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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

六郷満山の中心と周辺(Ⅳ)

01文殊仙寺02役行者03遠景


文殊仙寺「奥の院」妻入型懸造

 みなさん、大晦日ですよ。
 紅白歌合戦は紅組の植村花菜「トイレの神様」と坂本冬美「また君に恋している」を応援します。後者は、すでに小生のカラオケレパートリーになっておりますが、ビリーバンバンのオリジナル・バージョンでないと音域があいませんね。
 
 さてさて・・・54回目の誕生日でございます。
 ハッピィ・バースディ!! なんて、喜んでる歳じゃありませんやね。
 大分を旅しているあいだ、レンタカーでずっと青江美奈のN.Y.録音CD2枚をかわりばんこに聞いていたんですが、そのなかに「淋しいときだけそばにいて」という名曲が含まれてましてね・・・

   一年たつのが ほんとにはいよね
   誕生日さえ この頃うれしくなくて

という出だしでありました。まったく、その通りの歳になってしまいましたぜ。
 年賀状もようやく投函しました。今年は経費節約の折、写真屋さんには出さす、ワードで作りました。ある町並みを背景に使っていますが、そこがどこか分かるかたはご一報ください。賞品をさしあげましょう。

01文殊仙寺02役行者02


 話は峨眉山(がびさん)に飛びます。中国四川省の峨眉山、つまり中国三名山のうちの峨眉山ではなく、国東半島の峨眉山。パクリもここまで来ると引用するほうが赤面してしまうというか、なんとも言いようがありませんが、国東半島の峨眉山に文殊仙寺というお寺があるのです。648年、役行者の開基と伝えられているから、六郷満山33ヶ寺のうち縁起がいちばん古いのかもしれません。なんでこの寺の始まりは仁聞ではなく、役小角なのか。要するに、三徳山タイプの縁起をもっていて、宇佐八幡より1世紀古く起源を遡らせている。奥の院には役行者を祭る岩窟が残っています。あちこち密教系の山を歩いてきましたが、役行者の像(↑)をみたのははじめてではないかなぁ。

01文殊仙寺01本殿01正面01


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  1. 2010/12/31(金) 01:05:15|
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六郷満山の中心と周辺(Ⅲ)

01両子寺02奥の院本殿01正面01


両子寺奥の院「本殿」懸造

 国東(くにさき)が両子山を頂点とする円錐形の半島であることはすでに述べた。地形の全体をみれば、済州島のようになだらかだが、ところどころに巨岩・奇石が屹立し、両子山の子どものような小峰が競い合っている。小峰ごとに寺院が境内を構えたから、最盛期には65ヶ寺、いまでも33ヶ寺を数えるのであろう。その寺院は、宇佐八幡の境外神宮寺のようなものであった。いずれも天台宗の寺院だが、初期山岳仏教、天台密教、八幡信仰が混然一体となった独特の山岳信仰をそこにみることができる。
 半島のいただきに近い六郷満山総持院の両子寺は、正確には「足曳山両子寺」という。両子山頂を近くに望めるが、その麓に境内を構えたのではなく、少し離れた足曳山を行場としたということであろう。ここにももちろん「奥の院」がある。本堂から7分だと教えられ、さっそく川向かいの参道をめざした。ふと越後の永平寺を思い起こした。川が庭になっている。護岸に庭石が置かれ、苔むした石の合間に躑躅(つつじ)が数多く植栽され剪定されている。その川にかかる石橋をわたり、石段を登った。鳥居には「両所大権現」の扁額がかかっている。

01両子寺01参道(川)01 ほどなく「奥の院」に辿り着いた。熊野磨崖仏と同じ垂直の絶壁がそこにはあり、その正面に派手な入母屋造の「本殿」が前方の谷に向かってせり出していた。それほど床の高い懸造ではない。ただ、千鳥破風と軒唐破風のついた入母屋造平入の屋根と縁をめぐる赤い欄干に強く目をひきつけられる。銅板葺きの屋根は棟を岩肌に密着させている。雨漏りを防ぐために裏側でそこそこの工夫をしていることだろう。見方を変えればこういうことである。平入の入母屋造「本殿」が棟筋で二等分され、その前面のみ屋外に露出されているということだ。崖の内側に本殿はくいこんでいて、内陣の仏像たちを保護しているわけだ。本尊は十一面千手観音であり、向かって右に宇佐八幡神、左に仁聞菩薩を配するだけでなく、観音と八幡神・仁聞菩薩のあいだに2体の両子大権現を置く。ここにいう仁聞菩薩は、六郷満山の文化を語るにさけて通れない存在である。六郷満山の多くの寺院は、仁聞菩薩が養老2年(718)に開いたという縁起をもっている。仁聞は、宇佐神宮が奈良時代に境内に築いた弥勒寺の僧であるとも伝えられるが、その実在は疑わしい。実際には、弥勒寺の複数の天台僧が半島の山に分け入って次々に寺を設けたのだろうと推定されている(『日本の仏像44 臼杵磨崖仏と国東半島』2008)。

01両子寺02奥の院本殿02内部01
↑本殿内部。↓本殿懸造脚部
01両子寺02奥の院本殿01正面02基礎

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  1. 2010/12/30(木) 01:33:02|
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六郷満山の中心と周辺(Ⅱ)

1227熊野磨崖仏01


胎蔵寺奥の院の流造

 古代中世の国東半島に華開いた六郷満山の仏教遺産(というよりも神仏習合の遺産)は、山陰の山嶺で盛行した密教・修験道の空間的世界を復元する上で、このうえないモデルを呈示する。わたしが大分を訪れた目的はむしろ伝統的建造物群と文化的景観にあったのだが、豊後高田や田染荘小崎や杵築城下町を視察する過程にあらわれる国東半島の寺院群にはなべて「奥の院」が存在し、そこには絶壁を穿つ岩窟と複合した懸造建築があたりまえのように建立されているのである。よくもまぁ、この段階になって六郷満山の「奥の院」にであったものだ。大学4年次から「杵築の町づくり」に係わり、21世紀になってからも横尾縄文遺跡の委員としてなんども大分に足を運んでいたにも拘わらず、今日のこの日まで六郷満山の仏教遺産に気付かないでいたのである。

 山陰では、たとえば八頭町柿原の窟堂(いわやどう)がそうであるように、いまは謎の岩窟だけが残り、正面に存在したはずの懸造建築が失われている場合が少なくない。柿原の類例をもちだすまでもなく、わたしたちが4ヶ月ものあいだ悪戦苦闘した摩尼寺「奥の院」こそがまさにその様相を呈している。国東では、山陰で失われた岩窟正面の木造建築がいまも姿を留めているのである。その理由を考えた。単純なことだと思っている。国東半島は、半島全体が両子山(ふたごやま)を頂点とする山嶺の群体であり、多くの山に仏寺を構えているのだが、境内を「麓」に移設したり、新たに展開することができない。新しい仏堂を築くといっても、所詮は山の上にあって、いわゆる「奥の院」は主要堂宇の間近にある。間近にあるから、今も信仰の対象として息づいているのであろう。

1227熊野磨崖仏03参道02

 分かっていただけるであろうか。たとえば、三徳山を例にとるならば、本堂から投入堂までの山道は生死をかけるほどの厳しい行場であり、往復に要する時間も短くない。摩尼山もその例に漏れまい。
 豊後高田市の熊野磨崖仏を例にとろう。本堂から奥の院までの高低差は100mあるが、歩行距離はわずか350mにすぎない。少し足をのばせば「奥の院」に辿りつくのである。国東半島を構成する田原山(鋸山)の山麓に今熊野山胎蔵寺(いまくまのさんたいぞうじ)が境内を構える。茅葺き寄棟造の本堂と護摩堂が軒を連ねる姿は民家と変わらない。そこから急峻な山道を10分ばかりかけあがると、崖の岩を彫りあげた2体の巨大な磨崖仏があらわれる。 むかって左が不動明王、右が大日如来。前日、臼杵の石仏を訪れていたので、どうしても比較したくなる。わたしは仏像の素人なので、価値はよくわからないが、年代はほぼ同期(平安後期~鎌倉前期)か、熊野のほうがやや早いと推定されているようだ。臼杵の石仏群は数も多く、精緻な彫刻であり、国宝にして特別史跡に指定されている。文化庁が最上級の評価をしているということである、一方、熊野磨崖仏は規模では臼杵を圧倒するが、ややラフな創りではある。しかしながら、なんとも剽軽な顔をした不動明王に思わず親しみを覚えてしまう。恐れおおいことだが、その御顔をみて、笑みがこぼれてしまった。愛すべき磨崖仏である。こちらは重要文化財にして、史跡に指定されている。これでも相当高い評価であるが、臼杵より年代がやや古くて、大きいのだから、国宝にすればよいと思うのはわたしだけだろうか。

1226臼杵01
↑臼杵石仏。新しい覆屋によって保護されている。
1226臼杵02礎石
↑同上。覆屋建設中にみつかった鎌倉時代の礎石。

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  1. 2010/12/29(水) 00:35:32|
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六郷満山の中心と周辺(Ⅰ)

龍岩寺礼堂02


龍岩寺奥の院礼堂

 豪雪が北陸や北日本を銀世界に変えた25日、大分の山間部でも雪が舞った。宇佐の行場は冷え冷えとしている。
 院内町大門の清浄山龍岩寺には「奥の院」がある。急勾配の石段を駆け上がっていくと、民家のような本堂があり、そこで入山料を払って奥の院の参道に足を踏み込む。石段は続き、岩盤を穿つトンネルをくぐると、絶壁から飛び出した懸造の「礼堂」が視野におさまった。
 ここ2~3年、こういう岩窟型仏堂を求めて日本、韓国、中国を彷徨ってきたが、日本型の岩窟型仏堂は本来こういうものではないかと思っていた、その「仮想の典型」にようやく出会った。岩窟のなかには阿弥陀如来を中央に、向かって右に薬師如来、左に不動明王を配する。石仏でも塑像でもではなく、大きな木彫の座像である。その前に懸造(かけづくり)の礼堂(らいどう)が建てられ、3体の木像を保護している。この懸造建築はたしかに礼堂ではあるけれども、岩窟の上部から外側に向かってのびる片流れ屋根の素朴な建物で、中国石窟寺院の「窟檐(くつえん)」を彷彿とさせる。岩窟型仏堂の外側には、こういう差し掛け庇のような「礼堂」兼「窟檐」のような施設があっただろうと密かに思い続けてきて、その実物に初めてであった。

龍岩寺礼堂04


 翌26日、臼杵の石仏も参拝した。石仏を納める岩窟の外側で礎石が発掘されているので、石仏の覆屋が存在したことはまちがいない。いま石仏を保存するために神社の拝殿のような大きな建物を構えているが、わたしは、臼杵の石仏を保護していたのも、龍岩寺奥の院のような「窟檐」的礼堂ではなかった、と思っている。

 龍岩寺奥の院礼堂は、いままさに轟とエアポートが取り組んでいる摩尼寺奥の院の復元建物にとって欠くべからず資料であるので、ここに少し多めに写真を掲載しておこう。なお、龍岩寺は天平18年(746)、僧行基による開山という伝承があり、礼堂は鎌倉時代の建立とされる(重要文化財)。桁行3間×梁間2間。平屋の懸造。片流板葺。棟木下端に、「奉修造岩屋堂一宇□□□ 弘安九年丙戌二月二十二日 大旦那沙弥」の墨書銘がある。豊後でもまた「岩屋堂」という呼称が使われている点、興味深い。

龍岩寺礼堂05


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  1. 2010/12/28(火) 00:10:30|
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熊野古道(Ⅳ)

室生寺


室生寺と長谷寺

 奈良では「懸造の宝庫」とも言える吉野の室生寺と長谷寺を見てまわりました。
 室生寺は山々や渓谷に囲まれ、ひっそりとした雰囲気の中に佇んでいます。古くから聖地と仰がれており、やがて奈良時代末期に後の桓武天皇の病気平癒の祈願をこの地でおこなったことから、室生寺が創建されたとあります。また、高野山が厳しく女人を禁制したのに対し、女性の参詣を許したことから「女人高野」として親しまれてきました。山を背景に伽藍がひろがっており、自然との一体感をつよく感じられました。室生寺の金堂、灌頂堂、五重塔は国宝となっていますが、今回は懸造の金堂を中心に見学しました。
 金堂は、室生寺の入口から仁王門を通り、左手の階段を登りきったところにありました。平安初期に建てられた金堂はいわゆる5間堂で、単層寄棟造の構造形式をしています。その足下に2段の石積があり、縁束と礼堂の柱の2列が下段に、残りが上段にありました。縁束は四角形で、柱は床下が八角形で床上は円形でした。中央3間分、4本の縁束はそれぞれ礼堂の柱と、貫でつながっていました。懸造というと、三徳山投入堂がぱっと思い浮かびますが、室生寺金堂の懸造は私たちが調査に行った倉吉の長谷寺に近いイメージでした。
 金堂を正面から見た後、横に回ってみると屋根の形に驚きました。正面から見ると一見普通の寄棟屋根なのですが、側面から見ると、奥から4間のところまでで寄棟屋根がおさまり、そこから縁のところまでは後から付け足したように庇が伸びていました。これは、実は奥の正堂部分が平安初期の建物で、江戸時代になってからその前面に礼堂を1間加え、またそのときに懸造となり、このような庇を加えたとのことです。なお、当初は入母屋造であったが、数回にわたって修理され、現在に至るようです。周りの木立に囲まれている金堂は物静かな雰囲気を醸し出していて、とても心落ち着く場所でした。

金堂正面
上:金堂正面 下:金堂側面
金堂側面

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  1. 2010/12/27(月) 00:05:48|
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熊野古道(Ⅲ)

大日越坂道


大日越の苦行

 大斎原をあとにして、大日越(↑)を歩くのみとなりましたが、最後の最後で思ったより急で長く続く石段に苦しむことになりました。途中には岩が張り出して岩陰を作っているところがあり、階段もあったので登ってみると、何かを祀っていたような台座だけがありました。
 しばらく登ると杉や桧の大木に囲まれた月見ヶ丘神社があり、そこからさらに登っていくと、大日越の峠に大きな岩が見えます。岩には左に座像、右に立像の2体のお地蔵さんが彫られており、右側のお地蔵さんは鼻欠地蔵と呼ばれ、身代わり伝説を持っています。「鼻欠」という名がついていますが、すでに風化が進んでおり、2体とも頭がありませんでした。ここからはひたすら下りで、膝が笑いそうになるのをこらえてゆっくり降りていきました。大日越を踏破し、湯峯王子へたどり着いた頃にはへとへとに。約1時間の道のりでしたが、この日歩いた中ではもっともハードな道でした。

 岩陰 鼻欠地蔵
左:途中の岩陰 右:鼻欠地蔵

 その後、「不動の滝」という看板を見つけ、気になったため再び山道へ逆戻り。滝まではそう遠くはありませんでしたが、おそらくあまり通る人がいない細い道は落ち葉だらけで、足を滑らせないように慎重に登っていきました。たどり着いた不動の滝は、大きな岩の上から水がしたたり落ちるような、落差約3メートルの滝でした。滝のすぐ右下には不動明王と思われる像があり、左には裸形上人修行の滝と書いた小さな石碑がありました。裸形上人はこの不動の滝で苦行をおこない、湯の峰温泉にある東光寺の本尊である、湯の花でできた薬師如来を感得したといわれています。

不動の滝

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  1. 2010/12/26(日) 00:00:02|
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板井原の忘年会

1220火間土02


 メリークリスマス!
 みなさんはどんなイブを過ごされましたか?

 さて、お天気にも恵まれた12月20日(月)、ASALABの忘年会がおこなわれました。会場は鳥取県智頭町板井原のお食事処「火間土」です。なぜ忘年会なのに飲み屋じゃないの?と思われたかもしれませんが、今回板井原へ行ったのには他に大きな理由があるからです。2008年度の鳥取県環境学術研究振興事業に係わる調査研究の成果報告書『文化的景観の解釈と応用による地域保全手法の検討』が刊行されたことを、お世話になった板井原集落の皆さんへお知らせするために忘年会を兼ねて板井原を訪れました。

1220火間土04  「火間土」は集落保存会長ご夫婦が経営されているお食事処で、その名の通り、カマドで炊いたご飯と山菜料理をいただけます。2008年度調査の際には、座談会や研究会の会場として大変お世話になったお店でもありますが、私は板井原集落が今回始めて。写真で何回も見たことがあっただけに胸が躍ります。
 お昼ご飯のメニューは、かまどめし、なめこ汁、手作りコンニャクなどなど。板井原の野菜を使ったおかずはもちろん、なんといっても釜で炊いた「かまどめし」が絶品です。おこげのご飯となめこみそ汁を、男子学生だけでなく、女子学生も何杯もおかわりしました。それに、ご主人も奥さんもとても優しい方で、お二人のお人柄がにじみ出ている手料理だと思います。もう一度足を運びたくなるお店ですね。 


1220火間土01


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  1. 2010/12/25(土) 01:15:39|
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熊野古道(Ⅱ)

赤木越石畳


湯の峰温泉から熊野本宮へ

 「紀伊山地の霊場と参詣道」は、世界遺産の中でも2例しかない「信仰の道」の遺産です。選んだルートは湯の峰温泉から赤木越を通り、船玉神社から中辺路を通って熊野本宮大社へ、そして大日越を通って湯の峰温泉に戻る、というものでした。
 朝、さっそく赤木越へ。家々の間の階段を上り、鬱蒼とした針葉樹林の中を通り抜けると、すぐに尾根筋に出ました。ところどころに木や石の階段がありますが、一部には小さな石を敷き詰めた石畳(↑)も残っています。全体的に緩やかな尾根道で、眺望が良いところも多数あり、遠くに連なる山々や小さく見える集落などの景色も楽しめます。そして途中には、廃屋が残る柿平茶屋跡や石垣のみが残る献上茶屋跡などがみられました。赤木越は針葉樹ばかりでなく、時には右と左で針葉樹と広葉樹に分かれていたりして、変化のある道でした。

柿平茶屋跡赤木越植生
左:柿平茶屋跡 右:広葉樹も混在する赤木越

 後ほど気づいたのですが、赤木越は世界遺産の登録範囲には入っていないようです。もともと赤木越は奥熊野の入口となる三越峠から分岐して、湯の峰温泉に向かうルートです。この道は、本宮大社に向かう前に湯の峰温泉で湯垢離をするために、近世になると頻繁に通られるようになった道です。しかし、三越峠から献上茶屋跡までの区間で崩落しているところがあるため、現在は三越峠から船玉神社付近まで中辺路を通り、そこから杉林の斜面に作られた階段を一気に登ったところにある献上茶屋跡を経由して赤木越を通るようになっています。
 2時間ほどで赤木峠を抜けると中辺路に合流。未舗装ながらも車の通れる林道でした。すぐ近くには船の神を祀るという船玉神社があります。そこから林道を歩き、林道の下の古道に入ると猪鼻王子。さらに林道を進み、石段が連なる土の古道を登っていくと、発心門王子へ。発心門王子は王子社の中でも地位が高い、五体王子の一つです。この王子の名は、「悟りの心を開く入り口」とされる大鳥居があったことに由来し、信仰に関連して命名されたことがわかります。また、聖域への入り口ともされ、人々は門前で厳粛な祓いや潔斎をしてからくぐったといいます。

発心門鳥居
発心門王子の鳥居

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  1. 2010/12/24(金) 02:56:16|
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熊野古道(Ⅰ)

DSC01576.jpg


那智・速玉巡礼

 この2月、国際シンポジウム「大山・隠岐・三徳山 -山岳信仰と文化的景観-」を開催し、そこで三徳山の世界遺産暫定リスト登録に係わる問題点を取り上げました。一つの大きな問題は、すでに世界文化遺産登録されている「紀伊山地の霊場と参詣途」との重複です。今回「紀伊山地の霊場と参詣道」の視察を中心に、岩窟や岩陰なども探しつつ、和歌山と奈良をめぐってきました。
 まずは奇絶峡に行きました。川には大きな岩がたくさん見受けられ、そこにかかる滝見橋を渡ると滝と対面。たまった水は澄んでいて、紅葉も加わり更に綺麗でした。次に石段を上って行くと、堂本印象画伯の原画をもとにした磨崖三尊大石仏が彫られている岩が見えてきました。磨崖仏を目的にここまで来ましたが、実は昭和41年に彫刻されたもののようでした。すぐ近くで見ることができたので、切れ目なく上まで伸びる岩や彫刻の大きさにも驚きましたが、斜面からどうやって彫っているのか不思議に思いました。
 奇絶峡を後にし、次の目的地へ向かう途中、まるで線引きでもされたように色がきれいに緑と紅葉で分かれている山を発見して、驚きました。そして、白い川辺と青い川が広がり、景色も開けているところがたくさんあって、とても綺麗でした。

DSC01526.jpgCIMG5911.jpg
左:奇絶峡の磨崖仏(昭和41年に彫刻) 右:植林と紅葉で分かれる山

 那智山に到着後、まず那智の滝を見に行きました。飛瀧神社の鳥居をくぐり、石段を下りていくと前方に大きな滝が見えてきました。この滝は那智の大滝と言われ、落差133mもある日本一の滝とのこと。すごく高くて、迫力ある滝に目を奪われるなか、せっかくなのでより近くまで見に行くことに。滝の流れる音や風など間近に感じられ、とても気持ち安らぐ空間・時間でした。また、滝に見入っていたら日が差し込んできて、滝の中に虹が浮かぶささやかなサプライズもあり、素晴らしかったです。それから、那智御滝水を飲んで寿命を延ばしつつ、青岸渡寺の三重塔へ。ここからも那智の滝を眺められ、高さ・角度の違った大滝を楽しむことができ、周りにはグラデーションごとく山々もひろがっています。
 それから青岸渡寺の本堂へ。青岸渡寺は、インドの僧「裸形上人」が、大滝の滝壷の中から観音像を見つけ出し、草庵を結んで安置したことから始まったといわれています。桃山時代になると織田信長の焼き討ちにあい、豊臣秀吉によって再建されました。落ち着いた雰囲気を醸し出しているその隣に見えるのが、朱塗で派手やかな色を放つ熊野那智大社。熊野三山の一つです。こちらは大滝を信仰する自然崇拝より始まったとされ、熊野夫須美大神を主祭神とし、「熊野十二所権現」を祀っています。今の場所に社殿を移したのは4世紀の仁徳天皇のころとされていて、周りには樹齢800年余の太くて立派な大楠や、神武天皇が大和国に入る際に道案内したといわれる3本足の「ヤタガラス」の像などもありました。

DSC01609.jpgDSC01639.jpg
左:那智の滝と青岸渡寺の三重塔 右:熊野那智大社
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  1. 2010/12/23(木) 04:12:42|
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第12回「歩け、あるけ、アルケオロジー」

篆書の宋銭

 今回は各々が担当する話題についての中間発表をしました。ひさびさ講義室での活動です。
 トップバッターのU君は、五輪塔と石仏の頭について語りましたが、本やネットで集めた情報のみであったため、先生からは「それは考察の前提となる基礎情報」だから、もっとオリジナリティを高める必要があるとアドバイスされました。前週末、摩尼山の石仏を網羅的に写真撮影してきているので、そのデータベースづくりから始めることになりそうです。

 続いてTさんは眼鏡のレンズについて発表しました。Ⅰ区でどの場所で発掘されたか、レンズについて何故発表しようとしたか、眼鏡が日本にきた歴史など詳しく述べました。先生は、レンズを取り上げ調べるのは面白い、昭和のものだろうが、「奥の院」を訪ねた人が落としたものだろうけど、レンズにも流行があるから、「形」「色」「厚さ」「材料」などで年代がわかるだろうと言われます。

 3番目に、わたしが「こね鉢」について発表しましたが、こね鉢について情報が少なく、(自分の調べ方が悪かった)わけのわからない発表になってしまったため、2分も発表することができませんでした。先生からは、まず中世のこね鉢の写真や絵を沢山集めなければならないと指摘され、こね鉢をよく学んでから専門家の話を聞きに行こうと言われました。

 最後に、SさんがⅠ区で発掘した「割れた銭貨」にについて発表しました。先生から「歴史学のセンスがある」と絶賛された発表でした。まず参考文献から、江戸時代鎖国時の「貿易用の通貨」であるかもしれないと推測したのですが、貿易用通過は字体が行書で出土品と異なるので、さらに調べたところ、中世の宋銭とよく似ていることが分かってきました。こちらの字体は篆書で、出土品とよく似ています。先生によると、奈文研の考古学者さんも「宋銭だろう」と言われたそうです。これが宋のお金だとすると、もうひとつ別の出土品が気になります。Ⅱ区ででた青磁の香炉は宋からの輸入品で、15~16世紀のものだと言います。はたして、宋銭と宋の香炉が結びつくのかどうか、とても気になりますね。Sさんの発表は、本番で発表できるぐらいに完成度が高かったです。

 発表練習のあと、先輩がたから詳しい資料などを配布してもらい、今後の日程をみんなと話し合いました。その結果、1月11日に一旦みんなと集合し、冬休みでどこまで研究が進んだのかを話し合い、ここで本番までの最終日程を決める予定です。

 本番まで1ヶ月程度しかないのでさらに忙しくなりそうです。(情報システム学科T.S)


  1. 2010/12/22(水) 01:10:27|
  2. 史跡|
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山陰オフ会12月例会

101219山陰オフ01


 久しぶりに人前でギターを弾きましたよ・・・というよりも、練習させていただきました。山陰オフ会12月例会に六弦倶楽部のメンバー4人のほか、若いテクニシャン1名が参加されまして、最初のほうはずっとその若者が演奏する押尾コータローを聴いていました。いい音がするのね、まるでCDを聴いているようでした。それもそのはず、levanteさんが用意した「ピックアップ+システム+アンプ」がすごい威力を発揮したんです。生ギターの音をよく残して、なおかつ増幅する素晴らしい仕掛けに一同驚嘆。

 わたしは、VANギターを修復していただいてから、いちどもlevanteさんにお目にかかっていないので、とりあえず御礼しないといけないのと、VANギターの演奏を聴いていただきたい、と思い、1曲めは高田渡の「スキンシップ・ブルース」を演りましたね・・・これは嘘です。「スキンシップ・ブルース」は前夜、某店のカラオケで唱ったのですが、男にバカ受け、女は黙る、という最悪のパターンに陥ってしまい、さっさと店を御出た始末。オフ会で弾き語りしたのは「仕事探し」です(↓)。ほんと、人ごとではない自分がいる歌ですね。

 2曲めからはごらんのとおり(次頁参照)、サンバーストのセミアコに持ち替えました。六弦倶楽部、山陰オフ会を通じてはじめての登場です。made in Koreaのエピフォンで、みんな安物だろうという目でみてましたが、7~8年前に購入したときには11万円もしたんです。T楽器の店長とジャズギターの講師に相談しつつ買ったのでありまして、アンプも店長のお薦めであります。、当然のことながらギターとアンプの相性は良いはずなんですが、なにぶん小生が機械に弱く、またここ数年間、このギターを使っていなかったこともあり、まずlevanteさんから「弦高が高くなっている」というご指摘をうけ、さっそく直していただきました。

山陰オフ01 音もいい加減でして、自ら「ジム・ホールとかジョー・パスのような音色にしたい」と述べたところ、まわりのみなさんがアンプを触ってくださったり、トーンやヴォリュームのコントロールを指示してくださったり。おかげで、かなり柔らかい音になりました。それでも、levanteさんのコメント(山陰オフ会のサイト参照)によりますと、「セミアコはまだ新しい楽器の音がしていましたから、古い楽器のようにピックアップ出力が低下して丸くなるには少し時間がかかるかなとか思いました。シミュレーション・アンプ(エフェクター)などが有効のような気もします」とのことです。

[山陰オフ会12月例会]の続きを読む
  1. 2010/12/21(火) 00:17:38|
  2. 音楽|
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田和山蒼天

101219田和山01


 田和山遺跡火災住居再建工事の竣工検査にいってきました。この日が3回めの指導です。燻蒸中の失火で焼却された土屋根住居をできるだけ忠実に再現しようという工事ですから、そんなにやっかいではありません。じっさい、前2回の指導は半時間あまりで片づきました。

    「順調ですね」

 そのひと言でお終いです。しかし、今回は事前に送られてきたデジカメデータを目にした段階から「良くない」と感じ、いったん修正をメールで要求したのですが、修正後の写真をみても「あまり改良されていない」というのが正直な感想でした。そのコメントはもちろん市に連絡してあります。
 はたして、現地でみた復元建物には問題がある。なにが良くないのか、あまり詳しくは言えませんが、「越屋根」の造形と構造に注文をつけました。建築関係者以外の読者はよくわからないでしょうから、少し砕いて説明しますと、越屋根とは棟の上にのる煙抜き用の草屋根のことです。残念ながら「やり直し」です。茅葺き職人さんには申し訳ないですが、わたしの仕事は良い建築をつくることなので、駄目だと思うところはそのとおり伝達するしかありません。

 先週、松江では雪が降ったそうです。この日、田和山は快晴でした。3度訪れていずれも快晴だったので、わたしはきっと「晴れ男」なのでしょうね。とりわけ、この冬の日は雲ひとつありませんでした。麓の草葺き復元建物から山頂を望み、わたしはぽつりと口にしたのです。

  「ここは、ぼくらのパルテノンだね・・・」

 だれかが相づちを打ちました。

  「そうですね・・・古代のお城です」

101219田和山02


  1. 2010/12/20(月) 00:26:26|
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木綿街道のこと

木綿街道01町並み01


 島根県というのは不思議なところだ。益田出身の益田さんという大学の先輩が研究室にいた。そして、文学部には平田出身の平田さんという先輩がいて、いまは中国研究の大家になっている。益田に行ったことはないけれども、平田には毎年通っている。出雲一帯はわたしの高校訪問テリトリーであり、学科に平田高校の卒業生がいることもあって、9月下旬には平田高校にも必ず挨拶にうかがうのである。
 もちろんあっさり帰ってくるわけではない。平田と言えば、鰐淵寺だ。あの浮浪の滝は何度おとずれても気持ちよく、この夏は患者を同行して山道をあがろうと試みたのだが、だれがどう考えても無謀な行為であり、途中で引き返した。このように、平田と言えば鰐淵寺であり、鰐淵寺以外に文化財建造物を思い浮かべることすらできなかったのだが、このたび平田の旧市街地にある「木綿街道」にご招待いただいた。

木綿街道02川並み01


 素晴らしい町並みが残っている。土蔵造妻入の町家が軒を連ねており、埼玉の川越とか、九州北部の一連の重伝建地区の町並みを思い起こした。また、市街地は中世の寺内町のごとき環濠集落の様相を示しており、その濠にあたる小さな川はかつて宍道湖の護岸だったところをうめたてたものだという。護岸の石垣と倉の背面と樹木によって清々しい「川並み」が形成されている。すでに国交省系および経産省系の補助事業により、一部の町家の修景や改修がおこなわれており、今年度は国交省系の「住まいまちづくり担い手」事業に採択されていて、いろいろな経緯があってアドバイザに就任することになった。
 その第1回めのミーティングが旧造酒家で開かれた。熱のこもったミーティングで、地域住民の熱意がほとばしるように伝わってきた。いまここで何を話し合ったのかは言えない。ただ・・・国交省系・経産省系の補助事業によって町並み整備を続けていくのならば、わたしの出番は多くないだろうと思っていたのだが、どうやらもう少し積極的な関与が必要になってきたようだ。来年以降、研究室のスタッフが激減するので、どういう対応がふさわしいのか、学生たちと話しあわなければならない、と思っている。

 おそらく2月にワークショップが開催されるので、その際には学内外の何名かを連れていくことになるでしょう。

木綿街道01町並み02


  1. 2010/12/19(日) 04:19:19|
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ギター天国

 かつてエビチャンを知らないで大恥かいた経験がありますが、こんどは「プリキュア」だって。なんのこっちゃ、いったい!? プリキュアってなんなんですか??

 この月曜日、サンタさんになりまして、奈良の某研究所にピンクのブーツとボックスに入ったプレゼントをおいてまいりましたのです。したら、今日連絡があって、ピンクのプレゼントはある人妻の娘さんのものになったそうな。その理由は、絵柄が「可愛いプリキュア」だから。ほんま、いったいなんのこっちゃ・・・? 



    プリュキュアって、いったい何なのさ!?


 
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  1. 2010/12/18(土) 00:37:36|
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瓦礫の中から

 ちあきなおみのCD『戦後の光と影 瓦礫の中から』が届いた。文字通り、焼け跡闇市時代のど演歌集である。こんな、ど演歌をちあきは、演歌歌手として見事にうたい上げている。しかし、聴き手は、つまり私はど演歌を好まない。高いCDを買ったのだから、一度は通しで聴いてみるけれども、おそらく「カスバの女」と「星の流れに」以外の曲をこれから先の人生で聴く可能性は低いであろう。こういうコロンビア時代のアルバムに接すると、ちあきの心の葛藤がなんとなく透けてみえてくる(ような気がする)。演歌を唱わせても怖ろしく上手いけれども、ちあきは お・そ・ら・く こういう曲目を唱いたくなかったのではないか。『Three Hundred Club』との距離は無限大といってよいほどだ。
 好きな曲を唱いたいと心の底から思って苦しんでいたのか、あるいはまた、生業(演歌系)と趣味(洋楽系)の二つの途を両立しながら歩もうとしていたのか、わたしには知る由もない。米軍基地をまわり、ジャズとタップダンスで育ってきた少女は演歌に対してどのような心情をもっていたのか。本人の口から聞いてみたいような・・・謎は謎のままでよいような・・・まぁ、どうでもいいか・・・

 「カスバの女」には震えますね。「続き」に貼り付けた「朝日のあたる家」にも通じる悲しさが伝わってくる名唱です。


    涙じゃないのよ 浮気な雨に 

    ちょっぴりこの頬 濡らしただけさ

    ここは地の果て アルジェリア 

    どうせカスバの夜に咲く 
  
    酒場の女の うす情け 


    貴方もわたしも 買われた命 
 
    恋してみたとて 一夜の火花 

    明日はチュニスか モロッコか 

    泣いて手をふる うしろ影  

    外人部隊の白い服



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  1. 2010/12/17(金) 00:38:47|
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「文化的景観」報告書その1 刊行!

small_「文化的景観」報告書表紙


 加藤家住宅に引き続き、「文化的景観」報告書刊行のお知らせです。こちらは、2008年度鳥取県環境学術研究助成研究の成果です。本来ならば、2008~09年度の成果報告を一括して編集すべきですが、印刷経費が足りなくなってしまいまして、2008年度分の成果だけまず刊行することになりました。第Ⅱ部は部長、第Ⅲ部はキム姉の卒業論文をもとにしています。ただ、先生の「あとがき」によりますと、いちばん読んでほしいのは付録に収録した座談会「限界集落と文化的景観」の記録だそうです。たしかに、板井原住民のみなさんの肉声が輝いて聞こえてきます。
 これが前編とすれば、後編は「大山・隠岐・三徳山 -山岳信仰と文化的景観-」の報告書となります。前期から轟くんと竹蔵くんが編集作業を進めており、現在はヒノッキーがそれを受け継いでいます。こちらもお楽しみに! (部長)

   「文化的景観」の解釈と応用による地域保全手法の検討
-伝統的建造物群および史跡・名勝・天然記念物との相補性をめぐって-


目 次

 第Ⅰ部 「文化的景観」をめぐる動向と現状
  第 1章 「文化的景観」とは何か
  第 2章 文化的景観と史跡・名勝・重伝建
  第 3章 国選定「重要文化的景観」を往く

 第Ⅱ部 文化的景観としての中世山城と城下の町並み
  第 4章 「魔法の山」から
  第 5章 若桜町の歴史と景観
  第 6章 若桜町景観計画の提案
  第 7章 「魔法の山」へ

 第Ⅲ部 限界集落と文化的景観
  第 8章 限界集落と文化的景観
  第 9章 三朝町中津にみる人口と世帯の変化
  第10章 智頭町板井原の居住動態とまちおこし
  第11章 限界集落「板井原」の再生は可能か

 あとがき
 付録 板井原座談会・研究会記録
  付録1 座談会「限界集落と文化的景観」全記録
  付録2 第1回「文化的景観研究会」記録(抜粋)
  付録3 文化的景観保護制度 関係法令

図書情報

 書 名:「文化的景観」の解釈と応用による地域保全手法の検討
     -伝統的建造物群および史跡・名勝・天然記念物との相補性をめぐって-
      (課題番号B0807)
 発行者: 鳥取環境大学浅川研究室
 印刷所: 富士印刷株式会社
 発行日: 2010年3月31日
 ページ: 全78ページ

*ご希望の方には頒布いたしますので、ブログなどにご連絡ください。

  1. 2010/12/16(木) 00:03:43|
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『加藤家住宅の実験(Ⅱ)』刊行!

20101213_katoukebook.jpg


 お待たせしました。昨年度報告書4冊のうち2冊が刊行されました。1冊は文化的景観、もう1冊は加藤家住宅修復に係わる報告書です。難産でした。『出雲対大社の建築考古学』の出版と摩尼寺「奥の院」の発掘調査が編集・校正の高いたか~い障壁として立ちはだかったからです。まずは、2009年度とっとり「知の財産」事業と文化庁「NPOによる文化財建造物活用モデル事業」の成果報告書からお知らせします。前半が黒猫さんの卒論、後半がガードさんの卒業制作をもとにしています。(きっかわ)

  セルフビルド&ゼロエミションによる民家の持続的修復
        -加藤家住宅の実験(Ⅱ)-


目 次

 第1章 加藤家住宅の持続的修復と活用
 第2章 2009年度加藤家住宅修復プロジェクト
 第3章 修復トピックⅠ-石造カマドの復原
 第4章 修復トピックⅡ-建具の修復と軸部の補強
 第5章 公開ワークショップ-民家の活用としての修復
 第6章 内装修復をめぐる考察
 第7章 収穫・課題と展望

 あとがき
 鳥取古民家修復プロジェクト委員会 定款
 加藤家住宅修復に係る助成事業と報告書
 巻末付録「さおびきどっこ-古民家裏木戸の復元-」


図書情報

 書 名:2009年度 文化庁委託事業「NPOによる文化財建造物活用モデル事業」成果報告書
      セルフビルド&ゼロエミションによる民家の持続的修復
        -加藤家住宅の実験(Ⅱ)-
 発行者:鳥取古民家修復プロジェクト委員会
 印刷所:富士印刷株式会社
 発行日:2010年3月31日
 ページ:全58ページ

*ご希望の方には頒布いたしますので、ブログなどにご連絡ください。

  1. 2010/12/15(水) 20:43:42|
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遥かなまち、くらよし探訪(ⅩⅩⅡ)

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みぞれ降りしきるなか

 12月9日(木)。今日も13時集合で、プロ研4が始まりました。
 今回の活動は鳥取市内の昭和レトロな喫茶店をめぐり調査するということで、2軒の喫茶店に行きました。倉吉の看板建築に、昭和の要素をメインにしたレトロな喫茶店を設計するため、その参考になればと、この2軒のお店の方に創業や建物について、また、お店に置かれている家具や装飾などについてヒアリングなどをおこないました。調査は4年生2人、私たち2年の2人と、タクオさんの合計5人で行いました。お店の歴史、置いてある椅子・机、照明、衝立など、それぞれが自分の調査するものを決めてノートにまとめました。このデータをまとめて整理し、データベースとして成果にします。

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(以前訪れた「マルフクさん(S28~)」(写真左)と、上記写真の「メルヘンさん(S49~)」(写真右)を調査)

 喫茶の店主の方がたは優しく、インタビューすると詳しくお話ししてくださいました。お店のオススメメニューやこだわりのメニューについても熱く語っていただけました。
 現在、私たちの年代の若者は喫茶店離れしている傾向にあり、来店する人も少ないそうです。昔からの常連さんが大半だそう。私はコーヒー屋さんやカフェは好きでたまに行きますが、考えてみると、昔からある喫茶店はあまり行かないなぁと思いました。しかし今回2軒の喫茶店に行ってみて、落ち着いた雰囲気や昔懐かしい感じの喫茶店もいいなぁと思いました。鳥取はそれほど再開発が進んでおらず、昔からのレトロな飲食店がまだ残っているので、探してみたい気もします。

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(メルヘンさんこだわりの珈琲。「モカ」を使わない、特別なブレンドをしているそう)

 この日は昼休みから雪のようなみぞれが降っていて寒く、雷もゴロゴロ鳴っていたので、外での活動はすこし憂鬱でしたが、喫茶店の店内は温もりがあり、寒さを忘れて昭和の懐かしさやその歴史に浸ることができました。
 これから私たちが設計する喫茶店もそんな温もりや、懐かしさを感じられるようなものにしたいと思いました。(2年 N.N)

  1. 2010/12/14(火) 00:25:56|
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Three Hundreds Club

 ちあきなおみの『Three Hundreds Club』(1982年録音)が届いた。

 引っ越しの際に家中のCDプレーヤーがすべて動かなくなっていることを知った。1台は25年前、もう1台は12年前のオーディオ、さらにもう1台は数年前に仕入れた中国製の激安ラジカセである。忙しすぎて、それらの機械を使う余裕がなかったのだが、気付いたら、みな動かなくなっている。部屋が新しくなって、住み心地がよくなった。家事がたのしい。家にいる時間が自ずとながくなり、当然のことながら、新しいオーディオが必要だと思い始めた。そうだ、地デジを買ったポイントが溜まっている。そこで、カセットとiPodの併用できる製品に狙いを定めたのだが、クレジットカード更新の関係で、一昨日までそれを購入できないでいた。今それは居間に居座っていて、ちあきなおみの呟くような透明色のボーカルでリビングを霞ませている。
 
 ちあきあおみは得たいのしれない奥深さをもった歌手だ。この気怠く、ニュートラルな重みはなんなのだろう。昨夜の「ノルウェイの森」にも通じる不可解さがこの歌手のうた声にまとわりついている。『Three Hundreds Club』に収録された以下の12曲はいずれもアメリカの古い小唄であり、それをちあきは日本語訳で唱っている。訳詞の苦労は並大抵ではなかっただろうが、これだけの歌手にその言葉のかたまりを歌い上げてもらえるのだから、苦労も報われよう。

  1.恋に戯れ(恋人よおやすみ)  Good Night My Love
  2.追憶  Nevertheless
  3.横顔  That Old Feeling
  4.合鍵  When I Lost You
  5.朝な夕な  Under a Blanket of Blue
  6.恋は罪ね  You're My Everything
  7.夜に踊れば  I've Got a Crush on You
  8.日曜日は風  For Sentimental Reasons
  9.た・め・い・き  I Can't Help It
 10.夜更けの天使  The Lonesome Road
 11.愛の形見  Golden Earrings
 12.悪い夢  These Foolish Things

 あまり説明を書きたくない。「喝采」以来、ちあきあおみを支え続けた東元晃氏の短いライナーノーツが要を得ており、ここに引用させていただこう。

   ビリー・ホリディの生涯と、最後のステージをひとり芝居
   に仕立てた「レディ・レディ」を演じたちあきさんは、
   今もわたしの脳裏に鮮明に焼き付いている。
   同時に、あの舞台がそれまで特別に取り沙汰されなかった
   スウィングするフィーリングや、アフタービートのリズム感
   など、彼女の豊かなキャリアを浮き彫りにしたと思える。
   このアルバムはジャズと言うより、古いトーチソングや
   スタンダードなど、渋めの選曲を軽く歌いあげて、古き良き
   アメリカを表現しようと試みている。
   それにしても今回の曲目を、事もなげにとりあげる彼女の
   懐の深さには驚くばかりだ。曲のタイトルは知らなくても
   メロディは自然に聞き覚えてた、そんな少女時代に培われた
   財産と言うべきか・・・。

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  1. 2010/12/13(月) 01:42:14|
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ノルウェイの森(1)

 夕方からサティにでかけて映画をみようということになった。「ヤマト」が第1候補だが、「相棒」もわるくない。ワーナー・マイカル・シネマズのチケット売り場に行くと、「相棒」は年末からでまだ上映していなかった。代わって、「ノルウェイの森」の初演日であることを知った。
 もちろん「ノルウェイの森」をみた。ベトナム系フランス人の奇才、トラン・アン・ユン監督が村上春樹の原作をどのように仕上げているのか、気になってしかたなく、ヤマトなどどうでもよくなった。「夏至」や「青いパパイヤの香り」でわたしたちを唸らせたのは、ベトナムの日常世界を見事に映像化したその手腕だとわたしは思っている。日常的でありふれた生活空間を視覚芸術に昇華させるその凄腕が、日本を -厳密にいうならば、1960年代後半から70年代前半の日本を- どう映像化しているのか、ただそれを視たいと思った。
 村上春樹の原作本は読んだことがない。正直、村上春樹は得意な作家でない。ほんのわずかな数だけ短編集を読んだ。その短編集のなかに「ノルウェイの森」の習作を含んでいたように記憶している。わたしには「ノルウェイの森」が何を言いたいのか、よく分からない。おそらく「愛とはなにか」を問う小説なのだろう。愛に一途な女と愛よりも性に溺れる男が対照的に描かれているようにも思ったが、まったく的はずれのことをわたしは言っているのかもしれない。
 主人公の最後のひとこと、「ここはどこなんだ?」が耳に残っている。ニール・ヤングの2枚めのアルバムタイトル(Everybody Knows This Is Nowhere)をおもいおこした。たしか、「ここはどこでもない」と日本語訳されていたはずだ。
 あいかわらず監督は「水」を好んで描写する。人物の向こうの窓外に雨(や雪)が降っている。そういうシーンがなんどもあった。人間の心情を映し出す鏡のように、雨が降り、雪が舞う。泥沼のような蓮池をのたりのたりと泳ぐ鯉の描写にも懐かしさを覚えた。ベトナム難民の監督がハノイの日常を描くとき、わたしたち異文化の人間が視覚の外におしのけてしまう細部の要素が光と影の彩のなかにあらわれては消える。その映像をみるたびに、なんどもベトナムに足を運び「文化」を学んだはずの自分が恥ずかしくなったものだ。今回は立場が逆転している。監督が文化の外にいて、わたしたちはその内(なか)にいる。わたしたちは細部に至るまで、日本の -厳密にいうならば、1960年代後半から70年代前半の日本の- 生活風景を知っている。ベトナム系フランス人の監督はそれを体験していない。ただし、1960年代後半から70年代前半の日本もすでに遠い過去になっており、その時代を正確に映像化しようとする場合、一定の復原的操作が必要になる。大道具・小道具ともよくできていた。日本人スタッフのサポートを得ているのだろうが、時代考証は完璧だった。しかし、ベトナムの生活空間ほどのエロスを日本の生活空間に感じることができなかったのが残念だ。クロサワほか日本の監督も、生活世界の描写に長けており、おそらくトラン・アン・ユン監督はそれら先達の影響を受けているだろうから、日本人の先達たちを超えることができるのかどうか、あるいはできたのかどうかで悩んだにちがいない。かなうならば、舞台をベトナムに移し、ベトナム版の「ノルウェイの森」に変換してしまえば、監督の力量をもっと発揮できただろう。ただ、そうなると、村上春樹が映画化を許可しなかったかもしれない。
 もっと日常世界にこだわればよいと思った。たとえば、恋人が自殺したあとの日本海?の風景は不要ではなかったか(原作に含まれているのかどうかは知らない)。そう思うのは、わたしが日本人だからだろうか。「夏至」のハロン湾のような扱いで海を使っているのだが、日本海の断崖絶壁は船越英二の刑事物でみなれてしまっているから、非日常性の舞台としてもうひとつピンとこないところがある。日本海の洞窟に野宿して哀しみを晴らすのではなく、日常性のなかで哀しみを乗りこえるような設定のほうが小説の流れにあっているように思うのだが、外国人がみると、あのような景観こそがエキゾチックで良いのかもしれない。
 音楽はあいかわらず秀逸だ。映画の時代の音楽を安易に導入するのではなく、新たなカヴァーで聴かせてくれる。その媒体となるのがエレクトリック・ギターなのだが、演奏の方法はアコギそのもので、しかしエレキはアコギではないから、そのシンプルな音色に得たいのしれない色気が生まれている。まだみていないかたは、「夏至」のヴェルベット・アンダーグラウンドを思い起こしていただければ、と・・・

 良い映画だったと思う。客席には30人ばかりしかいなかった。しかし、みな映画好きなのだろう、物語が終わっても席をたつことなく、エンドロールをじっと眺めていた。

  1. 2010/12/12(日) 03:50:30|
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第11回「歩け、あるけ、アルケオロジー」

文献収集

 12月9日(木)。摩尼山で石仏めぐりをする予定でしたが、雨が降ったので、遺物についての情報収集ということで、まずは県立図書館に向かいました。しかし、木曜日が休館日だったことに気づき、市立図書館に行きました。はじめ自分たちで本を探したのですが、見つからなかったので、図書館の職員に探してもらい、次の本を借りました。

 ①日本石仏協会編『日本石仏図典』(国書刊行会)

 ②写壇太陽『石仏を撮る』PART2(研光新社)
 
 ③佐原真 ・W.シュタインハウス『土器の考古学』(学生社) 

 ④小林達雄『全国古代遺跡古墳鑑賞ガイド』(小学館)

①の『日本石仏図典』はかなり使えるとおもいます。五輪塔のこともバッチリ書いてありました。

 また、メガネの基礎知識として、

 ⑤藤田千枝『メガネのはなし』(さ・え・ら書房)

も借りました。この本も役にたつと信じています。(環境マネジメント学科U.S)

  1. 2010/12/11(土) 00:12:14|
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遥かなまち、くらよし探訪(ⅩⅩⅠ)

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温かい喫茶店の冬

 卒業まであとわずか、じわりじわりと追い込まれて12月8日(水)。今回も卒業研究のための調査に行ってまいりました。もう卒業まで時間がないのですが、いまのままでは前に進めません。この日は喫茶店と駄菓子屋の店舗調査、昭和の映画館についてのヒアリングをおこないました。
 まず、喫茶店調査。今回は2つの喫茶店、「チェリー」と「エイト」にお世話になりました。二店とも昭和30~40年代開店の純喫茶で、店内の雰囲気から人との係わりにいたるまで全てが温もりにあふれています。
 お店・建物についてのヒアリング、店内に置いてある品のデータシート作成をさせていただきましたが、コーヒー1杯でかなりご迷惑をおかけしました。でも、2店の方がたは私たちの質問攻めに嫌な顔ひとつせず答えて下さり、むしろ昔から知り合いだったかのように可愛がっていただいて……喫茶店っていいな。昭和レトロ街に喫茶店を提案したことは間違いではありませんでした。

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(左)純喫茶エイト (中)純喫茶チェリー (右)チェリーのマスター

 次に駄菓子屋の調査ですが、倉吉の西町にある「おもちゃのたいら」さんでお話を聞かせていただきました。たいらさんは大正2年創業のおもちゃ屋さんで、駄菓子を置き始めたのは5年前からとのこと。子どもたちや観光客の人たちに喜んでもらえるのは嬉しいけど、駄菓子だけではとてもやっていけないそうです。駄菓子屋が減っていったのも仕方ないのかもしれません。駄菓子屋を提案するうえで、建てた後の経営のことも考えなければとまた一つ課題が増えました。

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      おもちゃのたいら         大人気のウルトラマン人形 

 そして、調査の合間に係わった倉吉の皆さんに昭和の頃の映画館についてお聞かせいただきました。昭和30~40年代の皆さんの記憶に残っている映画館や思い出話は、昭和という時代を知らない私にも楽しいかぎりです。残り少ない時間でどれだけのものが作れるか分かりませんが、「映画館いいね。頑張ってね」と言ってくれた皆さんのためにも設計頑張ります。
 くらよしの打吹玉川地区は白壁土蔵群と赤瓦が有名ですが、一番の魅力は人の「温かさ」だと思います。日々卒研の〆切に追い込まれている今日この頃ですが、倉吉のみなさんに応援していただき、出来る限り頑張ろうと思います。皆さんも倉吉市打吹玉川地区に行かれた際は、少し観光地から遠くへ足を運んでみてください。きっと倉吉が好きになりますよ。(竹蔵)
  1. 2010/12/10(金) 00:46:28|
  2. 景観|
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遥かなまち、くらよし探訪(ⅩⅩ)

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重伝建地区拡張にともなう町並み整備についての意見交換会

 12月2日(木)。こんにちは。気がつけば、もう12月に入ってしまいました。時間が過ぎるのは本当に早いものです。卒業まであと4ヶ月弱しかないなんて…。

 さて、このたび「重伝建地区拡張にともなう町並み整備についての意見交換会」と題し、倉吉で行政関係者、地域住民、建築関係の皆様と意見交換会をおこないました。
 まちづくりを考えていくうえで、そこに実際に住んでおられる住民の方がた、まちづくりに実際に関っておられる行政や建築業界の方がたのご意見は、研究を進める上で不可欠なものです。関係者のみなさまに多大なご尽力いただき、今回の開催とあいなりました。
 以下が概要です。

 日時:2010年12月2日(木)14:30~
 会場:倉吉淀屋(旧牧田家住宅、倉吉市東岩倉町)
 参加者:17名(地域住民2名、建築関係者2名、行政関係者7名、大学関係者6名)
 次第:
  14:30 開会挨拶
   浅川 滋男(鳥取環境大学 建築・環境デザイン学科教授)
  14:45 研究中間発表
   1.吉川 友実「重要伝統的建造物群保存地区拡張にともなう町並み整備の課題と展望」
   2.竹内 信之「彼方へのとびら -倉吉『昭和レトロ街』構想」
  15:20 休憩
  15:30 意見交換
  16:30 閉会

 研究室からは、先生、タクオさん、プロジェクト研究4メンバー(2年生)2名、竹蔵くん、わたし、が参加しました。まずはわたしたち2人の研究中間発表を聞いていただいたあと、皆様の意見をうかがう、という進行です。「続き」から、各自の発表および意見交換会についてのレポートです。

[遥かなまち、くらよし探訪(ⅩⅩ)]の続きを読む
  1. 2010/12/09(木) 00:27:52|
  2. 講演・研究会|
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摩尼寺「奥の院」発掘調査日誌(ⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅨ)

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最後の仕事

 11月30日(火)。2日続けての埋め戻し作業も終了し、現場に残っているのは8月に設営したマーキーテントと4ヶ月使い続けた発掘道具だけ。この日、これらの道具を現場から撤収し持って降りることになりました。現場での作業はこれが最後になるでしょう。

 私とエアポートさん、部長さん、ナオキさんが先発で現場に上がり、マーキーテントを解体しながら、道具を持ち運びやすいように整頓していきました。撤収とは、テントの単管を運ぶということです。8月に道具を搬入したときに完全にバテていた私が不安がっているのを横目に、エアポートさんが単管を運ぶ準備を着々と進められていきました。
 まずは私とナオキさんで先陣を切って単管を運び出すと、下りの山道だからなのでしょうか、不安とは裏腹に足が軽快に動くではありませんか。順調に下っていくと1年生が合流し、現場へと向かっていきました。現場に残っている道具を撤収するには、先発のメンバーだけでは1人3~4往復しなければならないと思っていたのですが、心強い味方の登場です。単管の次は大量のブルーシートが強敵でして、1年生女子がブルーシートを運んでいたのですが、ズルズルと引きずりそうで、山道の難所である丸太の一本橋を無事に渡れるか心配でした。ブルーシートの運搬はナオキさんが奮闘し1人で7枚のブルーシートを運んでくれました。あまりの重さに苦しむナオキさん。1人で持ち過ぎでは?と思ったのですが、無事運びきってくださったおかげで、後続の負担がかなり減りましたよ。皆さんのお力添えがあってか、1人2往復という少ない回数で現場から道具を撤収できました。

IMG_3135.jpg IMG_3143.jpg IMG_3158.jpg

 予定時間より1時間半ほど早く道具を持って降りることができたのですが、すべての道具を大学に持ち帰るにはトラックが必要です。16時にタクオさんが大学からBDFトラックを借りてきてくださるとのことですので、しばらく道具とともに麓の門脇茶屋喫茶部で待たせていただきました。コーヒーをすすりながら待つこと30分。15時半になったところで、1年生は先に大学に戻っていきました。お疲れ様でした。そしてお水をすすりながら待つこと1時間。16時半になってようやくタクオさんが登場。ササっと荷物をトラックに積み込み、お世話になった門脇茶屋喫茶部ご夫婦に挨拶を済ませ、大学へと向かうのでした。

 私は道具がすべて撤収されてからの現場は直接見ていないので、後で写真をエアポートさんに見せてもらうと、現場はずいぶん伽藍とした雰囲気で、本当に何もなくなってしまったんですね。すっかり片付いた「奥の院」を見て、現場での作業が名残惜しいとも感じましたが、先に進まねばなりません。
 また次が始まります。(轟)【完】

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↑すべての道具が撤収された現場

*環境大学ホームページのTUESニュースで「摩尼寺奥の院公開検討会」が取り上げられました。
 ぜひご参照ください!

  1. 2010/12/08(水) 00:13:00|
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ちあきなおみ

 散髪屋でラヂオ番組を聴いていると、ちあきなおみの特集になった。
 すごい歌手ですね。

 「タップダンスを学び、米軍基地まわりをしていた」という紹介を聴いて、たちまち耳が点になった。まず「濡れた慕情」と「四つのお願い」が流れ、「星影の小径」のカバーになった。凄い歌手ですね。
 最後は「喝采」だった。

 帰宅してしらべたところ、ライブ盤とジャズボーカル盤がとくに評判が良いようなので、さっそく取り寄せることにした。
 ご存じではありましょうが、夫の郷治(宍戸錠の弟)が1992年に急逝したあと、いっさいの芸能活動を断って、表にでなくなっている。そのアーカイブがNHKでなんども放送されて絶賛をあび、ユーチューブのアクセス数も半端ではなく、毎年のようにCDの復刻版や全集版が出続けている。
 美空ひばりと似た履歴をもち、美空ひばり以来の偉大な女性歌手であると書いたら、高橋真理子や天童よしみはむっとするかもしれない。しかしながら、高橋や天童をもってしても、ちあきの世界に届くかどうか・・・
 
 歌が上手いから何でも唱えるのだろうか。上手なドラマーが、ロックだの、ジャズだのと分野にこだわらず、ただの歌伴でさえも見事にこなすように、ちあきというボーカリストは、ジャズだろうと、シャンソンだろうと、演歌だろうと、Jポップだろうと、なんでも上手く唱ってみせる。これこそがボーカリストではありませんか。
 この、なんというか、田舎の場末のスナックのママさん風の艶っぽさがたまりませんね。
 こういう歌手がいなくなってきた。
 あえてあげるとすれば、坂本冬美かな・・・



  1. 2010/12/07(火) 00:24:10|
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祝ヴィッセル残留!

 吉田孝行は男になった。
 フリューゲルス消滅のころを思い出した。もともと決定力のあるフォワードで、1998年12月27日の天皇杯準決勝、アントラーズ戦での活躍が目に焼き付いている。
 長居に2万人の観客があつまっていた。フリューゲルスは絶対絶命。天皇杯で敗れた瞬間、チームが解散することになっていたからである。しかも、その相手は、公式戦20連勝中のJリーグ覇者アントラーズ。鹿島はなんどか黄金期を経験しているが、このころがいちばん強かった。その最強のチームを牽引していたのがジョルジーニョだ。わたしは、今でもJリーグ史上最も優れた選手はジョルジーニョだと思っている。しかし、長居の冬空にジョルジーニョの姿はなかった。ジョルジーニョのいないアントラーズは精彩をかいた。すでにJリーグ覇者の力はなく、逆にフリューゲルスはチーム消滅の負の力を大きなエネルギーに変えていた。ジョルジーニョ不在の中盤を、サンパイオと山口素弘が自在にコントロールし、最前線で吉田が躍動した。たしかキックオフ早々、吉田が先取点を奪い、そのまま1-0でフリューゲルスが逃げ切ったように記憶している。
 吉田は日本代表に入ってもおかしくない逸材だと思っていたが、マリノス、トリニータでは準レギュラー扱いで、気がつけば、故郷(滝川二高)のヴィッセルに戻っている。いま退団云々でマスコミを騒がしている松田直樹と生年月日が同じというから、33歳か。サッカー選手としての終盤を迎えながらも、ペナルティエリア内での冷静さでは大久保(ケガで欠場)をしのぎ、リーダーシップという点では宮本(ベンチ入りしたが出場せず)をうわまわった。なんというか、吉田という男の「背中」をみているだけで、後方にいる若手たちは奮い立つといくか、うまく表現できないけれども、そんな男気を感じる選手である。

 それにしても、レッズの為体や、嘆かわしい。ホームの最終戦で、0-4の完敗。フロントは、いったいなんのためにフィンケという監督を招聘したのか。ドイツ人の監督に「ポゼッション・フットボール」を指導させるという発想自体に疑問を覚える。この2年間たいした成績をあげることなく、トゥーリオをはじめとする有力選手を解雇し、いったい何が残ったというのか。画面をみるかぎり、広島から獲得した柏木以外で日本の将来を担える選手はいない。柏木は、中村俊輔に似たボールの持ち方をするレフティで、攻撃に非凡なセンスをみせるが、中村と同じように、守備力やフィジカルに一抹の不安を残す。しかし、若いうちからボランチを任されていることで「守備」に対する意識が体に埋め込まれていくだろう。そうなれば、いずれ日本の中盤を支える一人になっていくにちがいない。
 柏木を中心としたチームの再建、早期の再建を祈念している。
 
  1. 2010/12/06(月) 01:09:11|
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第10回「歩け、あるけ、アルケオロジー」

 12月2日。発表に向けて発表内容など、今後の活動の予定を話し合いました。まず、発表内容と順番を4人で決めました。結果は以下の通りです。

  1)摩尼寺、奥の院について(歴史)
  2)発掘調査の概要
  3)調査成果
    ①「奥の院」で出土した銭貨について   
    ②「奥の院」で出土した五輪塔について
    ③「奥の院」で出土した眼鏡のレンズ
    ④「奥の院」で出土した石仏の頭
    ⑤「奥の院」で出土した中世のこね鉢
  4)まとめ

 発表内容は、これで決定ではなく資料の収集状況などによっては変更も有り得ます。それは4人が臨機応変に決めていきたいと思います。

 資料の収集方法については、県立図書館、市立図書館、環大のメディアセンター、鳥大の図書館、県立博物館で文献などを各自で探し、持ちよることになりました。また、必要に応じてプロ研の時間を利用して、資料を探しに行くということにしました。インターネットの資料では文献と比べると根拠が不十分なので、基礎知識を身につけるために利用することになりました。
 資料は4人で分担をして収集することにしました。担当は以下の通りです。

  ・眼鏡のレンズ(田中)
  ・銭貨(佐々木)
  ・中世のこね鉢(立川)
  ・石仏の頭、五輪塔(上田)

 冬休みが始まると、4人で集まることがなかなか難しくなるので資料を集めるのは冬休みが始まるまでにすませようと決めました。現場が終わって一休みしているヒマはありません。発表に向けて4人一丸となって頑張りたいです!

  1. 2010/12/05(日) 22:00:38|
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釜山の昭和 -慶州巡礼のあとに

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潮風の看板建築

 慶州巡礼を終えた一行は釜山で一泊しました。11月1日(月)、最終日の天気は、見事な快晴でした。この日はホテル近くのお店で軽く朝食をとったあと、近くの漁港市場へ。
 見学したのは「チャガルチ市場」のうちの一角、「乾魚物都売市場」、韓国語では「コンオムルトメシジャン」と呼びます。一般に、釜山最大の繁華街である南浦洞(ナンポドン)から忠武洞(チュンムドン)に至る海岸一帯をチャガルチ市場と言い、コンオムルトメシジャンはその東側に位置しています。
 地下道を通って南浦洞駅出口を出たすぐそこには、もう潮風の香り。市場は駅を出て目の前にあります。そしてわたしたちは見覚えのある横顔に出合いました……
 20101101_1.jpg 20101101_2.jpg
 (左:建物側面を撮ったもの  右:左側の2棟目が左写真の建物正面)

 それは、日本の町家です。この界隈にはなんと、70年以上前に建てられた日本の町家(店舗併用住宅)が現存しているのです。悪くいえば、日本帝国主義の遺産ですね。
 上記写真の建物は日本でいう「看板建築」(建物正面を近代的な構造物・意匠で覆い町家の外観を隠したもの)で、正面からはわかりませんが、側面(上の右写真)から見ると町家の面影を確認できます。海を越えた外国の地で日本の町家を、のみならず看板建築まで見られたということにとても驚かされてしまいました。
 下の左写真が日本の看板建築(現在私が卒業研究で取り組んでいる倉吉市の看板建築)写真です。見比べてみてください。
 20101101_4.jpg 20101101_3.jpg
 (左:倉吉市旧陣屋町の看板建築  右:市場で見つけた看板建築)
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  1. 2010/12/04(土) 00:47:02|
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摩尼寺「奥の院」発掘調査日誌(ⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅧ)  

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発掘現場埋め戻し!

 公開検討会翌日の11月28日(日)から現場の埋め戻しに着手しました。4ヶ月近く苦労して調査した「奥の院」が、あっさり埋まっていくのを見ると、なんだか切なくなりますね。埋め戻しには、摩尼寺近隣住民の方々にも協力を呼びかけ、学生と一緒に作業しました。

 28日は計12名が参加。まずはブルーシートをはがし、柱間グリッドを示したビニール紐やトレンチの縄張りをはずしていきました。次に土嚢作り。史跡レベルの埋め戻しでは、遺構面に砂をまくそうですが、今回の現場に砂を運ぶの不可能です。県市教委の指導もあり、土嚢で養生することになりました。また、埋め戻しの作業と併行して、自然科学分析のサンプル採取をおこないました。この日採取したサンプルは「花粉分析」と「岩石標本」の資料です(C14年代測定の炭は既に採取済み)。
 以前、市教委のKさんにサンプル採取の指導を受けたので、それにしたがって主要箇所の土を採取していきました。花粉分析についてはフィルムケースを使用し、まずはⅡ区から採取。採取箇所は、深掘トレンチ2ヵ所、下層井戸遺構、溝状遺構、長形大土坑、C区斜面突出トレンチの計6箇所。その後、Ⅲ区、Ⅳ区、Ⅰ区深掘トレンチで採取しました。岩石標本も、凝灰岩盤、礎石、岩陰、安山岩盤、自然石などの一部を採取。
 その間も、埋め戻しは順調に進み、28日の作業でⅡ区のA区・B区L字トレンチ、長形大土坑が埋まり、Ⅲ区、Ⅳ区は元通りに。そうこうしていると午後4時すぎになって、父兄懇談会に出ておられた先生がある父兄をつれてあがってこられました。ヒノッキーのお母様です。なんでも、娘が山にいるとの情報にとても不安をかられたそうで、心配のあげく先生についていくことに決めたのだとか。最後に、井戸跡に「井戸神の息抜き」用の竹をさし、線香をあげました。麦積山で買ってきた大きな線香を井戸まわりの地面につきさして、焼香したのです。

IMG_3035.jpg
↑28日の埋め戻しはここまで(白色は土嚢)。
[摩尼寺「奥の院」発掘調査日誌(ⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅧ)  ]の続きを読む
  1. 2010/12/03(金) 00:06:21|
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『邪馬台国 -九州と近畿』 展

yamatai


 大阪府立弥生文化博物館より『邪馬台国 -九州と近畿』展の図録が送られてきました。大阪府立弥生文化博物館と九州国立博物館が連携して展覧会を開催中でして、研究室にも纏向遺跡大型建物復元CGの転載依頼が数ヶ月前にありました。先生は少々悩まれていました。「復元建物」がこれまでいろいろトラブルの種になってきた経緯があり、基本的に復元図は他者に提供しないことを原則としておられるからです。じっさい、青谷上寺地の復元CGも、鳥取県・市の依頼以外は転載を許可されておりません。しかし、本図録には、纏向遺跡に関わる2枚の復元CGが掲載されています。『季刊邪馬台国』のように悪質な特集でもなく、学術的に重要な展示だと判断されたのかもしれません。ちなみに、復元CG2枚は図録の第2章第3節「女王をとりまく社会-近畿-」(p.50-51)に掲載されています。
 『邪馬台国』展は大阪・福岡で時期を分けて開催されます。現在、大阪府立弥生文化博物館で展示中であり、九州国立博物館では年明けからとなっています。以下に展覧会の概要を掲載いたします。鳥取に住む自分たちが行ける余裕はおそらくないでしょうが、展覧会の成功を心よりお祈り申し上げます。(タクオ)

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 展覧会 『邪馬台国 九州と近畿』  
    主催:大阪府立弥生文化博物館、九州国立博物館、朝日新聞社

 大阪会場:大阪府立弥生文化博物館 特別展示室
    会期:平成22年10月9日~12月12日

 九州会場:九州国立博物館 4階文化交流展室関連第3室
    会期:平成23年1月1日~2月20日

掲載箇所
↑図録のCG掲載ヶ所です

  1. 2010/12/02(木) 00:25:28|
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