
27日(土)、前夜までの雨は上がって快晴のなか、摩尼寺「奥の院」公開検討会が開催されました。第1部は門脇茶屋喫茶部の土産物販売店を会場に、まずエアポート君がパワーポイントで発掘調査の概要を報告し、ついで会場に展示した出土遺物を県内から駆けつけた文化財主事(考古学専攻)のみなさんに年代鑑定していただきました。今回、「現地説明会」ではなく「公開検討会」と銘打ったのは、ASALABに遺物を判定する能力がなかったからであり、遺構についての解釈を示すことはできますが、遺物については考古学関係者の意見をひろく吸収したいと思ったからです。
遺物のなかで最も重要な位置を占めるのは土器でして、これまでも複数の考古学研究者から意見をいただいておりましたが、今回10名以上参加された文化財主事の意見も加えて整理すると、以下のようになります。
1)土器全体をみると、平安時代のものと中世後期以降のものに分かれ、その中間の時代に
あたるものがみあたらない。
2)上層の遺構面や上層廃絶後の廃棄土坑でみつかった五輪塔片は室町後期~江戸時代の
もの。石仏頭片は「如来」だが、年代は不明。
3)上層の整地層(灰褐土~三和土)でみつかった土器は、平安時代のものと中世後期以降
のものの両方を含む。したがって、上層整地の年代は中世後期以降と判定される。
上層の最下層にあたる灰褐土層では、15~16世紀の備前焼を含む。
4)上層でみつかった青磁は非常に良いもの。中世後期の作であろうが、伝世品の可能性も
ある。
5)下層の赤褐土層で少数の須恵器・土師器がみつかっているが、年代は9世紀から10世紀
のもの。一部に奈良時代まで遡る可能性のある土器が含まれているが、下層整地の年代は
平安時代まで下るとみるべき。
6)Ⅰ区の最下層でみつかった「古墳時代の可能性がある土器」は、古墳時代の専門家が
鑑定した結果、「器種すら不明であり、古墳時代の遺物とは言えない」とのこと。
一方、別の研究者からは「中世のこね鉢の破片」であろうとの意見をいただいた。
以上から次のような結論が導きだされます
a)奈良時代~9世紀にろに「奥の院」で人が活動した可能性がある。
b)下層の整地は10世紀以降。
c)下層建物廃絶から上層建物建設まで、若干の空白があったかも?
d)上層整地の開始は15~16世紀以降。
c)公開資料で「最も早く開発された可能性がある」としたⅠ区は
こね鉢の破片からみて、むしろ中世以降の整地とみなすべき。
さて、公開検討会には60名以上の来場者がありました。予想よりも多い来場者に嬉しい悲鳴をあげた次第です。午後2時すぎから全員で現場にあがりました。前夜までの雨で谷水が増水しており、渓流を横切るのに往生しましたが、参加者が倒木を横たえて臨時の橋をつくるなど、大変なサポートをいただきまして、感謝にたえません。

←山陰中央新報11月28日(22面)鳥取版の記事。上層の建物跡を「東西54メートル以上、南北48メートル以上」としていますが、「東西54尺以上、南北48尺以上」の誤りですね。これは研究室が配布した資料の誤りです。訂正してお詫び申し上げます。
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- 2010/11/29(月) 00:00:56|
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