はやくも2011年度後期のプロジェクト研究2(1年/4学科合同)&プロジェクト研究4(2年/建築・環境デザイン学科専門科目)がスタートしました。1年は6名、2年は3名の満杯です。
1・2年とも「猫」をテーマとしていますが、2年は専門領域との関係でさらに「建築空間と音楽」の問題を絡めています。以下、シラバスより抜粋します。
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P2: 愛おしい猫たちへ -おまえなしでは生きていけない- どういうわけか、猫のことが気になっています。三月ばかり前、BSプレミアムで4夜連続放送された「おまえなしでは生きていけない-猫を愛した芸術家の物語-」を視て、いろいろ考えさせられるようになりました。我が家(奈良)にも十数年前から住みついた野良猫(愛称デブ)がいて、家族はみな猫に癒されています。鳥取にいるときも、猫のことが気になって仕方ありません。もともと犬も猫も好きではなかった私が、恥ずかしながら、まるで赤ん坊を可愛がるように猫を愛おしく思っているのです。
ここは一つ「猫」について考えてみようと思うに至りました。ただし、わたしは生物学者ではないので、動物学的に猫を研究するわけではありません。猫とかかわる古今東西の著作・映像・音楽などを探しだし、「猫を通してみた人間とその生活」について考えてみようと思います。また、鳥取県東部の愛猫家(猫を飼っているお宅)を訪ね、インタビューをすることも考えています。 猫好き、大集合!
P4: 猫とわたしと音楽と どういうわけか、猫のことが気になっています。一月ばかり前、BSプレミアムで4夜連続放送された「おまえなしでは生きていけない -猫を愛した芸術家の物語」を視て、いろいろ考えさせられるようになりました。我が家(奈良)にも十数年前から住みついた野良猫(愛称デブ)がいて、家族はみな猫に癒されています。鳥取にいるときも、猫のことが気になって仕方ありません。ここは一つ「猫」について考えてみようと思うに至り、今年度後期のP2・P4は「猫と係わる人の生活世界」をテーマにすることにしました。
もうひとつ気になっているのは「音楽」です。猫とともに、わたしを癒してくれているのが音楽だからです。住まいやカフェなどの建築空間にふさわしい音楽、ふさわしくない音楽がありますが、その相性の原因は何なのか。建築空間と音楽の関係に関する考察が、最終的に「猫の癒し」とリンクすれば、このプロジェクトは大成功を納めたことになりますが、それはちと欲張りかもしれませんね・・・
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次週から4回にわけて、BSプレミアム「おまえなしでは生きていけない-猫を愛した芸術家の物語」の録画4本をまず視ます。その後はさてどなることやら、今から楽しみです。
2011/09/30(金) 00:00:38 |
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ついにステージに復帰することになりそうです。米子鬼太郎空港以来、約1年半ぶりにギターをもって人前で演奏するんだ。うまくいくかな。最近、ギターはそこそこ膝の上にあります。譜面をみて人の曲を弾くような余裕はなく、もっぱら自分のアレンジで弾きたい曲を弾いてますが、さきほど学生2名の前でヒミツの曲を演ってみたところ、まぁまぁの反応。人前で演ってもよいレベルには達しているのではないかな・・・
さて、今月25日(日)に六弦クラブの第19回練習会が開催された模様ですが、ミャンマーから帰国後、あまりの疲労に耐えかねて、わたしはひとり大覚寺の下宿で寝ころんでおりました。次回第20回練習会は文化の日(11月3日)に米子水鳥公園で開催される年次恒例の「コハクチョウとギターの夕べ」(今年は名前がちがうかも?)に決まっており、幹事のKさんからお誘いのメールが届きました。
ずっとさぼっているのに、お誘いいただけるなんて、ありがたい限りです。がんばろうと思っています。また、チラシが届いたら、正式に広報させていただきます。
首長族のギター ところで、ミャンマーの報告だが、バガンのことも、インレー湖のことも、いまだに書けない。専門書がいっぱい届いており、それに目を通さないとまずい、という気持ちがさらに執筆意欲を削いでいるのかもしれない。でも、それよりなにより疲れてますね。だいぶ良くなってきたんだけれども、まだ頭が正常に働いていない。
というわけで、またギターの話でもしましょう。インレー湖が所在するシャン州と湖の南側にあたるカヤー州には「首長族」がいまも1万人以上住んでいる。民族学で有名なカヤン族だが、わたしは「パタン族(あるいはバンタン族)」という呼称を聞いた。船に乗って、パタン族の集落に行けるものと勘違いしていた。集落は湖から遠すぎる場所にあり、外国人の入境を容易に許さないエリアであるという。パタン族の女性を集めて舞踊や機織りをみせる土産物店がインレー湖のなかにあった。
ごらんのとおりである。カヤンの女性は真鍮リングを幼い頃から少しずつ首にまきつけていく。首がながくなっているわけではない。真鍮リングで顎と鎖骨を圧迫しているのだという。なんで、こんなリングを首にまくのかというと、「うなじを虫に刺されないようにするため」などいう可笑しな説明を頂戴したが、そんな機能論で片づく代物でないことはだれだって分かる。この真鍮リングは、女性を含む「家」の財産の象徴である。祖母から母、母から娘へと金属の装飾品がうけつがれていくのだ。しかし、おそらく、そういうステータスシンボルであるにとどまらず、セックスアピールの媒体でもあるのではないか。現代女性におけるイアリングやネックレスと近い意味をもったアクセサリーの一つとして理解できるだろうと私は思った。そういえば、縄文の耳飾りとも似ているな。こどものころは小さく、大人になると大きくなって、耳たぶに埋め込まれる耳飾り。仏像の穴あき垂れ耳も、耳飾り使用の証拠としてしばしば引用される。
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2011/09/29(木) 03:48:41 |
音楽 |
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VIDEO 檳榔の木陰で 檳榔子を噛む習俗にはじめて接したのは、1983年のヤップ諸島においてであった。褌一丁で生活するヤップの男たちは、気分転換に檳榔子を噛む。煙草も吸う。檳榔子と煙草は交替交代のナルコティックスだ。檳榔子を噛むと、歯茎や唇は真っ赤になる。常習者はひとめで分かる。
その後、どこかで、檳榔子を噛む男たちをみた。あれは、どこだっただろうか。忘れてしまった・・・東南アジアか、スリランカか・・・ペナン島の名の由来がビンロウジ(檳榔子)だというから、マレーシアなのかもしれない。
ミャンマーの市場で、まずキンマをみつけた。その横に乾燥した檳榔子をおいている。もちろんどちらも売り物だ。材料だけ売っている場合もあれば、キンマの葉に石灰を塗り、檳榔子をくるんで売るのもみた(↑)。男たちがそれを買って、ただちに口に含む。「噛み煙草」という表現を案内人は口にした。噛んでいると、煙草とおなじように、軽い酩酊感に酔うというが、書いている本人は噛んだ経験がないので、どんな快楽なのかは分からない。
煙草と同じく、発癌性のある成分を含んでおり、健康によいはずはないのだが、檳榔子を噛んでも(あるいは煙草を吸っても)、酒とちがって、「地獄には堕ちない」と教えられた。仏教信仰心の篤いミャンマーでは、「・・・すると、地獄に堕ちる」という禁忌が少なくない。耳に痛いお説教ばかり聞かされた感なきにしもあらず。
昨日の記事の最後に中川イサトの「蘇州夜曲」を貼り付けたことに気づいている読者は少ないかもしれない。「蘇州夜曲」の次に「檳榔の木陰で」という曲がでてくる。イサトさんも、「檳榔」という特殊な椰子のことを知っているのだ。かれには「
茴香 」という曲もあった。やはり特殊なハーブだ。こういう知識のあるギタリストは、いい曲を書くよね(関係ないか?)
昨夜と重複するけれども、上にはりつけておく。
↑キンマの葉 ↓檳榔子
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2011/09/28(水) 03:28:37 |
文化史・民族学 |
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25日(日)午後2時より青木遺跡復元設計の打ち合わせを行いました。今年2月ごろから復元設計の計画が始まり、先輩方がおおいにサポートして下さったおかげで図面ももうすぐ完成というところまできました。あとは尺を揃えたり(奈良時代中期の復元なので、1尺=295mm)、枝割(垂木の間隔)を調整したりの細かな作業を残すのみです。打ち合わせをするたび飛び交う建築史用語にわたしは悪戦苦闘で、構造の話になかなかついていけませんが、11月に控えた中間発表では、用語と構造・部材の関係をきっちり理解した上でプレゼンしたいです。
打ち合わせも終わり、ASALABのOB、ヤッサン先輩と竹蔵先輩より届いたお中元ビールで乾杯!!となりました。
箱の中にはヴァイチェン(ドイツ発祥のビール)、ペールエール(イギリス発祥のビール)、サクラビールという3種類の瓶ビールが入っていました。コップに注いでみると、それぞれ色が違っています。サクラビールは大正元年の復刻ビールとのこと。この時代に門司で誕生したのがサクラビールで、九州産最初のラガービールだそうです。また、瓶に貼ってあるラベルは大正時代に使用されていたものを使っていて、レトロな雰囲気を醸し出しています。そしてもう一つ、ヴァイチェンはジャパンアジアビアカップ2011というビール品評会で人気の高い激戦部門、ヴァイスビール部門で最高賞の金賞を受賞したビールだそうです。
ではでは、お味の方は・・・・・。
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2011/09/27(火) 00:00:55 |
研究室 |
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あぁぁ、とうとう夏休みも終わっちまいましたね・・・
昨年の夏は摩尼山一色でしたが、今夏はラオス、ミャンマーに、平田でした。休みが終わると憂鬱になりますが、前期に比べると後期はましです。忙しいのは後期ですが、後期のほうが精神衛生上、快適です、わたしの場合。
最後の三連休、録画で「ターミネーター3」をみました。つまらなかったな。筋書きが読みきれている。女ターミネーターにも、いまひとつ迫力がない。色気もなければ、執拗さも足りない。男女二人の主人公が死なないのはわかっているし、シュワルツェネガーが勝つのも当たり前。
それでも、女主人公の父親がスカイネットのボタンを押すところは、少々緊張した。
「わたしはパンドラの箱を開けてしまった・・・」
とその将軍?は呟きながら息をひきとる。ボタンを押した瞬間、機械たちの反乱が始まり、人類は機械による核攻撃で絶滅の危機・・・
かくいうわたしも、パンドラの箱をあけてしまったのです。
パソコン画面に「ウィルスバスタークラウド2012への無料バージョンアップ」サービスの告知がでた。2~3日、様子をみていたのですが、気楽にクリックしたら、えらいことになりましてね。
ウィルスバスタークラウド2011はアンインストールされたのに、ウィルスバスタークラウド2012がインストールできないという危険きわまりない状態に陥ってしまったのです。サポートサービスとのあいだで小1時間チャットを繰り返してでた結論は「windowsインストーラーにアクセスできません」というものでありました。
windows XP の環境が不完全になっているということであり、もうどうしていいのか分からなくなったので、パソコンをシャットダウンし、予定通り大学に行って、OBたちと青木遺跡神社模型の復元設計の詰めをやりました。この打ち合わせについては、ヒノッキーが報告してくれます。
上下の写真は、そのイントロのつもりです。
ミャンマーでは「食べるお茶」をお茶の時間のおつまみにします。↑↑はバガンのニャウンウー郊外農村ででたもの。ナッツやおかき類に茶葉とニンニクスライス、胡麻などを混ぜていただきました。ちなみに器は漆塗りですが、構造本体は割竹でできています。 ↑はインレー湖の水上集落の一般住居ででたもの。浮島特産のトマトスライスに茶葉とニンニクスライスを混ぜていただきます。お味については、明日のお楽しみ・・・
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2011/09/26(月) 00:00:46 |
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青木遺跡神社建築復原設計も大詰めが近くなり、土曜日の夕方、大学へ。アシガル君とヒノッキーの指導をした後、まる1週間手をつけていないミャンマーの連載を再開しようとしたのだが、1週間ばかり「けんびき」症状に悩まされていて、教員室のミニベッドで横になると、そのまま眠りに落ち、気がつけば深夜になっていた。5時間ばかり睡眠をとったおかげで、いくぶん肩が軽くなっている。
昼に蕎麦をたぐっただけで、お腹がすいていたので、久しぶりにココスに行って、竹蔵が好きだった包み焼きハンバーグを食べた。じつは食欲もずっとなかったのだが、今夜はおいしくいただけた。
アマゾンで注文していたミャンマー関係の文献が少しずつ届いている。もう少し待てば、結構な量になる。それまで待とう。ラオスとちがって、ミャンマーは王朝の歴史-文明の歴史と言い換えてもいい-が深いので、歴史の大枠を理解するにも時間を要する。本格的な連載の再開はそれからでもよいだろう。
タナカ 今夜はサービスショット掲載をかねて、「タナカ」について簡単に話しておこう。
上下の写真は、バガン2日のレストランでのディナーショー。民族舞踊を少女と女形が踊っているシーンだが、少女たちの頬に注目していただきたい。白い粉を無造作に塗っている。これはタナカという木をすり下ろした粉だ。タナカは白檀の一種で匂いもよく、皮膚を日射から守る効力がある。生薬なので、肌を痛めることもない。こういう舞踊家たちが専門に使う化粧品というわけではなく、ミャンマーの女性にあまねく使用されている。
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2011/09/25(日) 05:07:43 |
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町家の調査(7) 続・旧石橋酒造 前回は屋敷全体について述べたが、当然、旧石橋酒造それぞれの建物の文化財的な価値も高い。特にオモヤ(↑)について今回細かい調書をとったので、さまざまなことが判明した。以下、とくに重要な点を箇条書きしておく。
1)オモヤ内部には長押をまったく用いておらず、数寄屋の要素は皆無であり、書院造的というほどでもない。逆に、ハナレの座敷には面皮の長押を多用している。
2)2階座敷において、18世紀中期以前の平面的特色である「1間ごとに柱を立てる」部分がある。
3)大黒柱などの古材の艶光りが、これまでみてきた18世紀中頃(もしくはそれ以前)の民家とよく似ている。
4)正面の屋根が「シコロ葺き」風の低い二重屋根になっている(ツシ2階のように、古ければ古いほど2階の丈は低い)。
5)外観は土蔵造のようにみせるが、垂木先端部などの木部は土で塗り固めていない。つまり、純粋な「土蔵造」ではなく、必ずしも大火後の建築とは言えない。
以上のことなどから、オモヤの建築年代が18世紀中期頃まで遡る可能性があるだろう。さらに、本家にあたる登録文化財「本石橋家」(↓)の建築年代に係わる家伝もまた「宝暦」=江戸中期頃である。
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2011/09/24(土) 08:41:03 |
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町家の調査(6) 8月末調査からわずか3日後の9月3日(土)、平田を再訪しました。すでに報じたように、4日に松江で神魂神社と真名井神社の調査が決まり、その前日を利用して雲州「木綿街道」の中核となる旧石橋酒造を深く分析しようということになったのです。
旧石橋酒造 旧石橋酒造(↑)については、これまでにも何度かブログに記載されているが、改めて整理しておきたい。本建物は2008年より空き家となっていたものを出雲市土地開発公社が所有し、今年度から出雲市に移管された。現在は、町並み調査の依頼元である木綿街道振興会によって管理され、まちづくりの核としてワークショップなどのイベントが開かれるなど、活用の方法を模索している。建造物自体をみても「切妻妻入塗り家造り」の形式で、オモヤに付属して前背面に庭(↓)を設けたハナレがあり、昨年に国の有形登録文化財となった本石橋家(旧石橋酒造の本家)とともに木綿街道周辺でも有力な家柄であったことがうかがえる。
旧石橋酒造は、新町を通る街道筋の西面に位置している。敷地はおよそ800坪で背面は片原町内の岡屋小路に面しており、建物が密集する町内にあって広大な面積を占めている。敷地内にはオモヤやハナレのほか、蔵や工場(コウバ)など酒蔵の営業当時のままの状態で10棟以上の建物が配される。
調書を作成する際には、所有者の聞き取りなどから建物名や部屋名を確認する必要があるが、今回はそれができなかったため、オモヤの他は「ハナレ」2棟、「蔵」2棟、「工場」4棟、「倉庫」2棟と「付属屋」に類別してそれぞれに番付をおこない類別した。
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2011/09/23(金) 08:33:32 |
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日本 2-0 マレーシア(H) 大雨のなか、ショットバーにもぐりこんで大画面をのぞくと、すでに1-0で日本はリードしていた。
カウンターに腰を落ち着け、ゲームをじっくり観察する。U22日本代表の球回しは特急のようだ。ずっと女子サッカーを見続けてきたからなのか、ボール・スピードもラニング・スピードももの凄く速く感じた・・・
「撫子のスピードは高校男子ぐらいですかね?」
とマスターが問いかけてきた。
「そんなに速くないでしょ。北の少女たちが男子高校生ぐらいで、撫子はもっと遅いよ」
と私は答える。これは撫子の悪口ではない。撫子の(独W杯における)サッカーの質は高かったし、賢かった。それは認めるけれども、スピードはなかった。撫子はスピードを売りにしているチームではない。
U22代表チームは2点めを奪いあぐねている。前半だけで4-0にすべきゲームを1-0のまま終えてしまった。U22のテンポは速い。速いが、緩急はない。8ビートなら8ビートのまま、何曲も続けて聞かされているようで、視ている側もあきてくる。守っているマレーシア代表チームは、そんなテンポにすっかり慣れてしまったようだ。
A代表は、もっとちんたらしている。女子サッカーものんびりだ。攻め急がず、緩いパスでボールをまわし、ここぞというところでギアチェンジをかける。A代表では遠藤、撫子では宮間がそのテンポの中核にいる。これにあたる選手がU22にはいない。清武は素晴らしい選手だが、同じテンポでは凄みが半減する。のんびりしたA代表のリズムのなかに投入された清武のスピードと運動量は脅威だ。マレーシア戦の清武は気合いが入りすぎていた。キックオフから飛ばしすぎた結果の怪我ではないか。もっと力を抜く時間があってもよいはずだ。A代表タジキスタン戦のことなど気にせず、じっくり静養してほしい。
上原浩司のストレートは130キロ代だが、もの凄く速くみえるのだと、たしか韓国代表の打者(だったか、監督?)が舌を巻いていたように記憶している。上原が多彩な球種とコントロールで打者を惑わし、緩い球と速い球の差を大きなものにしているからだろう。だからバッターは、上原の130キロ代のストレートに空振りする。U22は、攻め急ぐことなく、後方で意味のないつなぎのパスを繰り返すような時間がもっとあってもよかったのではないか。ドイツ戦で、石清水がブーイングにもめげずバックラインでボールをキープし、撫子ほんらいのリズムをつかんでいったような工夫が、U22マレーシア戦にも必要だったとわたしは思う。
撫子と比較して「速い」と感じたU22代表チームは、撫子ほど良いサッカーをしていなかった。世界チャンピオンとしての撫子の偉大さに思いを馳せたゲームである。
↑イラワジ河の夕陽(パガン)
2011/09/22(木) 00:08:38 |
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日本 1-0 中国 日中戦のおこなわれた11日は移動日で、大阪に前泊してモーニングコールをお願いしていたのだが、コールはまったく聞こえず、予定時間の40分後に目が覚めて慌てた。タクシーを飛ばしたが、プラットフォームに駆け上がった瞬間、ラピードが動き出した・・・もちろん飛行機に乗れなかったわけではない。
撫子の結果は、たしかヤンゴンのホテルでキャッチした。ミャンマーの首都ヤンゴンのホテからメールがつながらなくなったのだが、いちおうネットに接続してヤフーニュースをみることはできたのである。そこで、1-0の勝利と丸山の怪我を知った。
1週間経った18日の帰国日に録画をみた。機中泊だった前夜の睡眠は2時間。帰宅して、ソファを動けない。録画はたっぷり溜まっている。撫子の試合は3番目にみて、後半の得点シーンの前に眠りに落ちた。目覚めて、後半を見直した。
選手を替えると、動きがよくなる。北朝鮮戦の重さは消えていた。タイ戦のようなぎこちなさもない。ただ、宮間は消えている。中国はミスが多い。北朝鮮のような切れもない。なによりホームであるにも拘わらず、この試合運びはないだろう。
試合後、高瀬が大泣きしていた。なんで、あんなところで泣くのだろう。一方、丸山の大けがは幽霊のせいだと母親が力説しているらしい。
中国戦を終え、五輪へむけてのもう一つの戦いが始まった。18人のメンバーに残るのはだれか。GK(控えとあわせて2名)、4バック、2ボランチはうごかしがたい。これで8名。宮間と川澄も決まりで、10名。4バック&2ボランチの控えとして、矢野、宇津木、上尾野辺、田中も有力。残るは4名のみ。大野、永里姉妹、安藤、丸山、高瀬、岩淵の7名の攻撃陣のうち4名が選出されることになるのではないか。攻撃陣は豊富だけに、高瀬と丸山の未来が明るいとはたしかに言えないが、がんばってほしい。コマーシャルやバラエティの出演を控え、サッカーだけに精進し、複数のポジションを高いレベルでこなせる選手に女神は微笑むだろう。「勝負着」などをネット上に公開して喜んでいると・・・(やめとこうか)・・・【完】
フットサル・ミックスのお知らせ さて、ASLABも対外試合が決まりましたよ。男女混合、経験者・未経験者混合の「フットサルミックス」が10月8日(土)の午後6時~9時、市民体育館で開催されることになりました。詳しいことはまだ分かりませんが、4チームの総当たりリーグ戦と思われます。サトニモ・アソックスの健闘をご期待ください。
詳細はいずれまた。
↑シュエヤビュイ僧院にて(次頁も)
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2011/09/21(水) 00:13:53 |
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9月4日、持田醤油さんで美味しい朝ご飯をいただき、モチベーションがあがるなか、正装で気持ちをひきしめつつ平田を出発し、松江市にある真名井神社へ向かいました。前日、市民の安全を守ることに徹していたOB2人も現地で合流。台風のこともあり天候が心配でしたが、雨も神社の周りを覆う樹々たちが傘代わりをしてくれたので、作業をすることができました。樹々たちに感謝、感謝です。
真名井神社と神魂神社、どちらの神社も私は初めての訪問になります。気持ち膨らむなか最初に訪問したのは真名井神社です。石段を上がるとまず柱が高く、土俵のような雰囲気に見える建物が目に入ってきました。これが拝殿です。自分がイメージしていた拝殿とは全然違っていたので驚きました。こういう四面開放の拝殿もあるのだと勉強になりました。正確には3間×3間の四面開放です。神魂の拝殿と共通するのは、平面が正方形に近いということでしょうか。
社殿は本殿、中門、拝殿、神楽殿、境内社(末服為神社・児守神社)から成っていて、拝殿は昭和9年の遷宮に伴って再建されたものです。遷宮以前には、拝殿の周辺にいろいろな建物が建っていたようで、その様子が江戸時代の指図に描かれています。現在の拝殿は切妻平入銅板葺平屋建で、礎石・基壇には自然石が使われ、丸柱が立ち、四面開放。そして、本殿が朱塗りなのに対し、拝殿は色塗りがされていない素木造り。
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2011/09/20(火) 13:12:10 |
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以下はミャンマー訪問の4日め、14日深夜にマンダレーのホテルで書いたものである。ロビーでは無線LANが通じるということなので挑戦したのだが、「下書」の保存時に接続が切断した。ミャンマーにおけるネット接続は不安定きわまりなく、メールは送受信ともできない。
撮影したデジカメのデータ容量は20ギガに達した。ルアンプラバンの4倍である。夜は写真データの整理だけで相当な時間を浪費し、ブログの記事を書く余裕がない。毎朝6時にモーニングコールがある。そんなこんなで、ブログに久しぶりの穴をあけ続けることになった。よい休養だったかもしれない。
ウーペイン橋の風に吹かれて バガンにはやられてしまった。
「仏教聖地の3大遺産」という高い評価を得ていることだけは知っていたが、ここまでのレベルだとは思いもよらず、唖然・呆然・絶句の連続にわれながらあきれている。アンコール遺跡群やスリランカの仏教遺跡群に比肩しうる文化遺産に接しつつ、ミャンマーの政情が世界遺産への登録を妨げてきたことを残念に思うと同時に、諸外国の手がつけられていないモニュメントと景観に抱かれて幸せだった。
いま、ネットに接続できるかどうか微妙な状態にあり、また、本気でバガンのことを書くエネルギーも残っていない。バガンはとっておくことにして、昨日訪問したアマラプラの話から始めることにしよう。
ラオスで街のあちこちをうろついていた猫がミャンマーにはいない。街を徘徊しているのは、頼りない犬たちばかりなのであまり嬉しくなく、猫について問うと、みな「猫は家の中にいるのよ」と答える。バガン郊外の農家には、たしかに猫がいた。スコールの日、猫は暖かい炉端でぐたぁっと寝そべったままほとんど動かない。猫のぐうたらぶりに、ひどく満足な気分になったものである。猫は、こうでなくてはいけない。
昨日アマラプラに移動して、僧院の托鉢を見学した。
ミャンマーにおける最後の王都はマンダレーで、19世紀の中頃にアマラプラから遷都された。アマラプラはマンダレーから車で20分ばかりしか離れていない。要するに隣町である。アマラプラは「僧院の都市」として知られる。古くから僧院があって、若い僧侶はアマラプラで学ぶことがなにより栄誉とされる。マハーガンダー僧院がその代表格で、じつに全国から1700名以上の僧侶が集まって修行生活を送っている。僧侶は日に2度食事する。一度目は早朝未明、二度めは午前10:30ごろからで、後者の托鉢を見学した。托鉢に使う食材は信者が寄進する。いちどの寄進に500ドルが必要であり、寄進がない日は高位の僧侶がその額を負担する。この日は数名の主婦が寄進し、托鉢に参加していた。僧侶は鉢をもって列をなし、大量の米飯(ウルチ米)とバナナ2本をわたされる。そのまま食堂に入って、オカズとともに食事をとる。食事を許されるのは12時までで、以後、眠るまで何も食べてはいけない。
その過程を撮影し続けていたら、いくつもの僧房で猫があらわれた。猫も犬も食べ残しの食材を待っている。ミャンマーでは、食材を食べ尽くすのは恥ずかしいことだとされている。僧侶も必ず食べ残す。僧院は、犬猫にとって恩恵の固まりであり、托鉢の直後に動きが活発になる。いろんな猫をみた。全体に細身である点は、ラオスと変わらない。
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2011/09/19(月) 02:19:59 |
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9月4日、松江市の真名井神社と神魂神社の拝殿の調査をOBメンバーを中心におこないました。出雲市青木遺跡の復原模型の建築設計に反映させるための基礎的調査です。神社建築は本殿の資料が数限りなくありますが、拝殿となると驚くほど少なく、今回あらためて出雲地方における拝殿の特性を考えるよい機会になりました。
当日は真名井神社を午前、神魂神社を午後に略測・写真撮影などしましたが、まず神魂神社の拝殿から報告します。神魂神社は、2年前の隠岐出雲巡礼でも訪れています。私はこれで3回目の訪問となり、何かしらの縁があるのではないかと心の隅で思っていた次第です。まずは拝殿の参拝、そして、6名がおのおの担当の作業をおこないました。
神魂神社拝殿はこけら葺き切妻造妻入平屋建で正面に向拝がつきます。平面は梁間1間×桁行3間。低い基壇の上に礎石を配置し、床を少し揚げています。平側に板壁と板しとみ窓がつきます。
神主様からの聞き取りによりますと、前身建物は現在のものより小さく、桁行き2間であったそうです。たしかに、桁には2間+1間の繋ぎ痕跡がみえます。背面側の2間分が大正再建時の当初規模で、正面側の1間分が付け足されたものと思われます。本殿木階正面に拝殿の中央がくるように設計されていることなどが伺えます。
妻飾の虹梁は2重になっていて、おそらく当初の2間分の桁と複合していたものでしょう。桁にのる下側の梁に絵様はありませんが、その下の飛貫の位置にある虹梁には絵葉があり、遠くからみる限り、渦は結構細くて丸くなっています。18世紀後期~19世紀前期のものを桁とともに再利用したのでしょう。
この拝殿は大正年間に再建されたものですが、すでに述べたように、当初は梁間1間×桁行2間の平面でした。ただし、梁間1間は2間分を中央柱を抜いて飛ばしたものですから、平面は2間×2間の正方形に近く、本殿の平面と近似しています。本殿の場合、正面2間の片側に木階をおきますが、その木階の位置を拝殿の中心軸にもってくるため、拝殿梁間中央の柱を省略したという言い方ができるでしょう。これを大正年間に建て替えて、桁行を3間にのばしたわけですが、桁の継ぎ足しが明瞭に看取でき、梁や妻飾(束立)などは江戸期の前身建物の部材を再利用した可能性が想定されます。
>
この日は台風の影響で雨が降り続け、実測するにはコンディションが悪く苦戦しました。しかし、木綿街道での実測の経験が活きて、なんとか1時間ほどで自分の担当分を描き終えることができました。
拝殿の調査をご快諾いただいたこと、宮司さまに深く御礼申し上げます。
[神魂神社拝殿の調査]の続きを読む
2011/09/18(日) 01:30:29 |
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町家の調査(5) 円応教嫁島協会愛宕布教所 円応教嫁島協会愛宕布教所(以下、布教所)は宮ノ町の北側に位置しており、前述のO邸と道を挟んで対面にあたる。敷地の奥行きは狭く、オモヤ以外に付属する建物はない。
建物はそれぞれ高さのことなる棟を直交させてつないでいる(↑)。外観上は切妻の平入と妻入を併用しており、周辺の町家と比べても特異な形をみせる。東側二間半の平入部分はツシ二階の塗り家造り。対して西側二間の妻入部分は高二階で、ケラバの母屋まで塗り込めているので土蔵造となっている。また、前面道路に対して上屋は斜めに振れているのに対して下屋は道と平行になっているため、斜接である。
内部平面(↑)は中央の半間を西側の間取りに取り込んでいる。東側二間は前から四畳半、三畳、六畳に半間の縁がつく。西側二間半は六畳、四畳、八畳に東側二間の縁が延長してとり付く。なお、東側と西側では柱通りが一致しないことから、もともと別の建物であったものを内部で繋いだと考えられる。それぞれをつなぐ半間の空間は、もとは庇合だったのではないだろうか。
小屋組みは折置組で、牛梁上に棟束を立てて棟木を支え、母屋については棟束と上屋柱を繋ぐ斜め梁に束を立てて支える。また、平面で別棟の可能性を推察したが、庇合だったであろう半間の東側の柱どおりには小屋裏で壁が立ち上がっていることからも伺うことができる。
本建物については、現所有者に話を聞く事ができず、資料に乏しいため建築年代を知る事ができなかった。ただ、平屋部分については軒高が低く、内部の天井はすべて大引天井で材の中には、手斧跡らしきもの(↑)が確認できる。また、長押を一切使っていないことなどから、18世紀中期まで遡るかもしれない。
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2011/09/13(火) 13:19:17 |
建築 |
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モン族の光と影 南方中国の山岳焼畑民、ミャオ(苗)族が東南アジアのモン族であることはよく知られている。ところが、やっかいなことに、ミャオとは関係ないもう一つのモンがいる。
昨夕、ミャンマーのヤンゴンまでやってきた。ミャンマーには135を超える民族がいるが、南部のモン州はモン族を中心とする行政区であって、ミャンマーのモンは東南アジア最古の先住民族とまで呼ばれる集団なのである。紀元前から活動歴があり、前300年ごろにスワンナプーム王国を建国し、前200年ごろから上座部仏教を信仰し始めたという。清朝時代に南下してきたミャオ=モン族とはまったく異なる集団なのである。
ラオスのモン族は「ミャオ」と呼ばれることを嫌う。「ルアンプラバンの夢」シリーズ(Ⅰ)で述べたように、「ミャオ」とは「猫(の鳴き声)」と同音であり、モン族はこれを蔑称として毛嫌いしている(中国において「苗」の呼称を苗族が嫌っているという話は寡聞にして知らない)。
ラオスのモンはベトナム戦争における米軍の傭兵集団だった。ベトコンと一体になって、ラオスの社会主義国家建設をめざしたパテト・ラオと戦うだけでなく、特殊部隊としてベトナムに乗りこみ米軍の最前線として大活躍し、大量の戦死者を出した。1975年のサイゴン陥落、ラオス人民共和国成立後、多くのモンは難民と化して、米・仏・豪・中などに亡命したが、ラオス国内に残る傭兵とその一族を対象に「モン狩り」が執拗に続けられた。合衆国がタリバンを永遠に憎み続けるように、モンに対するラオス政府の怨念が晴れることはないようで、旧傭兵としてのモンの掃討作戦はいまも止んでいない。
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2011/09/12(月) 01:51:37 |
文化史・民族学 |
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町家の調査(4) 岡茂一郎商店 岡茂一郎商店は新町の「横丁」に位置する。新町をとおる街道筋は、本石橋家や旧石橋酒造が軒を連ねる南北軸がメインストリートになっているのに対し「横丁」はそれに直交して船川へ向かっていく道で、これも「松江杵築往還」の一部である
調査建物は木綿街道内に三つある醤油蔵のひとつ。創業は四代目茂一郎の頃で明治31年[1898]からだという(今の所有者は七代目)。三代目までは同じ場所で石屋を営んでいた。
敷地は横丁の両側を範囲とし、南側を店舗兼住居、北側を工場(コウバ)としている。南側はオモヤ、蔵2棟に茶室と付属屋(便所・風呂)が建ち、昭和22年に茶室の新築と併せて作庭した庭園がある。周辺には、岡氏所有の借家が数棟あり、同地区内で有力な商人であったことがうかがえる。
オモヤは切妻平入形式で、ツシ2階とまではいかないまでも周辺の平入町家に比べると2階の「せい」は低い。また、1階は出雲格子・縦格子・下見板貼、2階は縦格子と、腰に四半張りの海鼠壁がまわっており、建具をサッシに変えてはいるものの町並みの景観に寄与している。
間口(東西)七間半×奥行(南北)五間で、東側三間は背面に座敷を二間半増築している。また、西側二間についてはもともと別棟(借家?)であったが、大正末の大規模改修の際に小屋上げをして大屋根を繋げている。内部には大胆にも小屋組みが残っており、当時の2階高を知ることができる。
現在の大屋根は和小屋組で、棟通りに牛梁を架け、その上に軒から一間とばして小屋梁を架ける。小屋梁より上は束で母屋を支えて貫を通している。
固定資産台帳によればオモヤは明治28年[1895]の建築。重伝建地区倉吉の町家においては、明治中期頃に高二階の町家に建替えられたと推定しており、年代観としては妥当なように思われる。気になるのは、創業が明治31年で建築年代とは3年の時期差があるのだが、この期間を醸造を始める準備期間とみてよいのだろうか? 再訪時に確認したい。
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2011/09/11(日) 12:42:08 |
景観 |
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町家の調査(3) 8月29日(月)から31日(水)にかけての3日間、木綿街道で建造物調査を行いました。今回は大学の夏期休講期間まっただ中ということもあり、調査員は学生のほか研究室OBも含めて総勢8名の大所帯。ちなみに教授は、ご存知のとおりラオス出張中です。
私が大学4年生の時、卒業研究のフィールドとなった琴浦町河本家住宅(現重要文化財)の調査でも、当時の3・4年生10名以上の調査隊で臨んだことを思い出します・・・
今回は、前回の調査や里仁の古民家で実測経験を積んだヒノッキー、白帯、おぎん、アシガル、匠に心強いOBも参加してくれたこともあり、3日間で6棟もの町家を調査することができました。中には、急きょ調査に入らせていただいたお宅もあり、まとめ役として奔走したあげく、ご迷惑をおかけすることもありました。毎度のことながら、平田の皆様の懐の深さ、大きさに助けられております。この場をお借りして御礼申し上げます。
さて、今回調査した町家は以下の通り
1)旧石橋酒造 (新町/切妻妻入町家)
2)T邸(中町/切妻妻入町家)
3)岡 茂一郎商店(新町/切妻平入町家)
4)O邸(宮の町/切妻平入町家)
5)円応教嫁島協会愛宕布教所(宮の町/切妻平入町家+切妻妻入付属屋)
6)持田酒造(片原町/切妻平入町家)
なお、旧石橋酒造については今回の調査後の9月3日(土)に再度訪問していますので、後ほど報告したいと思います。
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2011/09/10(土) 13:00:49 |
建築 |
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紳助のいた街 訊きもしないのに、ガイドさんが「島田紳助が2年ばかり前に来たんですよ」と教えてくれた。紳助の芸能界引退宣言から数日後のことである。テレビのロケで、ルアンプラバンの宣伝をしてくれたのだという。感謝の気持ちを滲ませていると同時に、日本人から最新の情報を引き出したい意図を感じなくもない。いつものように意地のわるい私は、
「熊田耀子かだれか、若いタレントを連れてきたんじゃないですか?」
と質問した。
「いえ、奥さんとお二人でした」
と答えたガイドさんは、さらに言葉を続けた。
「とても閑かな方でした・・・」
賑やかな教師に対する揶揄と聞こえないこともなかったが、私は「疲れてたんでしょうね」と推測し、ガイドさんは首を縦にふって頷いた。
日曜日の10チャンネル、昼から「委員会」「笑点」「行列」とみる。このなかで、笑いの質が高いのは圧倒的に「笑点」である。頭がカラッポになったような爽快感が残る。「委員会」はもうマンネリで、とりわけ辛坊某の出しゃばりが最近目に余りますね。あれは司会ではない。
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2011/09/09(金) 13:45:31 |
都市 |
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日本 1-1 北朝鮮 分厚いスモッグに覆われた済南でも、お天道様はちゃんとみてらっしゃる。押されまくった93分のわずかな一瞬の隙間に授かったオウンゴールで勝ちきり、4戦連勝で倫敦五輪切符プレゼントなんてわけにはいかない。そういう安易な道程を、神仏がお許しになるはずがありません。
どうなってもいいから告白しちまいますけれど、日本が1点勝ち越した直後から、わたしは「北朝鮮、がんばれ!」と何度か口にしてました。こんなひどい内容のサッカーを4試合も続けてやってきたチームが地獄に堕ちないはずはない。どうか、北の少女たちよ、天罰を与えたまえ、と念じて画面をおっていたのです。
ごらんのとおりの試合でありまして、北朝鮮の強いプレスに、日本のパスサッカーはまったく機能せず、やれることといえば、縦の放り込みだけ。今日は北朝鮮がバルサで、日本はオーストラリアだった。
佐々木監督の基本コンセプトが間違っていると思う。「オリンピックに出場するための予選だから、内容は二の次で勝利にこだわる」とかれはいい、「泥臭いサッカー」をすると宣言した。ザッケローニとの根本的な違いは何か。ザックは「内容」と「結果」の両方にこだわっている。勝ちながら「成長」を続けよう、というのがザックの口癖であり、そういう男子代表の姿勢を頼もしく思って、わたしたちはゲームをみてきた。
佐々木監督が、この日、どんな采配をふるったか。とくに気になったところだけ、いくつか指摘しておこう。
1)控えのメンバーを含む全員で予選を戦うと言いながら、結局また同じ先発メンバーで、選手交代を怠った。大野は前半から消えてしまっていたが、後半はトップに据えた。川澄のいないトップは脅威がない。安藤と永里の2トップで点がとれると思っていること自体、おかしい。丸山は相も変わらず干されたまま。ロスタイムに時間稼ぎの選手交代すらしなかった。宇津木や上尾野辺を1分刻みでピッチに送り込めば、時間を消費できたのだ(勝っていたかもしれない)。一方、北朝鮮は、どんどん新しい選手を投入。最後まで少女たちはガス欠をおこさず、ロスタイムの同点弾を生み出したのだ。
2)韓国戦に続き、またしても後半40分からキープを指示。ここで攻めれば、もう1点というタイミングで、選手もあきれ気味。やはり、柳の下に二匹目の泥鰌はいない。
3)前半からセットプレーで、熊谷、石清水の2CBを前線にあげない。「リスクを回避しろ!」という指示は、選手からみれば、「攻めるな!」と言われているのと同じ。
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2011/09/08(木) 20:00:49 |
サッカー |
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ぜんざい雑煮に関する歴史民族学的研究 ルアンプラバンに着いてすぐ、「ラオスはモチゴメばかりで、普通のお米は食べません」という伝達がガイドさんよりあり、直後の昼食からずっと竹編み籠に入った赤米を食べ続けた。できたての赤米はやわらかくて美味しいが、冷えると固くなって、いくぶん食べにくくなる。でも、美味しいご飯であることはまちがいない。
ラオス料理はタイ料理と似ているが、タイ料理よりも素朴で、日本人の口にあう。そう思って、感想をガイドさんに伝えたところ、「唐辛子がほんとはもっと多くて辛いんですよ」と諭された。外国人向けの料理店で、日本人にあう味付けをしてもらったということだろう。タイ料理は大好物で、辛(から)いのは辛(つら)くはないのだが、胃腸は正直に反応する。早晩、活火山と化すので、それからが苦しい。
最初のレストランからずっと赤米を食べ続けたので、ラオスの主食は赤いモチゴメなのか、と思っていたが、帰国前夜、ラオス人向け「山羊の焼肉屋さん」では白いモチゴメがでてきた(これを手で食べる)。翌朝の托鉢で僧侶に捧げた米も白かった。僧侶が抱える托鉢用の鉢には白いモチゴメが入っているのだが、お寺側からすると、米ではないほうがよいらしい。米は腐りやすい。その日のうちに食べるしかない。カップラーメンやビスケットなら保存食になって、長持ちする。とくに外国人はモチゴメでないほうがよいという。道にたむろする売人が売りつける粽は、だいたい食べ残しの米を暖めなおしたもので、いたんでいる可能性が高いというのだ。
ラオスの人びとが普段食べているのは、白米である。白いモチゴメということ。赤米は目出度いときに食べる特別な米であり、外国人向けのレストランでは、いつでも目出度い赤飯を提供している、というわけだ。
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2011/09/07(水) 23:57:44 |
食文化 |
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日本 1-1 ウズベキスタン (A) 阿部を先発させると聞いて、悪くないアイデアだと思った。当然のことながら、ダブルボランチの底におくアンカーとしての起用だろう。南亜W杯仕様の4-1-4-1をアウェーで採用するのは、いかにもイタリア人らしい用心深さだと感心すらした。まずはしっかり守備ブロックをつくってゲームをコントロールするのは良い戦術である(とわたしは考えている)。
ところが、キックオフしてみれば、長谷部がトップ下で、遠藤がアンカー気味のボランチ、阿部はやや前よりのボランチであった。ひとつに遠藤の内転筋異常が影響していたのかもしれない。左サイドからのCKやFKを駒野に任せるぐらいだから、症状はよくないのだろう。いまひとつの問題は、ザッケローニが香川をトップ下に置くことを躊躇している、という事実である。香川は不調だ。点に絡む決定的な仕事ができていない。それを知っていて、トップ下に最もふさわしい選手は長谷部だと判断したのだろう。しかし、これが機能しなかった。前半の長谷部の位置は高すぎる。一方、阿部は中途半端なスペースをうろうろするだけで、敵の中盤を捉え切れていなかった。
価値あるドローだと思う。
アウェーの厳しい洗礼のなか、あのコンディションでウズベキスタンに勝つのは非常に難しい。ウズベキスタンは良いチームだ。ルーズボールをよく拾うし、いったんボールを渡すとなかなか奪えない。サイド攻撃に威力があり、中盤からの飛び出しも頻繁に仕掛けてくる。
本田と長友がいない数ヶ月は辛抱の時間を過ごすしかない。今夜のサッカーは疲れたが、どきどきできて、楽しかった。
お疲れさま!
↑ルアンプラバンの民族舞踊
2011/09/06(火) 23:59:59 |
サッカー |
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日本 1-0 オーストラリア 残り少ない人生の貴重な時間を費やして視るほど価値のあるゲームではなかった。
視るに値しない試合に堕した最大の要因は、オーストラリアのコンディションである。まともに動けたのは、最初の10分だけ。昨年のアジア・チャンピオンは、五輪の戦いからあっさり姿を消してしまった。
ナデシコも決して良い出来とは言えなかった。細かいことをあげつらうのは控えよう。ただ一つ言っておきたいのは、丸山の扱いである。マスコミ露出の質が良くなかったことを佐々木監督は快く思っていないのかもしれない。しかし、監督は全員で予選に臨むと宣言したではないか。にもかかわらず、丸山を意図的に疎外してきた感なきにしもあらずで、ようやく登場したと思ったら、残りの15分でボールキープをさせるだけ。丸山は、すでに結構腐っていると聞き及んでいるが、今夜も辛い夜を過ごしているかもしれない。
それにしても、永里姉だ。姉さんをあれだけ重用するのはなぜなのだろう。エースとして位置づけているのなら、初戦(タイ戦)は温存すべきであり、丸山を先発させればよかった。丸山はタイで出番なし、韓国でも出番なし、豪戦の15分でキープ係である。
姉と安藤には、得点の匂いがしない。二人とも悪い選手だとは思わないが、視野が狭いし、トラップが上手くない。姉はガタイが強く、安藤は運動量がある。だから使われているのだろう。
岩渕がいない今大会、ドリブルで崩せる選手は丸山しかいない。勘違いしてもらっては困るのではっきり書いておくと、わたしは丸山がタイプ(好み)だから使え、というような発想でもの申しているのではない。ただ、ドイツ戦延長の映像が頭に焼き付いているのである。スタミナがなく運動量が少ないところに難点があるとはいえ、30分程度なら十分ジョーカーとして使える。ドイツのディフェンスを切り裂いて、角度のないところから難しいシュートを決めた選手なのである。高瀬をほぼ1ゲーム使って、丸山を使わない理由が分からない。なんでなんだろう?
3戦を視て思う。これが「泥臭いサッカー」なのか。泥臭いのは川澄ぐらいで、全体としてみれば「ミスの多い、退屈なサッカー」としか言いようがない。
北朝鮮には負けるのではないか。負ければ、目が覚めるだろう。ホームの中国と、五輪出場権をかけて死闘を演じてほしい。そんなゲームをしないと、視聴者は離れていく。
これまでのようなサッカーをしていて、なでしこリーグを視ようなんて誰も思わん。
嗚呼、つまらない。
↑ルアンプラバンの托鉢(たくはつ)。托鉢をラオ語で「タクバッ」という。サンスクリット語源であることがよく分かる。
2011/09/05(月) 23:52:21 |
サッカー |
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世界文化遺産ルアンプラバン ルアンプラバンはラーンサーン王朝の王都として出発し、18世紀以降の三国鼎立時代にもルアンプラバン王朝の王都であり続けた。王都とは、すなわち都城のことであるが、ルアンプラバンは都城と呼ぶにはあまりに小振りな「まち」である。日本の都市と同じように、城壁や環濠はない。中国の用語で比較するならば、「城」というよりも「鎮」であり、卑近な例をあげるならば、規模や街割は若桜の中世城下町を彷彿とさせる。中心となるのは王宮(現国立博物館)であるけれども、北京の紫禁城やタイの王宮と比べればはるかに小さく、またしても卑近な例との比較になるが、王宮の規模は仁風閣数棟分といったところだろうか。町に寺院は多い。旧市街地ではシェントーン寺、マイ寺、セーン寺、ビスンナラート寺などの古刹が有名であり、毎朝夜明けとともに、すべての寺院の僧が隊をなして街を練り歩き、托鉢をおこなう。郊外の景観は、メコン川と山嶺と水田と高床住居集落で構成され、熱帯ではあるけれども、日本の山村風景とどこか似ている。
ルアンプラバンが世界文化遺産になったのは1996年のことである。仏教遺産と植民地遺産の融合を評価されての登録であった。98年に世界遺産登録の祝賀セレモニーが開催され、実際に観光地として機能し始めたのは2000年ころからだというから、観光地としてのデビューからまだ10年あまりしか経っていない。なんのことはない、環境大学の歴史と重なっているではないか。正直なところ、アンコール遺跡群とか、タイのスコータイやアユタヤなどと比較すれば、派手さはない。が、仏教遺産とフランスの匂いの強い洋館の連続した街には独特の魅力がある。どちらかと言えば、ホイアンなどの町並み系世界遺産と近い雰囲気があり、洋館をリニューアルしたレストラン、ショップ、ゲストハウスに国外からの観光客が押し寄せている。
文明の周縁に咲いた一輪の花のような落ち着きがルアンプラバンにはある。田舎で、素朴な美人を発見したような喜びを感じる場所である。多くの日本人は、この町と地域に親近感をおぼえるだろう。
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2011/09/04(日) 14:46:36 |
景観 |
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日本 2-1 韓国 うぅぅぅ~ん、またしてもストレスが溜まる試合でしたね。
昨日の北朝鮮戦(男子)に似ているところがあって、こういうプレスの強い試合では、緩い球回しではうまくいかない。要するに、男子なら遠藤、女子なら宮間のペースなんだけど、昨日のMVPががむしゃらな長谷部であったように、今日はがむしゃらな川澄がいなかったら負けていたでしょう。ああいう過激な動きをする選手が増えないと、半島二国との真剣勝負は厳しい。親善試合ではないからね。
後半40分からのボールキープについては、賛否両論に分かれるだろう。わたしは、早すぎると思った。後半、まともな攻撃がいちどもみられなかったことが残念でならず、せめて一度くらいサイドから崩してくれ、と願っていたら、大野はキープに入ってしまった。ロスタイム3分とみれば、後半43分ごろからのキープで良いのではないかな??
ともかく勝点3が重要だから、ああいう戦いになると監督は弁明していたが、後半のようなサッカーをやっていると負けます。あんな試合運びでは、オリンピックには出られない。正直なところ、今日は韓国のほうがよいサッカーをしたし、来年あたりから、日本との序列が逆転するかもしれないという不安を抱いた。
↑松江にいます。台風12号じゃありませんよ。ルアンプラバン郊外の「クアンシーの滝」です。雨季で洪水化しており、遊歩道をつなぐ小橋を流していました(「続き」写真参照)。津波の恐怖はこんなものではないでしょうが、水に畏れを抱いた瞬間でした。
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2011/09/03(土) 23:52:22 |
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日本 1-0 北朝鮮 (H) あのキーパー、なんだったんですかね。
ジョホールバルを思い出してしまった。
ほんとうに軸足を痛めていたとしたら、ボールなんか蹴れないよ。一も二もなく、監督は交代させると思います。
ボールをもてるチームには「もたせろ!」というのが鉄則。まさにそいういう試合をやられた。後半ロスタイムになるまで、北朝鮮のペースだったということ。こういう試合では、緩い遠藤のペースが存外災いになっているような感なきにしもあらず。ひとり長谷部だけが猛烈な突進を繰り返していたが、香川、岡崎あたりも長谷部を見倣ってほしかった。
柏木のトップ下は厳しい(ボランチとして成長してほしい)。トップ下は香川に任せ、左に原口、右に岡崎でスタートし、途中から清武を右サイドに投入して、原口か岡崎を下げるのでよかったのではないか。
ハーフナーのようなCFはありがたみがあるね。いつもこういう長身のCFに苦しめられてきた日本だが、味方にああいう選手がいると助かる。ぜひもういちど使ってほしい・・・というか、使わざるをえなくなるだろう。みてみたいのは田中順。調子がよいときの田中はヨーロッパ・レベルだ。問題はだれと代えるかだが、常識的には岡崎。昨夜の場合は、内田を下げて3バックにするか・・・思い切って遠藤を下げるのもありだったかな?
次のウズベキスタンはアウェーで、望むところだ。攻めてきてもらいたい。日本の組織的な守備ブロックと攻撃力を両方楽しみたい。3-2ぐらいの接戦を期待している。
↑ボートレース勝利の行進(8月28日)。行進のあとは大宴会。ルアンプラバンのメインストリートは毎晩ナイトマーケットで賑わう。奥にみえるのは王宮の一部。
2011/09/02(金) 23:15:15 |
サッカー |
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日本 3-0 タイ ストレスの溜まる前半でしたね。
解説者はみな気づいていたが、右サイドに大きなスペースができている。あるいは、人があまっている。
ところが、だれもそこを使わない。ボールのある側だけをみている、という悲しい現実をわたしたちは何度も目にした。
右サイドのハーフ、つまり高瀬と田中を代えないことには近賀を生かせない。右から展開できない、と思っていたのだが、後半、佐々木監督は宇津木を下げて、同じレフティの宮間を入れた。宇津木は「練習ではいちばん上手いんです」と自ら発言していたが、タイ戦をみる限り、運動量が少なすぎる。もっと前後左右に動いてボールに絡まないとね。ただ、ボールタッチはとてもやわらかいし、センスは感じた。一皮むければ、大化けする選手かもしれない。
あとは、永里姉でしょうね。姉さんは、2点とれた。宇津木と同じく、練習では抜群の切れがあって、他のフォワードとは一線を画する仕上がりだと監督はコメントしていたが、タイ戦の出来をみる限り、ワールドカップとなんにも変わっていない。姉がベンチに下がった瞬間、2点めが入った。
身体能力とかコンディションの問題ではなく、運気の流れじゃないでしょうかね。姉ではなく、妹を使ってくれないかな。いちどみてみたい。
↑ルアンプラバンでは旧暦10月(今年は新暦の8月28日)に村落対抗のボートレースが開催される。舞台はメコン支流のカン川。上の写真は前日の練習風景です。
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2011/09/01(木) 21:00:39 |
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