周 荘 上海の同済大学に留学していたのは、1983~84年のことである。当時の研究テーマは「長江下流域における明清代住宅」。江蘇、浙江、安徽の3省と上海市郊外で約2ヶ月間、民居(住宅建築)の調査をしてまわった。もちろんそこは水郷地帯である。江南の水郷地帯は農作物が豊かな「天下の台所」であり、網の目のようにめぐる水路が流通を促し経済が発展した。巨万の富を得た商家や地主は、古くから豪壮な邸宅を建てた。それらが「明清代住宅」として今もたくさん残っているし、80年代は今よりもはるかに多くの古民家が群として残っていた。だから、どの水郷の鎮(まち)を訪ねても、日本でいうところの重要伝統的建造物群(重伝建)に匹敵する町並みを目にしたものである。
ただ、そういう伝統的な集落・都市における生活環境は悲惨なものだった。解放後まもなく、すべての私有不動産は国有になった。大きな邸宅ももちろん私有物ではない。それはいったん国有化された後、複数の世帯に「空間」を貸与された。一世帯に2部屋が原則で、運が良ければ3部屋になることもあった。一例をあげるならば、紹興で調査した寿家台門(幼少の魯迅が住んでいた屋敷)は、80年代前半では13世帯が集住するアパートに化していた。居住者はみな「楼房」、つまり高層のアパートに移り住みたがっていたが、当時の中国は貧しく、十分なアパートを建設する経済力がなかったのである。

あれから30年近い歳月が流れ、中国は世界第2位の国民総生産を誇る国となった。猛烈な開発が連続する過程で、伝統的な住宅の多くが取り壊され、歴史的な町並み景観が失われたことはいうまでもない。だから、風景保護区となった「江南水郷の鎮(まち)」が観光客を集めるようになっている。上海近郊では朱家尖、周荘、同里の3ヶ所が有名だ。このうち朱家尖は同済大学在学中に調査に行ったことがあり、同里は蘇州古典園林の第2次世界遺産申請評定(2000)の際に訪れた。同里の「退思園」は民国時代の庭園で、こぶりながら趣味がよろしく、周辺の水郷景観との融合がみごとだった。
今回、初めて周荘を訪問した。行政的には江蘇省昆山市に属し、その最南端にある。春秋時代には「揺城」と呼ばれたが、「周荘」という名の鎮(まち)の成立は宋代にまで下る。鎮のなかには水路が「井」字状にめぐり、町家は正面を街路、背面を水路に接する。これを「前街後河」という。河には14の石造アーチ橋が架かっている。なかでも有名なのが「双橋」だ。明代に建造された「世徳橋」と「永安橋」がL字に連なる。このほか迷楼、張庁、沈庁、全福講寺、貞固道院、南湖園などが町並みのランドマークともいうべき著名な建造物として知られる。
街には店が多い。豫園ほどではないが、店だらけで、80年代の閑かな水郷が懐かしくなる。その店は中華的だ。誰がどうみても「新天地」的ではなく、「豫園」的である。否、古い時代の豫園の商店と言ったほうが適切かもしれない。

[上海里弄(Ⅳ)]の続きを読む
- 2011/03/18(金) 18:39:13|
- 景観|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0