摩尼寺「奥の院」の公開検討会を報道した11月28日(日)の山陰中央新報には、2頁見開き(8~9頁)の読書欄に『出雲大社の建築考古学』の書評が掲載されていました。なにか因縁めいたものを感じますね。
書評をお書きいただいたのは、上田正昭先生です。上田先生は、わたしが学生時代に教養部の教授でした。講義をうけた記憶はないのですが、本は何冊か買って読みました。まさか上田先生に書評を書いていただくような人生を歩むなんて、予想だにせず、サッカーとギターに明け暮れた19歳のころ。ともかく「建築」が楽しくなかったなぁ。
ご存じのとおり、上田先生は日本古代史・神話学の大家です。上田先生が書評を書かれるという知らせをうけたとき、少々びびりましたよ。「なんで、おまえがびびるの!?」と皆様はお思いでしょうが、相手が相手ですからね。わたしが孫悟空なら、先生は三蔵法師ですから・・・
いつものように、書評の原文を下に転載させていただきます。書評というよりも、新刊紹介というのがふさわいしい内容ですね。「大社造研究必読の大著」と評価していただき、まことにありがたいことです。
日本海新聞→朝日新聞(大阪)夕刊→山陰中央新報と広報記事が続き、ようやく一段落です。いまはまた新しい単行本の企画が始まっており、12月10日過ぎからテキスト校正に入る予定です。
しばらく休息していた校正マシーン、フル稼働まであと2週間。

↑山陰中央新報11月28日(8)面
- 2010/11/30(火) 22:58:16|
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27日(土)、前夜までの雨は上がって快晴のなか、摩尼寺「奥の院」公開検討会が開催されました。第1部は門脇茶屋喫茶部の土産物販売店を会場に、まずエアポート君がパワーポイントで発掘調査の概要を報告し、ついで会場に展示した出土遺物を県内から駆けつけた文化財主事(考古学専攻)のみなさんに年代鑑定していただきました。今回、「現地説明会」ではなく「公開検討会」と銘打ったのは、ASALABに遺物を判定する能力がなかったからであり、遺構についての解釈を示すことはできますが、遺物については考古学関係者の意見をひろく吸収したいと思ったからです。
遺物のなかで最も重要な位置を占めるのは土器でして、これまでも複数の考古学研究者から意見をいただいておりましたが、今回10名以上参加された文化財主事の意見も加えて整理すると、以下のようになります。
1)土器全体をみると、平安時代のものと中世後期以降のものに分かれ、その中間の時代に
あたるものがみあたらない。
2)上層の遺構面や上層廃絶後の廃棄土坑でみつかった五輪塔片は室町後期~江戸時代の
もの。石仏頭片は「如来」だが、年代は不明。
3)上層の整地層(灰褐土~三和土)でみつかった土器は、平安時代のものと中世後期以降
のものの両方を含む。したがって、上層整地の年代は中世後期以降と判定される。
上層の最下層にあたる灰褐土層では、15~16世紀の備前焼を含む。
4)上層でみつかった青磁は非常に良いもの。中世後期の作であろうが、伝世品の可能性も
ある。
5)下層の赤褐土層で少数の須恵器・土師器がみつかっているが、年代は9世紀から10世紀
のもの。一部に奈良時代まで遡る可能性のある土器が含まれているが、下層整地の年代は
平安時代まで下るとみるべき。
6)Ⅰ区の最下層でみつかった「古墳時代の可能性がある土器」は、古墳時代の専門家が
鑑定した結果、「器種すら不明であり、古墳時代の遺物とは言えない」とのこと。
一方、別の研究者からは「中世のこね鉢の破片」であろうとの意見をいただいた。
以上から次のような結論が導きだされます
a)奈良時代~9世紀にろに「奥の院」で人が活動した可能性がある。
b)下層の整地は10世紀以降。
c)下層建物廃絶から上層建物建設まで、若干の空白があったかも?
d)上層整地の開始は15~16世紀以降。
c)公開資料で「最も早く開発された可能性がある」としたⅠ区は
こね鉢の破片からみて、むしろ中世以降の整地とみなすべき。
さて、公開検討会には60名以上の来場者がありました。予想よりも多い来場者に嬉しい悲鳴をあげた次第です。午後2時すぎから全員で現場にあがりました。前夜までの雨で谷水が増水しており、渓流を横切るのに往生しましたが、参加者が倒木を横たえて臨時の橋をつくるなど、大変なサポートをいただきまして、感謝にたえません。

←山陰中央新報11月28日(22面)鳥取版の記事。上層の建物跡を「東西54メートル以上、南北48メートル以上」としていますが、「東西54尺以上、南北48尺以上」の誤りですね。これは研究室が配布した資料の誤りです。訂正してお詫び申し上げます。
[盛況御礼!-摩尼寺「奥の院」公開検討会]の続きを読む
- 2010/11/29(月) 00:00:56|
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11月18日(木)のプロジェクト研究2は、発掘した銀貨を拓本する予定だったのですが、急遽、倉吉市にある長谷寺を見学することになりました。長谷寺は中国三十三観音霊場第30番で、わたしたちがが発掘調査している摩尼寺「奥の院」に建てられていたと思われる「懸造」の構造をもっているということで、遺跡にどのような建物が建っていたのかイメージできるようにと、このような機会を設けていただきました。現地に着くと、先輩方は実測調査されていましたが、わたしたち1年生は浅川先生と一緒に長谷寺の本堂を見学することになりました。
しかし、本堂に入ると何か違和感があります。その原因がわからずもやもやしていると、先生のほうから、「この長谷寺の内陣は入って正面に位置しているのではなく、山がある方にあるのだよ」という説明がありました。そのとき違和感の正体がわかりました。先生のおっしゃる通り、長谷寺の内陣は正面に位置していなかったのです。実際に行ってみるとわかるのですが、本堂を正面から見て左側に山がありました。その山には西国三十三ヵ所と、四国八十八ヵ所の尊像が祀ってあります。しかし、とある理由により西国三十三箇所観音霊場の第八番札所、奈良の長谷寺の尊像だけ本堂の左手に祀っています。
話を建築に戻しまして、本堂は昔かやぶき屋根だったのではないかということでした。また、山の斜面に加工段を作って平地にし、上に建物が建てられています。イメージしづらい方は京都の清水寺を想像していただくとよいかと思います。このような建物を「舞台造(ぶたいづくり)」といいます。そして今回は、内陣の中を特別に見学することができました。内陣の中には厨子があり、厨子の中にはご本尊の十一面観音菩薩が祀ってあります。本堂内を見学した次は、「舞台造」の床下を見学しました。柱を一本一本見てみるとつなぎ目がたくさんありました。このつなぎ目を「根継(ねつぎ)」と言います。湿気やシロアリにやられた部分を削り取り、新たな木を継ぎ足しています。そこでひとつ疑問がわいてきました。
「どうやって継ぎ足したのであろうか?」
先生にお尋ねしたところ「まず、根継したいところを持ち上げてぶら下げながら削り取るんです。現代では車のジャッキのような小型の油圧式ジャッキでリフトアップするんだけど、昔にはそんな便利なものはないからきっと梃子の原理かなんかで持ち上げたんだろう」と、いうことでした。その光景を想像しながら私は一人感動していました。説明の後、先生は他の現場に行かれるということで、わたしたちは本堂以外の建物も見ることにしました。
本堂の正面には仁王門がありました。仁王門は1680年ごろに建てられ、仁王門には立派な阿吽の仁王像がありました。阿吽の仁王像は延宝4年(1676年)にたてられたそうです。阿形の仁王像は密迹(みっしゃく)金剛、吽形の仁王像は那羅延(ならえん)金剛という名前でした。仁王門を出て少し歩いた先に井戸を発見しました。井戸には神様が住んでいるといわれているため、埋め立てされていませんでした。
今回、長谷寺を見学させていただいて、摩尼寺本来の景観がイメージができたのと同時に、長谷寺の歴史的背景が少しわかって個人的に楽しむことができました。このような機会を与えてくださったおかげで気持ちを新たにすることができました。ありがとうございました。 (環境マネジメント学科1年R.T)
- 2010/11/28(日) 05:49:05|
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11月18日(木)。この日は、摩尼寺「奥の院」の現場から飛び出して、倉吉は打吹山長谷寺本堂の実測調査に行ってきました。長谷寺は、摩尼寺「奥の院」に建てられていたであろう懸造仏堂に似て、斜面に形成されら平坦地に立地しており、今回の実測は「奥の院」の復元にむけた類例データの収集が目的です。ここのところASALABでは建造物調査から遠のいていたので、建物の実測をしたことのないゼミ生がちらほら。これはゆゆしき問題です。レクチャーをしながらの実測はおそらく時間がかかることでしょう。この日は普段の現場出勤よりも早い時間に起床し、長谷寺に向かいました。
調査の振り分けは、以下の通りです。
床下平面:轟 床上平面:部長
梁行断面:エアポート 調書・写真撮影:先生
近いようで遠い倉吉。長谷寺に着いたのは10時半。この日は護摩供養で、内陣では護摩木が焚かれ僧侶が経を上げておられました。邪魔にならないように、まずは床下平面、梁行断面(内陣以外)のスケッチからスタート。今回、建物の実測が初めての轟くんは部長さんのレクチャーを受けながら実測を開始。とはいえ、床下平面の実測は、礎石の形や柱の形状をスケッチするわけですから、発掘現場の平面実測で鍛えた轟は手際よく実測を進めていきました。私も久方ぶりの建物実測ですが、すぐさま感覚を取り戻し、作業は順調。昼過ぎに先生がこられたときには7割方、実測作業が終了していました。
長谷寺は、本尊を十一面観音菩薩像とする天台宗寺院で、伯耆三十三番札所、中国観音霊場の一つです。縁起によれば、養老5年(721年)の創建で、法道上人を開祖としています。当初は、長谷村(倉吉市北谷地区)に建てられましたが、後に都志都古により現在の地に移築されたという伝承も残っています。本堂は、天正年間(1573~1591年)に造営された後、幾度かの改変を経て、現在の形になったようです。また、内陣の禅宗様の大型の厨子は室町時代後期のもので、重要文化財に指定されています。本堂と仁王門は、最近県指定文化財になったばかりです。
[打吹山長谷寺本堂の実測調査]の続きを読む
- 2010/11/27(土) 14:36:11|
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昨日(25日)、摩尼寺「奥の院」の発掘調査現場で、朝日新聞鳥取総局の取材をうけました。相前後して、県埋蔵文化財センターの考古学者お二方も現場に来られ、3名の方を相手に1時間ばかり調査区の概要を説明したところ、本日(26日)の朝刊に遺跡公開のレビューが掲載されました。さっそく大学には、一般市民から「明日は雨天決行ですか」の問い合わせがあったようです。
27日の公開は、雨天決行です! さて、埋蔵文化財センター長から、井戸に残る細い木杭痕跡について「井戸神の息抜き」説をご教示いただきました。はっ、としたんです。わたしは平城宮・京で何回も8~9世紀の井戸跡を掘っているのですが、長屋王邸跡(そごうデパート建設予定地)の大きな井戸を完掘し、埋め戻そうとしたとき、近所の農村から来られている作業員さんたちが長いパイプを何本か用意されたのです。それは、「井戸神の息抜き」なのだと説明されました。
井戸はたとえ枯れても埋めてはいけない、という戒めが日本各地に伝承されています。井戸を埋めると、井戸神が呼吸できないようになるから、井戸は埋めてはいけない。どうしても埋めたい場合には、井戸神が呼吸できるように「息抜き」を井戸に刺したまま土を埋めていくのです。「息抜き」には古くは竹が使われ、近年ではパルプのパイプややビニールホースが代用されるようになっています。思い返すと、わたしは長屋王邸での経験をもとに、「井戸神の息抜き」というエッセイを書いたことがあります(掲載誌は何だったかな??)。そうか、これでなにもかも説明できる。公開前々日に「目から鱗」でして、昨夜の筆はよく進みました。
今日はしとしと雨が降っています。天気予報によると、明日の降水確率は10%。晴れてくれることを祈るばかりですが、雨が降ろうと槍が降ろうと、明日の公開は決行します。
みなさまのご来場をお待ちしております。

←朝日新聞(鳥取)朝刊34面 鳥取版。画面をクリックすると画像が大きくなります。
- 2010/11/26(金) 17:58:32|
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石窟庵と仏国寺(下) 石窟庵を訪問後、仏国寺へと向かいました。相変わらずタクシーの運転手さんはご機嫌斜め。「見学時間が長い」というんです。しかし先生の巧みな話術?で、険悪なムードにはならずに済みました。
さて、慶州吐含山の麓にある仏国寺は、石窟庵とともに、護国の念願を達するために新羅第35代景徳王10年(751年)、当時の宰相、金大成によって設計され、創建された寺院です。1995年、世界文化遺産に登録された仏国寺は、今でも大きな境内をもつ寺院ですが、最盛期の8世紀から総2000間、約60棟の木造建物が建立を繰り返してきており、現在の伽藍は当初の10分の1ほどの広さでしかないというのだから驚きです。仏国寺は朝鮮三国統一後、国が安定し、文化が栄えた時期に建てられ、仏国という言葉は、「すべてが完全に備わった安楽と清潔な国になろうとする願い」の意味が込められているそうです。以後、高麗~李氏朝鮮時代に何度か補修・改修をおこないながら、約650年その姿を保っていたのですが、豊臣秀吉の朝鮮侵略にともない、多くの堂塔が焼失してしまいました。1605年に修復工事が始まり、その後、日本の朝鮮統治時代までに荒廃。1969年発掘調査後、新たに無説殿、観音殿、毘盧殿、経楼、回廊などが1973年の改修工事によって復元されました。

石垣で固めた盛土の上に伽藍が配置され、伽藍は大きく3つの区域に分かれ、回廊で区切られています。参道正面から2つの区域があり、各区域がそれぞれ蓮華橋・七宝橋と青雲橋・白雲橋で外の世界と結ばれています。伽藍の東側は二段の高大な壇上に甍を並べて中枢となる部分を作り、西側は一段の壇上で、石段を用いて接績しています。この両段には雲梯石階を架けて前庭との通路となっています。東の雲梯は青雲橋・白雲橋といい、2つの石段を登って、紫霞門に通じています。この雲梯は751年の時から存在している遺構と考えられており、国宝にもなっていますが、そのためか、現在この雲梯を登ることはできず、脇の坂道から大雄殿に抜ける形となっています。西の石梯は蓮華橋・七宝橋(国宝)といい安養門を通り、極楽殿へと向かうものです。紫霞門を抜けると左右に回廊が廻り、両端の経楼に至ります。ここから北に向かうと無説殿があり、また左右に分かれる回廊で大きな1区画が形成されています。この大きな区画の中央に大雄殿(金堂にあたる)があり、殿前には多宝塔(国宝)と釈迦塔(国宝)が相並んでいます。
[新羅の道-慶州(Ⅴ)]の続きを読む
- 2010/11/26(金) 01:05:12|
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石窟庵と仏国寺(上) 慶州良洞村を後にしたASALAB一行は、なぜか慶州のタクシー運転手に追徴金?をせがまれながらも、次なる目的地「石窟庵と仏国寺」に向かいました。「石窟庵と仏国寺」は先生、どんべえさんを除く3名は今年2月の慶州巡礼(2日目)でも訪れているのですが、当時は黒帯さんの卒業研究に直結するものとして、重要な意味を持っていました。今回の視察は、9月初旬におこなった中国甘粛省の石窟寺院等の調査に連続し、摩尼寺「奥の院」発掘調査および復元研究にも資するものと位置づけています。
石窟庵を2月に訪れた際、辺りは雪で覆われており、気温もマイナス5℃と耳がちぎれるのではないかと思うほど寒々しかったのを今でも覚えています。さすがに今回は10月下旬ということもあり、気温がマイナスなどということもなく、参道を歩けば紅葉とともに秋風を感じることができました。
まずは駐車場から見える大鐘閣を横目に入口を目指しました。チケット購入後、入口から伸びる参道を通り、石窟庵に到着。2月に雪で覆われていた石のドームもついに全景をこの目で拝むことができました(写真↓)。石窟庵は、南山で見た岩窟や中国石窟のように自然石をくり抜いたものではなく、花崗岩を積み上げた人工の石窟寺院です。内部は奥から主室、扉道、前室と続き、主室に本尊仏があり、壁には菩薩像等が彫刻されています。それはまさに我々の研究テーマとなる「石窟寺院への憧憬」を示す歴史遺産として注目すべきものでしょう。このことについては2月の記事と内容が重なるため、詳しくは
『慶州巡礼(Ⅱ) 吐含山 石窟庵』の記事をご参照いただけると幸いです。
[新羅の道-慶州巡礼(Ⅳ)]の続きを読む
- 2010/11/25(木) 02:45:52|
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纒向タイフーン、九州に上陸! ご無沙汰しております、タクオです。報告が遅くなりましたが、11月11日(木)、「ISAIA2010」のペーパーセッション(論文発表)で発表をしてきました。ISAIAとは International Symposium on Architectural Interchanges in Asia の略称で、和訳すると「アジアの建築交流国際シンポジウム」。隔年ごとに日本・中国・韓国の各建築学会のもちまわりでおこなわれる国際学会で、第8回となる今回は日本建築学会がホストとして福岡県北九州市の北九州国際会議場を会場に開催されました。ちなみに前回(2008年)は北京が会場でして、浅川教授もセッションの司会を担当し、「ハロン湾水上集落の居住動態と文化的景観」を論文投稿し、共同執筆者の准教授が発表されています。
当時の記録にも書かれていますが、学会での公用語は英語。国際学会なので当たり前といえば当たり前ですが、発表も質疑もすべて英語で進められます。
ペーパーセッションでは以下の2本の論文について発表しました。○印がプログラム上の発表者です。
○岡垣、吉 川、清水、今城、浅川
Reconstruction of the largest building in Makimuku site
-Applied study on building members excavated in Aoyakamijichi site (Ⅰ)-
【和訳】纒向遺跡超大型建物の復元 -青谷上寺地遺跡建築部材の応用研究(Ⅰ)-
○清水、今城、岡垣、吉川、浅川
Reconstruction of large buildings and rectangle division in Makimuku site
-Applied study on building members excavated in Aoyakamijichi site (Ⅱ)-
【和訳】纒向遺跡大型建物群と方形区画の復元 -青谷上寺地遺跡建築部材の応用研究(2)-
内容は、3月に建築学会中国支部大会(広島)で発表した
4本の論文を圧縮したものになっています。昨年11月に吹き荒れた
マキムクの嵐は、北九州を介して東アジア諸国にお目見えする運びとなったのです。しかし、そこにいたるまでには論文の圧縮と英訳をしなければならなかったわけで、ゼミ生4名七転八倒・・・つたない英語力のために、英文の校正をして頂いた浅川先生には
多大なるご迷惑をおかけしました。請求書がいつ届くのか、毎日ハラハラしております・・・
[ISAIA 2010 -第8回 アジアの建築交流国際シンポジウム]の続きを読む
- 2010/11/24(水) 00:27:22|
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大車輪で作成してきた公開検討会のチラシが22日(月)に完成しました。上はチラシの表面の圧縮画像です。下に表裏ともサムネイルで掲示しておりますので、クリックしていただきますと、拡大されます。裏面にスケジュールを記しておりますが、ここにも示しておきましょう。
摩尼寺「奥の院」発掘調査プロジェクト公開検討会 日時 2010年11月27日(土)13:00~16:00
会場 喜見山摩尼寺「奥の院」(鳥取市覚寺624)
スケジュール
第Ⅰ部(会場:門脇茶屋喫茶部土産物販売エリア) 13:00 ご挨拶
13:10 摩尼寺「奥の院」の発掘調査概要
発表:岡垣頼和(鳥取環境大学大学院修士課程)
*パワーポイント使用
13:30 出土遺物の公開と検討
14:00 「奥の院」発掘調査現場へ移動
第Ⅱ部(会場:摩尼寺「奥の院」発掘調査現場) 14:30 遺構の説明と討議
15:30 下山
16:00 解散

発掘調査現場への移動は険しい山道ですので、長袖、長ズボン、タオル、飲み物、しっかりとした靴が必要です。
【続き】に「公開検討会の趣旨」を掲載しています。
[摩尼寺「奥の院」発掘調査プロジェクト公開検討会 (第2報)]の続きを読む
- 2010/11/23(火) 12:31:41|
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屋根裏はつらいよ-実測調査2 気が付けばもう11月18日(木)。プロ研のブログは2年生担当のはずですが、二人とも課題の〆切に追われているため、今回はわたくし竹蔵がお送り致します。
今回のプロジェクト研究は看板建築の実測調査ということで、いつもの4人で倉吉へ。しかし、2年生の二人は徹夜明けで始める前からダウン寸前。実測の指導者も居ないというこの状況はなかなか……。それでも時間は待ってはくれないのでいざ実測! きっかわさんと2年生は全体平面を。私は断面図を完成させるため人生初の屋根裏へ。
押入れの天井をずらし、いざ進入! と思ったら屋根裏はホコリの巣窟。目と鼻を蝕まれながらも作図に努めます。今回は意外と順調。下の様子を見に行くと、そこにはもう計測の作業に入った2年生が。図面を見ると、ウマッ!早っ……「俺より全然上手じゃん」ともとから無い自信を更に喪失。なんでも、一度ほかの授業で寺院を実測したことがあるとか。びっくり即戦力です。
少し心挫けながら作業を続けていると、タクヲさんが合流。タクヲさんには矩計図を担当してただきながら実測の指導までも。ただ、屋根裏に上ってくるなり「この感じ懐かしいなあ」とホコリ舞う中はしゃぐタクヲさんはとても楽しそうに見えました。
今回、いつもは発掘調査を頑張っている摩尼山組も長谷寺で実測調査。ASALAB一同くらよしに全員集合、全員実測の1日でした。では、今回はこの辺で失礼致します。
卒業を夢見る竹蔵でした。(竹蔵)
- 2010/11/23(火) 12:30:08|
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11月20日の朝日新聞(大阪)夕刊紙の「文化」欄で『出雲大社の建築考古学』が紹介されました。土曜日夕刊紙の文化欄ですね。ありがたい扱いに、深く感謝しております。
夕刊のない地域では、本日(日)朝刊の文化欄に掲載されております。
記事を下に転載しておきます。画面をクリックすると大きくなりますので、ぜひともご一読ください。

↑左:朝日新聞(大阪)11月20日夕刊 右:同(鳥取)11月21日朝刊
- 2010/11/22(月) 02:31:20|
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日差しには勝てない!? 11月11日(木)。 Ⅰ区では写真撮影に備え、遺構面の掃除と下層で平面検出された穴を掘り下げていきました。その後、先生がⅠ区の掘り下げた部分の断面の線引きをされたのですが、Ⅰ区全体の土層は相当複雑に堆積しているようで、「ここの土層は井戸なみに難しい」ことが判明しました。そして、断面にいくつもの穴が確認されるらしく、やはりⅠ区では平面検出できない遺構を何回も吹っ飛ばしてしまったようです。当然のことながら、またしても先生にお叱りを受けることになりました。
「発掘は掘り下げることだと勘違いしているのではないかな?
平面検出が基本です、まずは平面検出!」
発掘調査の基本ができていないことを思い知らされてしまいました。
午後から写真撮影に移行。Ⅰ区はふだん日差しが余り入ることはなく、新調した三脚とレリーズの組み合わせで、写真はバッチリ撮れるはずでしたが、この寒さでⅠ区周辺の木の葉は枯れ落ち、写真を撮り始めるころには、強い西陽が差してきました。斑になる遺構面。所々で陰る場所はあるものの全景を撮るには厳しい状態でした。手振れに強い三脚とレリーズでも、被写体が斑になってしまったらどうしようもありません。それでも、陽が陰るとすかさずシャッターを押し、Ⅰ区の写真撮影は終了。撮影途中にプロジェクト研究2(1年生)の学生が現場に到着し、写真撮影終了後は、私と1年生2名が下層遺構のレベル測量をおこなっていきました。
Ⅱ区は相変わらずダメ押しの平面精査がおこなわれている状態でした。今まで遺構面を全体的に精査していたので、礎石の抜取穴、据付穴と思われる穴はもちろん、それ以外の小さな穴も検出していました。問題はこれらの穴がすでに検出されている礎石列のグリッドにのるかのらないかです。そこで、そのグリッドの交点に土嚢袋を置いていき、礎石が据え付けられていたであろうポイントを中心にその周辺も含め、徹底的に精査していくことになりました。午後からはⅠ区でレベル測量の作業をしていない1年生2名も参加し、作業が活気づきました。しばらくは遺構に土嚢袋が散らばった状態になるのですが、これも上層建物復元への布石。作業自体は一切気が抜けません。(轟)
- 2010/11/22(月) 00:05:00|
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秋色の良洞村 今年2月の特別講義で一度訪れた良洞(ヤンドン)民族村。ですが、じつは見学の時に体調が芳しくなく、さらに見学先も決まっていたので、あまり余裕をもって見て歩くことができませんでした。今回は、日本から持ってきたガイドブックを片手に、のんびりと散策して歩きました。
良洞民族村は慶州の北東約16km、タクシーで40分ほどのところに位置します。タクシーを降りると、たくさんの観光客。良洞のは秋景色を楽しもうとする人びとの群れです。田んぼには収穫を待つ黄金の稲穂。山や集落のところどころで紅葉が進んでおり、赤く色づいた柿の実が枝もたわわに稔っていました。
村は、緩やかな山に囲まれ、500年以上も前に建てられた家屋を含め、約160棟が地形に沿って建ち並んでいます。瓦屋根の立派な両班(ヤンバン=貴族)の屋敷と、藁葺き屋根の素朴な家々。それらが古い面影を今に伝えており、1984年には村全体が文化財(重要民俗資料第189号)に指定されています。そして、今年8月1日に「大韓民国の歴史的村落:河回村と良洞村(ハフェマウルとヤンドンマウル)」として世界文化遺産に登録されたそうです。韓国10件目の世界遺産です。家屋と精舎、書院など伝統的な建築物の調和と配置方法、および住居文化が朝鮮時代の社会構造と独特の儒教的両班文化をよく表し、長年にわたって維持されている点が評価されました。また、朝鮮時代の儒学者の学術的・文化的成果物、共同体の遊び、歳時風俗、伝統的な冠婚葬祭など、住民たちの生活や信仰に関係した無形遺産が伝え受け継がれている点も高く評価されたとのことです。良洞民族村では驪江李氏と月城孫氏というふたつの両班氏族が中心となり、厳格な儒教の気風を守りつつ暮らし続けてきました。

良洞村には今も住民が生活しており、そのため立ち入り禁止になっている場所もあります。住民の方がたの中でも意識が違うのでしょう、自宅につながる道の入口からチェーンで封鎖している方もいれば、敷地内に入って見学しても普通に対応してくれる方もいます。とあるお宅の敷地入口にはお手製のたんきり飴などが並んでおり、一袋購入して食べてみると素朴な味。なんだか心があったかくなりました。
村の方がたの家を見てみると、多くの家に縁が設けられており、その縁と連続するようにマル(↓写真)と呼ばれる祖先祭祀の場があります。「マル」は北東アジアのツングース狩猟民テントの上座をあらわす言葉でもあり、神や天のことをも意味します。朝鮮半島住宅のマルも祖先祭祀の儀場ではありますが、板の間で高床となっていて、とても開放的です。北方では奥まった印象のマルが、南下することでこのように開放的な空間に変容したということがわかりました。
[新羅の道-慶州巡礼(Ⅲ)]の続きを読む
- 2010/11/21(日) 00:22:21|
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南山から見下ろして(下) さて、問題は山頂「金鰲峰」登頂後の下りだ。初日(29日)に博物館で購入した資料では、第一目的地とした「仏谷龕室石仏坐像」以外の岩窟仏堂は掲載されておらず、後半の調査ルートのチェックポイントははっきりとしていない。もともと、岩窟仏堂を探すのが今回の調査目的なのだからそれでよいといえばよいのだが、設定したルート上に岩窟がまったくなければ、とんだ空振り調査になってしまう。よって、山頂からの下りルートの中で石仏がもっとも集中する「三陵谷」を選んだ。石仏が集中していれば何かしら岩窟らしきものがあるかもしれないという淡い期待なのだが、これが吉と出るか凶と出るか。一行は「三陵谷」を目指して下山し始めた。
さて、前回も述べたように、今回の南山調査は、ルートの設定&道案内が私の仕事だ。当然、常に地図をみながら現在地を確認して進んでいくわけだが、困ったことに「三陵谷」の地図は、石仏のだいたいの位置だけが示してあって道が描かれていない。ハングルの地図にも道は描いてあるが、かなりアバウトな図だ。行き先を示した看板だけが頼りなわけだが、山全体を縦横無尽に道が分岐しているため、方向はあっていてもどれが正式なルートなのかわからないのだ。石仏を見落としてしまえばそれまで。午前に引き続き不安がぬぐえない。
しばらく山中をさまよっていると、遠くの岩肌に磨崖仏があるのが見えた。次の目的地としていた「磨崖釈迦如来坐像」である(↓)。まずはルートが合っていたことに一安心。その後は、磨崖仏をよく観察した。「磨崖釈迦如来坐像」は新羅統一時代(676~935年)後期のもので、頭部のみ浮彫で、身体は線刻された磨崖仏である。祭壇に覆屋はないのだが土足厳禁で、靴を脱いで参拝しなければならない。線刻の磨崖仏をみるのは初めてのこと。線刻の軽やかさと柔らかな岩肌があいまって、仏の姿をより柔和にみせた。
次に現れたのは「石造如来坐像」(8世紀後半~9世紀前半)だ。沢を下っていると、最近整備されたで真新しい基壇があらわれ、それが鎮座していた。やはり正式なルートから外れていたのだろう、正面からではなく背後からお目見えすることに。正面にまわると、石仏の左奥に岩窟を持った巨岩が現れた(↑)。
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- 2010/11/20(土) 13:46:33|
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南山から見下ろして(上) 10月29日~11月1日にかけて、研究室のメンバー5名で慶州を訪問した。わたしと部長と轟きは
2月に続く再訪である。この旅行は、発掘調査完了を祝い労いのツアーとして企画されたものだったが、秋の長雨のせいで現場作業は遅々として進まず、現場が終わらないまま出国するはめに・・・おかげで、出国時の気分はモヤモヤしていた。が、開きなおって、旅を満喫するしかありませんね。
今回の慶州行は、9月初旬の
甘粛石窟寺院の調査に後続するものである。これまで大同の雲岡石窟、甘粛の莫積山石窟、莫高窟などの中国の石窟寺院を視察し、また山陰地方においても摩尼寺「奥の院」を始め、岩屋堂、鰐淵寺等、岩窟に建築が木造建築が複合する密教寺院を踏査してきた。今回は日本と中国の結節点である朝鮮半島の旧新羅地域に着目した。新羅は日本海を挟んで山陰の対岸にあたり、出雲国風土記の「国引神話」にみられるように、古代の文化的交流が盛んであったと推定されるエリアである。
慶州は、およそ千年間新羅王朝の都として栄えた。三国時代(前57年~676年)から統一新羅時代(676~935年)の古墳や仏教関連の遺跡が多数残っており、「慶州歴史地域」として世界文化遺産に登録されている。仏教の聖地として知られる南山もその一地区に含まれており、山の岩肌には多数の磨崖仏が残っている。慶州初日(29日)は、慶州国立博物館を訪れ、南山や石窟庵に関する資料文献を収集し、夜ホテルのベッドの上でそれらを広げ、南山の調査ルートを吟味した。
南山は新羅文化の中心を成す霊山で、全域に数多くの磨崖仏や石仏、寺院跡が散在している。市街地から南に4キロの位置にあり、標高468mの丘陵状の山嶺は南北8キロ、東西4キロに及ぶ。登山口はいくつもあり、登山道も山全体を縦横無尽にめぐっている。日本のガイドブックには南山を東西に横断する代表的なトレッキングコースを3本提示しており、時間と体力に見合ったルートを選ぶよう勧めている。どうやら石仏は谷沿いに集中しているらしく、一筆書きですべての遺跡をまわることはできないようだ。とはいえ、ガイドブックのルートでは私たちが目的としている岩窟仏堂を通らないので、調査隊はオリジナルの調査ルートを設定する必要があった。
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- 2010/11/19(金) 13:32:15|
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11月11日。二人一組になり、Ⅰ区とⅡ区に分かれて作業しました。Ⅰ区は先生と先輩方に下層遺構検出から平面実測、写真撮影までをしていただいていたので、Ⅰ区の担当になった私とT君は轟さんの指示のもと下層のレベル測量を行いました。数値の読み上げをT君、スタッフをOさん、数値の書き込みを私が担当です。前回、1年生だけで取り組んだ上層遺構のレベル測量は、使用した2台の機械高が30㎝ほど違っていたため、測量した数値にも差が出ていました。図面は機械高の異なった数値が混同した状態になります。また、その日のうちに作業を終わらせることができなかったので、日を変えて作業の続きを行うと、また異なった機械高の数値が増えることになってしまいます。今回は時間内に終わるよう集中して作業を進めました。Ⅱ区を担当したTさんとU君は、それぞれ、遺構を図面に描く作業と石の周りを二層に分けて掘る作業をしました。
今回の活動で現場は最後になりました。次回からの活動内容は、出土した遺物(土器、銭貨、五輪塔等)の整理になります。先生や先輩方に助けていただいた部分が大きく、申しわけなく思いました。Ⅰ区は予想を超えて難しい現場だそうですが、最後まで自分たちで終わらせることができじ、情けないです。現場での作業は埋め戻しまでありませんが、まだやることは残っています。迅速に作業を進めるよう努めたいと思います。
- 2010/11/18(木) 23:44:44|
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ポッキーの日、谷口ジロー原画展へ! 11月11日(木)。今回私たちは、鳥取市内のギャラリーで開かれている「谷口ジロー原画展」を見に行きました。私はこれまで、漫画の「原画」というものを見たことがありませんでした。原画はペン使いや筆使いがわかるので、漫画が好きな私は興味深々で見ていました。そこで改めて谷口ジローの凄さ、絵のうまさを実感しました。貴重な原画を展示しているため室内はカメラ撮影禁止で、写真によりお見せできないのが残念です。ブログ上に掲載している写真については、原画が写らない場所ならOKということで、許可を得て撮影させていただきました。
原画を一通り見てまわり、谷口ジローの学生時代のパネルを見ました。小学生から高校生までノートや教科書はクオリティの高い落書きばかり! 完成度の高さに驚きました。最後に漫画コーナーがあり、まだ読んだことのない作品がたくさんあったので黙々と読み続けました。
(左:ギャラリー入口 右:見学者で賑わう2F漫画コーナー)
原画展を見終わったあとは、浅川先生のお勧めの「昭和レトロ」な喫茶店でお茶をしました。そこは50年以上前(昭和28年)からやっている喫茶店で、内装や装飾などに趣きを感じ、落ち着いた雰囲気でした。私たち4人はホットケーキとサンドウィッチを食べながら今後のプロジェクト研究の方向性について話しました。

(左:お店の外観 中央:店内、レトロな内装 右:サンドウィッチ)
私とN.Nさん(2年生)は4年生の卒業研究と連動し「昭和レトロ街」設計に参加、「喫茶店」のデザインなどを考えつつ、プロジェクト研究の成果として、倉吉のスポットを集めた「倉吉観光マップ」などを載せた『倉吉レトロ冊子』を作るのはどうか、といま考えています。この観光マップには、現在の見所はもちろん、私たちが昭和レトロ街構想のなかで提案していく「未来の見所」についても載せたいと思っています。
倉吉の良さを視覚的に分かりやすく、ポイントを紹介しながら「倉吉にいきたい!」と思ってもらえるようなものを作りたいです。ひとまず私は倉吉のオリジナルキャラクターとして「土蔵くん」を考えてみようかなぁと思っています!(建築・環境デザイン学科2年 A.K)
- 2010/11/18(木) 12:23:32|
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赤と黒のベタ基礎?? 11月8日(月)。昨日Ⅰ区で始まった下層遺構の検出は、Ⅰ区の一番奥のトレンチの平面で黒灰色の土が検出され、それが土抗か柱穴である可能性があり、遺構のエッジの確認が必要でした。以前上層で検出されたピット(あるいは窪み)を飛ばしてしまわないようにしつつ、20cm幅であったトレンチをさらに拡大していきました。その際、トレンチ周辺にある平たい礎石の断面を確認するため、トレンチの幅をひろげていきました。拡大部分を掘り下げると検出された黒灰色土の土抗部分はさらにひろがっている模様で、全体の形状を掴むことができませんでした。(写真↓)
それ以外の2つのトレンチは、平面で遺構が検出されていないのならば、掘り進んでもいいと前日に先生から指示を受けていたため、掘り下げていくことに。しかし、如何せん学生は平面の検出が苦手なため、Ⅰ区作業を担当していたナオキさんと私は、もしかしたⅠ区の下層遺構を飛ばしてしまっているかも知れないと心配しながら、作業を進めていきました。不安にかられながらも一つひとつ土層を確認し、断面に線引きしながら作業を進めると、やはり茶褐色の土が続くのですが、必ずしもそれが下層に伴うものではないと言い切れません。

Ⅱ区での作業は平面精査とともに、井戸北側の断面の作図、A区南壁の作図をおこないました。井戸北側は以前北側の抜取穴を検出した際に掘り下げた部分を先生が線引きされていたため、作図に入ることに。
A区南壁際の穴は、先生がチェックされた断面に残る掘形の線引きが再びおこなわれました。そしてこのA区南壁でも、井戸断面で確認された黒灰褐色土と赤褐色土の二重ラインの土層が検出され、もしかすると、井戸同様に南壁周辺にも不同沈下防止のために薄い鉄板状の材が広範囲にわたって使われていたのかもしれません。しかし、いずれも井戸の近辺であることに変わりなく、先生によると、下層から上層の整地に移行するにあたって、井戸まわりに不同沈下をおこさないためのベタ基礎のようなものを配したのだけれども、結果として、上層建物の重みによって、井戸を中心に不同沈下がおきた結果ではないか、とのことです。(轟)
- 2010/11/17(水) 22:09:41|
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県市教委による現場視察(3) 11月10日(水)。この日は、午前中に県市教委の埋蔵文化財スタッフが現場を視察されました。
まずは、先生が県市の方がたとともに各調査区をまわられ、出土遺構の説明をされました。27日に公開検討会を控えている私としましては、参考にしないわけにはいきません。前回視察していただいたときは、まだ下層井戸遺構の存在が明らかとはなっていなかったので、この日は井戸を中心に話が進みました。Ⅱ区、Ⅲ区、Ⅳ区、Ⅰ区と各調査区をめぐられ、視察後、自然科学分析のサンプル採取指導を受けました。
指導を受けたのは、以下の3つです。
・花粉分析
・AMS(C14)
・岩石標本
花粉分析のサンプル採取にはフイルムケースを使います。わかりやすいように、一通りの採取作業を、廃土を使って実演していただきました。まず、ケースの底部に空気の抜け道となる穴を開け、写真の写しこみ用に底部に「大地区」「小地区」「土層名」「日付」を書きます。その後、ケース開口部を採取する土層に突き刺し、写真撮影。その後、移植ゴテを使って、他の土層の土が混ざらないようケースを含め周囲の土ごとくりぬきます。最後に、フイルムケースの蓋をしめガムテープで封をします。底部の穴も同様にガムテープで塞ぎます。その際、底部に記したラベルがガムテープに覆われてしまうので、同じ内容をケースの胴に書きます。採取場所は、上層、下層の位置関係が明確なところで、複数箇所でサンプルを採っておくのが望ましいそうです。採取後は冷蔵庫で保存。ただ、断面を著しく欠くことになるので、採取は公開検討会以降がよいかもしれません。

C14年代は、炭を分析して年代を特定するので、まず分析する箇所で炭を探さなければなりません。井戸枠などは炭化が進んでいるため大きな炭は見当たりませんが、細かいものがいくつかみられるため、それを花粉分析同様にフイルムケースで採取します。大きな炭は、アルミホイルに包んで、冷蔵庫などで保存します。これも、他の炭が混ざらないように注意しなくてはいけません。
岩石標本は、分析にかけたい岩の破片を収集します。もちろん何処の何なのかをラベルに書き込み写真撮影して採取します。採取する岩石のサイズは小さいもので十分だそうで、これも採取し忘れがないよう、複数箇所でサンプルを採っておくのが望ましいそうです。
午後からは二手に分かれて、Ⅰ区の平面実測と深掘りトレンチの掘り下げをおこないました。深掘りでは古い土器が大量に出てきたのですが、遺構平面を押さえられていなかったようで、後日先生からまたお叱りを頂戴しました。現場全域をきちんと管理できなかった私の責任です。今後注意しなくては。(Mr.エアポート)
- 2010/11/17(水) 18:42:48|
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あぁぁ、しんど・・・
いま松江です。
ちょいとそこまで出ていく体力は残っておりません。
12日から4日間、引っ越し三昧でございまして、なんとかかんとか峠をこえましたが、
あぁぁ・・・何かと似ている。
「引っ越し」と掛けて「発掘調査」と説く。その心は・・・
終わりそうで、終わらない。
3年前、チャックを隊長に田園町の公舎から寺町の戸建て(もちろん賃貸)に
引っ越したんですが、それはまぁ暮らしづらい住宅でありました。同じ昭和40年代の木造住宅なんですが、やはり間取りは重要ですね。いちばん堪えたのがベランダのないこと。家中せんたく物であふれてしまいましてね。
鳥取に来て10年。ずっと木造住宅に住んできましたが、歳をとればとるほど適応能力が消えていきました。段差、畳、和式トイレはいずれも行動の障壁となり、「
アンテナのない」生活も悪くはなかったのですが、ここ2ヶ月あまりBSすら映らなくなってしまい、いつしか、さいとうたかおの『鬼平犯科帳』『仕掛人梅安』『雲盗暫平』が寝床の横で山積み状態に・・・
引っ越したのは大覚寺のテラスハウスです。軽量鉄骨プレハブの4戸一。古い3DKで、狭いんですが、やっと人間らしい生活を送れるようになった、とつくづく思います。
寒くなったら、動物は冬眠するしかありませんよね。
- 2010/11/16(火) 12:30:01|
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喫茶店の旅 11月9日(火)。この日の遥かなまちでは、おもに建造物の補足調査と喫茶店の探索をおこないました。
倉吉には昔ながらの外装・内装を残した「レトロ」な喫茶店が多数あります。美味しいコーヒーが飲める喫茶店は、戦争をはさんで市民の間で一大ブームを築いたということですから、昭和の人びとの生活を語るうえで喫茶店の存在は欠かせません。昭和レトロ街構想としても重要な要素です。実際にどれくらい喫茶店が存在しているのかその分布数の調査と、そのなかに残された「昭和」のデザインを探ることが、今回の目的です。
いまではごくごく身近になっている喫茶店ですが、日本初の本格的な喫茶店は、明治21年に東京上野西黒門町で開かれた「可否茶館」で、これ以降、「喫茶店」「カフェ」を名のる店が登場し始めました。コーヒーとともに徐々に浸透した喫茶店文化は大正時代にかけて大衆化し、昭和5年頃になると東京の喫茶店数が7,000店を越えるほどになりました。戦時中に制限されたコーヒー豆の輸入も昭和25年に再開、ブームに火がつきます。とりわけ「ジャス喫茶」は1960年代(昭和30年代)に一大ブームに。個人でレコードなどの機器を購入するのが困難だった時代、リクエストしたレコードをかけてもらえるジャス喫茶は音楽を楽しめる貴重な場所でした。そうして1970年代には漫画喫茶も登場、喫茶店は新旧のサービス・設備を織り交ぜつつ、市民のうるおいの場所としての立ち位置を確立しています。

(写真:麻雀のできるテーブル。倉吉のいくつかの喫茶店でも発見)
さて、倉吉ではどんな「レトロ」な喫茶店に出会えるのでしょう……
倉吉で喫茶店を訪れたのは、前回の
遥かなまち、くらよし探訪(ⅩⅥ)(10月28日)のとき一店お邪魔しましたのが記憶にあるくらい。どんな喫茶店に出会えるかどきどきしつつ、まちの東側から攻めていくことに。おもな喫茶店の写真レポートを「続き」から記しています。
[遥かなまち、くらよし探訪(ⅩⅦ)]の続きを読む
- 2010/11/15(月) 19:04:43|
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銭があぁればねぇ 11月7日(日)。さてⅡ区での作業も残り少なくなってきました。下の加工段Ⅰ区でも上層遺構の検出が終了し、この日から下層遺構の検出に移行しました。プロジェクト研究2(1年生)の報告は別に記事をアップしていますが、Ⅱ区との作業もあわせ、Ⅰ区の下層検出についてもう少し細くレポートさせていただきます。
Ⅰ区では、下層遺構深掘りのために、3ヶ所のトレンチを設けてあり、まず畦付近に断面観察用深掘りトレンチを設けて、試し掘りしました。一体どの程度掘り下げれば下層までたどり着くのか。いざ掘り下げていくと、75cm近く下げても下層に伴うであろう赤褐色の土はみえてきません。断面確認トレンチの土層をチェックすると、タタキの下はⅡ区「D区東側断面トレンチ」で確認されたような、上層整地土の茶灰色の土が見えます。その下には茶褐色の土が厚く堆積しており、下層に伴う土層があるとすれば、まださらに下だと思われます。

この日は2ヶ所のトレンチを30cmほど掘り下げ、茶褐土まで検出し、残りの1ヶ所では、茶褐土のようですが、硬い土が確認され、一時掘り下げを中断。遺物が何点か確認され、カワラケが数点ですが、茶灰色土の層から銭貨が発見されました。これまでⅡ区では数点、銭貨が確認されたのですが、表土上のものが多く、ほとんどの銭貨の表面が錆ついていました。今回出土した銭貨は土中で確認されたため、半分以上が欠けていましたが、文字自体はしっかり確認できました。いずれ拓本をとり、年代の特定もできるでしょう。
Ⅱ区の平面検出は、昨日先生が検出されたA区L字トレンチ際の礎石周辺とその隣の動いている礎石の周辺を精査し、据付穴と抜取穴を検出。D区台形トレンチ内で確認された穴を検出し、C区全体の平面検出もおこないました。検出された穴はいつもどおり線引きし、実測していきました。平面精査の作業自体は進んでいるのですが、上層礎石の抜取・据付穴らしきものは僅かしか検出されていないのが現状で、わたしが卒業研究で復元予定の上層遺構の平面がまとまりません。少々不安に駆られております。(轟)
- 2010/11/14(日) 00:02:45|
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取り急ぎお知らせいたします。
諸般の事情により
11月20日(土)に予定しておりました公開検討会を1週間延長し、27日(土)に開催することになりました。
一番下に、検討会のポスター(校正中)を掲載しておきます。
詳細のスケジュールはまだ詰めていませんが、たぶん13時より門脇茶屋喫茶店(源平茶谷の隣)で、パワポによるプレゼン(20分)後、そこに陳列した出土遺物等を公開。自由に観察していただきます。14時ころに奥の院の現場まであがり、そこで、遺構をみながら、意見交換しようと思っています。
詳細なスケジュールが固まりましたら、随時アップしますので、お見逃しのないようお願いいたします。
- 2010/11/13(土) 00:56:20|
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魚釣りブルース 11月6日(土)。昨日、卒業研究の中間発表を終えました。わたしは「帝釈天のみあらか」と題して、摩尼寺奥の院の復元研究の中間報告をしました。少し時間オーバーでしたた・・・さて、私轟が現場に上がるのは3日ぶりです。この日はⅡ区での平面精査を中心に、Ⅰ区のレベル測量、岩窟内に祀られる石塔のスケッチをおこなっていきました。
Ⅰ区のレベル測量は以前1年生が試みたのですが、図面に記入したレベル値をチェックしたのところ、大きな問題があることが分かり、先生はご機嫌斜めになり、「指導した上級生に責任あり」とのことで、一から測り直しすることになったのです。
平面精査はA区L字トレンチの際にある動いた礎石の周辺を先生が精査すると、またたくまに礎石の抜取穴と据付穴(写真↓)が確認されました。動いていると判断した石の周辺でも、きちんと調査すれば、穴はみつかるのです。以前D区の北端で検出された束石のような石の周辺にも穴が見つかったのですが、周りに黒灰色の土が確認され、この穴は土抗であり、石も束石ではなく、この土抗に捨てられた石であるとのご指摘をうけました。
D区の平面精査は大方終了したのですが、以前3つ子穴が見つかった台形トレンチではまだ検出していない穴が残っているようで、これについては次回調査していきます。
それにしても、学生はなぜ平面の線が見えないのでしょうか...先生がA区Lトレンチ際の礎石周辺を精査し、穴を続々とみつけていくのですが、なぜその部分に線が引けるのかピンと来ない学生もチラホラ。先生曰く「平面検出は魚釣りと似ている」のだそうです。あのあたりの川の淀みに必ず魚がいる。そういう匂いのする場所が川にはいくつもある。発掘現場でも、石の周辺には必ずなにかある。そういう匂いのする場所があって、そこに棹を向けるのだそうです。この教訓を胸に、なんとか学生も礎石の据付穴や抜取穴をみつけていきたいものです。

昨日、A区南側トレンチ壁際の穴は底まで検出し、実測・断面作図まで進んだのですが、その図面を先生にチェックしていただいたところ、抜取穴の形はよいが、掘形がおかしいと指摘されました。これは、先生に現場で線をひいていただくしかなさそうです。
さて、下層井戸では、新たな発見がありました。土層注記の際に断面に「上:黒灰褐色土、下:赤褐色土の二重ラインが現れていることが判明。この2つの層は深掘りした箇所の断面の4面すべてに確認でき、黒灰褐色土は木が炭化し、赤褐色土は鉄が劣化した可能性があるとのこと・・・この2つの層については、井戸が埋められた後、上層建物が建てられる前に不同沈下防止のために薄い鉄板状の材を敷き詰めた痕跡なのかもしれません。(轟)
- 2010/11/12(金) 00:52:38|
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遺構検出だめ押し中 11月5日(金)。この日は、午前中に大学で所用があり、午後から現場に上がりました。作業内容は、以下の通り。
1 井戸の断面作図、平面実測
2 A区南壁の断面の線引き&作図
3 D区平面精査、平面実測
まずは、昨日に引き続き井戸遺構の断面を作図。今回、深掘りした部分の断面4面を作図したわけですが、まず体勢がしんどい。先生も線引きに大変苦労しておられましたが、作図も一苦労。コンベックスの目盛りを読むためには、ある程度、頭をトレンチに突っ込まなくてはならないので、頭に血がのぼってしまいます。作図の後、井戸深掘り部分の平面実測、レベル測量をおこないました。
また、昨日A区南壁にみえるピットの底を確認したのですが、ピットが双子であることを見落としており、この日もう一方のピットの底を確認するため、掘り下げをおこないました。まずは平面精査をし、ピットの肩を出して平面実測。その後、埋土を取り除いていくと意外と深いところまで続いていることが明らかになり、その状況を作図しました。
上記の作業と併行して、上層遺構平面を精査しました。昨日のB区につづき今日はD区の精査。夕方前は陽光が弱まって、土の色の区別がつきやすく感じます。この日も、大小のピットをいくつかみつけ、実測していきました。先日も記したように、ピットを見つけたらすぐには掘り下げず、まずはピット枠を線引きし平面実測、レベル測量をします。その後、見つけたピットが柱配置のグリッド上にのるかどうか(これが要です)を確認して、断面を確認するかどうか検討していきます。
こういう最終的な検出作業を「だめ押し」と言うのだそうです。わたしたちは、しょっちゅう先生から「だめ出し」されていますが、この「だめ押し」の成功なくして上層遺構の平面はまとまりません。まさに、復元研究にむけての正念場を迎えています。
残すは、Ⅱ区の平面精査とⅠ区のもろもろの調査。そろそろ現場の終わりが見えてきました。しかし、気を抜くことなくきちんと終わらせたいと思います。(Mr.エアポート)
- 2010/11/11(木) 00:37:15|
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Ⅰ区も下層遺構の検出へ 11月4日。 今まで雨が降り続いていましたが、ついに晴れました。山道を流れる水も大分落ち着き始めていて、前回より進みやすくなっていました。しかし、土はまだぬかるんでいたので、登るときは注意しながら進んでいきました。
今回は、Ⅰ区(下の加工段)の土をホウキなどで綺麗にしてからレベル測量を始めました。時間がなかったので、急いで測量をしていきましたが、やはり間に合わず、中途半端に終わってしまいました。後日、先生から「現場到着が遅すぎる」「測量の方法が滅茶苦茶」などとお叱りをうけてしまいました。これからは気をつけて作業をしていきたいです。
11月7日。 今日はやや早めに摩尼山へ出発することになりました。早めに摩尼山へ着きましたが、待機しておくよう言われたので、ウォーミングアップのつもりで摩尼寺へ登っていきました。
先輩方がたが来たのところで、早速発掘現場へ出発しました。発掘現場へ着くと、私たちがすべきレベル測量を先輩がたが済ませていました。先輩がたに負担を掛けてしまい、本当に申し訳ないです・・・
今回は下層遺構の検出のため、さらに深く掘る作業をすることになりました。しかし、掘ってもなかなか目的の下層遺構面まで到達できません。下層遺構検出中に遺物が3、4点出てきました。その中に過去(どの時代かは解かりませんが)使われていた銭貨の一部が見つかりました。これまでたくさん出土した寛永通宝ではない、とのことです。
慎重に遺構検出し、なおかつ素早く作業を進めるのは大変なことだと改めて思いました。(情報システム学科T.S)

↑:レベル測量(11月4日) ↓:下層遺構の検出(11月7日)
- 2010/11/10(水) 00:50:39|
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井戸に埋葬!? 11月4日(木)。今日の作業はⅣ区の撮影、井戸断面の作図、A区南壁の穴の掘り下げ、平面精査です。
昨日、Ⅳ区で断面の作図・注記が終了したため、真っ先に写真撮影に向かいました。が、午前中や午後の早い段階では日が差してまだら状態になってしまうため、朝一番での撮影は断念。そのため、太陽の傾きを気にしつつ、井戸断面の作図やA区南壁で以前発見した穴の掘り下げ、B区の平面精査に移りました。A区南壁の穴は思っていたよりも深く、ようやく底が見えたかなと思ったところで断面の線引きと作図、さらに平面図への書き込みをおこないました。しかし、実はまだ底ではなかったため、後日さらに掘り下げることに・・・。井戸断面の作図はエアポートさんが担当。井戸はぐっと深くなっているため、昨日先生がヒーヒー叫びながら線引きされた断面を、今日はエアポートさんが叫びながら作図。まるで、井戸に埋葬されているかのような体勢になりながら、必死に作図していきました。B区ではナオキさんが平面をきれいに出していきながら、見つけた穴に線を引いていきました。

昼休憩をはさみつつ作業を進め、午後3時を回った頃、ようやく陽が陰ってきたのでⅣ区の撮影に向かいました。朝とは違って今度はばっちり!
撮影が終わると、準備していた土嚢をトレンチに詰めて、Ⅳ区を養生。これで、Ⅳ区の調査は終了です。その後は、引き続き井戸の作図と平面精査と実測図への描き込み作業をおこないましたが、陽が落ちてきたため途中で終了。井戸は残り1面、B区はほぼ平面精査を終えました。明日も引き続き平面精査をおこない、柱列になりそうな痕跡を見つけたいと思います。(部長)
- 2010/11/09(火) 00:15:03|
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癖になるレリーズ 11月3日(水)。この日は、Ⅰ区・Ⅳ区の写真撮影、各断面の線引き&作図、平面精査をおこないました。
Ⅰ区は木陰、Ⅳ区は岩窟前にトレンチがあるため常に薄暗く、これまで遺構写真を撮影するとき、どうしても手ブレが気になって仕方ありませんでした。そこで今回はデジタル一眼レフ、フィルム一眼レフともにレリーズを購入し、本格的な撮影に挑戦。まずは昨日掘り下げ断面を確認したⅣ区から撮影を開始しました。三脚にフィルムカメラを据え、レリーズを接続。これで手ブレ対策は万全です。先生がカメラを握り、ナオキが撮影をアシスト。その間、残った学生は、次に撮影を控えるⅠ区と井戸の掃除をおこないました。ボタンを押すたび、岩窟の方から
「おぉ~、これはバツグン!」
と歓喜の声が上がります。

Ⅳ区の次は、Ⅰ区の撮影に移行。Ⅰ区は樹々に囲まれているため、昼間でも暗く、調査区の中で最も写真撮影が困難な場所です。撮影に向け上層遺構をすべて露出させると、Ⅰ区もなかなかのものです。Ⅱ区に負けない遺跡の雰囲気をみせ始めました。先生はすっかりレリーズに魅了され、「プロになった気分だね」と終始ご満悦。撮影した写真(デジタル)を確認すると、日の光が弱いため全体的に暗いですが、レリーズのおかげで手ブレしていないので、デジタル処理をすれば問題なさそうです(←)。Ⅰ区の撮影後は、下層掘り下げ用の縄張りをしました。
午後からは、Ⅳ区の断面の作図&注記、井戸の断面線引き、B区の平面精査をおこないました。Ⅳ区は断面の注記をすませたあと、その断面をみながら昨日残したベルトの掘り下げをしていきました。昨日の分層で断面にピットと思われる落ち込みが確認されたので、残された部分の平面を検出し、ピット内の埋土を取り除いていきました。Ⅳ区からは古い時代の遺物が出ることを期待したのですが、28日~29日に黒灰土から出たカワラケ以外なにももみつかりませんでした。この日、Ⅳ区の調査は完了。トレンチから岩窟の成立年代を特定する遺物が出なかったのは正直つらい結果です。
さて、雨があがった午後からは、B区の平面精査です。遺構面を饅頭でうすくうすくかいていき、礎石抜き取り穴を探します。この日も、何箇所かピットの痕跡を発見。この調子で、どんどんピットが出てくることを願うばかりです。
今後は、以下の方針で調査をおこなっていきます。
1 まずはガリで遺構面全体を薄く削りピットを探す。
2 ピットを見つけたらすぐには掘り下げず、ピット枠を線引きし実測、レベルをとる。
3 実測したピットが柱配置のグリッド上にのったもののみ掘り下げをおこない、断面を確認する。
今年も残すところあと2ヶ月。もう時間はありません。(Mr.エアポート)
- 2010/11/08(月) 00:56:39|
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またしても、満員御礼! 11月4日(木)。澄み渡るような青空の下、先生とP4メンバーのNさんKさんコンビ(デザイン学科2年)、そして私タクオの4名は琴浦町河本家住宅を訪問しました。本当ならば4年生3名も同行する予定だったのですが、翌日に中間発表を控えており、その準備のためゼミ室で留守番です。どんべえさんは特に行きたそうにしておりましたが、卒研には代えられないとの事。残念です・・・
さて、河本家住宅はこのたびオモヤ(1688年)を含む8棟の建造物と家相図・棟札が重要文化財になることが決まりましたが、今を遡ること6年前、指定のための下準備としてASALABによる調査が2004年度におこなわれています。私はその当時の4年生で幸運にも調査担当を任され、同期のヤンマーとともに半年以上にわたって調査に携わったのですが、当初からご主人・奥様にお世話になりました。調査に協力いただくだけでなく、オモヤで食事をしたりキャクマでお茶を頂いたりと、重文民家となってはなかなかできない貴重な経験は、今でも記憶に残っています。今日の私があるのも、河本家での濃密な時間が影響している事は間違いないでしょう。そのような事もあり、今回の指定に際して、私の卒業研究が少しでもお役に立てたことに喜びを感じますし、ご夫妻のことを思うと大変うれしく思います。
と、少し話がそれてしまいました・・・。今回の目的は先日のブログにもありましたように、「
河本家住宅重要文化財答申記念講演」です。琴浦町から依頼され、定期的におこなわれている「河本家 秋の公開」(11月3日~7日)に合わせて、河本家の建造物について先生が講演をされました。主要な建造物の説明に加え、民家の近畿型・ヒロマ型を中心に三間取りの類型と系譜について解説し、最後に河本家の復元的考察と、現在感じている疑問点を指摘されました。会場はオモヤの「ヒロマ」と「ゲンカンノマ」を利用。境の建具を取り払うことで、ひろびろとした空間となる「続き間」は、部屋の用途を限定せず多様に使いこなす古きよき日本家屋の知恵ですね。また、この二間は、河本家の当初平面であると思われる「広間型三間取り」の「ヒロマ」の空間にあたり、その根拠となる張台構えや、河本家の一つの謎である土間-居室の柱筋のずれを実際に確認しながら、講演を聴くことができたので、聴講された方々にも非常にも分かりやすかったのではないでしょうか。
[河本家住宅重要文化財答申記念講演]の続きを読む
- 2010/11/07(日) 00:00:45|
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下層井戸遺構の底はまだ!? 11月2日(火)。韓国から帰国した翌日から、さっそく調査に戻りました。作業は、以下の通り。
1 Ⅰ区の掘り下げ
2 井戸の平面実測、掘り下げ
3 Ⅳ区の平面実測、掘り下げ
慶州と釜山の空は晴ればれとしていましたが、鳥取の雨はまだ続いています。さて、まずは29日に深掘りした井戸(Ⅱ区)とⅣ区(岩窟前トレンチ)、30日に1年生が掘り下げたⅠ区を確認し、今後の調査方針を固めていきました。
Ⅰ区は、まだ上層遺構面に表土系の黒灰土が残っている状態。まずは、28日にメガネレンズが出た撹乱土坑のエッジを精査し、これが双子穴であることを確認しました。一つは「撹乱土坑」、もう一方は炭混じりであることから「炭入り土坑」と命名し、土坑内の埋土を取り除いて遺構カードに記入しました。その後は、上層遺構面に残っている黒灰土を剥いでいき、上層遺構面を出していきまいた。
29日に深掘りした井戸は、井戸枠の線の外側から大きな凝灰岩が大量に出てきたため、地表面(スリ鉢の底)から70cm程度のところでストップ。しかし、底のほうではから砂礫混じりの粘質土が厚く堆積していることが判明。井戸の底はもうすぐ下まで来ていると思われます。まずは現状の平面を実測し、その後、井戸枠、木杭等の断面、井戸の底を確認するため、井戸の中央から扇形にトレンチを入れより広い範囲で深掘りをおこないました。深さは地表面から1m20cmに到達。井戸枠の痕跡と思われる炭化した線状の痕跡は深さ1mのところで外側にそれて途切れてしまいますが、10cmほど下からまた垂直の黒い筋があらわれ、それは地中にのびています。覆屋と思われる木杭は深さ5cm程度で途切れてしまいました(全体で15cm)。一方、井戸枠の小杭は地中へと続いています。トレンチの底は砂礫混じりの土の層が厚くなり始め、いよいよ井戸の底を思わせる深さとなりました。明日、断面の線引きをおこない、精査していく予定です。

左:外側に反れて一度途切れる井戸枠 右:覆屋木杭の断面
表土と黒灰土を取り除いたⅣ区(岩窟正面のトレンチ↓)からは、黄灰色系のベースとなる土層が土饅頭のような形で出てきました。まずは掃除をおこない遺構の写真撮影。その後、平面実測、レベル測量をし、15cmの幅でトレンチを設定して岩盤(岩窟の底)まで掘り下げていきました。深さ20cmほどで岩盤に到達。岩窟の底の岩盤は平坦になっており、その上に黄灰色の土がのっています。ぱっとみた感じでは表土の下に黒灰土、茶灰土、黄灰土の4層に分層できそうです。また、中央には穴のような窪も見られます。明日線引き、作図をしていく予定。
天気予報は、明日は曇り一時雨。本当にいっときの雨であることを願うばかりです。(Mr.エアポート)
- 2010/11/06(土) 15:30:00|
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