「日本代表 vs Jリーグ選抜」の試合をみて、サッカーに係わってきたことを誇らしく思った。とりわけカズと俊輔の活躍に心を動かされた。トゥーリオも川口も・・・みな、ありがとう。
サッカーは素晴らしい。否、スポーツは素晴らしい・・・
そうこうしていると、「
ザック日本vsイタリア、スペイン浮上 南米選手権代替案」というニュースが飛び込んできた。開幕が延期され、南米選手権開催期の7月にJリーグの試合をしなければならなくなったことで、代表クラスの選手を派遣できないからという。
その前には、南米選手権の参加チームを「U-22と海外組の融合にする」という案もでていた。
難しい問題だと思う。サッカー協会は苦慮していることだろう。
ただ、・・・サッカーで最も日本人を勇気づけるのは日本代表チームであることも忘れないでほしい。
普段はサッカーを観戦しない人でも、日本代表の試合だけはみる。
奮い立つ自分がそこにいる。
世界チャンピオン、スペインとの親善試合は、いつでもできる。
南米選手権への参加は滅多にないこと。
南米で試合するときの南米チームはものすごく強い。
これ以上の修行の場もなかなかないのではないか。
「U-22と海外組の融合」案は、魅力的だ。
南米選手権を棄権しないでほしい。
日本代表の奮闘で、日本を勇気づけください。
[南米選手権について]の続きを読む
- 2011/03/31(木) 12:10:43|
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海の杭上住居群 ホテルに近い島の浜辺にマングローブの禿げ沼がひろがっていた。
ミクロネシアのトラック諸島、ヤップ諸島、パラウ諸島で調査していた1980~82年、海岸線のあちこちにマングローブ林をみた。沼地からタコ足のように根っこが隆起し、樹幹を押し上げるその姿をみて、まるで宇宙の生物だな、と思ったものである。その沼地には、マングローブ蟹が棲息しており、ときに幹を這い上がる。この蟹が美味い。
マングローブ林の問題は、しばしば「コモンズの悲劇」の代名詞のように扱われてきた。それは、島民の共有財産であり、特定の人物の所有物ではない。ミクロネシアにおいて、マングローブは有用な建築材料であった。硬木で、垂木に使う。梁や桁などの水平材には軟らかい材が適しており、パンノキを使うのだが、屋根葺材ののる垂木は硬いほうがよいのである。垂木は細い材ではあるけれども、強靱でなければならない。簡単に折れてもらっては困る。垂木に使うから、マングローブをみさかいなく伐採し、ために群生林が禿げ沼になった、とは考えにくい。すでに、近隣の住居は伝統的な構法を放棄し、新しいスタイルに変わっており、垂木にマングローブを用いているようにはみえない。ひどく不安になった。ひょっとしたら、日本人の仕業なのかもしれない。マングローブは「炭」の材料として最高級のものであり、東南アジアの各地で日本の業者が乱伐したという報道を耳にしたような記憶が蘇ってきたからだ。

禿げ沼と化したマングローブ林のむこうに、水上住居の群れがみえた。本来ならば、マングローブ林に集落が囲まれていたのだろうが、いまは屋敷林がなくなって、道路からでも水上集落がみえる。遠目からは筏住居(floating house)のようにもみえたが、近づいてみると、それは杭上住居(piled dwelling)であった。海岸線だけでなく、沖合にも、少数ながら杭上住居の一群が横並びになって建っている。これらの住居群は海岸の陸地にあるのではなく、あくまで水上に建つものであり、環境に適応しているようで不安な点がないでもない。
ハロン湾(ベトナム)やトンレサップ湖(カンボジア)の水上集落では、家船か筏住居が基本的な居住施設である。船や筏は、水位(潮位)の変化に適応しやすい。たとえば、トンレサップの場合、乾期と雨期で水位が10m以上上下するけれども、船や筏に住んでいれば、その上下動に十分対応できる。杭上集落の場合、水位が床面を超えないという前提がない限り、居住施設にはなりえないであろう。水位が床よりも高くなるということは、すなわち洪水や津波と同じ災害であって、そこは住む場所としての条件を失う。マクタン島の場合、床下の杭がそれほど高いとは思えなかった。おそらく2mあまりであろう。この程度の高さで済むということは、潮の満ち引きにそれほど大きなレベル差がないということであろう。
[マクタン通信(Ⅳ)]の続きを読む
- 2011/03/30(水) 23:10:35|
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はやくも実績報告のシーズンになってしまいました。第1弾をお届けします。
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鳥取県環境学術研究振興事業費補助金研究実績報告課題番号 B1004
課題題目 倉吉重要伝統的建造物群保存地区拡大にむけての実践的研究
―看板建築の復原・活用と「昭和レトロ街」構想-
倉吉の打吹玉川重要伝統的建造物群保存地区(以下「重伝建地区」)の面積は4.7haにすぎなかったが、昨年度の文化庁答申で本町通商店街の一部が追加選定される運びとなった。2007年7月までアーケードがかかっていた本町通り商店街を始め、倉吉の旧陣屋町エリアには、町家の外側に箱物の構造物を被せて鉄筋コンクリートの商店にみせる「看板建築」がひろい範囲に現存している。今後、重伝建エリアを拡大・整備していくにあたって、看板建築の修景が必要不可欠になってきている。看板建築の修景は、さほどやっかいなものではない。2006年度の調査では、看板建築2階の箱物裏側に町家の外観意匠が完全に保存されていることが判明しており、その箱物を取り除き、1階部分の建具の意匠や壁の材料を調整することで、伝統的な町家の外観を獲得できるのである。
以上の状況を鑑み、研究申請の段階では、看板建築の修景をシミュレーションとしてではなく、実際の建物を対象に実施することを想定していた。しかしながら、倉吉市教委のご尽力にも拘わらず、この修景実験に同意される看板建築の所有者がついにあらわれなかった。このため、看板建築の修景については、重伝建地区に現存するM邸の実測調査に基づき、その外観の復原的修景と「喫茶店」へのコンバージョンを図化するにとどまった。ただし、M邸の所有者は、この再生計画に関心を示し、実現の可能性を示唆している。
すでに述べたように、看板建築を町家の外観に復旧する修景事業は必要不可欠なものではあるけれども、修景事業が進んで町並み景観が向上しても、定住者・観光客が減少し、町が活力を失ったのでは何の意味もない。近年、倉吉では、谷口ジローの傑作『遙かな町へ』(1998)に描かれたスポット巡りが観光事業化しているが、復原的な修景事業が進むと、『遙かな町へ』で描かれた昭和の風景が失われてしまう。本研究では、「歴史の重層性」を表現するオーセンティックな町並み保全のあり方として、むしろ「昭和戦後」という時代を積極的に評価し、一部の看板建築はあえて復原的修景ではなく、現状保存の対象とするとともに、重伝建拡張エリアのなかで昭和の要素を集中的に集めた「昭和レトロ街」を構想することにした。「昭和レトロ街」構想には2案ある。A案は本町通り商店街の一部に短いアーケードを再建して、駄菓子屋・鯛焼き屋・貸本屋・旅館・喫茶店・映画館などを集中させ、その外観を昭和のグッズでデコレートするものである。一方、B案は通りに面する町並み景観は重伝建の制度を遵守して整備するが、それと直交する小路と駐車場を利用して生活用品(八百屋・魚屋・雑貨屋など)の店だなを集めた「横丁」を形成するものである。
2010年12月2日には淀屋(旧牧田家住宅)で
中間報告会、2011年3月2日にはくら用心で
成果報告会を催した。中間報告会では20名以上、成果報告会には40名以上の参加者があり、活発な議論が交わされた。「昭和レトロ街」構想については、実現可能性を疑う声もあったが、どちらかといえば、B案を支持する意見が多かった。
[2010年度研究成果実績報告(1)]の続きを読む
- 2011/03/29(火) 23:07:22|
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気分転換にアクセス・ランキングを覗いてみたところ、27日に急上昇していることが判明した。
asaさんのランキング
学校・教育 8位 (昨日:26位) / 18944人中
学校 3位 (昨日:8位) / 2871人中
更新日時:2011/03/27 04:37
一昨年まで順調に伸びてきたLablogへのアクセスに昨年から翳りがみえ始めた。とくに摩尼寺奥の院の発掘調査記録を続けた4ヶ月のあいだにアクセスは右方下がりになっていった。学生諸君のがんばりは目をみはるものであったけれども、読者としてみれば、ああいう記録には飽きがくるだろう。昨年末から、自ら筆をとる日が増え、若干アクセスは回復の兆しを見せ始めていたものの、いまや30位代が定位置で、良くても20位代、悪くなると50位代まで落ちてしまう。
それが、突然、8位まで上昇したのである。データを遡ると、昨年3月30日に同じ8位を記録(↓)して以来の一桁返り咲きであり、驚いた(かつては20位以内の常連で、最高6位まで上り詰めたことが何度もあったのにね・・・)。
asaさんのランキング
学校・教育 8位 (昨日:15位) / 13803人中
学校 1位 (昨日:2位) / 1434人中
更新日時:2010/03/30 04:21
受験シーズンの去ったことが原因なのだろうと推測しつつ、アクセス状況をチェックすると、3月26日(土) のみ、ユニークアクセス(UA)が396、トータルアクセス(TA)が 712 という突出した値を記録していることが分かった。平常の2倍です。その理由は「検索キーワード」に鮮明にあらわれている。1位から5位まで、以下のようになっているのだ。
[蘇るシーギリアロック]の続きを読む
- 2011/03/28(月) 23:18:29|
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スロージョギング 帰国して一夜あけ、2週間ごとの定期検診のためホームドクターに診てもらったところ、血圧があがっている。移動の翌日は睡眠不足で、たいていこういう症状になる。走れば下がる。いつも、そう思う。
今回、ドクターには特別のお願いがあった。年度内に「健康診断」をしなければならないのだが、 猶予は数日しか残されていない。もはや鳥取での診断は不可能であり、ドクターにすがるしかなくなったのである。健康診断は、28日の午後に決まった。2日後だ。
ともかく、走るしかない。思いのほか冷え込んだ夕刻、1時間コースをスロージョギングした。前半はきつかった。とくに上り坂で喘いだ。息苦しい。後半、楽になった。走り終えたあとの幸福感は相変わらず。体重計にのる。予想以上に低い値がでた。これに喜んでビールを飲んだりしてはいけない。カロリー・ゼロのコークとウーロン茶、そして、炭酸ソーダを昼に買い込んでおいた。この3種類の飲料しか飲まないと決めている。健康診断が終わるまで、そうしてみて、それ以後もそうできればなお良いだろう。

じつは、マクタンでも似たような生活をしていた。上海では、昼食時でもビールを飲むことがあった。マクタンでは「ライト・コーク」にした。コークに飽きると、カラマンシを飲んだ。レモン味のきついアイスティである。気温は摂氏33度。冷たいコークやカラマンシが体に染みわたる。
そして、走った。マクタン島とシヴォ島をつなぐマルセロ大橋の歩道を駆けた。走りたくて走ったのではない。島の沿岸に群集する漁民の杭上住居集落を俯瞰する写真を撮りたかったのである。橋の長さは1キロ以上ある。ガイドのドンさんは歩き、わたしは走った。走っては停まり、停まってはシャッターを切る。そして、また走る。しばらくして停まり、また写真を撮る。遠くにひろがる塩田(↑↑)、岸辺に並ぶダブル・アウトリガーのカヌー、海峡をぬける汽船、そして水上の高床住居群(↓)。それらをアングルを変えながら撮影していくのである。ドンさんはゆっくり歩いていく。わたしは走って停まり、また走る。そうして、二人はほぼ同時にマルセロ大橋を渡りきった。
爽快な気持ちで充たされ、旅客とガイドの間に信頼関係が芽生えた瞬間であった。
[マクタン通信(Ⅲ)]の続きを読む
- 2011/03/27(日) 23:23:18|
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イントラムノス 時間が前後してしまうが、24日、マニラまでもどって1泊した。
マニラ空港に迎えにきたガイドは、日系2世の女性だった。日本語が非常に上手い。旅行社の正職員で、ユニフォームらしき赤いポロシャツを着ている。年齢は、おそらくわたしとあまり変わらないだろう。フィリピンの首都は健全だと思った。
ホテルに移動するバスのなかで、どんな寝室を希望するか訊かれた。ツインでも、ダブルでも、セミダブルでも、なんでもご用意できますが、と彼女は問う。いや、一人旅ですから、どんな部屋でもかまいません、と答えた。これは伏線ともいうべき問答である。
とても豪華なホテルにチェックインし、あてがわれた部屋は17階のダブルだった。昨日までのツインのコテージとは雲泥の差がある。そこで、女性ガイドは真剣な眼差しに変わった。
「置屋のようなところがあるんです」
まさか、と思った。そういう場所があることは知っている。しかし、女性のガイドからこの種のお誘いをうけるとは思いもよらなかったのである。
「あなたは女性ですから、日本の男が置屋に行って妓を買う手助け
をするのは嫌なんじゃないですか?」
「いえ、これは仕事ですから。うちの会社では、若い女子社員も
そういう仕事をちゃんとしています。」
力強い言いようであった。「仕事」という言葉から分かるように、置屋に入る代金の何パーセントかが旅行社に流れる仕組みになっているのは間違いないだろう。代金は置屋に1万円、妓のチップに5千円だという。

じつは、後日詳報することになるけれども、マクタン島のファクトリーでギターを購入してしまい、すっかり懐が寒くなっていた。
「すっからかんなんですよ・・・からっぽ、です」
「なにが、からっぽなんですか?」
「財布がですよ・・・」
置屋の件は丁重にお断りした。ガイドは、瞬時、不機嫌な顔になった。例外的な日本人だと思ったにちがいない。
『地球の歩き方』に、この手のことで、とんでもない被害を受けた例がいくつも出ている。やっかいなことに、ヤクザと警察ができているというのだ。これはガイドも認めた。妓を部屋に連れて帰り、ことに及ぼうとした瞬間、警察官が部屋に入ってきて、買春防止法をふりかざし、20万ペソを請求されたと書いてある。これは極端な例かもしれないが、最後の最後に余計なことをして、マクタン・ビーチの想い出を台無しにしたくない。
しばらくシエスタをして、夕方からイントラムノス(後出)をめざした。
ホテルを出るとき、何名かの白髪の日本人が小柄のフィリピン女性を連れてミニバスから降りてきた。みな堂々とホテルに入ってゆく。なるほど、これか。置屋帰りの殿様たちというわけだ。伽をする女性と、夕食から朝食まで時間をともにするのである。わたしが2時間ばかり前の誘いに同意していたら、この一行と同じバスに乗っていたのかもしれない。ちょっぴり羨ましいと思う一方で、移動方向が真反対である自分に満足を覚えていた。
[マクタン通信(Ⅱ)]の続きを読む
- 2011/03/26(土) 23:37:05|
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摩天楼のアイラ 周荘から日帰りツアーのバスで上海体育館まで戻った後、浦東新区の上海環球金融中心をめざした。「垂直の複合都市」と呼ばれる地上101階、高さ492mのビルである。高さでは世界第2位、展望台は世界第1位という超高層ビル。六本木ヒルズのディベロッパーである森ビルグループの手になる摩天楼で、「上海ヒルズ」の異名をもつ。ビルの79階から93階が「パークハイアット上海」というホテルになっていて、そのホテルの上に豪勢なラウンジがある。たぶん3階分を吹き抜けにしているはずだ。そこから、かの東方明珠塔(468m)が足下に見下ろせる。夜景はごらんのとおり(↑)。帰国後、そのラウンジで食事したという話をしたら、怪訝な目つきで「一人で行ったんですか?」と問われた。二度問われ、いずれも「えぇ」と答えた。えぇ、真っ赤な嘘でございます。
料理がそれほどおいしいわけではない。味覚だけならば、和平賓館や上海老飯店に遠くおよばず、周荘の手作り餃子にも如かない(高価な料理を注文しなかったからかもしれないが、周荘の餃子はとても人間らしい味がした)。そもそも、ここは食事そのものを楽しむ場所ではない。食後の酒精をゆったりと味わい、その次の時間の準備ともいうべき会話に戯れるところであろう。その点において、ショットバーの超豪華バージョンであり、たしかに一人で行くにはあまりにも惜しく、一人で行っても場違いなスポットではある。
前夜、村上春樹の『もし僕らの言葉がウィスキーであったなら』(2002)を読んだばかりだったので、頭はシングル・モルト・ウィスキーのことでいっぱいになっている。ビバレージ・メニューのなかにアイラ(Islay)を探した。アイラは、スコットランドのニューヘブリデーズ諸島とアイルランドのあいだに浮かぶ小島で、その島の地酒が世界のスコッチ・ファンを唸らせている。シーバスとか、カティサークとか、ジョニーウォーカーなどのスコッチは、樽買いした地酒をブレンドしたものであり、日本酒でいえば、月桂冠のようなものだろう。地酒特有の癖がなく、コカコーラのように、だれでも飲める普遍化した風味をもつ反面、その癖がないために物足りなさが残る。「風土」の味がしないのである。日本酒愛好家が新潟の地酒を偏愛したり、焼酎の愛好家が薩摩のあまり知られていない芋焼酎に執着するように、スコッチの愛飲家は、アイラのシングル・モルト、すなわちブレンドされていない地酒を好むのである。
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- 2011/03/25(金) 23:25:18|
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酔って候 夕暮れのビーチをひとり眺めていて、奇妙な感傷におそわれた。一人旅をしていると、まれにこういう心情にさいなまれる。
スペイン支配時代のコロニアル建築や海浜漁労民の杭上住居群をみてまわり、午後4時ころホテルに戻った。
コテージの前にひろがるビーチでひと泳ぎし、シャワーを浴びようと思っていたのだが、ベッドに横たわると、そのまま眠りに落ち、目覚めたら陽が暮れている。コテージ前の通路にかかる庇の下のベンチに腰掛け、椰子の向こうにひろがる海をみていて、その感傷が深くおおきくひろがり始めた。
ここ数日、『酔って候』から『最後の将軍』を読み進めている。
幕末に「四賢候」と呼ばれる藩主がいた。土佐の山内容堂、薩摩の島津久光、宇和島の伊達宗城、越前の松平春獄の4藩主である(薩摩の藩主は茂光だが、実権は父の久光が握っていた)。徳川慶喜はしばしばこの4候を招き、幕府勢力の最重要会議をもった。「攘夷」に揺れる当時の日本を如何に導いていくのかが、その課題であり、慶喜を含む5名は自分たちが新しい日本の方向を決めるのだと思いこんでいた。否、正確には、慶喜をのぞく4候はそう信じていた。司馬遼太郎の理解が正しいならば、慶喜は将軍職に執着がなく、龍馬の提案をまつまでもなく、「大政奉還」の用意があったという。なにより「朝敵」の汚名を着せられることを厭うたのである。権力を放棄した後の慶喜の行動は、あっぱれ見事の一言であり、明治維新の立役者は薩長土の志士ら以上に慶喜であったという理解をわたしも支持したい。
残りの4名、とりわけ島津は自らが将軍の地位に就けるという妄想を抱いていたらしい。しかし、久光は、所詮、大久保や西郷の傀儡でしかなく、維新後にそれを知り、呆然とする。四賢候は、日本という国の未来を託されているようで、じつは下級武士たちのマリオネットでしかなく、「痛烈な喜劇を演じさせられた」のである。
[マクタン通信(Ⅰ)]の続きを読む
- 2011/03/24(木) 23:06:19|
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寒さが続いた山陰の天気も、この日は打ち合わせたかのような良いお天気。遠くの山並みにかすかに望む雪も、鳥取のこの時期ならではの景色でしょう。春の陽気に包まれた三連休初日、2010年度学位授与式が執り行われました。今年度ASALABでは、学部生2名、院生2名の計4名の学生が卒業しました。以下、卒業生より一言コメントです。※学籍番号順に掲載
卒業できて本当に良かった(竹蔵 こと 竹内信之) みなさんこんにちは。たくさんの方がたに支えられ、なんとか卒業を迎えることができました竹内信之です。いやいや本当に卒業できて良かった……。私の力不足で先生には何度も叱られ、研究も思いどおりに進まず卒業など夢物語と思っていたころもありました。しかし、先生や研究室のメンバー、倉吉の皆様などたくさんの人に支えられ、私も無事に卒業です。これまで支え導いて下さった皆様にお礼申し上げます。本当にありがとうございました。短い文章ですが、卒業の挨拶もこれで3回目なので、このあたりで失礼致します。今年の春からは社会人として遠い場所に行きますが、大学で学んだいろいろな教訓を胸に頑張ります!
ありがとうございました。
かけがえのない4年間でした(どぅんびあ こと 吉川友実) ようやくここまでこぎつけることができました。入学してはや4年…。入学時にはいろいろハプニングもあったので、ここまで来れて本当によかったなあと感無量でいます。とくに4年次では、卒業研究という大仕事に右往左往してしまって、先生や研究室のみなさんに何度助けていただいたことか数えきれません。また、倉吉市役所の方がた、地域住民の皆様にも、惜しみないご協力をいただきました。感謝の念でいっぱいです。本当に、かけがえのない4年間を過ごさせていただきました。いまは、この先に何が待っているかという不安と、4年間過ごした居場所を失ってしまったようなさみしさで心細いような気持ちになっていますが、ASALABで経験したことを忘れずに、胸をはって帰ってこれるような立派な社会人になれるよう、精進致します。皆様、本当に本当にありがとうございました!
長いようで短い、6年間 (部長 こと 今城愛) 小学校から数えると、もう5回目となる卒業式。2年前の大学の卒業式では、デザイン学科の総代として学位記を受け取りました。そして、今回も大学院生の総代として学長から学位記を受け取る、という重役を引き受けることとなり、卒業式前日には会場にて練習をおこないました。しかし、どうにも「卒業する」という実感が練習していてもわき起こってきませんでした。
そして、卒業式本番。やはり、卒業式を迎えても、何か実感がわきません。学部生の時のように袴ではなくスーツ姿で、当日の朝に自分で必死にメイクアップした忙しさも手伝っているかもしれませんが、それ以上に「6年間なじんだ大学から離れたくない」という気持ちが無意識に働いているのかもしれません。今振り返ると、6年という歳月は長いようで、短いものでした。特に、大学院での2年はあっという間に過ぎ去ってしまったかのように感じています。その6年間、ほぼ毎日のように大学にいたため、もはや大学にいることが「当たり前」であり、これから社会に出て働くのだというイメージをなかなか描くことができません。
しかし、もう10日も経てば社会人。これから何が起こるのかわからない不安と期待がありますが、6年間の大学生活・研究室活動で得た経験を活かして、今後も頑張っていきたいと思います。最後に、学部・大学院を通して長らく指導してくださった先生を始め、未熟な私に関わってくださった多くの方々にお礼申し上げ、卒業の言葉とさせていただきます。ありがとうございました。
修士2年間をふりかえって (Mr.エアポート こと 岡垣頼和) まさに「あっ」というまの2年間であった。希望や不安が入り混じる入学式で、大学院の宣誓を読み上げたのがつい先日のように思える。これからどのような研究をするか、どんな将来を夢見るか、自身の抱負を書き綴った宣誓文を読み返すと、それに近い活動ができたのではないだろうか。それもこれも、教授の厳しくも暖かいご指導があったからであり、私に協力してくれたゼミ生や後輩たちなくしては成し得る事はできなかったであろう。とても充実した修士2年間であったが、ただ一つだけ後悔していることがある。
それは、入学式の際に研究科長である教授がおっしゃられた「大学院生のあり方」。「大学院は学部のように教員に一方通行で指導されるのではなく、ライバルのような関係でなければならない」。思い返せばこの2年間、確かに研究活動に邁進してきたが、いつも指導されるばかりで、その度に教授とのはてしない力量の差を感じ、「ライバル」とは程遠い関係であった。全体の卒業式が終わった後、学科・領域別の学位授与式で、研究科長が再度この話題を持ち出したときは、後悔の念に押しつぶされそうだった。それでも、教授があいさつの最後に述べられた「入学式のときはライバルのような関係にあるべきだといいましたが、この2年間、院生は本当によく頑張りました」という一言に、目頭が熱くなった。救われたというか、報われたというか。けっして認められたわけではないのだろうが、そう言ってもらえたことがただただ嬉しかった。
さてさて、今年度で私は大学を卒業しましたが、来年度のASALABは研究が盛りだくさんであるように、私の研究活動はライフワークとなってASALABとともにまだまだ続きます。今後も精進いたしますのでLablog読者の皆様、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします。
- 2011/03/23(水) 22:26:44|
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大講堂で挙行された卒業・修了式のあと、学科・領域に分かれての卒業・修了証授与式で、大学院修了生に対する祝辞を述べました。その祝辞は原稿を読み上げたものではなく、ほとんど即興でスピーチしたものです。ここに微細ながら加筆修正を施し、掲載しておきます。
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大学院修了生のみなさん、おめでとうございます。また、ご父兄の皆様、おめでとうございます。
本学は平成24年度に「公立化」する予定です。公立の大学法人として生まれ変わるということです。なぜ「公立化」するのかといえば、それは本学が学生数の減少に苦悩し、私立大学のままでは立ちゆかなくなったからです。偏見をもっていただきたくないので、あえて申し上げておきますが、こういう学生数の減少は、ひとり鳥取環境大学だけが抱え込んできた問題ではなく、地方の私立大学はみな同じ問題に苦慮しております。
2年前、みなさんが大学院に進学したとき、大学はその苦悩のまっただなかにいました。悪意に満ちたマスコミ報道が続き、世評も芳しいものではありません。そんななかで、きみたちは敢えて本学の大学院を選択し、進学してくれた。このことに、わたしたち教員はとても勇気づけられました。くりかえし感謝したいと思います。
その2年前、年度当初の挨拶で、わたしは君たちに以下のようなお願いをしました。大学院という場所は居心地がよい。居心地がよいから、気楽に過ごしてしまえば「ぬるま湯」に浸って、のんべんだらりとした生活に陥りかねない。そうなってはいけない。そうならないために、どうすればよいのか。まずは、学部と大学院のちがいを考えてもらいたい。学部というのは、一方向性に特徴がある。なんやかや言っても、教師から学生への知識の伝達・教授が、全教育の7割以上を占めるだろう。教員は教え、学生は学ぶ。それが学部です。それでは、大学院はどうなのか。君たちの同級生は社会に出て働いている。だから、君たちも社会人と同じような位置にあると言ってよいわけです。その点において、大学院生は教員とほぼ同等の存在だとわたしは思っています。一方から他方が学ぶのではなく、相互に教えあい、学びあう。言い方を換えるならば、大学院生は教員のことをライバルだと思ってほしい。そういう気概をもって、勉学に励んでほしい。と、お願いしたのが昨日のことのように蘇ります。
君たちは、ほんとうによく頑張って、素晴らしい修士研究を仕上げてくれました。わたし自身、ときに「そんなに仕事をされたらついていけない」という愚痴をこぼすほど、君たちは獅子奮迅の活躍をしてくれました。ほんとうにありがとう。感謝の念にたえません。
残念だったのは、この2年で日本の経済が極度の不振に陥り、雇用が悪化してしまったことです。以前ならば、そう苦労しなくても就職先が決まったのに、いま内定をもらうのは容易なことではありません。そんななかで、2名の修了生が鳥取市の建築課に専門職として採用されることになりました。さきほど祝辞を述べられた鳥取市長とも壇上でお話ししたのですが、市長も大変喜んでおられるし、本学としても、本学科としてもまことに喜ばしいことだと思っています。公立化を前にして、大学が立地する地方自治体に修了生が旅だっていく。こんなに誇らしいことはありません。
修了生のみなさんは、大学院を今日で卒業するわけですが、まだ若い。おおいなる前途が、未来があります。
社会にでると、自分の思うように事が運ばないことに悩んだり、いらつきを覚えたりするでしょう。でも、まだ未来はながい。あせらず騒がず、じっくりと新しい仕事に取り組んでください。
以上、長々となりましたが、これをもって祝辞のご挨拶とさせていただきます。
本当にありがとう。そして、おめでとうございます。
[未来ある大学院修了生へむけて]の続きを読む
- 2011/03/22(火) 23:14:59|
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昨夕から「社長」と呼ばれております。ガイドもドライバーも、みんな私のことを「社長」と呼ぶのです。
19日の昼に卒業式を終えたあと、20日の午前8時には関空にいました。そして今はフィリピンのマクタン島まで来ています。以後、今日(21日)までに、少なくとも40回「社長」と呼ばれました。考えてみれば、日本では、いつでもどこでも「先生」と呼ばれておりますが、「先生、センセイと呼ばれるほどのバカはなし」とも言いますし、存外「社長」もわるくないかな、と思ったりしているところ・・・
さて、今年もまた卒業式から逃げるように、こんなに遠くまで来てしまいました。本音をいうと、今回のフィリピン行はキャンセルしたかったんですが、諸般の事情で、それが叶いませんでした。こちらでも、「大地震」の話でもちきりです。フィリピンはフィナツボ火山の大噴火災害が記憶に新しいところですが、地震は「ない」そうで、在日のフィリピン人は恐怖のあまり続々帰国してきており、飛行機のチケット代が跳ね上がったとのこと。風が吹けばなんとやら・・・
さて、卒業式ですが、手持ちの写真をアップしておきます。今回、ASALABからの学部卒業生は2名(轟は就職留年)、大学院修士課程修了生も2名です。みな公務員になります。自衛隊、鳥取県警、鳥取市役所2名です。前途ある未来に乾杯!!!

[2011卒業・修了式]の続きを読む
- 2011/03/21(月) 23:31:03|
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卒業式を前日に控えた18日(金)の夜、カナイチヤにいってきました。ゼミの送別会は先日行いましたが、今回はきっかわ嬢とカナイチヤのご縁もあり、卒業前の告別のご挨拶に参上した次第です。そのご縁というのは、2010年の南アW杯に遡ります。日本代表がベスト8を賭けて戦ったあの夜、数十人でごったがえしたカウンターを仕切ったのが、緊急のバイトで招聘されたきっかわ嬢だったのです。卒業式直後に鳥取を離れるきっかわ嬢のあいた時間はこの夜しかなかったのですが、なにぶん卒業式の前ということもあり、多くのゼミメンバーのスケジュールが調整できず、先生ときっかわ嬢、部長さんにタクオの4名という普段あまりみられない組み合わせとなりました。
カナイチヤへ向かう前に、先生宅で腹ごしらえ。なんでも生ベーコンを手に入れられたそうで、「生ベーコンと白菜のくたくた煮」をご馳走になりました。じつはこれ、私がまだ学部生の頃からよくご馳走になっていた料理で、本当はベーコンではなく中国で生産される「金華ハム」が使われます。紹興酒で白菜がくたくたになるまで煮込むんですが、金華ハムの塩気だけで上品な味に仕上がり、それだけでご飯がすすむんです。ヤンマーがよくおかわりしてたな・・・
くたくた煮とじゃこ飯でお腹が満たされ、カナイチヤへ。お客さまは最初私たち以外に2人しかいませんでしたが、時間がたつにつれ、続々と送別会の2次会と思われる方々が押し寄せ、いつしか満席状態になりました。聞くところによると、木曜日(17日)までは、震災の自粛ということで、弥生町はどの店も閑古鳥が鳴いていたそうですが、流石に3連休前ということで、各社小規模な送別会をいっせいにおこなったようです。被災地のことを考えると、「自粛」は当然のことですが、あまりに「自粛」がすぎると、地域経済に打撃を与えかねません。わたしたちも羽目をはずさない程度に、ささやかな告別の儀式として、マスターご自慢の特製カクテルをいただくことにしました。

先生は、最近シングルモルトのスコッチに凝り始めておられるようで、その詳細は近いうちにアップされますが、マスターの推薦になる「アイラ」の10年ものにはご不満のようでした。「風土を感じない味」だそうです。わたしは運転手なので、もちろんソフト・ドリンクしか飲みません。驚いたのは、女子2名が「セックスオンザビーチ」と「ティーバック」を注文したことです。少しピンクなそのネーミングに先生も驚嘆されていました。
いつもはバラード系のジャズ(とくに女性ボーカル)をBGMに使うことの多いカナイチヤですが、この夜はずっとシカゴ・ブルースが流れていました。先生から「ブルースとジャズの違いぐらい分かるだろう?」と訊かれて、だれも答えられず、先生は「こんな夜はやっぱりダイアナ・クラールが聴きたいな、リクエストしようかな・・・」と呟かれていましたが、お客さまが多いので、遠慮されたようです。
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- 2011/03/20(日) 23:10:23|
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上海アールデコ バンド(外灘)に対面する南京東路東北隅にある和平賓館の北館に入ると、「上海に戻ってきた」という実感が湧いてくる。同済大学のキャンパスよりも、このネオクラシズムのホテルに郷愁がある。1983年当時、同済大学に在籍する日本人学生はわたし一人で、他の留学生の過半数をアラブやアフリカのイスラム系民族が占めていた。当然のことながら、留学生食堂の主役は羊肉になる。北方の乾燥地域で食べる羊肉はわるくない。刷羊肉(シュアンヤンロウ)と呼ばれる羊肉(+牛肉+鳥肉)のシャブシャブは、わたし自身、好物のひとつである。一方、江南水郷の食文化は、米と魚と野菜と豚肉で構成されている。その食材の主品たる豚肉を羊肉に変えた料理ばかりが大学の留学生食堂で出てくるのである。イスラム系の留学生は、それを好んでいるようにみえた(が、結構不満を口にしていた)。わたしはそういう羊肉の料理が苦手だった。苦手だが、食べないわけにはいかない。しかし、週に一度は「まともな」ものを口にいれたくなり、和平賓館に通ったのである。

北館の8階に中華レストランがある。当時、注文するメニューはほぼ決まっていた。お金がないので、安価なものばかり選ぶ。担々麺と小龍包とモヤシ炒め(か家常豆腐)が定番であった。これが、べらぼうに美味しい。担々麺は純粋な四川風ではなく、上海風味が加わってマイルドになっている。搾菜&唐辛子ベースのスープに胡麻と酢をたっぷり絡め、酢で辛みを抑えているのである。当時は安かったのだが、今はとんでもない値がついている。同じ料理なら、上海老飯店の倍以上するだろう。それでも、わたしは、和平賓館に通うのをやめない。和平賓館の北館がいちばん懐かしくて美味しい、という気持ちは揺るがない、ということだ。
1905年ころに建てられた和平賓館の内装は、アールデコの装飾に彩られている。頽廃的なその意匠に、妙な落ち着きを覚えるのは、わたし一人ではない。今回、同行した患者は、アールデコの陰翳に包まれた瞬間、「ここを動かない」と宣言した。もう一人おなじ反応をした日本人を知っている。今からおよそ15年前、小学校6年生だった長女を連れて、北京経由で黒龍江省に入り、ツングース系漁撈民ホジェン族の調査をした。娘はあんな過酷な旅行によく耐えたと思う。帰りは上海経由にした。北京や黒龍江流域には閉口したようだが、上海だけはお気に召したらしい。宿泊した上海国際機上賓館でブランチし、和平賓館のカフェで休んだとき、「もうここを動かない」と娘は口にしたのである。
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- 2011/03/19(土) 13:33:26|
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周 荘 上海の同済大学に留学していたのは、1983~84年のことである。当時の研究テーマは「長江下流域における明清代住宅」。江蘇、浙江、安徽の3省と上海市郊外で約2ヶ月間、民居(住宅建築)の調査をしてまわった。もちろんそこは水郷地帯である。江南の水郷地帯は農作物が豊かな「天下の台所」であり、網の目のようにめぐる水路が流通を促し経済が発展した。巨万の富を得た商家や地主は、古くから豪壮な邸宅を建てた。それらが「明清代住宅」として今もたくさん残っているし、80年代は今よりもはるかに多くの古民家が群として残っていた。だから、どの水郷の鎮(まち)を訪ねても、日本でいうところの重要伝統的建造物群(重伝建)に匹敵する町並みを目にしたものである。
ただ、そういう伝統的な集落・都市における生活環境は悲惨なものだった。解放後まもなく、すべての私有不動産は国有になった。大きな邸宅ももちろん私有物ではない。それはいったん国有化された後、複数の世帯に「空間」を貸与された。一世帯に2部屋が原則で、運が良ければ3部屋になることもあった。一例をあげるならば、紹興で調査した寿家台門(幼少の魯迅が住んでいた屋敷)は、80年代前半では13世帯が集住するアパートに化していた。居住者はみな「楼房」、つまり高層のアパートに移り住みたがっていたが、当時の中国は貧しく、十分なアパートを建設する経済力がなかったのである。

あれから30年近い歳月が流れ、中国は世界第2位の国民総生産を誇る国となった。猛烈な開発が連続する過程で、伝統的な住宅の多くが取り壊され、歴史的な町並み景観が失われたことはいうまでもない。だから、風景保護区となった「江南水郷の鎮(まち)」が観光客を集めるようになっている。上海近郊では朱家尖、周荘、同里の3ヶ所が有名だ。このうち朱家尖は同済大学在学中に調査に行ったことがあり、同里は蘇州古典園林の第2次世界遺産申請評定(2000)の際に訪れた。同里の「退思園」は民国時代の庭園で、こぶりながら趣味がよろしく、周辺の水郷景観との融合がみごとだった。
今回、初めて周荘を訪問した。行政的には江蘇省昆山市に属し、その最南端にある。春秋時代には「揺城」と呼ばれたが、「周荘」という名の鎮(まち)の成立は宋代にまで下る。鎮のなかには水路が「井」字状にめぐり、町家は正面を街路、背面を水路に接する。これを「前街後河」という。河には14の石造アーチ橋が架かっている。なかでも有名なのが「双橋」だ。明代に建造された「世徳橋」と「永安橋」がL字に連なる。このほか迷楼、張庁、沈庁、全福講寺、貞固道院、南湖園などが町並みのランドマークともいうべき著名な建造物として知られる。
街には店が多い。豫園ほどではないが、店だらけで、80年代の閑かな水郷が懐かしくなる。その店は中華的だ。誰がどうみても「新天地」的ではなく、「豫園」的である。否、古い時代の豫園の商店と言ったほうが適切かもしれない。

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- 2011/03/18(金) 18:39:13|
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3月14日、お市の方さまから「
青谷の豆腐」が届きました。肝心の先生はご不在です。上海出張の最終日で、たぶん義理チョコのお返しなどを買ってらっしゃったのでしょう。のんきなものですね。日本では大震災で、コンビニからホワイトデーの品々がいっせいに消えてしまって、「宴会」の類はいっさい自粛。大学の先生方の送別会も中止となったと聞いています。
16日、ゼミのみんなでゼミ室の大掃除しました。これまで研究室を引っ張ってこられたエアポートさんや部長さんがゼミ室から消えてしまうことが今でも信じられません。先生は部屋で「極」という麻雀ゲームをやっておられるようでした。あんなに散らかった部屋、なんで掃除しないのでしょうか・・・困ったものです。
モノが減って視界が増したゼミ室で「湯豆腐」をいただくことになりました。もちろん青谷の湯豆腐です。まずは昆布で出汁をとりました。まんべんなくカット昆布が漂っており、「入れすぎだ」との注意をいただきましたが、鍋から昆布の香りが・・・そして、出汁もよくでてきたところで豆腐を鍋へ。早く食べたい気持ちを抑え、次いで小松菜やキノコなどを添えていきます。

この日は「新酒」もそろっていました。先週末、タクオさんが平田に調査に出かけたところ、ちょうど「新酒祭」をされていて、何本かいただいてこられたのです。湯豆腐が完成したら、出雲の新酒で、まずは乾杯。この日は吹雪で、雪が降り、寒かったですが、新酒と湯豆腐で体は温かくなりました(被災地の皆様には本当に申し訳ないと思います)。熱々になった「青谷の豆腐」はとても美味しかったです。鍋の中に具材が浮いている時間は短く、すぐになくなってしまい、春菊などの新しい食材の投入が続きました。最後は讃岐うどんと摩仁山でいただいたかき餅です。ほんとに美味しくいただきました。

それから上海のおみやげをいただきました。卒業生の男子にはネクタイ、女子にはスカーフです。シルク製だそうです。わたしはポーチをいただきました。刺繍で鳥や花などが描かれている綺麗な柄のポーチです。上海の路地(里弄)を描いた画家の絵も3枚購入されていて、うち2枚はタクオさんの研究室に飾ることになりました。その絵を切り絵にした絵はがきも見せていただきました。細かいところまで表現してあってすごいと思いました。食事も終わりになるころ、先生は「倉吉の眞田さんの退官を祝う寄書を作ろう!」と提案されました。それから、お茶を飲んだり、クッキーを食べたりしながら、寄書を作成しました。

その後、先生は「極」の画面に戻られ、学生たちはトランプで盛り上がりました。
卒業式まで残りわずかで、先輩方といれる時間もあと少しなのでさみしくなるなと思っていました。卒業式前にこうしてみんなで楽しく食事ができて良かったです。(ヒノッキー)
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- 2011/03/17(木) 06:16:17|
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新天地 「豫園」から三輪タクシーに乗って、淮海中路の「新天地」をめざした。運転手は32歳の若い男だった。「仕事がないんだ」と愚痴をこぼしている。もともと政治経済に興味があり、東日本大地震のこともやけに詳しく知っている。会話は民主党の政治にまで及んだ。
「民主党の政府はどんなもんだい?」
「自民党が駄目なことは国民の多くが分かっていて、政権交代がなされたん
だけれども、民主党もやはり駄目だった。だれもかれもが足の引っ張り合い
ばかりして、重要事項がなにも決まらないんだ・・・」
今回の大地震が日本の政治を蘇生させる契機になってほしい、とわたしは話した。震災復興は、与党も野党もなく、挙国一致で取り組まなければならない。大震災復興への取り組みをモデルにして、他の諸問題も同様の手法で解決していってほしいのである。与野党も派閥もなく、適材適所に有能な人材を配し、山積する課題に取り組み、克服していくしかない。これは「大連立」の発想に近いものだ。まかりまちがえば、共産党一党独裁に近い政権になりかねないが、いまドン底にある日本の政治経済を立て直すには、それ以外にないのではないか・・・

・・・などと話しているうちに、三輪車は「新天地」に着いた。そこはフランス租界の「里弄」地区を再開発した、文字通りの新天地である。解放後、租界の里弄住宅群は中国人の居住区になった。里弄住宅は外観上、「石庫門」と呼ばれる石造の門に象徴され、その住宅形式をまた「石庫門」と呼ぶ。「石庫門」という愛称のフランス式長屋住宅が路地のまわりにびっしり軒を連ねていたわけだ。1983年、同済大学の中国人学生に招待されて、石庫門式の里弄住宅で昼食をごちそうになったことがある。狭い都市住宅ではあったが、センスのよい内装の意匠に心を奪われた。
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- 2011/03/16(水) 23:55:55|
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豫園のスタバ 豫園商城は上海の中華街だ。中国内にあるのだから、どこだって中華街だと反論されそうだが、上海は中国にあって中国ではなかった魔都である。それは租界のためのメガロポリスであり、都市の意匠は欧風にほぼ塗り尽くされていた。バンド(外灘公園)に「犬と中国人、入るべからず」という立札があったことはよく知られていよう。中国人を排除する植民地都市のなかの狭小なエリアに中華街が存在したのだ。昨日も述べたように、そこは近代以前の老城(old town)であった。ここにいう「城」とは、城壁に囲まれた「まち」のことである。その「まち」は租界都市に埋め込まれた土着的な異端のエリアであり続けた。いまは城壁を失っているが、地割にその痕跡をはっきり読み取れる。
この中華街、気分転換にはわるくない。が、なにぶん人が多すぎる。店も多すぎる。土産物の趣味が良いとも言えない。小龍包の老舗として知られる「南翔饅頭店」には長蛇の列ができていて、とてもその隊列に参加する気になれない。方池を挟んで右岸にあるスターバックスも人でいっぱい。なんとか橋をわたって、池の真ん中にある「湖心亭」まで行き、ソフトクリームで一休みした。そのソフトクリームは「ほうじ茶ソフト」。日本の製品である。

スターバックスのことを北京語で「星巴克(シンバーカ)」という。「星」がスターの意訳であるのは言うまでもなかろう。巴克は北京語の発音で「バーカ」だが、広東語では「バックス」に近い音声に変わる。西洋の文化は、なんでも香港経由で大陸に入ってくるので、まず香港で英語の音声に近い広東語の漢字名称が与えられ、それが大陸標準語にもなってしまうのである。たとえば、「麦当労」は広東語では「マクドナルド」に近い音声だが、北京では「マイダンラオ」と読まれる。なんのことだか分からない。
それにしても、日本人なら絶対に「バーカ」などという名前はつけないだろう。店名が「馬鹿」なんて洒落にもならないではないか。じつは、中国人も「バカ」という日本語を良く知っている。極悪非道の帝国主義日本軍を象徴する二つの言葉がある。「ミシミシ(飯飯)」と「バカヤロウ」だ。かつて日中戦争回顧の映画においては、日本人役の俳優が必ず「ミシミシ、バカヤロウ」という科白を口にした。当然のことながら、それらは共産党による大衆教育のための映画なわけだから、老若男女を問わず、すべての中国人が「ミシミシ」と「バカ(ヤロウ)」を脳の奥底まですり込まれてしまっている。
だから、わたしは思う。スタバは中国名を変えたほうがいい、と。
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- 2011/03/15(火) 23:43:35|
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中国の大地震報道 さきほど上海出張から帰国した。
またか、と思った。1995年1月17日、あの呪わしい阪神淡路大震災の日、タイでの国際シンポジウムを終えたわたしはバンコク空港を飛びたち機上で大地震発生の情報に接し、一時着陸したマニラ空港で燃えさかる神戸の街の映像をみた。2001年9月11日はマレーシアのホテルにいた。やはり帰国の日だった。アメリカ同時多発テロ事件勃発の一日である。「これは戦争だ」というブッシュの宣言に、暗黒の未来を予感した瞬間でもあった。
そして、2011年3月11日。わたしの乗るCA922便は午後1時40分に関空を飛びたち、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)が発生したという午後2時46分ごろ、中国製の淡泊な赤ワインを飲みながら機内でランチをとっていた。もちろん地震のことなど知るよしもない。上海の浦東空港に着陸したのは中国時間の3時(日本時間の4時)前。1時間ばかりで入国手続きを終え、噂のリニアモーターカー(磁浮列車)に乗った。上海を最後に訪れたのは2002年秋まで遡るので、2005年開通の「磁浮」に乗るのは初めての体験だった。最高時速431㎞。龍陽路駅までの乗車時間はわずか7分である。そこからタクシーでホテルに向かい、チェックインして小一時間休息をとった。ここでテレビを点けていたら、もう少し早い対応ができたかもしれない。
今回の上海行は私費出張だが、研究の目的は「里弄」の視察と決めていた。租界都市上海に特有な路地を「弄(ノン)」と言い、路地を軸としてまとまった小地区を「里弄(リーノン)」と言う。すでに日が暮れていたが、わたしは豫園商城をめざすことにした。豫園(よえん)は上海一帯が租界都市になる以前から街があった「上海老城」の中心的位置を占める庭園で、その修復を同済大学時代の指導教官、故陳従周先生が担当した。豫園のまわりに迷路のように小路がめぐり、その両側にびっしりと店舗が軒を連ねる。厳密にいうならば、これらは「里弄」ではないけれども、路地であるのは間違いない。豫園商城に着いたら、まずは懐かしい「上海老飯店」で上海料理を食べ、それから路地の商店街をぐるぐるまわろうと決めていた。
豫園をめざすタクシーの車内で、運転手が突然話題を変えた。
「オウッ、リーベン・デ・ダーディチェン・タァイ・リ~ハイッ・・・アッ!」
えっ、リーベン・デ・ダーディチェン(日本的大地震)?
「日本で地震があったの?」
「なぁんだ、なんにも知らんのかい。東京で大地震さ。マグニチュード8.9だ」
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- 2011/03/14(月) 23:45:45|
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あれはシータが1年生のときだから、おおよそ3年前か、「魔法の山」プロジェクトチームで池田家墓所を訪れ、休憩室でミーテイングをした。あれが最後の訪問だった。
池田家墓所の修復整備は順調に進んでいる。藩主墓の修復はほぼ半数を終えた。恥ずかしながら、ほとんど委員会に出ることが叶わなくなってしまったが、修復はわたしたちが示した指針どおりに動いていて、大きな満足感をもって整備状況をみることができた。
来年度から「姫墓」の修復が始まるという。墓碑の下に亀趺(キフ)もなければ、周りに玉垣もない。五輪塔が近世的に荘厳されたような造形で、細い塔身の上に四面唐破風の宝形屋根をのせ、破風下の妻飾りを派手にしている。改めて見直すと、デザイン的には墓所内で最もユニークなものではないか、とも思う。造形に魅力を感じるのは、おそらく、四面唐破風の「笠」部分が塔身に比べてずっと大きいからだろう。細身の1本柱の上に軒の出の長い唐傘のような屋根を載せているところが、重力に逆らっているようにみえておもしろいのである。
その反面、危険な構造であるのは疑いない。重力に逆らえば、壊れやすいのは当たり前で、地震などの横力が加われば、「笠」はころんと転げ落ちてしまうであろう。いったいどのようにして、笠を塔身に接合しているのか。まずはいくつかの姫墓を解体して、接合の実態を把握し、横力に対抗できるだけの措置を施す必要があるだろう。でなければ、見学者が大けがをする不安をぬぐえない。

さて、左の写真をみてください。五代藩主正室律姫墓です。律姫は桑名松平家の出で、没年は明和3年(1766)。すでに笠は失われ、塔身の上端も欠けている。これを復元したいということで、すでに立派な図面が完成していた。復元の方法は、そんなに難しいわけではない。没年や規模などの類例から、それらしい意匠をでっちあげるわけです。わたしたちも同じような方法で、いろんな時代の建築を復元してきている。しかし、それはあくまで図面やCGなどの表現にとどまっている。池田家墓所の場合、類例のパッチワークによる想像復元の産物が下の塔身の上にのるわけですが、みなさんはどうお考えでしょうか。
わたしは、こういう「復元」に反対しています。律姫の墓は左のままでよい。塔身が倒れないように、みえないところで補強してやれば、それで良いと思っています。上に述べたように、それらしい笠を作ることはできます。しかし、その笠は律姫の墓にのっていたものではない。姫一人ひとりで、笠や塔身の意匠・造形はすべて異なっている。別の姫の意匠を律姫の笠に採用してよいものでしょうか? 律姫が怒って墓の下から出てくるんじゃないか、と(冗談じゃなく)心配しています。
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- 2011/03/13(日) 00:11:42|
- 史跡|
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3月9日。久しぶりに池田家墓所を訪問することになり、昼前に家をでた。集合時間まで一時間ばかりある。お腹が空いていた。蕎麦だ。蕎麦が食いたい。国府町の蕎麦屋と言えば「
門や」ではないか。わたしはハンドルを切って、懐かしい神護への道をひた走った。途中で茅葺きの民家が左手にみえるはずだ。それが「門や」だ。しかし、それらしい建物をいつまでたっても視界にとらえられない。代わって、右手におそろしいほど深い渓谷を見下ろせる。正面には神護トンネル、拾石トンネルがあらわれ、それらを突き抜けて進むと、いきなり雪深くなった。通い慣れた神護への脇道すらどこだか分からないまま、見覚えのない集落まで車は進み、そこでUターンした。道は高速道路のようだった。高架にも似た橋の上で車を停め、渓谷を埋める広大な水面に気圧された。これが殿ダムか・・・ダムの壁の外側ではまだ工事が続いている。
その景観におののいた。恐怖を感じた、と言ったほうがよいのかもしれない。自然破壊とは、こういう行為をいうのですね。目を覆いたくなる想いをこらえて、シャッターを切った。
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- 2011/03/12(土) 00:00:48|
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「まっちゃまち」と言えば、おもちゃやひな人形で有名な大阪の松屋町筋商店街ですが、「まっちゃま町」って分かりますか。2006年、重伝建に選定された奈良県宇陀市の松山町です。織豊政権下の城下町として誕生し、徳川幕府の初期には織田信雄とその子孫が80年間居城していました。いまは吉野葛や薬草や油や宇陀紙で有名な商人の町である。
薬草といえば、ごらんのとおり(↑)、人参五臓圓の看板を発見してしまいましてね。まだ家にたんまり残っているので(使うべきときがないのね?)、松山で
五臓圓を買ったりしてはいません。前夜、雪が降ったという街の夕暮れはとても冷え込んでいて、足早に街を歩き、シャッターを鬼のようなスピードで押し続けました。

ひととおり見学を終えて、「奈良一」という奈良漬けのお店に入ったんです。腰のまがったおばあちゃんが、にこやかににこやかに対応してくださいまして、瓜と西瓜の奈良漬け、そして冷酒を買いました。試食してみましたが、奈良市内の奈良漬けとはまたちょっと味が違う。おばあちゃんによると、「田舎風の味付け」だそうです。寒くて、相変わらずお腹は空いていて、またわたしは聞いたんです。「お蕎麦屋さんはありませんか」と。
中華ソバならあるよ。あそこの呉服屋さんの向こうに路地があるさかい、
そこをまがっていくと「本善」いう食堂があるんよ。あそこには蕎麦は
ないけど、うどんや中華ソバや丼ならあるからね・・・
と道に出て、教えてくださった。
わたしは、今年の研究テーマの一つに「路地(小路)」を構想していて、まもなくシラバスを提出する1・2年生向けのプロジェクト研究のテーマを「路地のロジック」にするか、「横丁へようこちょ!」にするか、はたまた別のタイトルにするかで悩んでいるところなんです。だから、もちろん、その横丁にあるという大善食堂にまっしぐら。
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- 2011/03/11(金) 00:00:12|
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昨年、奈良の五條新町が倉吉とともに重伝建に答申されたという報道に接し、てっきり倉吉と同じ「拡張」だとばかり思いこんでいた。五條といえば、町並み保存の世界では「大関」クラスである。わたしが奈文研に入所したころ、すでに『五條 -町並調査の記録』(1977)が学報として刊行されていた。高山、奈良井、五條の3ヶ所が入所以前に世に出た伝建の学報であった。だから、とっくの昔に選定済みだとばかり思い込んでいたのだが、「灯台もと暗し」とはこのことで、身近な文化財の世界の動きを知らないでいた。五條新町は2010年、重伝建になったばかりである。
五條新町に着いたのは昼下がりで、この日もまたわたしはお腹を空かせていた。絶対に蕎麦を食べてやる。そのあと、またコーヒーも飲むんだ。と、空いたお腹に言い聞かせながら新町通りに入った。いきなり土蔵造の町家の群れに圧倒され、期待に胸は高鳴る。こういうところには必ず蕎麦屋があるはずだ。やった、それらしき店を発見した。「源兵衛」という割烹料亭だ。蕎麦屋ではないが、美味しい和食をいただけるなら空いた腹も許してくれるだろうと、門をくぐったが行く手を竹の結界が遮る。看板をよくみると、昼の営業は1時半までで、夕方は5時からだという。腕時計に目をやる。時刻は午後2時をすぎたところ・・・街に戻って歩を進めるしかない。

まもなく左手に「町並み伝承館」があらわれた。改装された町家の中に入って、受付の女性に「この建物のなかにカフェはないのですか」とたずねた。「ありません」と彼女は答える。「新町通りにお蕎麦屋さんとか、源兵衛さん以外のレストランとか、喫茶店とかはあるんでしょう?」とくいさがったのだが、答えはやはり「ありません」。新町通りはかつての紀州街道であり、近くに「本陣」という地名が残っていることからも窺われるが、紀州の殿様の参勤交替路として賑わったのだろう。通りの両側に軒を連ねる町家はなべて「ミセ」をもっていたといい、いまもその名残がないとは言えないけれども、飲食店は国道24号線に吸収され尽くしてしまったようだ。
ちょっとした絶望感にさいなまれた。お腹が空いているのだ。でも、一つだけ嬉しい発見をした。「町並み伝承館」はもちろん古い町家の再活用で、町並み訪問者への情報提供の場として機能しているのだが、土間側の一画に市の文化財課重伝建推進係が入っている(↓)。所轄の行政部局が町家にオフィスを設けているのを初めてみた。おそらく全国的にこういう動きがあるのだろう。平田で開催されたワークショップの後の懇親会で、自治会長さんが観光課?は「元石橋酒造」に入るべきだと何度も説いていたが、わたしもそれが良いと思っていた。自治体が買い取った町家を町並み情報センターにして、その担当部局のオフィスをおく。ベストの活用である。それにカフェがくっつけば、ベリー・ベストなんだが、五條は残念ながらベストどまり。わたしのお腹は空いたままだ。
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- 2011/03/10(木) 00:17:40|
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富田林寺内町が重要伝統的建造物群(重伝建)に選定されたのは1997年のことである。寺内町としては、奈良の今井町と大阪の富田林が双璧であって、いずれも日本屈指の町並みを誇っており、学生時代から評判が非常に高かった。だから、感覚としては、もう少し選定は早かっただろうと思うのだが、今井町が93年、富田林はさらに遅れて97年だとネット上のデータは語っている。京都の産寧坂、嵯峨野鳥居本などは70年代の選定だから、二つの寺内町は京都に20年も遅れをとったことになる。しかも、大阪府内の重伝建は富田林一ヶ所だけ。この点において、鳥取と大阪は同格ですな。
ひるがえって、富田林寺内町を学生時代に訪れたような、訪れてないような・・・記憶が曖昧なので、今回視察行程に組み入れた。灯台もと暗しで、奈良近辺の有名な建造物(群)を案外みていない。だって、地方に行けば、ホテルに泊まり、そのままレンタカーを借りて(カーナビを頼りに)あちこちまわるのだが、奈良に帰ると、家でのんびりしたいし、あるいはまた、家事に勤しむ必要があったりして、あまり出歩けないのである。

近鉄電車に乗り換えて、富田林に着いたら昼過ぎ。お腹が空いていた。駅前の観光案内所で訊くと、重伝建エリアのなかに蕎麦屋があるという。町並み見学はさておき、とりあえずは蕎麦だ。美味しい蕎麦さえ食べていれば機嫌のよいわたし。急ぎ足で「八町茶屋」という蕎麦屋をめざした。店内で「ざる」の並を頂戴した後、裏庭のテーブルでコーヒーと「河内名物あかねこ餅」もいただいた。「蕎麦を食べてくださったから、コーヒー代は結構です」とのこと。良い店ですね。みなさん、富田林の八町茶屋をよろしくお願いします!
さて、街にでよう。寺内町というのは、戦国時代に浄土真宗の門徒が集住した環濠集落で、もちろん信長などの権力者と敵対したわけだが、富田林は本願寺に与しなかったことで焼亡を免れたらしい。防御性に重きをおいた集落であり、民家は土蔵造、塀の上には長い「忍び返し」(↓)がめぐらされている。なんだか、中国を思いおこした。町家が少ない。ここにいう「町家」を、ミセをもつ都市住宅だと定義するならば、富田林の大半の住まいは「町家風の和風住宅」ではあるけれども、「町家」そのものではないのである。ただ、醸造・酒造業は江戸時代から盛んだったようで、酒蔵・醤油蔵が目につく。
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- 2011/03/09(水) 00:26:45|
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上下の写真は、さてどこでしょう? 今井町かな、それとも富田林??
大阪の天神橋筋6丁目で地下鉄を降りたその角地に、大阪市立住まい情報センターがある。10階建の堂々としたビルだ。その8階から上が大阪市立「住まいのミュージアム」で、上下の写真はそこに展示された原寸大の町並みである。桂米朝のアナウンスによれば、天保年間(1830年ころ)の大阪の町並みを再現したものであるという。
「住まい」専門の博物館は日本で唯一ということで、その開館は、驚くべきことに、環境大学の開学と同時である。つまり、2001年4月。この博物館はわたしの大学時代の先輩たちが展示構想を練り上げ、いまも運営している。いつも紀要などの資料を送っていただいているのに、これまで訪れたことはなく、今回思い切って出張計画のなかに組み入れた。
いや、驚きました。原寸大の民家を博物館のなかに展示する例がこれまでないことはない。住まいのミュージアムは違う。まず、1棟ではなく、軒を連ねる町家群、すなわち町並みの再現であり、それを現存民家の移築ではなく、諸資料に基づく復元でなしとげているところが抜群にユニークだ。「住まいのミュージアム」における復元は、遺跡上に紛い物を建てる愚かな行為とはあきらかに一線を画している。なにより、幕末の町家ともなれば資料が多いので、実証性の高い復元ができる。なかなか羨ましい仕事だと正直思った。
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- 2011/03/08(火) 00:05:19|
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昨日報告した倉吉での報告会の記事が山陰中央新報に掲載されました。3月4日の朝刊21面です。5段におよぶ大きな記事にしていただき、感謝、感謝、多謝です。卒業生2名の名前がでています。励みになることでしょう。記事を書いていただいたFさんにくり返し感謝申し上げます。

竹内制作の模型です
- 2011/03/07(月) 00:16:17|
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「重伝建地区拡張にともなう倉吉の町並み整備案を考える」報告会 3月2日(水)。ついにこの日がやってまいりました。2010年度鳥取県環境学術研究費助成研究「倉吉重要伝統的建造物群保存地区拡大にむけての実践的研究」の成果報告会が倉吉市東仲町の「くら用心」でおこなわれました。わたしたちにとって、フィールドワークを積み重ねた場所での卒業研究の発表会ということになります。緊張です……。
しかし、この日はあいにくの悪天候。倉吉にむかってる最中にアラレまで降ってくる始末で。もしかしたら誰も来てくれないんじゃないかと心配していましたが、始まってみれば、30名以上のお客様で会場は土間まで一杯になりました。遠いところで、出雲市の平田の木綿街道振興会の皆様もお越し頂き、本当にありがたい限りです。みなさんへの感謝の気持ちで緊張はピークです……。
定刻通り18時から開始。発表の順番は最初にきっかわさん、二番目にわたくし竹蔵、最後を2年生の二人がまとめてくれるという順番で。集まっていただいた皆さんに自分たちが今までおこなってきた研究の成果を伝えようと、みんな熱意を込めた良い発表でした。特に2年生の二人は落ちつきのある発表で、「俺が2年生の時はあんなにしっかりしてなかったな」と反省させられるほどでした。反省し過ぎて限界です……正座で足が。
発表も無事終わり、痺れた足を少しませてから意見交換会へ。「商店街にアーケードを再建します!」と言った私の「昭和レトロ街」構想は行政の方々を怒らせてしまうんじゃないかと内心ドキドキしていましたが、「若い意見から学ばされるところがあった」、「住民の人びとの事も考えてくれている計画で嬉しい」などたくさんのお褒めの言葉を頂くことができました。もちろん「それは考え方が違うんじゃないか」、「お金のことを考えると……」など厳しい意見もありましたが、先生からは「学生たちは夢を描いているんです」という説明がありました。実際に町に住まれている方々の声はとてもありがたいですね。
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- 2011/03/06(日) 00:00:59|
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2010年度卒業研究受賞作決定 3月3日の学科会議で、建築・環境デザイン学科卒業研究の受賞作が決定しました。論文部門では、きっかわさんが満票で、予想通り金賞に輝きました。圧勝と言って過言ではありません。これで論文部門では、6連覇を飾りました。来年度のヒノッキーに期待がかかります。
作品部門は2連覇中でしたが、今年は設計を指導する教員に一部変更があり、新しいデザイン系研究室が金銀のワンツー・フィニッシュ。ASALABでは、轟が2票ではやばやと脱落。竹蔵は4票獲得しており、再投票の対象となりましたが、残念ながら銅賞を逃し、佳作となりました。というわけで、作品部門は例年に比べ低調でした。とくに轟は「摩尼山奥の院遺跡」の復元をテーマとしており、公聴会までは入賞間違いないと思っていたのですが、その後、展示までの短期間で急速にブレーキがかかり、模型を制作しなかったことが大きく響いたようです。あれだけ集中力と忍耐強さをもった男に何がおこったのか、他のメンバー全員が驚いております。
結果をまとめると、以下のとおりです。
論文部門
金賞 吉川友実
重要伝統的建造物群保存地区拡張にともなう町並み整備の課題と展望
-遥かなまち、くらよし探訪-
作品部門
佳作 竹内信之
彼方へのとびら
-谷口ジローの風景としての「昭和レトロ街」構想-
みんなよくがんばってくれました。
輝かしい未来に乾杯!

竹内制作の模型です
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- 2011/03/05(土) 00:24:22|
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こんなに長い時間をかけるなんて、たいへん申し訳なく感じております……とはいえ、このたび、ようやく「古民家修復ポケットハンディマニュアル」を刊行することができました!
この本は、浅川研究室が長年積み重ねてきた加藤家住宅(登録有形文化財)修復での研究成果を、「修復マニュアル」としてまとめたものです。ポケットに入れて持ち運べ、修復の現場で使ってもらえるようなものを……というコンセプトのもと編集をおこないました。B6サイズの小さな本です。なお、この報告書は、2009年度とっとり「知の財産」活用推進事業調査研究「セルフビルド&ゼロエミッションによる古民家の持続的修復」の助成を受けて発行されています。古民家を修復する際、手にとってもらって、すこしでも役立つことがあればいいなあ…と願っております。(どぅんびあ)
古民家修復ポケットハンディマニュアル修復チャート(目次) 0.調査・記録
1.構造・部材
―解体しない修理
2.屋根
―茅葺き屋根はあきらめましょう?
3.建具・開口部
―建具を直そう
4.壁
―左官のコツ
5.イロリ・カマド
―古民家に火をともせ
付録
・道具ア・ラ・カルト
・部材はやわかり図
・古民家キーワード集
参考文献
図書情報 書 名:2009年度とっとり「知の財産」活用推進事業調査研究
セルフビルド&ゼロエミッションによる古民家の持続的修復
古民家修復ポケットハンディマニュアル
発行者:鳥取環境大学浅川研究室
印刷所:富士印刷株式会社
発行日:2010年3月31日
総頁数:23ページ(全頁2色刷)
*ご希望の方には頒布いたしますので、ブログなどにご連絡ください。
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- 2011/03/04(金) 01:42:52|
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大変、たいへんお待たせしました。昨年度報告書4冊のうち残りの2冊がようやく刊行されました。1冊は古民家修復ポケットハンディマニュアル、もう一冊はベトナムハロン湾の水上集落に関する報告書です。昨年末には刊行の予定だったのですが、いろいろと立て込んでしまい、遅れに遅れてしまいました。
まずは、2007~2009年度科学研究費助成金挑戦的萌芽研究報告書の成果報告書からお知らせします。ホカノさんの修了研究をもとに、文化的景観の専門家の意見も取り入れ、編集しております。私もこの調査には2度同行しており、こうして刊行されたものを読み返してみると、ハロン湾で調査をしていたころを懐かしく思います。あぁ、もうすぐ卒業しちゃうんだなぁ。(エアポート)
文化的景観としての水上集落
-世界自然遺産ハロン湾の地理情報と居住動態の分析-目 次 はじめに -越南浮遊
第1章 世界遺産条約と文化的景観
第2章 世界自然遺産ハロン湾
第3章 ハロン湾の水上集落と居住動態
第4章 水上集落の測量と景観シミュレーション
第5章 ハロン湾水上集落景観の評価と課題
おわりに -越南慕情
附録1 世界自然遺産ベトナム・ハロン湾における水上集落の居住実態とその変容(その1)
附録2 Transformation of Cultural Seascape on Ha Long Bay, Vietnam
図書情報 書 名:文化的景観としての水上集落
-世界自然遺産ハロン湾の地理情報と居住動態の分析-
(課題番号19656157)
発行者:鳥取環境大学浅川研究室
印刷所:富士印刷株式会社
発行日:2010年3月31日
ページ:全114ページ
*ご希望の方には頒布いたしますので、ブログなどにご連絡ください。
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- 2011/03/03(木) 00:25:00|
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院生2名をひきつれて、尾崎家住宅までご焼香にあがってまりました。奥様の大変なお気遣いに、ただただ頭が下がる想いです。
同行した岡垣・今城が2年生のとき、岡野・北野率いる調査チームが熱い夏休みに調査にあけくれたのです。岡垣くんと今城さんは安楽寺の山門と道沿いの連続立面図の実測を担当しました。あのころはまだ下っ端だったかれらが、今日に至るまで研究室を支えてくれて、まもなく修士課程の修了を迎えることになったわけです。「光陰矢のごとし」を肌身で感じる今日このごろです。
最後にご主人におめにかかったのは、2008年の秋でした。まもなく卒業する吉川さんが当時2年生で、国名勝「松甫園」の「陰陽五行の松」についての研究を進めており、なんどか尾崎家住宅に通わせていただいて、ご主人からヒアリングを続けたのですが、どうしても一部の枝振りと「水金火木土」の文字との対応が不明であることに気づき、補足調査を申し込んだのが2009年の初めでした。ところが、なにかの拍子に足首の骨を折られたということで、調査できぬまま今日の日を迎えてしまいました。
堅田門徒の「道場」に遺骨が祀られておりました。道場には何度か入らせていただきましたが、仏壇の扉をかくも大きく開いた状態でみたことはありません。その荘厳さんに圧倒されながら、線香に火をつけ、手をあわせたのです。道場は四間取りで、仏壇の対角にあるお座敷でご接待をうけました。ご主人の魂は、まだこのあたりにいらっしゃいますよ、とわたしは語りました。そして、ご主人に聞いていただきたいことをなにもかも話しました。
なんとしても、恩返しをしなければなりません。聞けば、ご主人は県の指定にはご不満で、「重要文化財以外は受けなくてよい」ともおっしゃっていたそうです。このまえ書きましたように、県の指定は国の指定に至るプロセスにすぎません。最終目標に向かって最大限の尽力をさせていただきます。わたしの力では足りぬかもしれませんが、誠心誠意努力いたします。いまは、そういうほかありません。
- 2011/03/02(水) 03:46:16|
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