コンベックスで2mごとに印をつけ、印上に水糸を引いて2mグリッドをつくっていきます。グリッドの一部は崖状になっている部分にもかかっており、土地のレベル差に加えて切り株などによる凸凹が激しく、作業は難航、まさに七転八倒の一日でした。
お昼休憩を挟んだあと、女性陣が実測用グリッドとの戦いを続けているころ、男性陣は遺構カードへの書き込みと取り上げを終えました。4つのトレンチの遺構カードをいちおう書き終えましたので、その縮図を上に示しておきます。これまで、A区、B区とか勝手気ままに説明してきましたが、この平面図をみていただけば、その意味は少しは理解していただけるだろうと期待しております。なお、A、B、C、Dの区割りが時計回りでも反時計回りでもなく、クロス進行になっていますが、これは遺構検出をおこなった順序に対応しています。
さて、遺構カードを書き終えた男性陣は、崖の草刈りを敢行。こちらも急斜面での作業ですので、ときに滑ったり、崖の表面が崩れかけたりと・・・七転八倒。礎石らしい石が3つほど固まって発見されましたが、この3つ以外は今日のところ収穫はありませんでした。とはいえ、日々なにか新しい発見があるのですから、本当に行くたびなにかしら歓声をあげている気がします。礎石に関しては、「あたりや(よく遺物などを堀りあてる人のこと)」のみなさんが今後ざっくざっくと掘り当ててくださることでしょう……きっと。
夕方になる頃には、グリッド張りも完了させることができました。
明日23日(月)は、いよいよ実測です。これに備え、大学に戻ってから追加のアルミスタッフとコンベックスを車に積み込み、準備万端。明日の行き帰りはこれらの荷物を抱えての行程になりますが、転ばずに現場にたどりつけますように……。毎回現場直前で待ち構えるつづらおりの急斜面に気が遠くなるドゥンビアでした。(きっかわ・ドゥンビア・どんべえ)
- 2010/08/24(火) 21:27:35|
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ブローニーで遺構を撮影! 8月21日(土)。ついに遺構の写真撮影の日が来ました。撮影のために松江市より山村カメラマンが来鳥されるため、朝10時に門脇茶屋で待ち合わせという段取りで、先に現場にあがる先発隊とYさんを出迎え、撮影器材を運ぶ後発隊(助手2名)とに分かれることにしました。
先発隊は前日に作成した、撮影アングルの計画図をコピーしてから現場に向かったのですが、普段より少し早い9時20分に摩尼寺に到着しました。山村さんが「奥の院」に来られるまで30分以上あるため、先発隊は現場の準備に取り掛かれるだろうと思っていたのですが、なんと山村さんは先発隊が摩尼寺に着いたときにはすでに茶屋に着いておられたのです。朝7時に松江を出発されたのだそうです。しかし先発隊も荷物を抱えており、とても撮影器材を運べる状態ではなく、申し訳なく思いながら、器材の搬入は後発隊にゆだねることにしました。
一足先に現場にあがった先発隊は、遺構の状態をチェックし、撮影の補助に必要な道具を準備するのですが、轟の姿がありません。轟は先発隊として、毎朝恒例になっているご住職へ挨拶に向かったのですが、なかなか現場にあらわれないのです。じつはご住職より大量の缶ジュース(20本ほど)の差し入れをいただき、それをMyリュックに詰め、現場を目指していたのですが、あまりの重さに苦戦していたとのこと。前日にエアポートさんが14リットルの水を現場に運んでいたのですが、それに及ばずとも、なかなかの重さ。遅れて現場に着いたときには、ヘトヘトになっていました。それでも遺構の清掃状態を確認し、補助道具の準備を終わらせると、ちょうど後発隊のタクオさんと武蔵くんが山村さん、先生とともに到着。少し休憩したあと、この日の撮影の計画をYさんに伝え、いざ写真撮影に取り掛かります。
[摩尼寺「奥の院」発掘調査日誌(ⅩⅣ)]の続きを読む
- 2010/08/23(月) 21:01:22|
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死のCトレンチ -遺構の大掃除 8月20日(金)。8月も残すところあと10日となりました。この日は翌日の写真撮影に備えて、遺構面の大掃除です。現場に向かう前に麓の「門脇茶屋」さんから脚立とはしごを借りました。それらを、石の洗浄用水道水を2リットルのペットボトル12本(合計で24リットル=24キロ)とともに担いで現場に登りました。なにしろ現場は水不足ですから。
掃除はA区・C区から2隊に分かれて始めました。三和土(タタキ)が検出されているところは箒で掃いていき、細かな砂や落ち葉を取り除きます。また、タタキと周辺の土が区別できていないところは両者の境界線をしっかり検出し、遺構にめりはりをつけていきます。
しばらく掃除に徹していたのですが、A区作業チームは掃除の途中に礎石(の抜き取り穴?)を2つも発見しました。1つは抜き取り穴には炭がたくさん混じっています。もう1つの礎石はベルトに近い位置でチャックさんが発見されました。比較的大きな抜き取り穴のなかに礎石がやや傾いて残っています。二つの礎石抜き取り穴とも、タタキのわずかに外側からみつかった点は今後の遺構検出にヒントを与えるものかもしれません。発見された2つの礎石の関係から柱間1間が3mに復元されることがわかってきましたが、さらにデータの積み重ねが必要です。その他、遺物として、土器片や古銭が新たに出土しました。
一方、C区を清掃するチームにとって、やはりこの日も日差しで気温は高く、「死のCトレンチ」と化してっしまいました。C区ではまだタタキと土抗の境界線が識別できていないところがあり、その作業も清掃と平行しておこないました。少し掘り下げながら様子をみてみると、柱穴のようなものが検出されました。そこを少し掘り下げると前回、長形大土抗で検出された、凝灰岩の下層遺構の一部が見えてきましたが、上層の遺構の実測等の記録が済んでいないため、それ以上掘り下げずに掃除に移りました。
[摩尼寺「奥の院」発掘調査日誌(ⅩⅢ)]の続きを読む
- 2010/08/22(日) 22:04:57|
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下層の凝灰岩基壇化粧を検出!! 8月19日(木)。この日の作業は、週末の写真撮影に向けてトレンチ全域の上層遺構を検出するのが課題。写真を撮影する際は、三和土(タタキ)と黒灰土の境目がくっきりと写るように、黒灰土側を5センチほど掘り下げなくてはなりません。昨日に続き、チャックさんが現場の応援に。本当に助かります。
さて午前中、先生がA区L字トレンチの遺構検出をおこなっていると、早くも礎石の抜き取り穴と思われる人頭大の楕円形状の窪みがあらわれました。同時に窪みの中から2枚の銭貨が出土。残念ながら両方とも劣化が激しく、表面に何が書いてあるかは読み取れません。しかし、窪みの中からでてきたので廃絶時に伴い埋められたのは明らかです。見た目は以前から出てきている「寛永通宝」のようですが、前にも示したように寛永通宝は、古寛永(1636~1659年)と新寛永(1668年以降)に分かれます。今回の銭貨は一体何なのか、遺物洗浄後の結果が楽しみです。
一方、18日に畦の撤去が済んだBトレンチの長形大土坑は、エッジをより明確にするため土坑側を5センチほど掘り下げました。すると、この作業に当たっていたエアポートが、なにやら凝灰岩の平坦な石を発見。表面は平なのですが、やや凹凸があり土坑内から出てきたので、これも昨日チャックさんが発掘した「ひっくり返った礎石」と同じく、廃棄されたものと判断され、周囲を掃除していきました。ところが、作業をすすめていくと、ほぼ同じレベルで土坑いっぱいに凝灰岩の切石がひろがっているじゃありませんか!!
[摩尼寺「奥の院」発掘調査日誌(ⅩⅡ)]の続きを読む
- 2010/08/21(土) 00:21:14|
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残暑厳しき、発掘現場 8月18日(火)。近頃発掘現場も暑くなり、お盆前の涼しさはどこへやら…日差しの当たる場所での作業はこたえます。今の現場の暑さはお盆前より厳しいでしょう。日向で作業している者と日陰で作業している者の汗の量がずいぶん違いました。日向で作業していた方々は昼休みにぐったりとされていました。
この日の作業は先生が来られるまで実測用グリッドの設置をおこない、C区の畦の撤去、D区の表土はぎを各自が併行して進めていきます。先生が来られてから全員が遺構検出・・・
D区の表土はぎをおこなうと同時に、B区の畦を撤去した部分の長形大土抗のきわを見つける作業をおこないました。8日にタクオさんが見つけ出した「埋もれた礎石」の手前で閉じることが判明しました。しかしC区でも五輪塔の廃棄土抗が検出されました。これらを見ると南北軸では土抗の列がほぼ並んでいるようにみえます。しかし、このC区でバラけて見られる廃棄土抗のようなものは東西軸で礎石とも対応しているようで、礎石の抜き取りあとに遺物を廃棄した可能性もあるため、慎重に観察していかなければなりません。
一方、D区は土層の変化がわかりにくく、斑になっているタタキと黒灰土の見極めが難しい場所であるため、よく目を凝らしながら表土をはいでいきました。このD区の表土はぎをしているメンバーのこの日のミッションはA区で検出されたタタキとの繋がりを見極めることです。A区からのタタキの伸び方を見ながら、境界を見つけていきます。D区の遺構検出で苦労しているなか、チャックさんが、D区の端にある落ち込みの表土を剥いでいると、礎石と思われる石が検出されました。ただし、平坦面はみられませんので、元の位置から反転して崩れ落ちたのだろうと思われます。
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- 2010/08/20(金) 00:25:18|
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チャックさん合流! 8月17日(火)。鳥取のお盆といえば、しゃんしゃん祭です。昨日はタクオさんときっかわさんが踊り子として参加しました。この祭りは雨乞いの踊りでして、おかげで昨晩、鳥取市内は一時の雨に潤い、現場の遺構は湿気を含んだベストコンディションです。今日は県市の文化財関係者(Nさん、Kさん、Tさん)が視察にこられ、現状と今後の作業ついて意見を頂戴しました。また、先週予告したように、17日午後から3日間、チャックさんが現場にこられます。ホカノさんに続くOBの訪問に、今日の発掘調査は大にぎわい!
この日の主な作業は、昨日うまくいかなかった実測用グリッドの再設置、A・B区の掃除、C・D区の表土はぎ、遺構検出です。実測用グリッドの設置については、測量士補の資格を持つ部長さんの協力を得て、昨晩、現場のGPS情報を平面直角座標(国土座標系)に変換し、X-Y座標を求め作図しました。午前中はそのデータをもとに、今後いつでもグリッドが引けるようトータルステーションの器械設置をおこない、グリッド上の2点を測距し測量鋲を打ちました。また、今週末には現場の写真撮影をすることが急遽決まったので、グリッド設置と平行してA・B区の掃除です。
作業を開始して1時間が過ぎようとしたころ、先生が県市の方々とともに現場にこられました。
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- 2010/08/19(木) 02:46:48|
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発掘調査再開の前に 8月16日(月)。世はまだお盆です。摩尼寺の本堂に参拝される方も普段とくらべて多かったですね。11日からわたしたちもお盆休みだったわけですが、発掘再開までの間、台風や猪などの野生動物に遺構が荒らされていないか、ちょっと心配でした。台風の天は恵の雨かも、アーメン・・・遺構は多少の湿気もあったほうがみやすいのですが・・・
少々不安が胸をよぎりながらも、早速現場に上がりました。まさに不安的中といったところでしょうか。先日通過した台風のせいなのでしょうか、ブルーシートが一部はがれていて、一部に水が溜まっていました。まず、この水のかき出しからおこなわなければなりません。ブルーシートを持ち上げて運べるようにするまで、各自、柄杓とバケツを手に取り一斉に溜まった水をかき出します。やっとの思いでブルーシートをめくると遺構の一部が、猪ならず、モグラ?に荒らされていました。掃除が必要です。
まず発掘区を拡張するため、エアポートさんと轟は新たに設けたC区・D区の縄張りをおこないました。その間に部長さんが実測用のグリッドを引くため、トータルステーションの準備を進めていました。前回のブログでも書かれていたように、発掘区をさらに小分けする小区画のグリッドが絶対方位からずれていたことが判明したため、実測用に東西南北にあわせた正確なグリッドを引かないといけないのです。C区・D区の縄張りを終えたころには、トータルステーションの準備が整っていました。しかしここでトラブルが発生してしまいました。基準点としてトータルステーションにBM(ベンチマーク)のGPS座標を入力するのですが、うまく表示されません。どうやらGPS座標の度分秒(例:0°00’00’’)をメートルで入力すると誤差が大きくなるようです。このままではグリッドの設置ができないため、インターネットを介して座標を調整する必要がでてきました。この作業は大学に戻ってからおこなうことにしました。
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- 2010/08/18(水) 00:00:41|
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東近江市永源寺の相原熊原遺跡を見学したのち、某史跡で建設中のガイダンス施設を視察した。木造の覆屋兼ガイダンス施設である。じつは、このガイダンス施設、史跡のなかにある。史跡の内部には恒常的な施設は建てられない。「だから、遺構展示の覆屋(おおいや)を兼ねていると言えばよい」と主張したのは、ほかならぬ私である。しかし、覆屋のなかに展示してあるのは、濠の出土状況を示すレプリカであった。文化庁が遺構そのものの露出展示を許可しなかったのである。さもありなん・・・窯などの乾燥した遺構ならいざしらず、湿っぽい濠を露出展示するとなると、極端な遺構の劣化を招く。カビや苔が繁殖し始めるのである。高松塚やキトラで辛酸を舐めた文化庁としては、同じ徹を踏めないという警戒が強かったのだろう。このレプリカと建物の関係で苦労したらしい。遺構の上に保護層を設けてレプリカを被せるため、建物の床面を当初設計の段階から底上げしなければならなかったのである。そういう苦労はあったにせよ、結果として史跡地内にガイダンス施設の建設が許可されたわけだから、私の提唱した戦略は成功したと言ってよいかもしれない。

この建物の計画が始まったのは一年前のこと。以来、一度も現場を訪れていない。木造のガイダンス施設だけに、もっと積極的に指導しなければいけなかったのだが、諸般の事情があり、ほったらかしになってしまっていた。それは、設計者を信頼していた裏返しでもある。設計者はM事務所のM社長だ。じっさいに竣工間際の建築をみて、かれの苦労がよくわかったが、やはりもっと厳しく指導すべきだったと思うところがある。守山のノビタ氏は考古学専攻であるにも拘わらず、すなわち建築の専門家ではないにも拘わらず、「良い建築です」と自負していたが、わたしの評価はそれほど高くない。大学の制度に倣って、A・B・C・F評価を適用するならば、残念ながら、判定はAではなく、Bである。
ライオンは自分の子どもを谷底に突き落とすと申します。これから厳しいこと書くので、自らの手ではい上がってきなさいよ。
[レプリカの覆屋-謎の木造建築]の続きを読む
- 2010/08/17(火) 00:00:47|
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盆の中日に、英訳論文の校正がどっとメールで送られてきた。ある国際学会で院生たちが発表したい、というので結構なことだと思ったが、まさか〆切が盆明けに迫っているとは思いも寄らず・・・
論文は前後編に分かれていて、総計12頁(図表含む)。青谷上寺地の建築部材に係わる復元研究なんですが、みなさん想像できますか。最低3日はかかる仕事です。他の仕事をまったくしないで、まる3日必要でしょうね。校正なら楽ではないか、と思われるかもしれませんが、実際はほとんど書き直しです。放置してしまうと、どうなるかと言えば、このまま審査を受けることになるので、落選間違いなし・・・
以前述べたように、わたしは「
校正マシーン」に近い状態が昨年末からずっと続いています。次から次へ、恐ろしい量の原稿を読んでは校正し、その間隙を縫って自らの原稿を書いている。おかげで、人の原稿を読むと、ついつい直したくなる悪癖が身に付いてしまいました。しかし、マシーンでいられるのは、その言語が日本語だからです。外国語の文章となると、まるで勝手がちがう。電子辞書片手に悪戦苦闘するしかありもはん・・・
14日に翻訳をスタートさせ、まる1日頑張ってせいぜい4頁・・・盆の中日に線香を焚くこともせずに集中しましたが、そんな罰当たりなことをしてはいけないと深く反省し、「おじいさん、昨日は線香忘れてごめん」と仏壇に頭を下げながら、昨日は20本ちかい線香を焚き続け、翻訳してました。
たとえば、こんな文章を英訳してるんですよ。
家形埴輪をモデルとして錣葺(しころぶき)入母屋造の屋根を復元しようとすると、
「二間四面」の平面がふさわしいのだが、建物Dの場合、寸法的に大きな問題が
ある。桁行柱間寸法(約4.8メートル)と梁間柱間寸法(約3.1メートル)が著しく
異なっている。この柱筋に合わせて垂木をまわすと、庇屋根の隅が45度でおさまら
ない。そこで、妻側の柱筋から3.1メートルのところに大瓶束(たいへいづか)を
立てることにした。青谷上寺地の建築部材では、柱上端の仕口として輪薙込
(わなぎこみ)が普遍化している。輪薙込を束の下側に作って貫材に落とし込めば、
原始的な大瓶束になる。
これを英語にするんですよ。12頁ですよ!?
こんな仕事を盆休みにやらされる覚えは、正直、ないわけです。学生の指導が本務のわたしではありますが、ようやく勝ち得た家族との休日にこんな仕事をやっている。ただではすまんぜよ・・・
翻訳とか通訳という仕事は高いのよん。正式な請求書にして院生に郵送する所存であります。
- 2010/08/16(月) 00:32:19|
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台風一過が近畿を去り、甲子園で八頭校が大敗した12日の午後、東近江市の相谷熊原(あいだにくまはら)遺跡を訪れた。
あれは、5月の末だっただろうか、朝日新聞(大阪)の一面に小さな土偶の記事が掲載されていた。土偶のことはさっぱり分からないが、相谷熊原遺跡は縄文時代草創期後半(約13000年前)に遡り、大きな竪穴住居が5棟も発見されたという。かの土偶も直径8mの竪穴建物1の埋土から出土している。
わたしは10年ばかり前、九州地方の後期旧石器~縄文草創期・早期の竪穴住居の調査指導をしていた。いわゆる定住開始期にあたり、テント状の構造物が少しずつ住居の内部を掘りくぼめていくプロセスを読み取れる。九州でみる縄文草創期の住居跡は円錐形テントの規模と近く、直径3~4m前後と大きくはないのだけれども、このたび相谷熊原遺跡は直径8mに達するものがある。遺構検出面から床面までの深さは0.6~1.0mを測る。

新聞記事を読んで、この大型竪穴住居が縄文草創期に遡るという発表をにわかには信じられなかった。これまで接してきた草創期の住居はこんなに深くて大きくはないからで、ありうるとすれば早期の竪穴住居だろうと思ったのである。しかし、現場に足を運ばないことには話にならない。あまり連絡をとりたくはなかったが、守山のノビタ氏(Mr.キューカンバー)にメールを入れた。かれを通して現場の担当者に打診していただいたところ、いつでも現場を見に来て欲しいとのお返事をいただいた。すぐにでも飛んでいきたいところだが、6月の下旬まで患者が吹田の病院に入院していたし、ご存じのとおり、生活時間のほぼすべてをワールドカップが支配するようになって、そのまま学期末に突入し、休むひまなく自らの発掘調査が始まった。今こうして短い盆休みを頂戴し、そのわずかな時間を使って、東近江に行くことを決めた。京滋バイパスで渋滞に巻き込まれたため、相谷熊原遺跡に到着したのは午後4時半をすぎていたが、担当者の方は我々の到着をお待ちくださっていた。申し訳ありません。
雨があがって、1棟の建物の断面のはぎ取りをちょうど終えられたところだった。たしかに深い掘り込みをもっている。そして現場へ。圃場整備にともなう調査区は2区に別れていて、ビーナスが出土した竪穴建物1を含む南側のトレンチはすでに埋め戻されていた。わたしがみたのは竪穴建物2~5を検出した北側の細長いトレンチ。住居はすでにビニールでパックされていたが、その大きさや深さはよく分かる。竪穴の半分がトレンチの壁にかかっているので断面の状況も観察できた。
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- 2010/08/15(日) 00:03:32|
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この前期、ぼくは精神を病んでいた。その自覚があったのかなかったのか、疾走しているあいだに自分をみつめる余裕はなかったが、いまはそう思う。とくに7月の学期末に不調の底に落ち込んでいた。その結果、「
連休中」を頻発して、事実上ブログを断筆してしまった。持続こそが命だと思って続けてきたこのブログだが、ぼくの力はすでに尽きていたのだろう。敢えて吐露するならば、六弦倶楽部の練習会ですら辛い試練だった。練習もろくにしないまま限界に近い状況で参加したものの、会場に向かう道行きの渋滞で体調は悪化し、帰途、コンビニに車を停めて仮眠をとった。練習会自体はもちろん楽しくて、よい気分転換にはなったけれども、疲労は蓄積し、翌週の体調は底の底まで落ちこんだ。
夏休みの発掘調査を億劫に思い始める自分がいた。もともと発掘調査が好きなわけではなく、高い技術をもっているわけでもない。ただ、研究室の学生たちが「発掘調査したい」という気持ちを強くアピールしてくるので、ぼくはその意を汲んで手続きを進めてきたのである。しかし、よくよく考えてみれば、ぼく以外のメンバーはだれひとり遺構を検出できない。露骨な言い方をするならば、調査員はぼくひとりであり、他の全員は作業員もしくは補助員にすぎないわけだから、ぼくが休むと現場が進まない。なんてこったろう・・・やっと夏休みになって奈良で家族と過ごせる時間がとれるというのに、鳥取に残って苦手な発掘をするなんて・・・とほほ
8月5日、ぼくは今年初めて摩尼山頂に近い奥の院の現場に上がった。長い道のりだった。門脇茶屋からのびる山道をいくら歩いても現場は遠かった。とくに最後の坂道がきつい。現場に辿り着いて、いつものひと言。「生まれてくるんじゃなかった・・・」
L字トレンチの遺構検出を開始した。バチで薄く削ると、たちまち三和土(タタキ)が顔を出す。礎石のまわりに張り付いた基壇化粧の土であろう。三和土と外側の黒灰土の境を見分けるのはそう難しい作業ではない。表土上では寛永通宝、礎石据え付け部分では黒色土器がみつかった。わずか半日の作業で、基壇の規模とおおまかな年代観の見通しを得た。あれっ、おかしいぞ。体を動かして調査する自分に快感を覚えている。病んだ精神が解放され始めているのではないか。そういう兆しを感じた。
2日めから、不思議なことに、山道が苦にならなくなった。なにかに押されているかのごとく、体が前へ前へと進んでいく。山道を歩くこと自体が楽しく、現場への期待に心が躍る。山頂に近い標高270mの奥の院は涼しく、マイナスイオンが充ちている。清涼な空気と虫の音や鳥のさえずりが心身にしみ込んでくる。現場にいるだけで気持ちよく、発掘調査が苦にならない。遺構をみつけるために自ずと体が動いていく。義務でも強制でもなんでもない。自然体として黙々と土を掻く自分に驚いた。
[ぼくは奥の院で人間力を恢復させている]の続きを読む
- 2010/08/14(土) 00:08:44|
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盂蘭盆会 五輪塔の供養と恩恵 8月10日(火)。台風4号の影響か、晴れたり小雨が降ったりと、いまいち天候が不安定です。それでも日の予想最高気温は35度だとか。現場は蒸し暑そうというイメージがわきますが、やはり自然の力は素晴らしい。360度を緑に囲まれた標高270mの「奥の院」は、最高に快適です。葉が揺れる音、虫や鳥のさえずりだけが現場を包み、市街地のうやむやを忘れさせます。
さて、この日は若干名が倉吉の町並み調査に出かけてしまいましたが、ASALAB発掘調査隊はナオキとホカノさんの協力のおかげで健全です。本日の作業内容は、遺物の取り上げ、A区盗掘風土坑周辺の表土はぎ、B区長形大土坑の掘り下げをおこないました。発掘調査は明日からお盆休みに入るので、きりのいいところまで作業を進めるのが本日の課題。しかし、先生は「その日の作業は、きりが悪いところで終えるのがコツ」とのこと。よく分かりませんが・・。とにかく、できるとこまで作業を進めましょう。

午前中は、A区で昨日みつかった平底土器(?)の取り上げおよび盗掘風大坑の範囲を遺構カードの記入。B区では、引き続き長形大土坑の検出および基壇土(三和土)と表土との境界を探しました。8日から検出しつづけていた長形大土坑は、B区の左右両端までひろがりました。前回も示したように、そこからは五輪塔の破片が大量に出土しています。五輪塔とは、主に供養塔・墓塔として使われる仏塔の一種なので、不用意に扱うと祟りがあるとの伝承もあります。この点を気に掛けて、先生は供養のために比叡山延暦寺の線香(と花火のような竹串のついたバリ島の線香)を持参されました。ご存知かとお思いますが、摩尼寺は天台宗の寺院です。天台宗総本山の線香なのですから、これ以上のものはないでしょう。午前中から要所要所にバリの串型線香を先生は刺して行かれました。ジャスミンのような甘い香りが現場に漂います(↓)。そして昼食後、みんなで比叡山の線香を数カ所で焚き、五輪塔に水を垂らして、供養しました。無縁仏たちも喜んでくれたのではないでしょうか。
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- 2010/08/13(金) 00:40:12|
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ヒノッキー、遥かなまち倉吉へ 8月11日(火)。今日の倉吉調査は、一身上の都合により早めに切り上げます。「だったら別の日に行けば良いのに」と思われたでしょう。しかし、もうすぐお盆にしゃんしゃん祭り! まだ一段落ついていないこのままでは、気持ちよく行事を迎えられません。というわけで、今日は5時30分に起床。眠い目をこすりながら、相棒どんべえとともに助っ人ヒノッキーを連れ午前7時に出発!
今回の調査内容は、前回に続き「昭和レトログッズデータベース」のための探索&記録、「谷口ジローの風景データベース」のための町並み写真撮影です。まだ調査が進んでいない残りのエリア(東仲町・西仲町・西町)を調査。前回と合わせた堺町1丁目から研屋町、魚町、東仲町、西仲町、西町、新町1丁目・2丁目・3丁目、計9エリアに点在する昭和レトログッズ、谷口ジローの傑作『遥かな町へ』に登場する風景をデータベースにまとめるための基礎調査です。
今日の「昭和レトログッズ/風景データベース」調査は、ヒノッキーのおかげで順調に進み、想定していた時刻よりも早めに残り3エリアの調査が終了。予定よりもひろいエリアの調査がおこなえました。片っ端から調べた結果、約80種類のレトログッズ・データがコレクションに。暑い中協力してくれたヒノッキー。お礼に、どんべえさん一押しのラッシーをご馳走しました。そして、まずは調査範囲の第一目標としていた9つのエリア全ての調査が今回で完了。
[遥かなまち、くらよし探訪(Ⅳ)]の続きを読む
- 2010/08/12(木) 00:45:53|
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野人さん合流! 8月9日(月)。連日暑い日が続いていますが、今日も涼やかな奥の院で発掘作業に取り組みました。昨日と同じく、本日もゼミメンバー総出でしたが、大学企画広報課のYさんが取材に訪れるため、タクオさんはその案内役として午後から合流されました。
10時に現場到着、さっそく作業に取りかかります。まずは、実働作業部隊がB区の表土はぎに取りかかり、その間にエアポートさんが3mグリッドのタグ取り付けを手早くすませます。ちょうどタグの取り付けが終わる頃、ご住職へ挨拶に行った轟くんが、趣味で摩尼山を踏査しているTさんという方と一緒に立岩(山頂)から下りてきました。この方は現在調査しているB区周辺を、稲葉民談記の記述から「門」であると推測しているそうです。しかし、敷地が広すぎたり、段違いの礎石も出ているため、門とは限らないでしょう。11時頃に先生が到着すると、入れ替わるようにTさんは下山していきました。
さて、エアポートさんと轟くんは昭和盗掘大土坑?が中心にあるA区の表土はぎに着手。作業部隊はL字トレンチBの遺構検出のための清掃とB区の表土はぎをおこないました。私はきっかわさんとL字トレンチBの清掃をしていましたが、木や竹の根っこが次から次へと出てきて、なかなかうまく進みません。それでも、昼休憩前にはなんとかまだらになっているタタキの範囲が先生の手により検出され、一安心。他の場所でも基壇と思われるタタキの層が確認されたり、明治のものと思われる茶碗が出てきたり、着々と作業は進みます。

昼休憩中には、タクオさんがYさんをつれて合流。と、その後ろから見覚えのあるシルエットが・・・ホカノさん登場です! 差し入れにお茶も1箱持ってきていただきました、
ありがとうございます!!
[摩尼寺「奥の院」発掘調査日誌(Ⅶ)]の続きを読む
- 2010/08/11(水) 00:47:03|
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埋もれた礎石の発見! 8月8日(日)。梅雨が明けてから、記録的な暑さとともに、快晴の日が続いています。本日も天候に恵まれ、さわやかな青空。現場近くの小さな洞穴で湧き水が出るらしいのですが、連日の猛暑のせいで、スズメの涙のような滴が垂れるのみ。雨が降れば、少しは水も嵩張るのでしょうが、最後に雨の降ったのはいつだったでしょうか・・・
さて、日曜日に浅川ゼミのメンバー総出で作業をおこないました。さらに午後からは、倉吉市教育委員会文化財課のS氏がお見えになり、検出中の遺構や、岩窟・出土品についてご指導をいただきました。
10時前から作業を開始。発掘調査に先立ち、四分法で調査している対角の調査区のうち南側をA区、北側をB区、さらに2つのL字トレンチのうち南側をトレンチA、北側をトレンチBと命名しました。ちなみに、先日遺構検出をおこなったのはトレンチAとなります。
作業は、発掘調査の主要メンバーであるエアポート君&轟君と、実働作業部隊とに別れます。エア&轟は、A区を発掘調査する前に遺構カードに表土上の石配置を記入。その傍らで、私を含む作業部隊はB区およびトレンチBの表土はぎと、遺構検出のための清掃。作業開始から30分ほど経つと、先生がすがすがしい顔で現れました。開口一番、「やっぱり上は涼しい」。そうなんです、夏の発掘というと、うだるような暑さの中で作業をしていると想像されるかもしれませんが、今回の発掘現場は標高270mの山中。現場は木陰に覆われ、さわやかな風に包まれます。おまけに、1日で体重1kg減との事(先生談)。みなさん、ひと夏の想い出にいかがですか!?

さてさて、先生が来られ、いつものように遺構検出が始まります。今回は、B区の遺構検出です。三和土(タタキ)と黒灰土の境界を先生が見極めるんですが、「まんじゅう」を片手にラインを次々と定めていきます。私にはぜんぜん見えませんでした・・・その横では、続々と遺物が発見されます。先日の「寛永通宝」に続き、銭貨が5枚、たて続けに畦のほぼ中央で発見されたほか、焼土や凝灰岩なども検出されました。とりわけ、礎石が基壇面(三和土)よりも外側で発見されたことにより、軒の出の指標となる雨落溝の検出が課題となり、今後の調査計画にも影響を与えそうです。また、五輪塔と思われる石がランダムに廃棄されたような状態で出土しました。ちなみに、それらを発見したナオキ君は「当り屋」に認定されました。なんだか聞こえは悪いですが、今後の活躍に乞うご期待!!です。
昼休憩では、先生に必殺「まんじゅう投げ」(↓右)を披露していただき、午後のSさん到着に備えます。お出迎え役は武蔵君。方向音痴の武蔵君を一同不安なまなざしで送りましたが、無事、予定より10分ほど早くSさんを連れて戻ってきました。
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- 2010/08/10(火) 00:58:00|
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縄張り修正 8月7日(土)。俗世間では、気温が摂氏38度を超えたとか超えないとかで騒いでいますが、山林のなかにある奥の院の現場は相変わらず清々しく涼やかです。この週末はオープンキャンパスの初日でもありますが、ASALAB発掘調査隊は今日も現場に向かいました。しかし、エアポートさんが一日中バイト、武蔵くんとドゥンビア(きっかわ)さんは倉吉で町並み調査、先生とタクオさんはオープンキャンパスの研究室公開担当でして、作業員は轟と部長さんのわずか2名。前回も最初は2人でしたが、途中から先生もあがってこられたので、一日中2人で作業するのは少し寂しい気がします。本日の作業は、追加で購入した荷物の搬入など人手が必要な作業は翌日にまわし、最小限持っていけるものだけを準備し、作業をおこなうことにしました。買い出し・基準杭の保護・縄張りの釘の交換・縄張り図面修正のための測定となります。
参加者 轟、部長 計2名
8時30分、測量鋲などの買い出しに出発。買い出しにあまり時間を割くわけにはいかないので、今日の作業に必要なものを優先して買うことにしました。10時に摩尼寺に到着。ご住職に挨拶を済ますせ、「奥の院」へ。「奥の院」に到着後、基準点として打った杭の中心に小さな釘を打ち、GPS座標を測位しなおしました。その後、基準杭のズレを防ぐため、まわりに三角形になるように3本杭を打ち、ロープで囲みます。基準杭をロープで囲むことで基準杭がズレるなどmpアクシデントを防ぐためです。それと 昨日、先生に指摘されたのですが、今縄張りに使用している釘が短く、抜けやすいから良くありません。このままでは、縄張りもずれてしまいます。先生は「5寸釘よりも大きな、測量で使う釘に変えたほうがいい」とおっしゃいました。昼食後、購入したばかりの測量鋲と縄張りの釘の交換をおこないました。交換を終えた後、最初の縄張り計画との誤差を修正した図面を作るため、基準杭と縄張りの点との距離を測定しました。本日の作業はここまでとなり、下山して残りの買い物を済ませ、大学に帰りました。
本来ならこの日はL字トレンチに残っている表土を剥ぐ予定でしたが、この作業は次回、ゼミ生が全員参加するのときにやることにしました。残りの表土を剥いで、先生がおられるときにできるだけ遺構検出をおこないたいです。
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- 2010/08/09(月) 12:42:00|
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摂氏38度のフィールドワーク 先日ついに38度(!)を超えた鳥取ですが、そんな暑さ厳しいなかの8月7日(土)、倉吉にて町並み調査を敢行しました。今回の参加者は、ちょっとさみしいですが、2名のみ(武蔵、ドゥンビア)です。
当日朝、摩尼寺発掘組に負けじ!と出発は8時30分を目指していましたが、いろいろあって9時過ぎになってしまいました…。倉吉に着いたのは10時ごろです。
今日の主な調査内容は、「昭和レトログッズデータベース」のためのレトログッズの探索&記録、「谷口ジローの風景データベース」のための町並み写真撮影の2つです。画板を1つしか用意していなかったため、少々記録がとりづらい事態にも陥りましたが、調査はおおむねスムーズに進みました。
さて、倉吉に「昭和レトロ街」を構想して、町並み整備を目指すための基礎調査をおこなっているわたしたちですが、調査の範囲については、現重伝建および拡張予定地区を一つの目安にしています。これに加えて、昭和レトロ街を重伝建エリアの外側に設定する可能性も考えていること、また、レトログッズをなるだけたくさん集めたいということから、重伝建の外側についても、全域は難しいかもしれませんが、できる限り調査の対象にしたいと考えています。
とはいえ、いきなり広いエリアに取り掛かるのは難しいので、まずは重伝建エリアのレトログッズ、谷口ジローの漫画『遙かな町へ』に登場する風景探索をおこないました。
[遥かなまち、くらよし探訪(Ⅲ)]の続きを読む
- 2010/08/08(日) 23:46:00|
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「寛永通宝」の取り上げ 8月6日(金)。今日は午後からゼミのため、作業は午前中のみの半ドンです。5日はASALABメンバー総出で出動したため、作業は想像以上にはかどり、ついに遺構検出にいたりました。そこまで作業が進むとは思っていなかったもので、「遺構カード」と「ラベル」をまだ現場に持ってきていませんでした。そのため、遺構の略測、遺物の取り上げができなかったので、本日おこなうことに。「遺構カード」は、検出したその日の遺構をラフに実測し、特筆すべき事項を書き込んでいく略測図です。現場における遺構のメモ書きのようなものですね。「ラベル」は遺物取り上げの際に遺物とともにビニール袋にいれる情報カードです。写真の写し込みにも使うので、文字は大きく書きます。
6日の参加者は以下の通り3人のみ。
参加者 エアポート・轟・先生 計3名
いつものように8時半に大学に集合し、摩尼寺に向かいます。この時間帯は出勤時間と重なるので道路は大渋滞。そのため目的地に着くのはいつも9時半ごろになります。住職に挨拶を済ませ、いざ現場へ。もうすっかりこの山道に慣れたのか、いつもより早く着く感じがします。10時に「奥の院」に到着し、小休止。テントを立ち上げ、遺構を覆っているブルーシートをはがし、「遺構カード」の記入を始めます。
さて、この「遺構カード」ですが、いったいどのように書くのか。先生からいただいた見本をもとに、見よう見まねで記入していきます。まずは用紙の右下(遺構の南東隅)を基準とし、X軸に3m間隔で01、02、03…、Y軸も同じように3m間隔でA、B、C…、と区画分けしていきます。と、そこまでは大丈夫。そして、30分の1の縮尺でカードにスケッチしていくのですが、ここで失敗。各自担当した区分を、各々が自分のカード上に都合がいいように書き込んでしまったため、カード内にはダブった区画がいくつかできてしまいました。少し遅れて現場に到着した先生はこれをみて唖然。大学で細かいチェックを受けた際、こってり絞られました。「遺構カード」は隣り合う区画のカードがつながるように記録し、時には縮小コピーをかけて全体遺構図の略図にする場合もあるようです。よく考えたらすぐわかることなのですが…、次回は注意して書かなくては。幸いスケッチ自体には問題がなかったので、なんとか大学で修正できました。
[摩尼寺「奥の院」発掘調査日誌(Ⅳ)]の続きを読む
- 2010/08/07(土) 14:01:24|
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さて、遺構検出!! 8月5日(木)。暑い日が続きますが、発掘現場は風がよく通り、木陰も多くて清々しい涼しさに満ちています。本日は轟と武蔵が午前に期末考査のため、午前中の作業をエアポートさんとナオキさんの2人でこなさなければなりません。そこで、部長さんとドゥンビア(きっかわ)さんが応援に駆けつけてくれました。やはり普段人手が少ない分、みんなが集まったときに一気に作業が進むのはうれしいです。本日の作業内容は、除草作業の残り、トレンチ用の縄張りとなります。そして午後からは先生も参加し指導されるとのことで、ついに遺構検出がはじまります。
参加者 エアポート、ナオキ、部長、ドゥンビア、轟、武蔵、先生 計7名
いつものように8時30分に大学に集合し、9時30分に摩尼山に到着。本日は搬入する荷物が少ないため、エアポートさんが住職に挨拶している間、他のメンバーは先に現場に向かいました。10時に現場に到着し、まずは除草作業から。遅れること30分後、エアポートさんが現場に到着し、トレンチ用の縄張りを始めました。縄張りを済ませれば、先生に発掘調査の指導を受ける準備が整うのですが、少しトラブルが発生しました。最初のトレンチの計画図では障害物が多く、3度も縄張りをやりなおしたそうです。この発掘調査ではL字トレンチを2つ背あわせにし、さらに四分法で建物跡の1/2を掘り下げていく予定です。
一方そのころ、轟と武蔵は11時40分に期末考査が終了したため、12時に大学を出発し、12時30分に先生と門脇茶屋で落ち合いました。それから先生・轟・武蔵の3人で「奥の院」を目指します。先生は「遠いな・・・シビアだ」と言いながらも早いペースで登って行き、現場に到着したのは13時。ちょうどエアポートさんたちが縄張りを終え、除草作業をおこなっているところでした。休憩を済ませ、先生はさっそく唐ぐわを手に取り、表土はぎの見本を学生たちに見せます。
そして先生の指導を受けながら、学生たちも少しずつ表土を剥いでいきました。「ゆっくりでいいからとりあえず5cmほど掘り下げてみよう」と先生から指示がでます。すると、三和土(タタキ)と思われる建物の基壇土が徐々に見えはじめ、周りの柔らかい黒灰土との境界を見比べ、建物の基壇範囲がおぼろげながら、わかってきました。
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- 2010/08/06(金) 20:14:51|
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2010年度鳥取県環境学術研究費助成研究のための打ち合わせ これまでの倉吉探訪は町並みをざっとみてあるく予備的踏査でしたが、8月4日(水)、県環境学術研究費に採択された「倉吉重要伝統的建造物群保存地区拡大にむけての実践的研究 ―看板建築の復原・活用と<昭和レトロ街>構想―」(1,564千円)のための打ち合わせを正式に倉吉市教育委員会でおこないました。参加者は教授・武蔵くん・どんべえこと私の3人です。
報告が遅れましたが、武蔵くんと私は、過ぎる7月30日にそれぞれ卒業研究題目を申請し、晴れて倉吉に係わる卒業研究に取り組むことと相成りました! 不安もありますが、いまは4年間の集大成である卒業研究に向けた希望でいっぱいです。研究を締めくくるころになってもこの気持ちを忘れずにいられるよう、「楽しむ」ことを忘れずに、ベストを尽くしたいと思います。
さて、今回は摩尼寺「奥の院」発掘調査、8th ISAIAに向けた論文執筆などなど、それぞれ各自のミッションに取り組むため、わずか3人での倉吉訪問です。発掘調査組の苦難を考えると贅沢は言えませんが、倉吉組も暑さに呻いていました……。いずれのメンバーも、今後の活動はフィールドワーク中心になることが予想されますから、みなみなさま、どうか身体にだけは気をつけて…とか書くと、自分が一番にダウンしそうですね。
まず向かったのは倉吉市教育委員会事務局文化財課。レトロ街構想および看板建築修景に向けて、担当者さまと打ち合わせをするのが今日の大きな目的の1つです。看板建築修景では、旧市街地に建つ実際の建物を修復するうえ、まずは対象となる家を探し出す必要があるので、文化財課との連携なしには実現しえません。
文化財課にてSさんとMさんに迎えていただき、いざ打ち合わせ開始。追記にて内容を整理しました。
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- 2010/08/05(木) 03:46:02|
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発掘調査にむけての下準備 8月4日(水)。まさに目の覚めるような青空です。日中の最高気温は37度。昨日より3度も高いそうです。それでも発掘現場は緑豊かで、近くを流れる小川のせせらぎが清涼感を与えてくれます。本日は、追加の発掘道具の搬入、除草作業、トレンチ用の縄張りをおこなう予定でしたが、除草までで手一杯でした。
今日はクーラーボックスを用意し、1人2リットルの飲み物を詰め込み準備万端です。参加メンバーは以下のとおり。教授と武蔵、きっかわさんは倉吉に向かいました。
参加者 エアポート・轟・ナオキ 計3名
昨日同様、8時半に大学に集合し、追加の発掘道具を車に積み込んで摩尼寺へ。9時半に住職に挨拶をすませ、搬入準備に取り掛かります。車から発掘道具を降ろしていると、参道沿いの喫茶店のマスターが興味深そうに寄ってきました。「金でも掘りにいくんか」なんて冗談話に始まり、最終的には搬入の荷造りまで手を貸してくださいました。わざわざお店から荷造り紐やタオルまで持ってこられ、搬入の装備はより完璧なものに。これでは、あとでお店に寄らないわけには行きません。
悪路に少し慣れたのか、昨日よりも早いペースで登山道を上がり、10時半には現場に到着。まずはしっかりと水分を補給し、いざ除草作業開始です。写真をご覧いただくとわかるように現場は草木が茂りに茂っており、どこからどこまでが奥の院の平坦地かわからないほどです。そもそも平坦地であることすら目視できない状況に一同驚愕。昨年、黒帯たちと礎石配置を測量する際、気にもならなかったほどの草木が、この一年で見事に成長したわけです。測量で確認した礎石の大半は草の中に埋もれており、作業は予想以上に難航。

↑Before ↑After
結局、昼休憩を30分に縮め、ひたすら草むしりです。草を抜いた地面は少し湿っており、現場の湿度を一気に上げます。気づけば2リットルの水はもうあとわずか。これはもう節水です! 黙々と作業を続け、16時にはようやく地表土が顔を出しました。予定のトレンチ用の縄張りは明日に延期です。明日は轟と武蔵が期末考査なので、エアポートとナオキしか現場に行けません。なんとかドゥンビア(きっかわ)さんや部長さんに応援を要請しなければ。
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- 2010/08/04(水) 12:02:36|
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ASALAB発掘調査隊始動!! 8月3日(火)。ASALABの発掘調査隊がついに動き出しました。私たちは、この8月、断続的にではありますが、発掘調査に専念していきます。本日の作業内容は資材搬入とテント設営です。現場までもって上がるものは、先日ホームセンターで購入した道具や大学から借りた6脚マーキーテントなどです。何も持たずに歩いて「奥の院」まであがるのですら往復40分かかる悪路を、背中や肩にこれらをかついで搬入します。
参加者 エアポート・轟・武蔵・タクオ・ナオキ 計5名
8時30分に大学に集合。搬入作業に取り掛かろうと道具を駐車場に出していたのですが、トラックを借りてくるはずのタクオさんが予定時間になってもあらわれません。そこで、大学から借りたテント以外を部長さんと武蔵の車に載せ、先に搬入作業を開始することにしました。摩尼寺に到着したのが9時30分。住職への挨拶を済ませ、一人が持てるだけの道具を持ってあがりました。最初の運搬を終えて下山している途中に、タクオさんが合流。テントのホロを持って登ってこられました。ということは2往復目からはテントの単管を運搬しなければなりません。
最初は全員問題なかったのですが、テントを運び始めたとき、ついに脱落者一名発生。轟です。もう単管をもってもフラフラで、休憩に次ぐ休憩でなかなか進めなくなってしまいました。それでも他の皆さんは問題なく登っていきます。3往復目には、武蔵もバテはじめ、4年生は全滅してしましました。それでも、なんとか運搬し13時30分に搬入作業は終了しました。なんと、1往復あたり1時間以上もかかったことになります。
昼食後、いよいよテントの設営です。しかし、轟と武蔵は14時40分から期末考査があるため、一足お先に下山させていただきました。その間、エアポートさんとタクオさんとナオキさんがテントを設営していき、倒木の撤去もおこないました。
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- 2010/08/03(火) 20:55:12|
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さぁさぁみなさん、エジルじゃないよ、バジルだよ。葉っぱのバジル。
GWに植えた11株の夏野菜ですが、出来はさっぱり。菜園の土にドクダミの根っこが住み着いていて、ドクダミ茶のための草刈りをしても、2週間もすればまた青々としたドクダミの葉が生えてくる。これに養分を吸収されたのでしょうね。昨日今日の二日間、スコップで畑を掘り返し、ドクダミの根っこをぶつ切りにして拾い出しました。かろうじて、オオバ(青紫蘇)とバジルだけ元気です。さっそく採集しまして、オオバを皿の底に敷き、冷やした輪切りトマトを並べ、オリーブオイルとセパレート・ドレッシングを垂らしたあと、バジルを散らして食べてます。美味しいな。熱い夏の夕食に最適の一皿ですね。
齢を重ねると、肉を食べたいと思わなくなる。魚の干物やら野菜やらあれば十分です。こんなものしか食べていないのに太るのはなぜか。うぅぅん、あんまりお酒も飲んでないんですよ。鳥取にいるときは基本的に飲みません。奈良ではスロージョギングのあとに少しだけ飲みます。でもね、体重は減ってきている。入学式のころから比べると3キロは痩せたでしょう。あと3キロ痩せれば、昨年度の最低体重になる。この夏が勝負ですね。明日もまたスロージョグしますが、そのあと摩尼寺「奥の院」の発掘調査が始まるんで、現場で汗を流せればさらに3キロの減量が可能になるかもしれません。じつは、エアポートが大台を割ったというので驚いているのですよ。すっかりホカノ化していたエアポートがわたしの体重に近づいてきた。わたしは逃げるしかない。まるでツール・ド・フランスだ。
閑話休題。OB諸君からお中元が届いております。西河♂くん、北から来たのさん、モリさん、M社長、どうもありがとう。なお、チャックとホカノは発掘現場における肉体労働を以てお中元に代えると伝えてきました。都会の会社務めに疲れたOB諸君、摩尼寺での発掘調査はちょっとした「転地療養」になりますよ。ほんと、すがすがしくて気持ちいいから。人間力を恢復できます!
とくに、常呂の現場で大活躍した黒帯くんあたりはね、現場が恋しいんじゃありませんか。土層図描きたいでしょう??・・なんたって、かれの卒論の延長としてこの発掘調査があるのだからね・・・
というわけで、いよいよ発掘調査現場に資材搬入です。今週からスタートですので、たぶん明日あたりから調査日誌がブログ上に公開されるでしょう。
- 2010/08/02(月) 23:56:06|
- 食文化|
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