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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

六郷満山の中心と周辺(Ⅵ)

01元宮八幡まがい仏01全景


「いわや」と「かけや」

 国東半島六郷満山諸寺院の「奥の院」を駆けめぐりながら、案内の看板をなんどかみるにつけ、「岩屋(いわや)」と「掛屋(かけや)」という言葉が対比的に、そして、ごく自然に使われていることを知った。さすが磨崖仏と懸造仏堂の本場だけのことはある。
 「いわや」という概念は山陰でも常用されている。若桜の不動院岩屋堂の「岩屋」がそれであり、柿原の窟堂も「いわやどう」と読む。絶壁に掘り込んだ横穴を仏堂とする場合、その全体を「いわや」と呼ぶわけだ。一方、「かけや」という言葉については、管見のかぎり、鳥取や島根で聞いたことがない。しかし、それが懸造の建物をさすのはあきらかであり、日本語として、「かけや」以上にふさわしい用語を探すのも難しいだろう。「いわや」と「かけや」はそれぞれが独立した概念というよりも、複合的に意識されたものであるのもほぼ間違いない。「いわや」を掘って仏像を祀る場合、その正面に「かけや」をつくって風雨を避け、かけやのなかで人びとは礼拝する。それが六郷満山をはじめとする大分の山岳寺院「奥の院」ではあたりまえになっている。わずか3泊4日の大分視察ではあったが、その事実を知ったことの意味は大きい。山陰では「岩屋の前には掛屋があったのだろう」という推定の域をでないのだけれども、大分では「岩屋の前には掛屋があった」と言い切ってもよいのである。
 ここでは、あと4つの例を紹介しておこう。

01元宮八幡まがい仏02痕跡


1.元宮磨崖仏

 豊後高田市の重要文化的景観「田染荘小崎」に近い字(あざ)真中に境内を構える元宮八幡神社(田染八幡神社)に隣接する小さな磨崖仏群(国史跡↑↑)。絶壁をわずかに掘って仏龕とし、不動明王を中心にして、向かって右に矜羯羅(こんがら)童子と毘沙門天、左に持国天と地蔵菩薩を配する。矜羯羅童子は不動明王の脇侍である。いまは欠落してしまっているが、不動明王と持国天のあいだにも、不動明王の脇侍「制咤迦(せいたか)王子」の小像がかつて存在した。石仏は室町時代の作と推定されている。2001年に覆屋をかけているが、これはあくまで現代のものであり。崖面にはほぼ左右対称に仏像群の上下に木材仕口穴の痕跡を残す(↑)。仏像上部の仕口痕跡が水平ではなく、上下しているので、「掛屋」は小さな入母屋もしくは寄棟を半割したものであった可能性が高いであろう。

02天念寺01講堂・神社01


2.長岩屋山天念寺

 豊後高田市長岩屋の絶壁に沿ってたつ寺院と神社の複合施設。他の多くの寺院と同様、養老二年(718)仁門菩薩の開基と伝える。中央に身濯神社(みそそぎじんじゃ、旧六所権現)を置き、向かって左に茅葺き妻入の講堂掛屋、右に本堂岩屋を配する。
 
02天念寺02川中不動尊02看板 絶壁の背後には「天念寺耶馬」とよばれる奇岩秀峰が連なり、「峯入り」と称する山岳修練の最も重要な寺院であり、かつては十二坊を備えた。岩屋堂形式の講堂では、旧正月七日に赤鬼と黒鬼が松明を持って暴れまわり、国家安泰・五穀豊穣・万民快楽を祈願する「修正鬼会」が開かれる。右手の本堂岩屋には主尊に薬師如来座像、脇侍に月光菩薩立像、吉祥天立像などの平安仏を安置する。ここにも、当然、掛屋が存在したであろう。道路を挟んで正面を流れる長岩屋川の中には「川中不動」と呼ばれる磨崖仏もある。大雨のたびに氾濫を繰り返してきた長岩屋川の水害除けを祈願して江戸時代中期に刻まれたものという。川中不動尊は修復中、講堂・神社も屋根葺替えや修理の最中であった。
  参考サイト:http://blogs.yahoo.co.jp/ruriironohahasama/15529161.html 

02天念寺02川中不動尊01
↑川中不動尊 ↓天念寺本堂
02天念寺03本堂01

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  1. 2011/01/05(水) 02:46:22|
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