バークゥ洞窟寺院 中国の古典に「僚」という古民族名が散見される。いまはニンベンの「僚」を用いるが、史料的にはケモノヘンの「獠」が正しい。中華的世界の人々が蔑視した「南蛮」の一群をなす少数民族で、北京語ではリャオだが、古くはラオと呼んだのであろう。
ラオなどのタイ系諸民族は、11世紀ころから東南アジア大陸部に南下し拡散していったと言われている。雲南省大理に栄えた南詔国の動きと関連づけて語られることもあるが、南詔国の担い手はチベットビルマ(蔵緬)語族だから、ラオやタイなどとの関係が明白ではないし、時代もやや古すぎる感がある。
ラオスにおける統一国家の始まりは1353年に建国されたラーンサーン王朝で、その王都がルアンプラバンであった。当時のラオスは強国であり、東北タイから中国雲南省の南辺までも版図に納めていた。こういう歴史的経緯があるので、ガイドのクアントーンさんは「雲南の西双版納(シップソンパンナー)やタイのチェンマイも昔はラオスだったんです」となんどか誇らしげに語った。ちなみに、シップソンパンナーとは、ラオ語で「1万2千枚の田」を意味する。
国家形成以前のラオスは、ムアンと呼ばれる部族社会が対立する内戦状態にあった。群雄割拠の諸国を統一したファーグム王は、上座部仏教をラーンサーン王国運営の基盤となる手段として導入した。ラオスにおける仏教は、14世紀にスリランカからカンボジアを経由して伝導されたわけだが、導入期はなお内戦が激しい状態にあり、王はメコン川沿いのバークゥ洞窟に僧・経典・仏像などをまとめて隠し保護した。ここにラオス最初の寺院が誕生したわけで、ラオスにおける寺院の起源は「洞窟寺院」だと言うことができる。
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2011/08/31(水) 00:24:00 |
史跡 |
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秘密の花園 ルアンプラバンを中心とするラオスの歴史については大略を理解できたし、視察すべきものは視察した。英文の専門書もすでに数冊仕入れている。しかし、原稿を書く時間がない。明朝は5時起床で、托鉢に参加し、朝市を見学することになっている。
というわけで、またたわいもないことを書き留めるにとどめよう。
ともかく猫の多い街で、あちこちのレストランや売店で猫をみる。上は、バイクの上で昼寝していた猫だ。人が何人近づこうが動じない。外観上は、内田百のノラを思わせる(テレビの影響かもしれない)。内田百の文庫本『ノラや』をもってきていて、読み始めたのだが、可笑しな本だ。芸術院会員を辞退した頑固じいさんが、猫で泣いているのである。不眠症で倒れそうなのだ。大人のことを「一人前」と謂うのに対して、猫の成長したのは「一匹前」と表現している。帰りの飛行機で続きを読みのが楽しみだ。
夕方、ガイドさんの友だち(別のツアーのドライバー)に連れられて、山羊の焼き肉屋に行った。山羊は、2007年のベトナム以来である。ベトナムより味が良いと思った。ラオ・ビールによくあう。付け合わせの野菜に、若いドクダミの葉が混じっていた。十分いける。山羊肉と中和して美味しい。そこでも猫にであった(↓)。
食後、ラーメン(ベトナムのフォーではなく、中国の黄色い麺)の店に行って、食後に外に出ると、対面のショップにギターが2台展示してある。足を踏み入れて、ごらんのとおり(「続き」参照)、弾いてみた。写真のギターはベトナム製で、もう1台はYAMAHAの文字がヘッドに記してあったが、ガイドさんによると、「ラオスにある商品はみんな贋物」だそうである。ミランやリバプールやバルサのユニフォームも並んでいる。製造元は、いわずとしれた北隣の大国でございます。
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2011/08/30(火) 00:14:42 |
音楽 |
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黒いマミオ 町ごと世界遺産のルアンプラバンはラオス第一の観光地になっていて、立派なホテルに泊まっています。おかげで、ネットも難なく接続したんですが、まだちょっとレポートを書く元気はありません。
猫の多い町です。
空港から直行したレストランで、まず2匹の黒猫をみつけた。ごらんのとおり、上品な猫です。すらっとして、柳腰で、色気がある。「おまえなしではいきていけない」にでてきた向田邦子のマミオ(正式名称はマハシャイマミオ)は銀色のコラット種でしたが、こっちは黒猫で、おまけに1匹は鼻まで黒い漱石の福猫にも似ている。食卓の下で戯れる猫に、ディッシュの食材を落としながら、
「日本に連れて帰りたい」
と従業員に告げると、「どうぞ、どうぞ、うちには10匹いるので、1匹ぐらいかまいませんよ」と来た。わたしは真剣に、何度か「日本に連れて帰ろう」と口にした。
「名前は何というの?」
と訊ねると、「ミアウ」だという。早晩気づきました。この名前は個人名ではない。日本人が猫のことをニャーと呼ぶのと同じですね。ミアウは猫の鳴き声であり、転じて、猫の一般名称となった言葉でしょう。「この猫の名前は何というの?」と訊ねた質問を、従業員は「この動物は何というの?」と取り違えたということでしょうね。
わたしは時間をおいて、またしても真剣に「日本に連れて帰ろう」と謂った。
みんな、無理だという。飛行機に持ち込めないから。クアントーンという覚えにくい名の有能なガイドさんは、「冷凍ミンチにしてもって帰る手がありますよ」などというブラック・ジョークを飛ばして笑っているが、かれも相当な猫好きらしい。
仕方がないので、たくさん写真を撮った。それから、いろんな場所で猫に出会った。また写真を撮った。いつからこんな性になってしまったのだろうか。
こうして、わたしのルアンプラバンが始まった。
2011/08/29(月) 00:18:29 |
生物 |
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予定どおりなら、いまラオスのルアンプラバンにいるはずです。
たぶん現地でのネット接続は困難でしょうね。
(不可能とは限りませんが・・・)
月末に帰国します。お元気で!
2011/08/28(日) 00:33:11 |
景観 |
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雨上がりのナデシコ こんどこそ風邪はなおったと確信していたんですが、小雨混じりのなか山登りをしたせいか、またもや不調がぶりかえしてきて、へたってました。天気もよくない。夏に秋雨前線なんて、余計なお世話だよ、ったく・・・
というわけで、「二兎を追うものは一兎を得ず」との諺に従い、わたしは「ザコツリストの夏」を今年も断念し、美作に車を走らせた。なにぶんこの天気ではねぇ、川釣りしようという気にならない。熱い夏の午後、川風に晒されながら竿を振りたいんだから。熱くなくては話にならぬ。8月は熱くなくちゃいけない。一方、湯郷のナデシコJAPAN練習は「よほどの悪天候でない限り、練習の中止はありません」とネット上で宣言している。心強いね。美作市のHPにそのように書いてあるんだから。そもそも、雨ごときでサッカーを休むなんてことはないのです。そんなやわいスポーツではないんだ、サッカーもラグビーも・・・
岡山出身の部長さんによると、美作に行くのは、作用から高速にのって西行するのが間違いないとのことでしたが、大原インター手前のY字路に「湯郷温泉28km」の大文字を発見。そのまま地道を走り、午後の練習が始まる直前に美作市運動公園に到着したのでした。車を誘導するガードマンに、そこで言われたんだ。
「本日の午後練習は中止になりました」
[夏の風(Ⅲ)]の続きを読む
2011/08/27(土) 00:00:10 |
サッカー |
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VIDEO Her Town Too -憶い出の町 ユーチューブ漁りをしていたら、上の映像にでくわしました。懐かしい。"Her Town Too"は1981年の作品でして、まる30年前に流行った唄なんだ。この曲を初めて聴いたのは、ホームデンティストの診療室だった。ラヂオから流れでてくるハーモニーを耳にした瞬間、JTとJDのコーラスだと分かって仰天した。夢の競演だものね。これだけ対照的なボイスの二人が一緒に唱って、じつに綺麗に仕上がってます。
ここにいう Her=彼女 とは、カーリー・サイモンのこと。熱々だったJT&サイモン夫妻が破局を迎えつつあったころの曲で、「ここはぼくの町だけど、彼女の町でもあるんだ」と消えゆく恋の舞台を懐かしんでます。邦題は「憶い出の町」。「おもいで」に「憶い出」をあてるとはね・・・さすがプロだ。
ジェイムズ・テイラーは、ほんとうに良い曲を書くシンガーソングライターだと思います。ところが、もうひとつ日本人受けしていない。演歌好きの日本人は、こういう淡々とした曲調よりも、情緒的なメロディを好む傾向がある。その点、J.D.サウザーのほうが日本向きかもしれません。「ユア・オンリー・ロンリー」とか「ラスト・イン・ラブ」などの、泣きが入るメロディに日本人は弱いから。
JTのメロディは乾いている。乾いて淡々としているからこそ、切なく聞こえる。現象学みたいなもんかな。
[JT and JD]の続きを読む
2011/08/26(金) 00:02:48 |
音楽 |
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出雲市青木遺跡の復元模型制作に係わるメンバーが夕方集結しました。9月末の〆切まであと5週間。復元案もなかなか煮詰まってきているのですが、ちかいうちに出雲の神社拝殿を視察に行こう、という話で結構もりあがりました。拝殿の図面というのは案外ないのですね。本殿は指定されているけれども、拝殿は指定されていないから実測図がないわけです。こういう場合、略測と写真撮影だけでもよいから調査して、ある程度のデータは確保しておきたいものです。調査が実現することを祈っています。
一方、GWあけから継続してきた倉吉報告書と「大山・隠岐・三徳山」シンポ報告書も、ついに校了直前に至りまして、昨夕、前者は8校、後者は5校が届きました。この校正ゲラをみながら、わいわいがやがやと「海軍カレー」をいただいた次第です。
「海軍カレー」をお土産にもってきたのは、もちろん海上自衛隊横須賀基地のどん兵衛さん(別名きっかわ嬢)です。この盆休みに、なんと1週間も鳥取に滞在していたらしいのですが、研究室関係者で面会したのはヒノッキーだけ。しゃんしゃん祭で躍るエアポートと部長をどん兵衛さんはみていたらしい。
最近、ヒノッキーの長電話が話題になっているのですが、1年前のどん兵衛さんもよく長電話してましてね。そういう事実と今回の長期滞在に因果関係があるのかないのか、じつはヒノッキーがみんなに暴露しちゃったんで・・・ぐふふ・・・
「タクヲさんより髪の毛が短くなってましたよ!」
と、どん兵衛さんに会った人は口を揃えていうのです。わたしは答える。
「&ッ*イナッ#>は先生より小さくてね、がはは・・・」
[海軍カレー]の続きを読む
2011/08/25(木) 00:00:08 |
研究室 |
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今年度、摩尼寺「奥の院」遺跡については、ボーリング以外で、花粉分析・放射性炭素年代測定・岩石鑑定などの自然科学分析をおこなう予定です。これらの分析を委託する業者さんをナオキ君が整理してくれたので、以下に掲載しておきます。これは研究室のためでもあり、また、一般の皆様のご活用に資するものでもあるでしょう。
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①パリノ・サーヴェイ株式会社(花粉分析・放射性炭素年代測定・岩石鑑定)
本社:東京都中央区日本橋本町一丁目10番5号日産江戸橋ビル2階
Tel:03-3241-4566
研究所:群馬県藤岡之郷戸崎559番3号 Tel:0274-42-8129
大阪支店:大阪府吹田市南金田2丁目3番26号 ファーイースト21 503号
Tel:06-6193-9885
http://www.palyno.co.jp/inquire.htm ②文化財調査コンサルタント 株式会社(花粉分析)
島根県松江市下東川津町131
Tel:0852-23-8847
Mail: info@cons-ar.co.jp
③株式会社 古環境研究所(花粉分析・放射性炭素年代測定)
本社:埼玉県さいたま市西区土屋1795-24
研究所:奈良県天理市田町447 Tel:0743-63-3341
宮崎県宮崎市赤江1417 Tel:0985-51-7784
http://www.kokankyo.jp/gaiyo.htm ④株式会社 大和地質研究所(岩石薄片鑑定)
福島県福島市北中央3丁目9-2 Tel:024-528-5735
Mail: info@daiwageolab.jp
⑤株式会社 ミュー技研(岩石・鉱物鑑定)
東京都府中市緑町2丁目2番地の1 陽輪台府中マンション303
Tel:042-333-0711
Mail: mu-giken@sa2.so-net.ne.jp
⑥株式会社 加速器分析研究所(放射性炭素年代測定)
神奈川県川崎市多摩区登戸新町129-1
Tel:044-934-0020(代)
http://www.iaa-ams.co.jp/faq.html ⑦株式会社 地球科学研究所(放射性炭素年代測定)
本社:名古屋市天白区植田本町一丁目608番地
Tel:052-802-0703
我孫子研究所:千葉県我孫子船戸3-2-5
Tel:0471-82-5590
Mail: geoinfo@geolab.co.jp
⑧株式会社 パレオ・ラボ(放射性炭素年代測定)
本社:埼玉県戸田市下前1-13-22 ビコーズ戸田Ⅲ 1F
Tel:048-446-2345
東海支店:岐阜県羽島市小熊町島5-63 アルビアル羽島 1F
Tel:058-391-0881
Mail: info@paleolabo.jp
[摩尼寺「奥の院」遺跡の環境考古学的研究(Ⅱ)]の続きを読む
2011/08/24(水) 00:18:06 |
環境 |
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ボーリングのための下見 摩尼寺「奥の院」遺跡に係わる調査研究が再始動しました。
ボーリング調査のための下見のため「奥の院」遺跡を8ヶ月ぶりに訪れました。先生が待ち合わせ時間に遅れたため、タクヲさんと二人、門脇喫茶で珈琲をいただいていたのですが、作冬の大雪のため奥の院にあがる山道に倒木があるとの情報を得ていました。果たして、山道を進んでいくと、久松山に向かう遊歩道に枝分かれするY字路の直前の数多くの杉の樹が倒れ、道を完全に塞いでいます(↑)。この倒木をなんとかしないことには、ボーリングの機材を運び込むこともできず、調査どころではありません。森林は寺が某森林組合に移管しているとのことでして、私たちが勝手に手を出してはいけないそうです。久松山との遊歩道もY字路までであり、倒木のある部分については県庁も手がつけられないとのこと、知恵を絞らなければなりませんね。
登山では、先生が息を切らしておられました。一年前は、飛び跳ねるようにして山登りされていたのに、今回はとくに最後の「うねり坂」が堪えた模様です。夏風邪の影響かもしれませんね。
「奥の院」遺跡の加工段(平坦地)は雑草が生い茂っているかと思いきや、あまり生えていません。「井戸神の息抜き」もごらんのとおり健在です(↑)。埋め戻し土が肥沃ではないないのでしょうね。草刈せずとも作業がおこなえそうです。ボーリングを行うポイントを決めて杭を打ちました。以下のとおり、Ⅰ区(下の加工段)1ヶ所、Ⅱ区2ヶ所所の計4ヶ所です。
測点①: Ⅰ区北側ふくらみ部分にみる礎石の西1mの地点
測点②: Ⅱ区東西畦北面が西壁接する点より西に1mの斜面上の地点
測点③: Ⅱ区南北畦西面が南壁に接する点から西に3m、南に1.5mの地点
測点④: Ⅱ区南北畦西面が北壁に接する点から北に2mの地点
↑測点②(左)と測点④(右) ↓測点④(左)と測点③(右)
[摩尼寺「奥の院」遺跡の環境考古学的研究(Ⅰ)]の続きを読む
2011/08/23(火) 01:08:42 |
史跡 |
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別件で、研究室の報告書一覧を作成する必要があり、苦労してなんとかまとめましたので、以下に掲載しておきます。10年半(実質7年)で23冊。2009年にぽっかり穴があいています。卑弥呼さんの年だ。
以下、いずれも在庫僅少ですが、入手希望の場合はどうぞご連絡ください。ブログにコメントをいただければ対応させていただきますが、有料の場合もあることを予めお断りしておきます。
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①2004『東アジア漂海民の家船居住と陸地定住化に関する比較研究』浅川(編)163p、平成13~15年度科学研究費基盤研究(C)成果報告書
②2004『鳥取県の中山間地域における過疎集落の活性化に関する基礎的研究―歴史的環境の分析と再評価を通して―』浅川(編)106p、平成13~15年度鳥取県環境学術研究費成果報告書
③2004『鳥取市歴史的建造物調査研究-鳥取市歴史的建造物等のデジタル処理による目録・地図作成』浅川(編)83p、平成15年度鳥取市総合政策調査事業調査研究成果報告書、鳥取市教育委員会
④2004「建造物篇」浅川(編)、『石見銀山街道調査報告書』p.99-186、島根県世界遺産推進室
⑤2004『倉吉再興』浅川研究室(清水拓生・山本豊)16p、平成15年度鳥取環境大学環境デザイン学科プロジェクト研究6「倉吉重伝建地区火災町家群の復興計画」
⑥2004『県立淀江産業技術高等学校校舎のコンバージョン-妻木晩田遺跡環境整備のための基礎的研究(1)』浅川(編)16p、平成15年度鳥取県環境学術研究費成果報告書
⑦2005『大社造の起源と変容に関する歴史考古学的研究』浅川(編)184p、平成16~17年度科学研究費基盤研究(C)成果報告書
⑧2005『河本家住宅-建造物調査報告書-』浅川(編)100p、琴浦町教育委員会
⑨2005『倉吉の町家と町並み-重伝建地区外側の景観をいかに保全するか』浅川(編)24p、八橋往来まちなみ研究会
⑩2005『GPS&デジカメによる鳥取市の文化財建造物MAP作り 付録・Reversible Rehabilitation 旧加藤家住宅の再生プロジェクト』浅川(編)16p
⑪2005『仮設構法による巨大露出展示空間の創造-妻木晩田遺跡環境整備のための基礎的研究(2)』浅川(編)32p、平成16年度鳥取県環境学術研究費成果報告書
⑫2006『市町村合併にともなう文化財の地域問題-鳥取市歴史的建造物のデジタル・マッピングを中心に』浅川(編)107p、平成17年度とっとり<知の財産>活用推進事業報告書
⑬2006『国史跡「鳥取藩主池田家墓所」の整備に関する実践的研究』浅川(編)125p、平成17年度鳥取県環境学術研究費成果研究報告書
⑭2007『尾崎家住宅―建造物調査報告書―』浅川(編)110p、湯梨浜町教育委員会
⑮2007『加藤家住宅の実験-ローコストによる古民家修復手法の開発』浅川滋男&鳥取古民家修復プロジェクト委員会(編)135p、平成18年度鳥取県環境学術研究費助成研究&日本住宅・木材開発センター(HOWTEC)助成研究成果報告書、2007
⑯2007『ふるきかぜ あたらしきかぜ―倉吉本町通りアーケード商店街の町並み分析と再生計画―』浅川(編)98p、倉吉市教育委員会
⑰2008『山陰地域の弥生時代建築に関する実証的復元研究』浅川(編)133p、平成19年度とっとり<知の財産>活用推進事業報告書
⑱2010『文化的景観としての水上集落論-世界自然遺産ハロンの地理情報と居住動態の分析』浅川(編)120p、平成19~21年度科学研究費基盤研究(C)成果報告書
⑲2010『「文化的景観」の解釈と応用による地域保全手法の検討 -伝統的建造物群および史跡・名勝・天然記念物との相補性をめぐって-』浅川(編)88p、平成20~21年度鳥取県環境学術研究費成果報告書
⑳2010『セルフビルド&ゼロエミッションによる民家の持続的修復-加藤家住宅の実験(Ⅱ)』浅川滋男&鳥取古民家修復プロジェクト委員会(編)56p、平成21年度文化庁「NPOによる文化財建造物の活用」事業成果報告書
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2011/08/22(月) 01:06:38 |
研究室 |
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録画で表記の試合をみています。
いま後半なんですが、永里妹、良いですねぇ。
なにが良いって、フォトジェニックだからってわけじゃないけど、
フォトジェニックであるのも結構なことでして、要するに、
スターの風格がある。
怪我をした岩淵との入れ替わりみたいですが、
ひょっとすると、山東での予選の鍵を握る選手になるかもしれない。
そんな予感がしています・・・あれっ
いま、ボールとられちゃった・・・囲いこまれて、
下むいたまま球こねて、ボール奪われるのは
姉そっくりだねぇ・・・
山東での五輪予選は、最初の3戦をどう戦うか、ではないか、と。
高校野球みたいな日程の最初の3試合。1戦めに石清水がでられない。
ごらんのように、ストッパー陣の層が薄いところに不安ありですが、
幸いにも初戦の相手はタイで、メンバーを落としても勝てる可能性が高い。
初戦からベストメンバー出し、この試合みたいに前半で3-0にして、
後半でベテランを下げてしまうか、あえて初戦は1軍半でスタートし、
2戦目の韓国でベストメンバーを組むか??
[なでしこvsなでしこ]の続きを読む
2011/08/21(日) 00:08:43 |
サッカー |
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雨があがって、少し涼しくなりましたね。
医院の盆休みも終わり、ホームドクターに診てもらいました。夏の風邪はしつこい。
薬をたんともらいましたよ。
昨日はまだ熱かった。
コープの前に屋台を出しているタコ焼き屋のおっちゃんに、
「熱いね、売れ行きに影響するなぁ・・?」
と言うと、
「そんなん、去年のほうがずっと熱かったがな」
とのお返事。
そうだよな・・・あの摩尼山の日々から一年たって、今年は少々だらだらした夏休みをすごしてます。そろそろ動き出さないとね。
VIDEO
2011/08/20(土) 00:00:31 |
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つい先日、ブログに非公開のコメントを頂戴した。三朝町の中津について調べていたところ、本サイトにたどり着いたそうで、『
文化的景観の解釈と応用による地域保全手法の検討 』報告書を入手したいとのこと。文化的景観に関しては、鳥取の中世城下町と限界集落を扱った県環境学術研究費報告書と、世界自然遺産ハロン湾の水上集落を対象とした科研報告書の2冊をこれまで刊行しているが、外部からの反応は前者が圧倒的に多い。東京の某大学院生から長く熱い感想文のお手紙を頂戴したり、さして付き合いもない京都の某教授からも「文化的景観の調査方法を思案している最中で、おおいに参考になった」との礼状が届いたり・・・文化的景観と過疎地の関係について、だれしも興味をもっているのだな、と感じているところです。
一方、ハロン湾の報告書は「制度」と「CG制作のスキル」にやや偏向したきらいがあり、クアヴァン村の生活文化をいまひとつ描ききれていない点、悔いが残っている。いまはまた「大山・隠岐・三徳山-山岳信仰と文化的景観-」シンポジウムの報告書が4校まで進んでいる。あとは表紙を残すのみ。ヒノッキーさん、読んでますか? 早く表紙をデザインしてくださぁい!
さて、驚いたのは、コメント寄稿者が北海道北見の方だったことである。わたしが十数年間、常呂と標津の委員会に通っていたことをお知らせすると、「中津は先日旅行で通りかかったもので調べていました」との返信があった。同業者なのかな・・・でもなければ、こんな報告書を欲しいとは言わないだろうな・・・昨日、報告書の発送を済ませました。
[北見から]の続きを読む
2011/08/19(金) 02:09:00 |
研究室 |
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いったん治ったはずの夏風邪がぶりかえしてきて、どうも具合がわるい。盆もあけたので、さっそくホームドクターを訪ねてみたのだが、金曜日にならないと医院は再開しないことが分かった。仕方ないので、薬局で風邪薬を買った(2度目だ)。
そうそう、「
おまえなしでは生きていけない 」シリーズの再放送をやっていますね。よほど好評だったのでしょう。夏休みに入ってからも何度か録画をみたんですが、この番組を流すと、一家がソファに根付いてくれます。お茶の時間は、猫の動画に限りますね。わたしはさらに調子にのって、猫をテーマにしたプロジェクト研究を後期に立ち上げようと企んでおります。すでに、何冊か書籍も集めてまして、ラオスとミャンマーでぼちぼち読み始める予定です。
「家族と側近が語る周恩来」という番組の録画もよく視ています。やはりBSプレミアムの4回シリーズ。もし周恩来がいなかったら、あるいは周恩来が毛沢東に反旗を翻していたら、中華人民共和国はどうなっていたでしょうか。あの時代に周恩来という人物がいたことで、中国は国家としての命脈をたもった。それが、今日の繁栄の礎になったわけです。わたしが中国に留学していたのは1982~84年ですから、周恩来と毛沢東が亡くなって6年後に中国に渡ったわけですが、この番組をみて、ようやく80年代前半の歴史を客観的にふりかえることができるようになったような気がしました。あのころの留学生はみな不満だらけで暴発寸前でしたが、中国側からみれば、文革より1000倍ましな時代だったということでしょうね。
とてもタフな2年間でした。でも、いろんな意味で、今の中国ほどひどくはなかった。周恩来も小平も反日教育などしていない(と思いたい)。「中日友好」が基本でした。おかしくなったのは、江沢民からでしょう。反日暴動を扇動したり、日本代表チームに対してペットボトルなどを投げつけたり・・・80年代から90年代前半、そのようなことを中国はしなかった。いつか書いたと思いますが、日本が初めてダイナスティカップを制した92年、中国は0-2で圧倒された日本代表に対して拍手を送っていたんですよ。
職場を変えてから、8年ばかり完全撤退していた中国に少しずつ通うようになっているこのごろ・・・自分の残された時間のなかで、中国と積極的に関わるべきか、離れたままでいるべきか・・・悩ましいところです。
[夏の風]の続きを読む
2011/08/18(木) 04:32:37 |
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City Switch 2011 Izumo 2回目の2 8月6日(土)。1日目も無事に終わり、2日目は「柿渋塗り隊」の活動から始まりました。これは、柿渋の剥がれてしまった木綿街道沿いの町家の壁の一部に柿渋を塗るものなのですが、柿渋の強烈なにおいには驚かされました。服には付かなかったのですが、手に付いてしまい一日中臭いがとれませんでした。このあと、とても寂しく感じたのですが、旧石橋酒造の中庭に吊るしていた紙の傘を撤去しました。付けたときの作業にはかかわっていなかったのに、とても存在感があったせいか何かものさみしさを感じました。
午後からは旧石橋酒造の活用案を考えました。2日目は、1日目のディスカッションを基に最も実現可能で魅力的な「染物」「工房」「カフェ」の3テーマにしぼり、グループに分かれ考えていき、1日目同様、中間発表の後、18:30から木綿街道振興会へのプレゼンをしました。プレゼン方法も1日目と同じで、写真の上にトレーシングペーパーを貼り上から自分の提案を書き込んでいきました。コメントとしては「和をテーマにした提案が少ない」「事業として成り立つのか」「若者が関わっているまちづくりは活気があっておもしろい」「小さなことから自分たちでやっていくことから始めるのがいいのではないか」など、1日目よりも提案に対して現実的なコメントを多く頂戴しました。これで、ディスカッションは終わりました。夕飯を食べ、一息いれたあと、1日目・2日目のコメントをワードでまとめ、2日目は終了です。
[木綿街道のこと(ⅩⅢ)]の続きを読む
2011/08/17(水) 00:00:58 |
講演・研究会 |
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City Switch 2011 Izumo 2回目の1 8月5~7日、ぼくは匠くんに誘われ、島根県出雲市平田「木綿街道」でのワークショップCity Switch 2011 Izumoに参加させていただきました。このワークショップは木綿街道にある今は使われていない酒蔵の活用案を考えるものです。ワークショップ自体は3日間だったのですが、ぼくたち二人は前日入りしようと4日、大学の試験が終わったあと電車に乗り3時間近くかけて平田に向かいました。夕方前くらいに鳥取を出たのですが、平田に着いた頃には外は真っ暗で、ぼくたちは疲れきっていました。木綿街道の石橋酒蔵に着くと、振興会のKさんとHさんが出迎えてくれました。近くにスーパー銭湯があると聞いたので、さっそく荷物を置いて向かいました。ぼくは初めて行ったので、銭湯の広さに感動しました。露天風呂もあったので、ついつい長風呂してしまいした。そのあと近くのガストで夕飯を済まし、疲れていたのですぐ寝ました。匠くんがうるさかったです。
[木綿街道のこと(ⅩⅡ)]の続きを読む
2011/08/16(火) 00:08:24 |
講演・研究会 |
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これはインコです。
ゴーヤがたくさん実っています。ただ、鉢植えですから、水分も栄養分も十分ではない。黄色い花が咲いて、さて実になろうとしているコッチュ(別名*ンコ)もどきの状態がそのまま黄色く熟して枯れてしまう場合が少なくありません。やっと大きくなってきたと思ったら、まだまだ成長過程であるにも拘わらず、部分的に黄に変色してしまう場合もある。インコになるわけです。
ゴーヤだけじゃなく、キウリもトマトもナスビもみんなそうなんですが、スーパーに出回っているほど大きくなるのを期待しちゃいけませんね。市場の半分程度の大きさになったら収穫します。そうしてやんないと、ほかの実に栄養分がまわらない。上のインコは小さすぎますが、これ以上蔓につけていても腐るだけだから取りました。みんなこんなに小さいわけじゃありません。
市販のゴーヤの半分の大きさでちょうどいいんです。オムレツにしても、天麩羅にしても、炒め物にしても、それで適量。市販のゴーヤは大きすぎて、正直、もてあましてしまいます。
ゴーヤは以前と比べ、苦みが薄れましたね。ある農学系の教授が「そんな美味しいもんじゃない」と言ってましたが、そんなこたぁありませんよ。腕次第で、かなり美味しいゴーヤ料理ができる。少なくとも日本で食べるゴーヤは、良質の栽培植物=野菜です。
かつて華南各地で調査をくりかえしていたころ、福建と雲南でよくゴーヤを食べました。あちらでは、クーグァ(苦瓜)と言います。文字通り、苦かった。野生種ではないか、と思いたくなるほど乱暴な苦みがありました。田舎の飯屋で苦い苦瓜の炒め物を頼むと、尋常でない量がでてくる。まるで修行のようにして、その苦い苦瓜の炒め物を調査メンバーで譲りあいながら平らげたものです。
みんな、懐かしい想い出だ。
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2011/08/15(月) 00:03:38 |
食文化 |
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町家の調査(2) Sh邸(中町) 2日目に調査したSh邸は、木綿街道の範囲外にあたる中町の切妻妻入型町家である。中町は本陣などが置かれて平田の中心であった本町の南側に位置し、湯谷川を境にしている(↓)。寛政四年(1792)の「万差出帳(よろずさしだしちょう)」に「中町」の記載はみられない。また、明治29年の『平田町沿革誌』によれば、中町の東側は嘉永六年(1853)頃、西側は明治4年(1871)頃に新設されたという。
このように街区は比較的新しい時代の開発だが、貞享四年(1687)の川違い(流路の整備や治水工事)以降、「杵築往還」の一部となっている。それまでの往還ルートは本町から湯谷川沿いを西に向かう道であった。杵築往還の敷設から中町の成立までは200年近い時間差があり、町の成立年代についてはもう少し詳細な調査が必要だろう。ちなみに、Sh邸は中町の西側に位置している。
Sh邸は、切妻妻入型の町家で外壁は漆喰塗り。また海鼠壁の意匠もみられ、平田における代表的な町家の類型といえるだろう。ここで、漆喰塗り町家の定義についてふれておきたい。漆喰塗りの町家については、川越の「土蔵造」の町並みがよく知られている。それに対して、昭和40年代に実施された京都大学上田篤研究室(都市計画)による平田町並み調査では、『町家・共同研究』(1975)に「塗り家」という呼称を用いて定義している。土蔵造との違いについては不明ながら、強いて言うならば桁や梁・庇は木部を露出させている町家(↑)が「塗り家」であり、木部を土で隠している町家が「土蔵造」ということだろうか。ひとまず当面は上田研究室に倣って「塗り家」造と呼ぶことにしたい。
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2011/08/14(日) 08:16:57 |
建築 |
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町家の調査(1) 8月9日(月)・10日(火)にかけて、平田で町家を調査しました。これまでは建物外観の予備的悉皆調査や古写真・文献資料の収集、連続立面図作成用の写真撮影などをおこなってきましたが、今回から本格的に町家の調査(実測)に移行しました。これから秋にかけて何度か平田に通い、いくつかの類型を代表する町家を調査する予定です。
今回は、平入長屋型でカケダシの残るSa邸(片原町)と切妻妻入町家のSh邸(中町)の2棟を調査しました。調査メンバーは実測経験が少ない学生がほとんどで、前日のワークショップから平田入りしている匠&キム3号も戦々恐々・・・いま、無事に予定通り調査を終えられたことにホッとしております。
Sa邸(片原町) Sa邸は片原町の街道南側に位置している。片原町については、「木綿街道のこと(Ⅳ)」で報告しているとおり、もとは街道の片側(南側)が原っぱであったことに地名の由来がある。聞き取りによれば、南側に家が建つのは安政四年(1857)以降で、それまでは、北側にしか家並みがなかったとのことである。悉皆調査での聞き取りでも、これを遡る建築年代のものはなく、建物外観からも江戸末期に下るような要素はみられなかった。ほかに、建築年代に関わる史実としては明治九年(1876)の「片原大火」があり、26棟もの建物が焼失したという。
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2011/08/13(土) 03:46:50 |
建築 |
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「
サンマとハバネロ 」のハバネロも栽培してましてね。ごらんのとおり、見事なオレンジ色になってくれました。カラーピーマン(パプリカ)は緑のまんまで、なかなか色づいてくれないんですが、ハバネロは美しく変色してくれて喜んでいます。
このトウガラシ類、帰省した娘が東京にもって帰ります。「要るか」と訊くと「要る」と答える。ほかにも、大葉、バジル、ミント、ゴーヤなどを大量にもってくそうです。
平田のシマムラで買った短パンをずっと穿いてるんですが、ガーデニングしてると蚊に咬まれて痒いのなんの・・・でも、まぁ娘のためだ。辛抱して、収穫しました。
そうそう、夕飯は、大葉とゴーヤと茄子の天麩羅にしたんです。ぜんぶわが家の庭で採れた野菜。美味かった。ビールによくあいますね。その前の晩はお袋を交えての夕食会だったんですが、88歳のお袋はどういうわけか、わたしのつくる「トマトソース」がお気に入りになってしまいましてね。トマトソースに使うトマトと鷹の爪も庭で採れたものです。
トマトソースのレシピを紹介しておきましょうか。
まずニンニク3片のみじん切りと鷹の爪1枚を低温のオリーブオイルで炒め、焦げ目がついたら、千切りしたタマネギ1コを混ぜて中火で炒める。塩・胡椒、そして赤ワインをドバ~ッといれて、強火でアルコールをとばし、ブイヨンを一個おとします。このとき水で味の調整をする。煮たってきたら、ホールトマト2缶、さらに千切りしたトマト2個いれ、あとはとろ火でぐつぐつ煮るだけです。あんまり煮すぎるといけません。適当なところで、いったん火をとめ冷やしてしまう。これで味がよくなります。パスタを茹でるときに、ソースをあたためてパスタを絡めれば完成。トッピングには乱切りした茄子かズッキーニの素揚げだとか、湯通ししたアスパラがよく合いますね。
以上、みなさん、ご存じだとは思いますが。
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2011/08/12(金) 02:17:37 |
食文化 |
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1点を先制した前半の終盤あたりから、ポール・スコールズの発言が頭をよぎるようになっていた。
2010-11シーズン終了後にサッカー生活にピリオドを打ったスコールズ(マンU)は、チャンピオンズリーグ決勝でのバルセロナ戦をふりかえり、点差(1-3)以上の大きな実力差を感じたことを素直に告白している。サッカーキングの
サイト からコメントを引用しておこう。
あの試合を見返してはいないが、あの夜、僕たちはバルセロナとの大きな差
を感じた。まるで100万マイル(約160万キロ)も彼らの後ろにいるようだった。
これが、マンU生え抜きの元イングランド代表選手の言葉である。その感想は、ライブ(もちろんTV)でCL決勝を視た者の印象と変わらないだろう。最初の15分だけマンUは攻め立てたが、残りの75分はバルサに翻弄されきっていた。その最初の15分の戦法も中盤を省略した放り込み戦術であり、いまどきこんなやり方でバルサを倒せるなら、どんなチームだってやっているはずであり、ファーガソンがバルサ対策としてこの程度のことしか考えていなことを知って落胆の度合いは大きくなった。
昨夜の韓国も最初は攻めてきた。敢えて述べておくと、韓国はマンUよりマシだと思った。単純な放り込みではなく、両サイドを徹底的についてきたからだ。どんな時代でもサイドからのえぐりとセンタリングは強力な武器になる。
しかし、日本はいつしかキープ力で韓国を圧倒してしまった。日本はこれほどの球回しとスキルをいつから身に付けたのだろうか。南アフリカでは、こんなに良くなかった。岡田の守備的戦術(4-3-2-1)はあくまでリアクション・フットボールでしかなく、パスサッカーと呼ぶレベルからはほど遠かったではないか。岡田の守備的戦術は、カテナチオのイタリア人、ザッケローニにほぼ継承されると予想されていたのに、いまや日本はスペインと並ぶ攻撃的パスサッカーの代表的チームになってしまった。日本が戦って、負けても仕方ないと思える国は・・・そうだな、スペイン、ドイツ、オランダと、コパを制したウルグアイぐらいのものではないだろうか。いま日本のポジションはそのあたりまで上がってきたとわたしはみている。
ただ、問題がないわけではない。後半の後半、つまり正ボランチの遠藤と長谷部を下げてから、大きなピンチが連続するようになった。相手が好調ならば、2~3点失っていただろう。遠藤と長谷部の代役ができる若手の成長が待ち遠しい。ストッパーの弱さもまだ改善されていない。清武の世代の台頭をまつしかないのか。それとも、憲剛やトゥーリオの復活も視野に納めておくべきなのか。
[日韓戦評]の続きを読む
2011/08/11(木) 03:14:13 |
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雲州平田「木綿街道」のイベントに一部の学生が先週末から参加しており、それに前後して町家の調査も始まったりして、わたしも途中から合流しました。イベントや調査の成果については、まもなく学生が報告してくれるでしょうから、今日は韓竈神社(からかま)と鰐淵寺のお話をしておきましょう。
9日のお昼に大量のお稲荷さんとかき揚げ天麩羅をいただいた調査隊一行は、午後から韓竈神社と鰐淵寺浮浪滝をめざしました。唐川町の韓竈神社に向かう途中、助手席にいたキム3号が何気に訊いてくるのです。
「神社やお寺はどうして山の上に多いんですか?」
なかなか本質を突いた質問ですね。
「山そのものがカミだとか、山に精霊が棲むと昔から思われてきたからだよ」
というのが小生の答え。もともと山嶺や山林は俗世間から離れた聖なる場所であり、なかでも巨岩、洞穴、岩陰、大木、滝、泉などの特殊な自然物や場所に精霊が宿ると信じられていた。そういう場所に建築が建てられると神道や仏教の境内になってしまうわけです。つまり、もとは自然崇拝の場所であったところが神道に取り込まれれば神社となり、仏教に取り込まれれば寺院となる。それだけのことだと思っています。
韓竈神社は、岩陰にたつ一間社流造本殿の手前脇に巨石があり、その裂け目を神門としています。わたしのような肥満人はなかなか門をすり抜けられない。その岩門までの山道が急でしてね。石段で整備されてるんですが、勾配が45度前後あるんではないか、と思われるほどでして、汗が噴き出てたいへんでした。
韓竈神社の由緒は古く、『出雲国風土記』(733)と『延喜式』(927)の両方に社名がみえます。祭神は素蓋嗚命(スサノオノミコト)なんですが、スサノオが「新羅に渡られ 我が国に植林法を伝えられるとともに鉄器文化を開拓されたと伝えられていることと関係があろう」という説が案内板に書いてありました。また、『雲陽誌』(1717)にひく古老伝には、「素蓋嗚命が乗り給いし船なりとて、二間四方ほどの平石あり、これを<岩船>という。この岩は本社の上へ西方より屋根の如くさしかざしたる故に雨露も当たらず世俗に<屋方石>という。又 岩船のつづきに周二丈余り 高さ六間ほどの丸き立岩あり これを<帆柱石>という」と記されているそうです。この船に係わる伝承は(船に乗ってやってきた)渡来人の姿を想像させるものであり、それは「韓竈」という神社名にそのまま映し出されているように思われてなりません。近隣の漁村「
十六島(ウップルイ) 」もまた渡来系の言語文化をあらわすものという説があるので、どうも平田から唐川あたりの海岸線に新羅の影がうっすらとみえてなりませんね。
[滑る鰐淵の崖]の続きを読む
2011/08/10(水) 14:50:08 |
景観 |
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オープンキャンパス2日めは、わたし一人が研究室に残りましてね。学生たちは朝から平田の調査に向かいました。昨年までなら、一人残っているだけでなんにも問題なかったんです。研究室公開と言いつつ、訪問客はごくわずかで、内職三昧のオーキャンだったんですが、今年からはそういうわけにはいきません。
学生が不在だと「かき氷」係がいなくなるんで、前日、出前で「かき氷」をさしあげたE先生の研究室に依頼して、いざとなったらそちらの学生さんに氷を掻いてもらおうと思ってたんですが、よくよく考えてみると、かき氷にこだわる必要はない。アイスクリームを買いそろえておけばいいや、と思い直した次第です。
かき氷は時間稼ぎに抜群の効果があります。お客さんが来て、手動で氷をかいて、それを食べる時間をみると、ゆうに半時間以上かかる。昨年まで最強の武器でした。オーキャンに来る学生さんとじっくりじっくり話すことができますからね。アイスクリームの場合、食べて終わりだから、時間が稼げない。でも、今年はそれで良いんです。なにぶん来訪者が多いから、次々に高校生が来室します。2日めは2時間半で6組相手をしました。みんな県外者でして、いちばん多かったのは岡山県ですが、遠くは豊橋や三重から列車を乗り継いできた方もいました。三重の男子校生は麗しきお姉さんと一緒で、最初はカップルだろうかと思ったんですが、その姉さんは夏休みで東京の学校から逃げ帰ってきてるんだそうです。放射能汚染は、東京どころか、すでに三重にまで及んでいると嘆いてられました。太平洋側に比べると、鳥取は安全だと思うのですが、実態はどうなんでしょう?
[アイスクリーム]の続きを読む
2011/08/09(火) 00:00:44 |
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オープンキャンパスの前日、同僚のA先生から、依頼をうけた。「東京から孫がきとるんですけど、サッカーやり始めたところで、少年サッカーチームの練習などあれば加えてほしい」とのこと。さすがの小生も、少年サッカーチームに知り合いはいないので、「はい、では、うちの研究室で恒例の駐車場サッカーをやりますから、ご参加ください」ということになって、6日午後のオーキャン終了後にごらんのとおりの運びとなった次第です。
昨日報告したように、まずは「カキ氷づくり」からスタートしました。オーキャンの研究室公開が終わったのは午後3時でして、まだ外はがんがんに晴れており、このままサッカーしたらみんな熱中症で倒れちゃうってことで、みんなでカキ氷を食べたんですが、そのカキ氷をS次郎くん(A先生のお孫さん)が一人で削ったんですね。というわけで、小一時間費やしたおかげで、ようやく陽も翳り始め、午後4時からいよいよキックオフ。
この日はS次郎のパパ、パパのお姉さん(たえちゃん)も加わりまして、チーム編成は以下のとおりです。
Aチーム: S次郎くん、パパ、おじいちゃん、小生
Bチーム: たえちゃん、ヒノッキー、白帯、タクヲ
ゲームはつねにS次郎くんのドリブルを中心に展開しました。メッシのような鋭いドリブルを繰り返すS次郎くんにBチームは翻弄され続けますが、そのカットから、たえちゃんの即効カウンターというパターンで反撃。20分ハーフの試合は一進一退の攻防で進み、結果は7-6でAチームが辛勝しました。S次郎くんも2得点の大活躍でした。
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2011/08/08(月) 00:00:53 |
サッカー |
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真夏のオーキャン、大盛況!! 「公立化」を前提にしたオープンキャンパス、初日から大盛況です。
研究室公開は12時半から3時までのわずか2時間半なんですが、次から次へと研究室にお客さまが押し寄せ、用意したかき氷は飛ぶようになくなっていきました。ちなみに、今回用意したシロップは、イチゴ、ブルーハワイ、マンゴゼリー、練乳でしたが、高校生の一番人気はブルーハワイでした。すべてのシロップを垂らしてほしいという要望もありましたね。ともかく熱いので、かき氷は高校生や親御さんの食指を大きく動かしたようです。
さて、開学以来存続してきた「環境デザイン学科~建築・環境デザイン学科」はついに今年度で幕を閉じ、来年度の公立化以後は、環境学部環境学科居住環境プログラムとして再スタートを切ります。今まで以上に「環境」「文化」「芸術」としての居住環境に重きをおき、工学部建築学科との差別化を図っていく所存です。
こんなふうに、高校生のみなさんには説明したんですが、分かっていただけたでしょうか?
さて、かき氷マシーンは4期生ハルさんの置きみやげですが、なにぶん手かきなので、時間がかかります。ハルさんと同期のトマトさんを中心に、白帯くんやヒノッキーが悪戦苦闘しつつ、大量のかき氷を生産していきました。ちなみに、明日のブログの主役を担う小学校6年生サッカーボーイは、かき氷も自分でかくと言って、おおはしゃぎでありました。
2日めは、学生諸君が平田の町並み調査にでかけるため、研究室公開は教師一人が対応します。高校生諸君への説明とかき氷生産を一人でこなすのは不可能ですので、今日はアイスクリームをサービスする予定です。おいしいミルクティも準備しますので、よろしくお願いします!
[かき氷完売御礼!]の続きを読む
2011/08/07(日) 04:53:55 |
研究室 |
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本年(2011)5月25日、福岡県飯塚市(旧笠松村)出身の画家、山本作兵衛が描き残した筑豊炭田の記録画等697点が「世界記憶遺産」に登録された。200件ちかい世界記憶遺産に、日本の記録が登録されるのは初めてのことであり、それは「なでしこJAPAN」の世界制覇に匹敵する快挙といえるだろう。
世界記憶遺産(Memory of the World)とは、危機に瀕した歴史的記録を保全し、研究者や一般人にひろく公開することを目的としたユネスコの事業である。より具体的には、楽譜、書物、絵画などの記録物を後世に伝えることを企図しており、1997年から2年ごとに登録事業をおこなっている。世界遺産(WorldHeritage)、世界無形遺産(Masterpiece of the Oral and Intangible of Humanity)とならぶユネスコの三大遺産事業の一つと言われるが、毀損されたり、永遠に消滅する危機に瀕している記録の救済を目的とするため、すでに国内で資料のデジタル化や公開がなされているものは世界記憶遺産の対象とならない。
山本作兵衛(1892-1984)は7歳の時から父親に従って炭鉱に入り、以来、筑豊各地の中小炭鉱で働きながら、日記や手帳に記録を残した。石炭産業に陰りの見え始めた戦後、63歳の時から絵筆を取って明治末~戦後の炭鉱生活を描くようになり、92歳で亡くなるまでに約2000枚の水彩画・墨画を仕上げている。うち1000点余りの絵画や日記を遺族らが田川市と福岡県立大学に寄贈しており、2009年に目黒区美術館で開催された「‘文化’資源としての<炭鉱>展」にその一部が出品され、再評価の気運が高まった。田川市と県立大は2010年3月、作兵衛の絵画589点、日記65点など計697点をユネスコの世界記憶遺産に申請し、その1年2ヶ月後にみごと登録をはたしたのである。「日本の産業近代化の中で重要な拠点となった筑豊炭田の重要性と、労働者個人による良質な記録性」が高く評価されたという。
問題は日本政府の動きだが、ながく記憶遺産事業には無関心であり、本年5月11日、ようやく『御堂関白記』と『慶長遣欧使節関係資料』の推薦を決定し、2013年の登録をめざしていた。ところで、記憶遺産は、世界遺産とちがって国際条約ではないため、自治体等が国を介さず登録申請できる。田川市と県立大学の申請は、政府の動きとはまったく無縁であり、むしろ政府と距離をおくことで成功をおさめた希有の例と言えるだろう。作兵衛の残した絵画や日記は文化財に指定されていない。文化庁経由では申請すらできなかったと言われている。つまり、国内での評価が低く、保全のための適切な支援をうけていない、ということである。そういう現実が「毀損されたり、永遠に消滅する危機に瀕している記録」としての評価の一助となったとすれば、こんなに皮肉なことはないだろう。
それにしても、心配になる。国が推薦する『御堂関白記』と『慶長遣欧使節関係資料』は世界記憶遺産に登録されるのであろうか。いずれも国宝に指定されており、資料化や公開化は国内で十分なしうるではないか。とすれば、世界記憶遺産本来の趣旨とはかけ離れた文字記録でありはしないか。
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2011/08/06(土) 01:37:32 |
景観 |
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明日(6日)と明後日(7日)はオープンキャンパスです。公立化に向けての最初の夏休みオーキャンということで、県外からの申し込みが殺到しているようです。どっかでミニサッカーしたい、と思ってるんですが、余白はないかもしれませんね・・・
ASALABは教育研究棟4階のホワイエと4409演習室で、以下の5つのパネル展示をします!
いつものように、かき氷など用意してお待ちしておりますので。
①重要伝統的保存地区拡張に伴う町並み整備の課題と展望 -はるかなまち、倉吉探訪- 倉吉の町並み保存地区に軒を連ねる「看板建築」には伝統的な町家のファサード
(外観)が隠されている。そのような「復原的修景」による景観整備の手法とと
もに、町に活力をもたらす「昭和レトロ街」構想を提案する。
②文化的景観としての水上集落論 -世界自然遺産ハロンの地理情報と居住動態の分析- ベトナム北部の世界自然遺産ハロン湾では、宏大なカルスト海面地形のひろい
範囲に水上集落が点在し、世界的にも稀な「文化的景観」を形成している。
CGを駆使し、近未来の水上集落景観をシミュレートし、景観整備の課題を
浮き彫りにした。
③摩尼寺「奥の院」 -発掘調査と復元研究- 2010年の8月から11月にかけて、喜見山摩尼寺「奥の院」遺跡で発掘調査を
おこなった。岩窟・岩陰仏堂の正面にある加工段(平坦面)で、下層は平安
時代、上層は室町後期~江戸初期の遺構を検出し、その復原研究に取り組んだ。
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2011/08/05(金) 00:00:54 |
研究室 |
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7月25日(月)午後におこなった古民家再生プロジェクト「医食同源の空間をめざして」発表会(@里仁田園クリニック)の記事が、8月1日(月)の日本海新聞に掲載されました。里仁出身のアシガル君が「鳥取城三ノ丸高等学校」以来のマスコミ登場となり、喜んでおります。今後の良い刺激になるでしょう。白帯くんにもコメントしてほしかったんですが、ダウンしたのが本当に残念でした・・・
ちなみに、明日くわしくお知らせしますが、8月6日(土)7日(日)のオープンキャンパスでも、「医食同源-福祉のむらおこしと古民家再生-」プロジェクトのパネル展示をします。いま、トマトさんとアシガルくんが懸命にパネルを制作しております。ご期待ください。
[医食同源の空間をめざして(Ⅹ)]の続きを読む
2011/08/04(木) 00:00:02 |
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8月1日(月)の午後2時すぎ、京都駅で電話のベルが鳴った。奈良文化財研究所の前所長、町田章さんの訃報である。しばし動揺し、あちこちに電話して情報を得るのに腐心した。まもなくスーパーはくとが鳥取にむかって動きだす。午後6時からの会議を終え、大学でしばらく雑用をこなしてから、深夜十時、オウム返しで奈良をめざした。深夜の中国縦貫道では、まさに走馬燈のように、町田さんの想い出が暗闇のなかをかけめぐっていった。
わたしにとっての町田「所長」はわずか2年だけで、残りの12年間は平城調査「部長」だった。だから、「さよなら、部長」と言いたい。おそらく町田さん自身も平城部長時代を自分の人生の最盛期だと思っていただろう。少なくとも、わたしはそう信じている。
まさに二人三脚の12年間だった。平城の発掘調査はもちろんのこと、日中都城の比較研究(中国社会科学院考古研究所との交流)、朱雀門・東院庭園・大極殿の復元事業、京大人環での教育など、すべてのことを町田さんとともに歩んだ。
「おれについてくれば間違いはない」
が彼の口癖だった。酔っぱらってそういう彼に、しばしば口ごたえした。
「ついてくれば間違いないっていうからついてったら、滅茶苦茶やんか・・・」
最も辛かったのは平城宮の復元事業である。まともな研究者なら、ああいう愚かな事業に係わりたくない。研究所自体が推進しようとしたのではなく、外部からの圧力が大きく、抗っても不可能なその大きすぎる力に身を任せるしかなかったのである。研究所の大半を占める考古学者は、復元事業のことなど、なにも知らない。ただ、建築と庭園(遺跡整備)の関係者だけが犠牲になっていて、それを束ねていたのが町田さんだった。整備の中核にいる例外的な考古学者だったのだ。
部長時代の町田さんは辛抱強かった。ときに頑固で、自分の主張を譲らないこともあったけれども、上司(つまり所長)からしばかれれば、方針を変えた。そういう部長の姿に、わたしたちは親しみを覚えていた。毎日のようにお酒につきあって、カラオケスナックにもよく通った。町田さんのカラオケは、聴くに耐えぬほど下手くそだったが、酔っぱらって演歌を唱う姿にこの世の極楽をみるようであった。
あのころが懐かしい。あのころに戻りたい、とときに思う。
[心凍らせて]の続きを読む
2011/08/03(水) 00:04:33 |
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月曜日から体調不良がつづいている白帯です。
7月29日(金)の午後、以前から計画していた島根県平田市の「木綿街道」にタクヲさん、ヒノッキー、おぎんと自分の4人で向かいました。体調的に不安があったので平田に向かう前に、行きつけの病院と薬局によってもらい、薬をもらってから出発しました。大学から車で休憩もとりつつ3時間くらいかけて辿り着きました。一晩宿泊させてもらう宿につき、少し休憩したあと建物を見学しました。すごく広くて、かなり驚きました。夜になると、暗く静かで最高な建物でした。見学した後、近くにある「割烹温泉ゆらり」に行き、温泉を堪能しました。こちらもすごく広く落ち着いた雰囲気でして、何回でも行きたくなるところでした。温泉につかりながら上を向くと星が見えて、最高の気分でした。温泉から出て、ガストに夕食を食べに行き、予算的に税抜き800円以内ということで、自分は体調のことを考え、バランスのとれた定食を食べました(じつはステーキが食べたかったのですが、予算オーバーで断念しました)。その日は夜遅かったので、そのまま旧石橋酒造に帰り、明日の計画を立てたのち、少し蒸し暑いなか寝ました。
翌30日(土)の起床は、タクヲさんのキックで目覚めました。みんなが起床した後、朝食を食べに持田醤油店に行きました。朝食には焼きおにぎりと漬物と味噌汁などがあり、焼きおにぎりがかなりおいしかったです。朝食を食べ終わったあとに「木綿街道」の町並みを見学しました。なかなか美しい街並みでタクヲさんのガイドで案内してもらいました。ここ「木綿街道」は江戸期に大火があり、その後、防火に優れた塗り壁の建物になり、土蔵壁造の町並みができたとのことでした。近くに平田舟が通る川があり、そこは昔、荷物の搬送、特に稲刈りの運搬や肥料や客土用の土砂の運搬物の運搬などする場所だったのです。その川が近くにあるため、洪水の時に建物への影響が出てくるため石垣で基礎をあげていたり、川の水の逃げ場も造られており、昔の人の知恵を実感しました。見学後、町並み調査をしました。町並みの連続立面図を作るとのことで、昨日の夜に計画したグループで取り掛かりました。タクオさんとおぎんの二人が建物の高さがわかる写真を一軒ずつ写していき、ヒノッキーと自分が建物の幅を測っていきました。
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2011/08/02(火) 00:00:04 |
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