瑞巌寺の解体修理と発掘調査 巌と書いて「いわ」「いわお」と読む。巨岩のことである。日本国歌にいうところの「さざれ石、巌となりて」とは「小さな石が巨岩となる」までの長い時間を表現する修辞である。一方、巌は「いわや」でもある。阿蘇火口の脇にある
阿蘇山西巌殿寺奥之院 の「西巌殿」は「にし(の)いわやどの」と読む。独眼龍正宗の造営で知られる松島の瑞巌寺(ずいがんじ)は「巌」の字を含み、円仁の開山伝承まで残っている。おまけに、解体修理にともなう発掘調査が本堂(方丈)で昨年からおこなわれていると聞き、胸が疼き、ときめいた。
円仁の創建については、例に漏れず、後世の附会として信頼されていない。ただ、平安時代に天台宗の延福寺が近隣に存在し、鎌倉時代に臨済宗に改宗して円福寺と寺号を改めた。それが瑞巌寺の母胎である。
発掘調査は1週間前に終わっていたが、28日、担当者のMさんにご案内いただいた。現本堂の柱位置を避けつつ、おびただしい数のトレンチが設定されており、発掘調査面積は1200㎡に及ぶ。細かいことを書き始めるときりがないので、結論だけ述べておくと、瑞巌寺本堂の真下で、円福寺(14世紀ころ)の僧堂と法堂(はっとう)が発見された。僧堂は東西5間×南北4間以上で基壇上面を四半敷とする。法堂は方5間堂で、四半敷の痕跡はなく、基壇上面を三和土(たたき)とする。僧堂が四半敷で、法堂にそれがない、という点が気になるが、これらの遺構を「僧堂」「法堂」に比定しうるのは、「遊行上人縁起絵(一遍上人絵伝)」との対比によるものである。なお、説明資料では、瓦が出土していないことから、屋根を「萱葺か板葺」と推定しているが、絵図をみる限り、「こけら葺」の可能性が高いであろう。
↑出土した四半敷 ↓現本堂柱礎石の下には凝灰岩を砕いてニガリのようにした壺掘りの地形が確認された
[独眼龍の巌]の続きを読む
2012/01/31(火) 00:00:11 |
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あの日の
仁風閣 よりも、もっと寒い場所がある。仁風閣にちかい鳥取城擬宝珠橋の発掘現場である。内濠に矢板を打って水を抜き、橋桁の下を掘っている。遺構の残りはよい。太めの杭があちこちに顔を出している。
明治初期の写真が残っていて、当時架かっていた呉橋のおよそ7割方が写っている。橋脚の並びは、写真でも不揃いにみえる。一ヶ所あきらかに柱間の短いスパンがあって、他は同スパンのようにもみえるけれども、遺構を見る限り、柱間寸法は当間ではない。
橋の復元に係わったことが一度だけある。平城宮東院庭園で池に架かる平橋と呉橋(アーチ橋)を復元した。平橋は橋脚の柱間寸法が均一だったが、呉橋では中央間と端間で橋脚の柱間寸法が異なった。柱間を変えることで、アーチ状の構造を実現しようとしているのだと考えたのである。鳥取城擬宝珠橋の場合、おそらく橋脚の柱間全長は8間で、柱の中心から4間分が対称の柱間寸法に復元できるだろう。その柱間寸法は4間ですべて異なる。その状況が明治初期の写真に映し出されているのだと思われる。江戸時代の終わり頃に建てられた木橋で、整備計画では、この木橋を復元することになっているらしい。
わたしは整備の委員ではない。調査の委員である。だから、整備に口はださないことにしているのだが、「木橋の復元など必要ない」と思っている。いまの遺構を保護しながら、別の木橋を遺構の真上に復元することの意義はいったい何なんだろうか。どうせ水に浸かって、橋脚は腐っていくではないか。
史跡の整備は、あいかわらず復元が主役である。史跡の上に高校のキャンパスがあることを許すまじというマニアが、復元建物には寛容であり、むしろ歓迎している、という現象をわたしは滑稽に思っている。
それにしても厳しい現場だ。風邪をひいて倒れる調査員や作業員が続出?しているとも聞く。そんなに無理してまで掘らないといけないものなのだろうか。
2012/01/30(月) 00:02:26 |
史跡 |
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吾妻蕎麦を訪れた24日、もうひとつ悲しい現実を知った。
鳥取城石垣工事のためのプレハブは登録文化財に値する仮設建物だと思っていた。石工の上月さんが拠点とするそのプレハブが初めてLABLOGに登場したのは、2005年
7月6日 のことである。当時、天球丸で下層石垣が発見され、以後の鳥取城整備を軌道修正する転機になろうとしていた。天球丸に通うたび、上月さんのプレハブでお茶やお菓子をご馳走になりながら、雑談に花を咲かせた。上月さんは船岡の人。船岡小学校で教師をしていた母のことをよく知っている。わたしは小学校低学年のころ、日直だった母親にあいたくて、ひとりバスに乗り、船岡小学校を訪ねたことがある。日曜日なのに、母の居ない家にいたたまれず、父に黙ってバスに乗り母に会いにいった。自分の住む町をでて一人でバスに乗るなんて生まれて初めての冒険だったから、そのことを妙に覚えている。
2005年7月の記事「
天球丸の衝撃 」では、上月さんのプレハブは「築後54年」となっている。そのころから、わたしは「登録文化財にする」と冗談まじりに豪語し、文化財職員に嗤われていた。今回も、市の若い技師は「そんなに古くありませんよ」と素っ気ない。しかし、築後40年以上であるのは間違いなく、畳敷きの座敷を含む内部には、えも言われぬ暖かみがあり、外観にもバラックのような特有の美しさがただよっていた。吾妻蕎麦の女将がそうであるように、上月さんのプレハブも、夕日町三丁目のような人間らしいぬくもりがあった。
[骨董的プレハブの撤去]の続きを読む
2012/01/29(日) 00:00:34 |
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赤い夕陽が目に沁みる(余話)-吾妻蕎麦 老舗の蕎麦屋「吾妻蕎麦」にいつもの釜揚げを食べにいった。その日は午後から鳥取城の発掘現場を視察することになっていて、蕎麦屋と現場が近いので、久しぶりに吾妻蕎麦で昼食をとることにしたのである。たぶん半年ぶりぐらいだろう。田園町や寺町に住んでいたころ、毎週のように通っていたが、大覚寺に引っ越してから足が遠のいた。「たかや」は大学との中間になって通いやすくなる反面、通勤圏外の吾妻蕎麦には疎遠になったのである。
暖簾をくぐると、若女将がにこやかな顔で「あら、お久しぶりですね」と迎えてくれた。たしかに、そうだ、久しぶりだ。いつものように、いちばん奥の席に陣取り、熱い釜揚げを注文。山陰中央新報紙を開いてまもなく、釜揚げが卓にでてきた。一味を振りかけながら、店をちょろちょろみまわした。大女将がいない。
「おかあさんはどうしたんですか?」と訊ねると、若女将の顔が曇った。
「一年前の正月4日に亡くなったんです」という報せに言葉を失った。わたしは一年以上「吾妻蕎麦」を訪れていなかったのか・・・大覚寺に引っ越したのは一昨年の11月だから、その二月後に、あの元気だった女将さんが旅立たれたのだ。いつもいつも良くしていただいた。夏は冷たい釜揚げ、冬は熱い釜揚げに決まっていて、それ以外のメニューを注文したことはほとんどない。釜揚げ蕎麦をたくり、蕎麦湯をがぶ飲みする。
たいてい夕方4時ころ暖簾をくぐる。テレビはいつも「水戸黄門」の再放送で、「別の番組にしましょうか」と女将は必ず問うが、そのまま黄門様を視るに決まっている。お総菜を一品足していただいたり、体に良いからと梅干しや黒酢ドリンクをいただいたことも一度や二度ではない。
夢のようだ・・・Always(永遠)なんて嘘じゃないか。
2012/01/28(土) 00:15:02 |
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山陰は雪マークの連続で、飛行機の欠航とか、着陸回避などが頻繁におきている。昨日も雪は降り止まず、第1便は欠航した。大学では修士1年次の中間発表会があり、そのあと猫プロ発表会を寝坊で欠場したN君の発表を聞いた。その会場で、第2~3便の出航を確認。帰宅する白帯くんの車に乗せてもらって空港に向かった。上空で東京から飛んできた第4便が旋回しているという。その機が着陸すれば、わたしの乗る最終便は離陸できるが、上空で待機中だと聞かされて気が重くなった。身近なところでは、羽田を離陸したものの上空旋回後、羽田に戻ってしまったホカノやヤノッチ社長のことが思い浮かび、さらにはまたクチャ~ウルムチの悪夢が頭をよぎった。
しばらくして降雪が弱くなり、旋回していた最終便が着陸した。そして、いま上野にいる。
こちらでも、24日に相当雪が降ったらしい。深夜の路肩にわずかながら根雪が残って氷結している。
可愛い雪だるまだね・・・雪が珍しいから雪だるまを作ろうという意欲が湧くんだろう。
えっ、なんで上野にいるのかって?
数日後、あきらかになりますよ。明日からしばらく、大雪だった24日の鳥取について語ります。
2012/01/27(金) 00:00:55 |
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平成24年(2012)お年玉付き年賀はがきの当選番号が抽選・発表されました。当選番号は以下のとおりです。
【1等】6ケタ 030625
【2等】6ケタ 071658/153787/675457
【3等】下4ケタ 2511
【4等】下2ケタ 27/44
早速、わが家でも番号をチェックしました。結果は4等が6枚です。昨年比1枚増。4等の賀状を送りいただいた以下の皆様に御礼申し上げます。
4等下2桁27: 須藤様、田口様、小西様
4等下2桁44: 村田様、高部様、ダラ様
↑ふ辰の龍、なんちって・・・
2012/01/26(木) 00:00:31 |
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青木遺跡復原建物模型のチェック(1) 桂離宮の近くにある模型会社まで、青木遺跡復原模型のチェックに行ってきた。復元建物は1棟しかできいなかった。青木遺跡神社模型のジオラマ(1/50)では、あわせて10棟の建物を復元したが、青木遺跡の建物は8棟で、残りの2棟は未掘地に想定した高床倉庫である。高床倉庫については、三田谷遺跡9本柱建物遺構の平面を採用した。2棟の高床倉庫は、1棟を通柱式の板倉、他の1棟を板甲倉とした。後者を米倉、前者を絹などの収蔵施設とみなしている。
青木遺跡のⅠ区とⅣ区を全体的にとらえると、南北方向に流れる水路によって、3つのブロックに分かれている。神殿の可能性をもつ9本柱建物は東のブロックに3棟、西のブロックに2棟あり、中央には東西棟の礎石建物が2棟みつかっている。これらを以下のように分けた。
西ブロック: 神殿域(美談社?)
中央ブロック: 事務・倉庫域
東ブロック: 神殿域(伊努社?)
三田谷の9本柱建物は中央ブロックの未掘地にたつ高床倉庫とした。2間×2間の平面を比較すると、青木は平面が正方形もしくは(横長)長方形で、柱間が均一に割り振られているのに対して、三田谷は平面形がややいびつで、柱間に長短の差があることが判明した。心柱の位置に注目すると、青木は平面の中心にあるが、三田谷は中心からかなりずれている。三田谷の場合、正面・側面とも、柱間に長短があり、柱間の短い側に入口があると考えた。
[律令時代の神社遺跡に関する復元研究(Ⅱ)]の続きを読む
2012/01/25(水) 00:00:52 |
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1週間で『Always 三丁目の夕日』シリーズ3話を6度みた。日本アカデミー賞などを総なめした第1話(2005)は13日金曜ロードショーを録画しており、「
非日常の週末 」後、3夜続けて録画を視た。いや、参りました・・・第2話(2007)は20日金曜ロードショーを放映時に視て、その直後にもう一度録画を視直した。
第2話を家族と視て、翌日から劇場公開となる第3話『Always 三丁目の夕日'64』をワーナー・マイカルに視に行こうということになった。とはいうものの、堀北真希までバラエティに出演させて番宣しているような状況をみると、開演初日はすさまじい人出ではないか、席を確保するのが難しいだろう、という不安がぬぐえない。しかし、娘がいうには、「夜なら大丈夫だよ」。
はたして、午後6時上演の会場に入ると、がらがらだった。昼間の入りがどれほどだったのかは、もちろん知るよしもない。
おもしろかった。これまでサティのワーナー・マイカルで視た映画のなかではいちばんだったかもしれない。ただし、3Dが余計でしたね。カラーではなく、モノクロにしてもよいようなレトロ系の画像を3Dにする意義をまったく感じない。3Dは初めての体験だから、黒めがねを買わされた。100円だった。値段からしてレンタルだと思ったのだが、売り物だった。これがないと、画面がぶれてみえるのだそうだ。チケットそのものも2Dより300円高くなる。
『Always 三丁目の夕日』は、今後『フーテンの寅さん』のような名作シリーズとして制作され続けるだろう。ただし、3Dは要らない。近未来に3Dの隆盛期を迎えるかもしれないが、3Dを拒否することで、さらに映画の価値が高まるように思った。
VIDEO [赤い夕陽が目に沁みる]の続きを読む
2012/01/24(火) 00:00:12 |
景観 |
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虚空菩蔵薩立像と石段の発見 -雪の石仏調査 こんにちは、白帯です。
19日(木)午前は猫プロ研の発表会に遅刻してしまいましたが、石仏調査不参加の女子ゼミ生2名には内緒で、お昼に「たかや」でお蕎麦をごちそうになりました。辛み大根のおろし蕎麦で、先生とタクヲさんのおろしはたいしたことなかったみたいですが、自分のだけものすごく辛いところに当たり、舌がヒリヒリしました。
昼食を済ませ、摩尼山に向かいました。昨年ならば1~2mに達する豪雪で、とても調査などできませんが、先日の
初詣 で雪がないことがわかり、「奥の院」まで石仏の調査に上がることが決まったのです。この調査は倉吉市在住Sさんのご要望によるものですが、先生はSさんがひとりで山に登ると死んじゃうのではないかと心配し、自ら調査隊長を買って出るだけではなく、男子学生等3名も同行し、不測の事態に備えられたのです。
門前では消えていた雪が、山道になると一気に深くなりました。予想以上に根雪が残っているのです。ゼミの女子を連れて来なかったのは正解でした。もっとも深いところで根雪は40センチくらいあり、長靴の上から雪が入ってきます。しかし、どうゆうわけか、一番年上のSさんがトコトコ足早に登って行かれるのです。正月明けに韓国で栄喜を養われたみたいでして、朝鮮人参とニンニクとキムチと・・・あとは何が効いたのでしょうか??
半時間ばかりして「奥の院」に到着し、さっそくSさんは石仏の調査を始められました。私は勿論、コーヒー係です。年末のインターンシップで唯一習得したのがコーヒー淹れですからね。インスタントコーヒーではありましたが、みなさんに美味しいコーヒーを作りましたよ。
Sさんは岩陰下段の石仏を次々と調査し、実測していかれました。千手観音、地蔵菩薩、不動明王など石仏の種類も続々と明らかになっていきました。そうこうしているうちに、浅川先生は忍者のようなナオキさんにⅣ区の岩窟仏堂を見てくるよう指示されたのですが、上方に上がっていくと、Ⅲ区(岩陰)からⅣ区(岩窟)に登る石段状の遺構が発見されました(↓)。これまでは樹々の緑で覆われていて、石段を隠していたのでしょうが、落葉樹の葉が落ち、雑草が枯れたために、石段の遺構があらわになったのです。全員、驚愕しました。これが第一の新しい発見でした。
↑左下から右上に向かってのびる階段状遺構が分かりますか?
[摩尼寺「奥ノ院」遺跡の環境考古学的研究(Ⅷ)]の続きを読む
2012/01/23(月) 00:00:36 |
史跡 |
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1月19日はプロジェクト研究2&4の発表会でした。「猫」プロの発表は13講義室で、11時からおこなわれました。発表の構成と分担は以下のとおりです。
2011年度P2&P4「愛おしい猫たちへ -おまえなしでは生きていけない-」 1.岡田・藤井: おまえなしでは生きていけない -芸術家と猫-
2.西村: 「猫」本30冊の選書と推薦
3.木島・佐藤: 「カフェ黒田」の展示と黒田さん親子へのインタビュー
4.福山・米山: 愛猫家インタビュー
5.上村・福田: 飼い猫・野良猫・地域猫
「猫」プロの締めくくりも近くなってきた昨年末の12月22日(第13回)、ぼくは残念ながら体調不良で欠席しました。その日から各班の「猫」プロの発表に向けた準備が始まりました。
ところが、長い正月休みを挟むことで気が抜けてしまい、年明け12日の発表練習ではさんざんの出来で、お叱りを受けました。そして各班、16日(月)の再チェックに向けた修正作業に移行。再チェックでほぼ合格になったのは「カフェ黒田」班のみ。他の班は17~18日に再々チェックをうけ、19日、ついに「猫」プロ発表会を迎えたのです。どの班も3度以上チェックを受け、かなりの完成度までもっていきました。苦労した分だけ自信をもって本番に臨めたと思います。
ぼくたちの班は「飼い猫・野良猫・地域猫」の題目で、発表の締めを務めさせていただきました。良い発表ができたと思っています。そして、聴講する学生の数がとても多かったことを嬉しく思っています。
この「猫」プロでの経験をまとめる作業は、とても苦労しました。しかし、皆とても良い出来で最後を締めくくれたと思います。でも、一つだけ残念だったのは、「猫本30冊」担当のN君が直前まで準備して成果を仕上げしながら帰宅してシャワーを浴びたまま眠りに落ちてしまい、発表会にあらわれなかったことです。全員で最後の発表会を全うできなかったことが残念でした。個人的には、発表後の質問に的確に答えられなかったのも心残りでした。(環境マネジメント学科1年U.Y)
[「猫」プロ発表会]の続きを読む
2012/01/22(日) 00:00:24 |
講演・研究会 |
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昨日の記事の最後に【続】と書いたことをひどく悔やんでいる。わたしがいまごろ池上・曽根を回顧しても、なんの意味もない。偏見が是正されることもないだろう。
さて、どうしたものか・・・
2009年5月31日、わたしは大阪府立弥生文化博物館で「
弥生建築の実証的復元 -青谷上寺地遺跡の衝撃- 」と題する講演をした。池上・曽根のお膝元であり、館長は金関先生だから、講演に招聘されたこと自体が信じられないので、金関先生に「何かの間違いではないでしょうか」と電話でお訊ねした。先生は「館員の合田が張り切っていますので、どうかよろしく!」とお答えになった。
わたしは10年ぶりに弥生博を訪れ、130名の聴衆の前で青谷上寺地建築部材の話をした。講演のあとには、合田さん、金関先生、私の3人で座談会もした。客席には杉本先生、石野先生、黒田さん、深澤さんらの壮々たる研究者も陣取っていた。また、池上・曽根復元整備の事務局長を務めていた広瀬さんもいらっしゃって、控え室で談笑した。
さて、奥付をみると、井上章一さんの『伊勢神宮』の初版発行年月日は2009年5月14日となっている。弥生博講演のわずか2週間前である。金関先生は、電話口で井上さんのインタビューを受けた、とおっしゃった。わたしもまた、だれが教えてくれたのか忘れたけれども、そういう微かな情報を知っていて、「インタビュー記録がすでにどこで活字になっているようですよ」とお伝えすると、先生はご存じなく、驚いておられた。時系列からみて、その「どこか」が『伊勢神宮』であったのは間違いないだろう。
あの講演を終えて、池上・曽根の問題は過去のことになったと思っていた。講演に招聘してくださった金関先生と合田さんには、いまでも深く感謝している。ただ、講演の前後に、大型建物をみる気にはなれなかった。あの復元建物は、自分が主導したようで、「そうではない」という気持ちもあり、正直なところ、愛着を感じていないのである。
以下、蛇足であり、信じてもらえない点も多いだろうが・・・こういう評論がでたからには書き残しておくしかないか。
[『伊勢神宮』と私(Ⅱ)]の続きを読む
2012/01/21(土) 00:13:14 |
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メセニーのバリトンギターとピカソギターの制作者であるリンダ・マンザーの本を探していた。すでに研究室の本棚に本を縦置く余白はなく、たしかマンザーの本は縦本たちの上に横置きしたはずだと、棚を探していたら、井上章一さんの『伊勢神宮』(2009)という本がでてきて、驚いた。この本を買った記憶がない。贈呈された記憶もない。なぜ、私の部屋の本棚にあるのか?
ただ、井上さんが『伊勢神宮』を著したことは知っていた。つい最近、『建築史学』の最新号(57号、2011年9月)の特集「稲垣史学の地平」で取り上げられていたからだ。そこでの評価は芳しいものではなかったが、井上さんは大学の研究室の先輩だから、「へぇ、井上さんが伊勢神宮について書いてるんだぁ」と驚いたものの、アマゾンのボタンを押すまでには至らなかったのである。
しかし、調べてみると、まる2年前にボタンを押していた。アマゾンのアカウント・サービスから「注文履歴」に入り、「伊勢」を検索してみると、ある時期、伊勢神宮本をまとめ買いしており、そのうちの一冊が
注文日: 2010/1/8
伊勢神宮 魅惑の日本建築
井上 章一
となっている。おそらく『出雲大社の建築考古学』の編集でやっきになっていたころで、他の著書を優先して読み始め、本書のことを忘れてしまったのだろう。
ページをめくって、さらに驚いた。本文518頁中、438頁からあとの80頁ばかりで、わたしが主役級の扱いになっているではないか。しかも、その主題は「池上・曽根」である。人生においていくつか思いだしたくない出来事があるけれども、池上・曽根はその最右翼にあるといって過言でなく、わたしだけでなく、わたしに近い人たちも話題にしようとしない。井上さんは研究室の先輩だが、ここ30年近く交流もないのに、どうしてまたわたしに係わる評論を書いたのだろうか。
悪意は感じない。資料を丹念に読まれていて、どちらかというと、わたしに与する意見を少なからず述べておられる。ありがたいことだとは思ったけれども、こういう評論を書くのは、わたしの没後にして欲しかった。井上さんとわたしで、どちらが長生きするか分からないから、「没後」は望めないにしても、生きている人間の言動を相手にするからには、せめて本人にインタビューすべきではないでしょうかね・・・文字では表現できない「真実」はいっぱいある。その「真実」も一つではない。ひとつの事象に係わる人間は、すべて「自分」というフィルターをとおしてモノゴトを認識するわけだから、人それぞれに「真実」は異なるはずだ。だから、一つの事象について、複数の関係者にヒアリングする必要がある。金子達仁が『28年目のハーフタイム』などでよく使う手だ。井上さんは、なぜわたしを取材しなかったのだろうか。【続】
2012/01/20(金) 00:22:06 |
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いったい何事だい What's It All About 「ブライト・サイズ・ライフ」はひとまず棚にあげて(笑)、パット・メセニーのソロギター・アルバムを探していたところ、2001年の『One Quiet Night(静かな夜に)』と2011年の『What's It All About(いったい何事だい)』があることを知った。ジャズ通のような顔して、こんなことも知らないわけです。アマゾンのカスタマー・レビューでは、前者が29レビューの4★半、後者が13レビューの3★半で、いま先に届いた『What's It All About』をざっと聴いたところだが、3★半は妥当な評価か、やや高めではないでしょうかね。
『What's It All About』はメセニーの最新作らしく、アマゾンの紹介文も英文のままだし、CDジャケットの解説文も英文のままだ(輸入盤だから当たり前か)。そんなに暇ではないけれども、学生たちの発表練習待ちの時間を利用して訳してみましょうか。
アマゾン【商品の説明】 ギタリスト兼コンポーザーのパット・メセニーがお届けする2011年のソロ・アコースティック・アルバム。かれの名のもとにレコーディングされた40近いアルバムのなかで、自ら作曲した作品を含まない初めての記念となるものだ。というよりも、『What's It All About』はメセニー個人にとって意義深い10曲の懐メロによって構成されている。非常に有名な曲もあれば、それほどでないものもある。メセニーはニューヨークの自宅で、深夜の短い時間を使って、『What's It All About』の楽曲を録音した。どの曲をテープに納めるかを選択する際、メセニーは言った。「ぼくは自分が作曲する以前、あるいは2~3のケースだが、インストをプレイする以前から、自分の触覚がとらえていたいくつかの音楽を録音したかった。ぼくは1954年に生まれた。これらすべての曲は、ぼくの少年時代と10代初期の間にトップ40の中にあったものばかりなんだ。ポピュラー音楽のなかで、ハーモニーとメロディがなお重要で、成長する要素であった時代だったよ。これらのどの曲も、たとえ排除しようとしても、音楽的レベルでほんとにカッコイイ何かをもっているから、ぼくは何年も、それらの虜であり続けたんだ。」
CDジャケット【セルフ・ライナーノーツ】 これはストレートなソロ・バリトン・ギターのレコードで(注記のある曲では楽器を換えている)、編集はしているが、オーバーダブ(多重録音)はしていない。そして、以前のソロ・バリトンギター・アルバム『One Quiet Night』と同様、レコーディングを通して使ったチューニングはADGCEAであり、弦の相互関係は通常のギターの5音下げである。ただし、ナッシュビル・チューニングのように、3弦と4弦を通常より1オクターブ高い弦に張り換えている。このチューニングの場合、5弦と6弦はかなり低いピッチとなる。通常より長いバリトン・ギターの大きさはこのやり方によくあっていて、ヘビーなベースギターの弦を必要とする。今回のレコーディングにあたって、わたしは弦の相互関係を維持しながらも、曲ごとにA♭からCの範囲のなかで、全体のチューニングを(平行)移動するように変えていった。かなり以前にレイ・ハリス博士から初めてこのチューニングを学んだ。博士は、わたしの故郷ミズーリ州リーズサミット市出身の偉大なギタリストであり、発明家である。 -
パット・メセニー [パット・メセニーの憂鬱(Ⅳ)]の続きを読む
2012/01/19(木) 00:00:45 |
音楽 |
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白壁倶楽部 センター入試2日目、先生方は業務に忙殺されており、わたしがお客さまを倉吉にお連れすることになりました。まずは、昨年3月にオープンしたレストラン「白壁倶楽部」へ。白壁倶楽部は鳥取初の登録文化財「倉吉大店会(旧第三銀行倉吉支店)」を活用したカフェ&レストランです。外観を土蔵造(耐火構造)とする一方、内部は擬洋風の木造で、明治41年(1908)の竣工。改修は天井と床の一部に手を入れた程度のため、銀行として利用されていた当時の雰囲気をほぼそのまま残しています(↑)。
お客さまのコメントを借用しますと、「シャレオツですね!」。1日限定20食の「白壁ランチ」に舌鼓をうちました(↓)。
「白壁倶楽部」
住所:鳥取県倉吉市魚町2540
TEL:0858-24-5753
HP:
http://www.justmystage.com/home/shirakabe/ [あなうらめしや(Ⅴ)]の続きを読む
2012/01/18(水) 00:17:26 |
食文化 |
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初詣、そして石仏調査の準備 非日常の週末を過ごした。
センター試験があったからでもあり、別の理由もある。新モンゴロイドのお客さまを迎えて、チャラヲ君ほか古モンゴロイド野郎が舞い上がってしまったのである。
13日(金)、センター入試の説明会を終え、研究室一同、摩尼寺に初詣した。2年連続で「奥の院」の大地を掘削したのだから、安寧祈願のために参籠してもおかしくないぐらいだが、全員で本尊を参拝し、感謝し、寄進した。おみくじは「末吉」だった。「大吉」に驚喜している者もいたが、わたしは昨年「大吉」だったわりに、ろくなことがなかった。「大吉」のくじを境内の樹枝に結びつけてしまったのが良くなかったのかもしれない。人生で2回だけ「大吉」にあたったことがあるのだが、くじを2度とも枝に結びつけ、いずれも良くない一年だった。今年は
天岩戸神社 で「吉」だったが、かばんに入れてもって帰った。摩尼寺ではおみくじを枝葉に結びつけず、すべてもって帰ることになっている。だから、「末吉」はいま
猫の小銭入 のなかにある。
さて、境内では「小吉」と「吉」ではどちらが格上のなのか学生間で議論となっていた。ヤフー知恵袋のベストアンサーは以下のとおり。
大吉、中吉、小吉、吉、半吉、末吉、末小吉、凶、小凶、半凶、末凶、大凶
となれば、年末の「吉」から年初の「末吉」にランクダウンしたことになる。しかしながら、「末吉」のおみくじには、有り難い戒めが書き連ねてあった。一年の教訓としよう。
あいにくの雨ではあったが、雪はほとんど積もっていない。石段脇の石仏は、今年も赤い帽子とまいかけをサラにしていた(↑↑)。この積雪量ならば「奥の院」まで上がれなくもないだろう。じつは、まもなく「奥の院」岩陰仏堂の石仏・木彫仏の調査をおこなうことになっていて、それまで積雪がないことを祈るばかり。摩尼山は豪雪地帯であり、
昨年の正月 は山麓の門前で120㎝ばかり積もったという。山頂に近い奥の院では2mに達していたかもしれない。たとえ雪が少なくとも、十分な装備で登山しないとね・・・
夕方から「飛鳥」へ。飛鳥で飲むのは1年半ぶりだが、舌の肥えた首都圏のお客様を接待するには、あの偏光照正大将の腕が必要だと思ったのである。期待に違わぬ味でした。飛鳥で「今夜は5軒ハシゴする」と豪語し、実際それから4軒まわって、ふらふらになった(例外1名あり)。
[摩尼寺「奥ノ院」遺跡の環境考古学的研究(Ⅶ)]の続きを読む
2012/01/17(火) 00:44:36 |
研究室 |
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発表会のスケジュールと会場 新年あけまして「猫」プロが再開し、来週19日(木)の発表会を前に発表練習となりました・・・しかし、大半の発表に教授は首を傾げられ、「3週間の正月休みがアダとなった・・・おもしろくて深い研究をしたはずなのに、その中身が伝わってこない。これまで担当してきたプロ研に比べるとレベルが低い」というお叱りを頂戴し、来週月曜日(16日)午後から各班個別に再チェックを受けることになりました。再チェックで合格した班はそのまま発表できますが、合格しない場合、再々チェックにまわることになるそうです。
発表会のスケジュールと会場は以下のとおりです。
1月19日(木)11:00~11:45@13講義室 2011年度P2&P4「愛おしい猫たちへ -おまえなしでは生きていけない-」
1.岡田・藤井: おまえなしでは生きていけない -芸術家と猫-(50)
2.西村: 「猫」本30冊の選書と推薦(20)
3.木島・佐藤: 「カフェ黒田」の展示と黒田さん親子へのインタビュー(50)
4.福山・米山: 愛猫家インタビュー(30)
5.上村・福田: 飼い猫・野良猫・地域猫(30)
*( )内の数字がなにをさすのかは敢えて示しませんが、この記事を通しで読んで
いただければ容易に想像できるでしょう。
拙い研究発表になるとは思いますが、学内外のみなさまの御来聴をお待ち申し上げます。
[第14回「猫」プロ研]の続きを読む
2012/01/16(月) 01:52:04 |
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昨年12月17日に仁風閣で開催した「山林寺院の原像を求めて」シンポジウムで、本学建築・環境デザイン学科の中橋文夫教授が提案された「摩尼山・久松山」里山歴史構想が、今月9日の日本海新聞(19面)に掲載されました。中橋教授ご自身が執筆・投稿された記事ですので、ここでわたしがとやかく解説するよりも、下の新聞記事をお読みいただくのが手っ取り早いでしょう。
画像をクリックすると拡大します。ぜひご意見をお寄せください。
2012/01/15(日) 00:00:25 |
景観 |
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今井町の町並み 今井町が重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのは平成5年。寺内町として大阪の
富田林 と並ぶ町並みを誇ります。中世の環濠集落を母胎とし、天文年間の頃に寺内町が誕生、現在の町割は慶長年間には成立していたとのことです。東西600m×南北310mのエリアが重伝建地区に選定されており、寺内エリアの全域が対象になっています。驚くべきは、その密度。エリア内の504棟もの建物が伝統的建造物群に選定されており、一歩足を踏み入れると江戸~明治期の町家が軒を連ね、さながら映画セットのような景観をみることができます。
また、重要文化財9件、県指定3件、市指定6件の建造物があり、とくに重要文化財は慶安三年(1650)建築の今西家住宅(↑)をはじめ、9件のうち8棟が町家です。これらが、町並みの景観形成に大きく貢献しているのは言うまでもありません。
行政による保存整備事業も継続的におこなわれているようです。地区内には「まちなみ交流センター」、「まちづくりセンター」、「景観支援センター」「まちや館」等の機関が散在していますが、それらはすべて既存町家や県指定文化財の近代和風建築を再利用したものです。また、町家の撤去された空き地を「生活広場」と呼ぶ防災施設を兼ねたトイレ付休憩所として整備しており、空き地活用のひとつの事例として参考になりました。
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2012/01/14(土) 00:20:55 |
景観 |
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大極殿・唐招提寺から今井町へ 大雪のニュースで大騒ぎだった昨年の正月に比べると、天候に恵まれた今年は穏やかな年越しを過ごすことができました。Lablog愛読者のみなさまはいかがでしたでしょうか?
タクヲです。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
私はといいますと、すでに匠くんから報告があったように、教授のご好意に甘えて、1月3日から4日にかけて伊勢から奈良を訪れて参りました。事のいきさつについては既に報告済みですが、「棚からぼた餅」的に、新年早々のお伊勢参りがかなったわけです。詳しくは、「
伊勢へ-人生初の初詣 」をご参照ください。
その翌日、奈良市内を徘徊した後に橿原市今井町へと足を運びました。前夜のことですが、鶏ミンチ鍋に舌鼓を打ちながら・・・
「そういえば、今井町には行ったの?」と教授。
「重伝建としては、西の横綱だぜ」と続きます。
恥ずかしながら、まだ訪れたことがなかったものですから、急遽、今井町重伝建地区を訪れることになったのです。
リビングで一泊し(正月早々お邪魔しました・・・)、朝食までご馳走になってから先生宅を後にしたのが4日の9時頃でしょうか。あいにくの曇り空ではありましたが、山陰の気候に比べれば、旅には十分なコンディション。まずは、2010年度に竣工した平城宮第一次大極殿復元建物へ(↑↑)。
その後、秋篠寺から、修復を終えたばかりの唐招提寺金堂(↑)、慈光院をおとずれたあと、車を30分ほど走らせて橿原へ。今井町に到着したのは15時を過ぎた頃でした(↓)。【続】
2012/01/13(金) 00:04:56 |
建築 |
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あの日、ぼくは真剣に天理を応援していた。これまで天理高校は優勝候補の一角としてなんども甲子園に出場している。それがいくら強い天理であったとしても、応援しようと思ったことはない。天理はPLや青森山田や帝京などと同じセミプロ寄せ集めの高校生集団であり、「地元の学校」という意識をもてないのである。しかし、帝京大学と闘う天理大学のラグビー部をぼくは心の底から応援していた。
伏線は1月2日にあった。平尾と松尾が対談しつつ、1985年のラグビー日本選手権決勝、同志社対新日鉄釜石の試合を振り返る番組がBSプレミアムで放送された。ご存じのように、同志社はすでに大学選手権3連覇を成し遂げており、釜石は日本選手権7連覇のかかる試合であった。前半は大学ラグビー史上最強と言われる同志社が圧倒し、後半は負傷上がりの松尾の活躍で釜石が逆転した名勝負である。松尾はこの試合をもって引退し、その後は半ば芸能人のような生活を送り、賭麻雀で逮捕?されたり、明大監督就任を学生に拒否されたり、惨々な余生を過ごしているが、日本ラグビー史上最高のスタンドオフであり、社会人となって成熟した平尾ですら、全盛期の松尾には及ばなかったとぼくは思っている。
しかし、チームとしてみれば、おそらく平尾の創り上げた神戸製鋼のほうが釜石を上回っていたであろう。その平尾を中心とする最強の同志社の3連覇に帝京は並ぼうとしていた。しかし、天理が勝てば、同志社以来27年ぶりの関西勢優勝となる。今年の大学選手権は、そういう意義のある大会であった。天理は見事なバックスの展開から先制した。二人のトンガ人を含むバックスは十分帝京の守備網を突破できることを証明した。しかし、その後、帝京の地力がじわじわと天理を自陣に押し込んでいく。二人の外国人フランカー(白人)を中心とするフォワードがスクラム、モールで押しまくり、ラインアウトでもボールを奪取し続けた。前半は帝京が12-7で折り返す。
VIDEO 後半も帝京が押し気味に試合を進めたが、この日の審判はいくぶん天理寄りの笛を吹いた。そのおかげもあり、天理は一瞬の隙をついて、バックスが2つめのトライを奪う。これで、同点。両校優勝の可能性が高まるなか、終盤まで帝京はボール・ポゼッションにこだわり、天理陣内でプレーを続ける。そこで、天理がファウルを犯し、帝京キャプテンのスクラムハーフがポールにボールをあてながらもPGを決めた。ノーサイド寸前に勝利を納めたのである。同志社以来の3連覇が成し遂げられ、27年ぶりの関西勢優勝は露の夢と消えた。
何度も書いておく。ぼくは声をだして天理を応援していた。同志社以来27年ぶりの日本制覇を奈良のオールブラックスに託していた。素晴らしい攻防の名勝負だった。両チームとも外国人二人を含むのは互角として、鍵を握る選手は天理がスタンドオフ、帝京がスクラムハーフであった。二人とも大人(たいじん)の面構えをしている。この二人と、東福岡高校のフルバックが、近未来の日本代表を支える中軸選手となるのだろう。以上、互角の陣容ながら、天理のスクラムハーフの動きがよく理解できなかった。なぜ自ら突っ込んでラックの下敷になってしまうのか・・・ラグビーの素人だから、これ以上とやかく言いたくはないけれども、ハーフの差が勝敗を分けたような気がしている。
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2012/01/12(木) 00:00:06 |
スポーツ |
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深夜、校正の仕事が一段落し、そのまま眠ればよいものを、あの磨臼(すりうす)のことが頭の片隅にあって、ぼくは台所におりていった。その小さな磨臼はラオスかミャンマーのどちらかで買ったものだ。最近、記憶力が衰えていて自信はないのだが、おそらくルアンプラバンの夜市で手にいれたのだと思う。
食卓で使おうとして買った磨臼だ。昨年はハーブ類をたくさん栽培していたので、実用性はあると判断したのだが、その夜まで使うことはなかった。あの夜、ぼくは、ほどよく乾燥した自作の唐辛子(鷹の爪)を磨りたかった。チキンカレーに混ぜ込もうと思っていたのだ。臼は小さすぎて、思いの外、使いにくい。ときに唐辛子の破片が臼の外に落ちることもあったが、それを捨てることなく、指でていねいに拾い上げて臼に戻し、また杵で磨った。少しずつ少しずつ、唐辛子は粒化していく。
時間がかかったけれども、満足感に浸り、床につくことにした。就寝前に小用を足す。足してすっきりしたので、部屋の灯りを消して布団のなかに入ったのだが、しばらくして、下半身に異変を感じた。股間が熱い。いや、痛いという表現がふさわしい。その熱い痛みは、過剰な唐辛子を摂取したときの口縁部や舌の感触とよく似ている。粒化した唐辛子が、指を経由して患部にまとわりついてしまったとしか考えられない。
しばらくすれば痛みは引くだろうと我慢していたのだが、治まる気配はなく、再びトイレに駆け込んで水洗した。水洗すれば、痛みは和らぐ。布団に戻ると、痛みはぶりかえし、また熱くなっていった。辛みの強いカレーを食べるとき、後味の辛さを冷水で抑えつつ、また食べる。水を何度も飲み、ときにうがいなどして必死に痛みに耐えるでしょう。あの夜、ぼくは布団のなかで我慢するしかなかった。
20分ばかりして、ようやく痛みは薄れ、そのまま眠りに落ちた。・・・いま一句整いました。
逍遙に こっちゅでこっちゅが 萌えた夜
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2012/01/11(水) 00:23:44 |
食文化 |
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開学年度の冬だから、今から11年も前になるけれども、1期生のゴルゴ18やヤノッチ15を連れて、鳥取県西部日野町の茅葺き民家をつぶさにみてまわっていた。根雨から出雲街道(国道181号線)を東行していくと「金持」という地名があり、街道の南側に「金持神社」の叢林を発見。なんと縁起の良い地名にして社名であろうか、と関心し、境内に足を踏み入れた。建築的にみれば、特筆すべき社殿というわけではない。2~3枚写真をとれば十分であったが、文化財価値などよりも「名前」に価値があり、そこはすでに「金運祈願」の神社として観光スポット化の気配を見せ始めていた。山陰でも有数の過疎地に発財の巡礼地が生まれようとしていたのである。
ただし、「金持」は「かねもち」ではなく、「かもち」と読む。また、歴史的にみれば、「金持」の「金」はマネーのことでもない。それは「鋼(かね)」つまり「鉄」を意味する。伯耆から出雲にかけての山間地域は、古来全国的に名高いタタラ(鉄生産)の地であり、『もののけ姫』の舞台はこのあたりだろうと私は勝手に思っている。
この正月、財布を買い換えることにした。古い財布の小銭入の部分がほころびて、コインがポケットにこぼれ落ちるようになったからである。奈良のイオンの売り場には、いろんな財布が並んでいた。欧米のブランド物ももちろんある。驚いたことに、その棚に金持神社の財布が含まれているではないか。正確にいうと、よしざわ株式会社が金持神社とライセンス契約を結んで製造・販売している財布である。デザインがあか抜けしているわけでもなく、他の財布に比べて使いやすい工夫がなされているわけではない。しかし、わたしは金持の財布を買うことにした。決め手となったのは、神社の社紋が「三つ巴」だったことである。以前、お伝えしたことがあるはずだが、我が家紋もまた「三つ巴」系の「
結び巴 」であり、魯班営造学社の
名刺 やASALAB院生の
名刺 のロゴとして使ってきた。そういう経緯もあり、よほど縁があるのかもしれないとまた勝手に思いこんだ次第。家内もこれにはいたく感激し、私の分だけでなく、息子の分まで買おうという。結局、色違いの金持財布をいま親子でもっている。
↑こちらは阿蘇山上の売店で仕入れた小銭入なり。
2012/01/10(火) 00:13:30 |
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匠です。
新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
1月3日、「参りゃんせ、お伊勢さん」というバスツアーに参加しました。山梨出身のわたしは登山好きなので、初日の出をみるのは何度も経験したことがありますが、神社の初詣をしたことがありません。そんなわたしが、人生最初の初詣を経験してきました。
年末に先生がご家族のために伊勢神宮初詣バスツアーのキャンセル待ちを入れておいたところ、みごと3日にあたって喜ばれていたのですが、お子様たちは素っ気なく「行かない」と言われたそうで、急遽、わたしとタクヲさんが代役で伊勢神宮の参拝に抜擢されることになったのです。
2日の深夜に鳥取を出発。心配だった雪の峠もなんなく越えて、予定通りの時間に先生のお宅に着きました。新年のあいさつをして、ツアーの集合場所へと向かい余裕を持ってバスに乗車。人生初の初詣に出発しました。バスの中で朝ご飯のサンドイッチとお稲荷さんを先生からいただき、途中のサービスエリアに止まった時には、肉まんをいただきと、バスの中では寝るのと食べたことしか記憶にありません。
外宮参拝 2時間半程で伊勢神宮の外宮に着き、まず人の多さに圧倒されました。しかし、先生がおっしゃるには「少ないほう」だそうでして、添乗員さんも「元旦、2日の半分程だ」そうですが、すでにして鳥取市の人口を超えているのではないかと思いました。まずは、表参道に出て、手水舎で心身を清め正殿に向かいます。来年が式年遷宮なので素屋根のかかった古殿地を見ることができました。
バスに戻る途中、人だかりを見つけ、覗いてみると、小さな石を紙垂で囲ったところで、周りの人が石に向けて手をのばしていました。自分もやってみるとほのかに温かく感じます。不思議でした。また、途中で御神酒を飲み、体が温まった状態でバスに乗ることができました。バスに乗ると、タクヲさんがメモ帳に、途中で見た五丈殿・九丈殿の屋根の構造を簡単に描いていました。こうやって頭に残すのかと学ばせていただきました。外宮は1時間ほどで参拝を終え、内宮へ向かいます。
内宮参拝 内宮には数分で着き、降りてビックリ、外宮よりもさらに人が多いのです。そんな、人混みの中、「おかげ横丁」をしり目に正殿へと向かいました。再び手水舎で心身を清め、正殿へ歩いていたのですが神楽殿を過ぎたころから前方に人が多くなり、まさかとは思ったのですが、途中で渋滞状態になってしまいました。人がゆっくり動く中、先生から答えられなければ「全員にお汁粉おごりなさい」という、恐怖のクイズを出されました。
「なぜ、外宮は左側通行で、内宮は右側通行か?」
宇治橋を通る時に疑問に思っていた自分は・・・と数分考えたのですがまったく思いつかず、文明の利器であるスマートフォンの使用許可を得る始末です。それでも、答えは見つからず、しびれを切らして先生からのヒントが。。。
「陰陽五行って分かる・・・陰と陽、男と女・・・」
これを聞いても分からなかった自分にとうとう先生が教えてくれました。
皇大神宮(内宮) =天照大御神=女=陰=右
豊受大神宮(外宮)=豊受大御神=男=陽=左
天照大御神は女性で、右の象徴。豊受大御神は男性で、左の象徴という意味らしいです。答えられなかった自分は、みんなにお汁粉か・・・こうやって、クイズや先生の講義を聞たり、周りの人の話を聞いていたら案外早く、正殿を参拝できました。帰りに古殿地を見ることができました。こちらは、素屋根には覆われていなく、外壁だけだったので、ところどころで金箔を施した千木・鰹木を望めます。
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2012/01/09(月) 00:33:52 |
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おぎんです。
2012年、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
私が、昨年末に受けていた取材が正月元日付けの新聞記事になりました。讀賣新聞鳥取版です。私は年末年始、地元へ帰っていて鳥取へ戻っきたばかりなので、先ほどやっと自分の掲載された記事を大学の情報メディアセンターにて拝見しました。予想していたよりも大々的で、私に係わる記事はほんの一部ですが、館長と映っている写真が大きく驚いているところです。
一回目の取材は11月末に大学で。そもそも、私が鳥取市の「まんが王国とっとり」推進委員会の学生委員に選ばれたきっかけを取材させてほしいとのことでした。漫画は好きだけど、普段から漫画を愛読しているわけではないこと、昨年度きっかわ先輩&竹蔵先輩の卒業研究をサポートして、倉吉に残る昭和の風景を谷口ジローの漫画のコマどおりに撮影しデータベース化したこと、などをお話しましたが、その日の取材内容では物足りないだろう、とも思っていました。記者のNさんも、何かアイディアを考えてきます、と言ってその日は帰られました。その後、電話による取材を何回か受け、年末に鳥取市立中央図書館長さんを交えての取材が実現しました。そこで、館長さんの漫画に対する熱い想いを聴かせていただきました。
その、対談をした館内のお部屋も館長さんの漫画のコレクションが積み上げられていました。昔懐かしい月刊コミックや少女漫画、取材の前日に発売されたという最新刊まで机の上にひしめいていて・・・圧倒されました。館長さんが語ってくださったのは、谷口ジローの漫画について、谷口ジローが影響された漫画家について、世界の漫画家の描く漫画、外国の漫画と日本の漫画の絵や対象、雰囲気の違いなどです。館長さんは谷口ジローとも親交が深く、自分のことのように話してくださいました。すごい経験をさせていただいたと思っています。
讀賣新聞記者のNさん、図書館館長さんほか関係者のみなさまに感謝申し上げます。今年もがんばれますように。(おぎん)
↑クリックすると、画像が拡大されます。
2012/01/08(日) 00:02:18 |
研究室 |
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毎年恒例のように送られてくる修理現場からの賀状メールに今年は上の写真が添付されていました。昨年の
写真 は謎解き形式にしましたが、今年はそういう面倒くさいことはやめましょうかね。
永保寺の鐘楼です。昨年末に修理を終えたそうです。永保寺の修理事業も、今年の8月で終わりとのこと。見に行きたいな。狙うとすればGWかな・・・どうなることか??
VIDEO メセニー、練習してないよぉ~~課題をやり残している学生の気持ちがよく分かります、あぁ憂鬱・・・
2012/01/07(土) 01:16:32 |
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12月30日(金)。インターンシップ最終日です。図面整理はほとんど終わり、今日は図面に整理番号とファイルに工事名を記入しました。記入作業はすぐ終わり、今日は時間を気にせずじっくり図面を見させてもらいました。建築仕様書や設備図面などわからないところも多々ありましたが、わかる範囲でしっかり閲覧できました。新築の図面から町家の改築図面など多く建物の図面がありました。整理を終えて、ふと考えると、開業から社員のOさんが来るまで、ずっと手描きですべての図面を一人で作成していたのはすごいと思いました。
5日間淹れて鍛えた珈琲を、今日はじめておいしいと社長に言われてすごくうれしかったです。
大学では学べない多くのことをこのインターンシップで学ぶことができた充実した5日間でした。
設計工房の方々には本当にお世話になりました。ありがとうございました。(白帯)
2012/01/06(金) 00:19:09 |
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白帯です。新年あけましておめでとうございます。
昨年末のインターンシップ日誌の続きをお届けします。
12月29日(木)。残すところ2日でインターンシップが終わります。多くの図面を見ていく中で、1/10と1/40の二つの縮尺を使った平面図がいくつかありました。柱を大きく描き、部材との組み方など詳細がわかるように描かれていました。めりはりがしっかりしていて、見やすい図面でした。
昨日、仕事終わりに社長に呼ばれ、「29日の仕事が終わった後に倉吉の職人さんが集まる忘年会があるけど来るか」と聞かれ「行きます」と答えていたので、仕事終わりに忘年会に参加させてもらいました。社会人の忘年会という慣れない空気の中で緊張していましたが、皆さんやさしくてすぐに打ち解けることができました。多くの職人さんの話が聞けて、良い体験をさせてもらいました。ちょっとした商品のあるゲームでビンゴを皆さんでやりました。自分は見事商品の長いも3本を勝ち取ることができました。(白帯)
2012/01/05(木) 00:11:48 |
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わたしの年賀状は、そろそろ皆様のお手元に届いたでしょうか?
投函が遅かったので心配しています。
最近はメールの賀状もいただきますね。上は、その1枚です。
わっ、猫だ・・・と喜び、その旨お返事したところ、LABLOG掲載の猫写真を加工したものだと知らされて、さらに驚いた・・・というか、じつはルアンプラバンの猫に似ているな、とは思っていたのです。
探してみましたよ。12月26日掲載の
写真 が元データのようですが、この2匹の黒猫の初登場は昨年8月29日の「
ルアンプラバンの夢(Ⅱ) 」です。
素晴らしいカードに(熱燗で)乾杯!
2012/01/04(水) 00:00:58 |
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阿蘇の噴煙 「火の国」紀行の締めくくりは阿蘇がふさわしいであろう。
寒い一日ではあったが、空は雲一つないほどの晴天で、雪は溶けないまま山肌に貼りついている。
山上をめざす前に阿蘇神社を訪れた。肥後国一宮である。駐車場のすぐ前に楼門が立っている(↓)。
「明治初めころの作か・・・」
と瞬時に思った。「日本の三大楼門」というだけのことはあって、高さ18メートルの棟高に驚きはしたが、プロポーションが縦長でいかにも「近代和風」の匂いがしたのである。そもそも、こういう形式の2階建の門を「楼門」とは言わない。楼造の門が楼門であって、阿蘇神社の場合、「二重門」が用語上正しい表現である。多くの大社が本殿を囲む回廊の中心に楼門を配するが、これとて古式の社殿配置ではない。もともと神社本殿を囲む装置は「垣」であり、その正門は「鳥居」であった。それが「回廊」と「楼門」に変化していく背景を仏寺からの影響とみるのは正しくない、とわたしは思っている。天皇の出御する大極殿、あるいは内裏正殿(紫宸殿)を囲む回廊と楼門が神社境内に取り込まれるようになるのだというのがわたしの見方で、平城宮でさんざん復元に係わる仕事をさせていただいたが、宮殿復元のモデルを寺院建築に求めすぎているように思えてならない。現人神である天皇の住まいが、神霊の居処たる神社の空間に投影しつつ変化させてきたのであり、これを反転させるならば、平城宮や平安宮の復元には神社の楼門や拝殿が重要な根拠になるはずだ。ただし、阿蘇神社の場合、宮殿式の楼門ではなく、仏寺式の二重門だということである。
案内板をみると、阿蘇神社楼門は明治建築ではなく、嘉永3年(1850)の上棟であった。見立てが間違っているとお叱りを頂戴しても構わないけれども、「幕末~明治初期」という年代相でひと括りにできる時代ではある。拝殿は明治建築で、その奥に3棟の神殿(阿蘇神社では「本殿」とは言わない)が並列する。拝殿の外から神殿を視野におさめることができない。『阿蘇神社』(週間神社紀行特装版)によると、神殿は天保年間の建立という。阿蘇神社の場合、建造物よりも、むしろ稲作に係わる祭事のほうが有名で、1982年、重要無形民俗文化財(芸能) に指定されている。一方、3棟の神殿のほか楼門・御幸門・還御門の建造物6棟が重要文化財に指定されたのは2007年、つい最近のことである。
驚いたのは、拝殿から神殿に拝礼しても、その方向に阿蘇が存在しないことであった。阿蘇山は遙拝の対象、すなわち、ご神体山ではないことをこの方位性が示している。ただ、山と神社がまったく無関係なわけでもない。楼門の前を左右に通る横参道は全国的にも珍しい形式で、参道の南が阿蘇火口、北が国造神社を指向しているとされる。
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2012/01/03(火) 00:01:48 |
景観 |
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天草崎津の漁村景観 天草という地名にはロマンがある。島原・天草の乱(1637-38)の総大将、天草四郎時貞は反乱のとき16歳の若さであった。汚れを知らない稚児のようなクリスチアンであったからか、それとも血縁か何か別の要因があったのか、よく知らない。島原・天草の乱を、豊臣遺臣キリシタン勢力の幕府に対する謀反と捉えるのは一面的な理解にすぎないらしい。重税に対する一揆という側面がむしろ大きく、検地の誤りがそのベースにあった。
しかしながら、天草の原城に籠城したキリシタン=一揆軍はポルトガル本国からの支援を待ち続け、一方の江戸幕府はオランダに頼ろうとしていたというから、その図式はわれらが『
薬研堀慕情 』を彷彿とさせる。
乱の鎮圧後、島原・天草のカトリック信徒はほぼ根絶され、幕府は禁教策を強化し、ついには鎖国に至る。しかし、島原半島・天草諸島には「隠れキリシタン」が少なからず潜伏し続けた。とりわけ島嶼の散在する天草は格好の隠れ場となった。鎖国が落ち着いた後、幕府はキリシタンの取り締まりを緩めたとも言われている。いわば「見て見ぬふり」を決め込んだ。幕府直轄領となった天草の海産物(乾物)を清国に輸出することで、幕府の財政が潤ったからである。
天草諸島下島の西海岸には、大江(↑)や崎津に天主堂がいまもある。これらは近代の建築遺産だが、江戸時代に脈々と受け継がれた隠れキリシタンの信仰が明治になって顕在化したものである。
天草を訪れたのは重要文化的景観「崎津の漁村景観」(2008選定)を視察するためである。カーナビの目的地を天草市役所に定めた。熊本から2時間かかる。そこで、重要文化的景観について訊ねると、庁舎分館にある教育委員会の世界遺産室を紹介された。市役所のなかに世界遺産室がある。本腰を入れて天草の世界文化遺産登録をめざしているということであり、重要文化的景観「崎津の漁村景観」の選定がその活動の一環であろうことは容易に想像された。世界遺産室で二人の担当官と名刺交換し、重要文化的景観に関する情報をいただいた。「崎津の漁村景観」は雲仙・天草国立公園内の漁村集落を対象としたものであり、敢えて崎津の天主堂(↑)をエリアから外している。さらに、追加選定の対象候補となっている大江の農村集落と倉岳町棚底地区の「防風石垣」景観の位置を教えていただいた。市役所のある本渡から西行して下田を経由し下島西海岸の大江、崎津をめぐり、そこから反転して上島東海岸の棚底をめざすことにした。
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2012/01/02(月) 04:40:14 |
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