日中建築史と保存修復に係わる交流 ――1970年代中期に日本建築学会が派遣した訪中団の中に奈文研の鈴木嘉吉さんが参加して手記を残しています。建築史の分野での日中交流はどうだったのでしょうか。
鈴木さんはぼくが採用されたときの所長です。90年代には、芸術文化振興基金の助成で、中国文物研究所との共同研究も始まり、応県木塔(山西省朔州市)や独楽寺観音閣(天津市薊県)などを視察しました。応県木塔は世界最大の木塔ですが、鈴木さん、故岡田さん、濱島さんら日本建築史の大家をお連れして、中国文物研究所やその上位機関にあたる国家文物局の専門家と意見交換したんです。日本側の意見は「磚積みの初重は現状修理とし、木造の二重から上を解体修理せざるをえない」というものでしたが、中国側はこれに拒否反応を示します。解体などの極端な介入行為は「ヴェニス憲章に抵触する」というのが中国側の見解だったんです。2009年に環境大の学生を連れて応県木塔を再訪したんですが、二重から上の木造部分はぐちゃぐちゃになってました。危険きわまりない。鈴木さんたちの意見に従って解体修理しておけば、こんなことにはならなかったでしょう。
ただね、日本の修復方法が絶対に正しいというわけでもありません。修復技術を世界的にみると、日本のやり方が例外的で、批判の対象になることもしばしばあります。日本人は「復原」しすぎるからです。個人的な意見を述べておくと、木造建築にとって「解体修理」はやむをえないが、「復原」はできるだけ回避すべきだとぼくも思っています。日本の場合、解体前の姿ではなく、建立当初の姿に復原しようとする力が強く働く。いろんな時代の材料が重層化した現在の姿こそがオーセンティックであるとするラスキン流の思想とは相反します。だから、ヨーロッパは日本を批判する。批判されている日本が、こんどは中国を批判するというのも、おかしな話でしょう。日本がやってきた修復の方法を、中国や韓国などの近隣の国に押しつけるようなことがあってはいけないと思います。
――共同プロジェクトで中国の実情に触れられて、当時の中国文物・考古界における制度や技術はどのように見えましたか。
組織図としての「制度」は確立しているのでしょうが、それが現実の動きとは乖離している状況をみてきました。大同や五台山で重点文物保護単位の修理現場に連れていかれましたが、修理技師は常駐していない。まれに文物研や文物局の担当者が現場に赴いて指導しているんですが、指導者不在の間に、大工が古材を捨ててしまったり、古い塗装の上にペンキ塗装をしているような具合でして、ぼくたちを案内した技師さんが怒って職人を注意してました。現場監理の体制ができていない証拠ですよね。少なくとも、90年代はそんなレベルでした。
技術については否定的な意見もありますが、日本と比較して判断できるものでもないと思います。中国建築は非常に豪快かつ雄大に見えるけれども、近くに寄ると、材と材の間に隙間が空いていたりする。日本建築は繊細かつ枯淡で、部材相互は全部びしっと精度よく組みたてられています。日本から見ると、現代中国の技術は稚拙に映るかもしれませんが、日本建築は中国の技術をもとにして育まれたものですからね。比較してどうこうではなく、お互いさまなんじゃないですかね。
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2012/02/29(水) 00:00:45 |
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チャイナ・ロビー ――日本に戻られたあとどういう経緯で奈良国立文化財研究所に入られたのでしょうか。
そもそも京大と奈文研の考古学は非常に近しい関係にありますが、建築史担当の発掘調査員として採用されたのはぼくが最初です。とにかく「中国屋」がほしかったのだと思います。昨年お亡くなりになった元所長の町田章さんを中心に「日中都城の比較研究」プロジェクトが動き始めていて、中国考古学と中国建築史の若手研究者が必要だったのでしょう。研究所でサッカーが盛んだったのも採用の理由かもしれません(笑)。
――奈良に勤務されている間はご自身の中国民居研究よりも平城京の発掘調査が中心になるわけですね。
奈文研では発掘調査員として毎年3~4ヶ月ずつ平城宮・京を発掘調査したり、日本各地の歴史的建造物を調査していました。奈文研は文化庁直属の研究機関で、文化財保護行政に資する調査研究が公務になります。入所後2年は中国に行くことを禁じられましたが、博士論文を書く必要もあり、住宅総合研究財団の助成金をもらったり、学術振興会特定国派遣研究員になったりして、雲南、貴州、黒龍江などに通い、少数民族建築の研究を再開させました。下っ端の頃は比較的自由で、年に2度ほど中国に行っていました。ありがたいことで、楽しかったですね。
やがて「日中都城の比較研究」プロジェクトの窓口役を任されるようになります。90年代前半の平城調査部には、ぼく以外に佐川さん(東北学院大学)、中村さん(金沢大学)がいて、町田部長を含める4人で「チャイナロビー」と揶揄されるぐらい、中国考古学が勢力をもち始めていた。91年に議定書の調印を交わしたんですが、最初の5ヶ年計画は人事交流ぐらいしかできませんでしたね。96年から第2次共同研究の5ヶ年計画が動き出した。当時の田中所長が申請者となって、漢の長安城桂宮の発掘調査を中国社会科学院考古学研究所と共同でおこなうことになり、毎年3回のペースで西安に通うようになりました。このころは苦労もたくさんありました。日本側が文化庁の研究費を数千万円用意するのですが、中国側は収蔵庫を開けてくれなかったり、現場に日本人研究者を短時間視察させるだけで調査に参加させなかったりして、不平等条約そのものでした。個人的にも、西安や洛陽にはさほど興味がなくて、都城研究そのものを楽しいとは思わなかった。辛い時期でした。
――日本側がそこまで中国で発掘調査したかった理由は何ですか。
当時、日本のどの研究機関が最初に中国を掘るのかで競っていましたからね。奈文研としては他に遅れをとるわけにはいかない。漢長安城桂宮が最初の調査地で、ぼくの転出後は、唐長安城大明宮太液池、北魏洛陽城太極殿の発掘調査をしているようです。
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2012/02/28(火) 00:34:12 |
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北京語言学院から同済大学へ ――中国にはそのあと、政府留学生の試験をパスして1982年に渡航されました。
81年に留学試験を受けたんですが、軽く落ちましてね。2年めの82年にギリギリ合格した。思い起こせば、いまひとつヤル気がなかったんでしょうね。ほとんど興味のない中国に留学する理由を見いだせずに苦悶していた。82年から84年まで、博士課程を休学して中国に行きました。文化大革命終結後四人組の追放があって、毛沢東の後継者であったはずの華国峰がまたたくまに小平に取って代わられ、小平傘下の趙紫陽が首相、胡耀邦が総書記だったころです。最初は北京語言学院で中国語を学びました。普通、中国語研修は半年なんですが、出来がよくなかったから、まる一年間、北京で中国語を一からやりました。
――そのあと上海の同済大学に移られますが、当時の中国の留学生活はどういった状況だったのでしょうか。
研究対象が南方中国だったこともあり、上海の同済大学で「長江下流域明清代住宅調査」を主テーマに研究しながら、半年かけて中国全土を旅しました。指導教官の陳従周先生に大変よくしていただきましたし、大学当局も私が学ぶための環境づくりをそれなりにがんばって作ってくれたと思います。江蘇・浙江の農村を2ヶ月間調査させてもらえたのは、本当にありがたかった。いまでも感謝しています。
ただ、当時の留学生はみな中国の閉塞状況に悩んでいたはずです。たとえば、大学の図書館に入れない。開架の図書さえ閲覧させてくれないから、外事弁公室に異義申し立てをする。留学生食堂とか購買部で服務員の態度がひどいこともしばしばありました。学外はもっと悲惨ですからね。商店に入って何かを買おうとしても、女性服務員は私語ばかりして、相手にしてくれない。品物を指定すると、そのモノを放り投げてくる。タクシーの運転手に至っては、おつりを投げ返してきたりするんです。そういうことが頻繁におきる。バスに乗ろうとして並んでいると、後から平気で割り込んでくるし、ひどい時には上着を掴まれて引き倒される。まじめに働こうが働くまいが、礼儀正しかろうが正しくなかろうが、労働者の賃金は変わらない。だから、働かない。態度も悪い。自ずと喧嘩になるわけです。中国人と留学生のあいだに不穏な空気が流れていて、ある時期、政府は留学生を「精神汚染の根源」だと決めつけたりしたこともありました。
当時、中国は文化大革命の後遺症から少しずつ癒え始めていた。だから、多くの中国人は、不満はあるにせよ「文革よりはマシだ」と思っていたことでしょう。一方、留学生は文革の時代を知らない。平和で豊かな日本からやってきて、中国の悲惨な生活を体験し、中国を嫌いになったまま帰国する日本人は決して少なくなかった。でもね、最近中国を訪れると、あの頃の方がまだ良かったなと思うところもあります。「おれの中国を返してくれ」とこぼすこともあるんです。
――陳従周先生のもとで学ぶことになったのはどういう経緯ですか。
当時の中国は、指導教官を選べるほど甘くない。中国の教育部が留学生の研究テーマに基づいて指導教官を一方的に決めるのです。陳先生は同済大学の建築史担当教授でして、江南庭園の研究で名を知られていました。もとは文学部の出身で、詩・書・画をたしなまれ、研究者というより芸術家に近かった。「最後の文人」とも呼ばれていました。「詩、書、画、劇、音楽などの芸術に精通している文人でなければ作庭はできない」という思想をおもちでした。大変尊敬しています。江南の民家や都市についても、お詳しい。素晴らしい指導教官でした。
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2012/02/27(月) 00:10:37 |
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2010年の春に学生のインタビューをうけ、同年
7月14日 に「ある学生インタビューから」と題して掲載した。その1年半後、こんどは秘書を連れた関東の某有名私学教員が来鳥し、中国研究活動に関わるインタビューをうけた。いずれ書物になるそうで、LABLOGに掲載するかどうか悩んでいたのだが、ようやく決心がついたので、今日から連載を始める。
なぜ中国だったのか ――先生と中国との出会いについて教えてください。
ぼくは鳥取西高校を卒業して、ほとんど建築に興味をもたないまま、京都大学の建築学科に入学しました。修士課程進学直後、指導教官だった西川先生に「ミクロネシアの伝統的な集会所を復元するプロジェクトがあるから記録を取ってきなさい」と命ぜられ、海外でのフィールドワークを体験したのが大きな転換点となりました。2ヶ月間のフィールドワークが抜群におもしろくて、夢中になってしまい、修士論文もミクロネシアの民族建築をテーマに書いたんです。博士課程に進学して、フィールドを南太平洋から東南アジアにひろげていこうと思っていたんですが、そういう研究をしてもなかなか職がみつからない。進路について悩んでいた頃、西川先生から「研究者になりたいなら中国しかないぞ」と言われましてね、中国留学を決意しました。最近西川先生とお話しする機会があって、当時の話になったんですが、「ぼくは、インドは好きなんやけど中国は苦手やったんや」とおっしゃる。苦手な分野を割り振られ、ぼくが中国担当になったようです。それまで中国と関わるなんて夢にも思ってませんでしたけど。
――学部時代はどんな生活だったんですか。
すでに大学紛争の峠は超えてましたが、京大ではまだ学生運動が盛んでした。ぼくは典型的なノンポリでね。建築学科の授業もつまんないし、サッカーとギターに熱中する4年間でしたね。
――都市史の西川先生の下で学ばれたとのことですが、当時の京大建築学科周辺の状況とミクロネシア研究の関係を教えてください。
西川先生が「建築史」講座の助教授から「地域生活空間計画」講座の教授に昇進されたころでした。ご専門は「都市史・保存修景計画・東洋建築史」。京大のイラン・アフガニスタン調査隊にも参加されていて、そのプロジェクトを前進させようとされていました。いまは先生の領域と重なりあうテーマを研究していますが、当時のぼくは一門のなかでも異端でしたね。ミクロネシアでの経験が強烈だったんで、「民族学」に偏った研究指向をもってしまい、先生も困られていたと思います。しかし、ぼくが西川研究室を選んだ理由は、フィールドワークを重視していることと、海外で調査できることでした。一方、川上先生は文献学的に日本建築史を研究されていました。ぼくは今でも文献が苦手でして、ともかく海外のフィールドにでたかった。
ミクロネシアの仕事は、国立民族学博物館(民博)経由で西川研究室に依頼がきたんだと思います。当時、海外の遺跡保全・整備方面では西川先生が最前線にいらっしゃって、たぶん、そういった流れのなかで、ぼくがミクロネシアに行くことになったんでしょう。いま民博館長の須藤さんたちがミクロネシアのサタワル島で長期のフィールドワークをされていて、よくご指導を仰ぎに民博に通いました。当時ぼくは20代で須藤さんたちは30代でしたが、すごく影響を受けて「文化人類学っておもしろいな」と思ったものです。
80年代は日本全体がバブル経済の絶頂期で、現代建築が浮わついてみえたし、建築家の発言の多くにも失望しました。「建築とはなにか、住まいとはなにか」という問題を原点に立ち返って学ぶしかない、などという大それたことを考え始め、そのためには民族学(文化人類学)の方法がいちばん良いと思いこんでいたんです。当時は建築と民族学の境界上で研究している人はほとんどいなかった。とくに大学院生にはいない。原広司さんの研究室が世界の集落をランドクルーザーを乗り回して調査したり、東京芸術大学の先生方がいわゆる「デザインサーベイ」に熱心に取り組まれた時期とも重なりますが、民族学的なフィールドワークとは、あくまで文化を内側から読み解くことだと信じていたので、「かれらとは違う」という自負はありましたね。今もそう思ってるわけじゃありませんけど。まぁ、似たりよったりですよね。そもそも、最近は「視察旅行」しかしてないもん。
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2012/02/26(日) 00:00:14 |
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信仰に係わる日本の文化的景観 ごく最近の重要文化的景観の選定例をみると、「信仰」を評価の対象にするものが、わずかながらあらわれている。「平戸島の文化的景観」(平成22年2月選定)や、「天草市津の漁村景観」(平成23年2月選定)では、直接的な評価対象にならない信仰を、「地域性を表現する要素」として位置づけている。たとえば、長崎県の「平戸島の文化的景観」をみると、選定において「かくれキリシタンの伝統を引き継ぎつつ、島嶼の制約された条件の下で継続的におこなわれた開墾及び生産活動によって形成された棚田群や牧野、人々の居住地によって構成される独特の文化的景観」として評価されている。選定基準に直接該当するのは棚田や居住、水の利用に関する景観地であるが、「かくれキリシタンによる信仰」を、平戸島という地域をとらえる大きな文脈として用いているのである。
摩尼寺に檀家はいない。敢えて言うならば、因幡国中の民が檀家である。すでに何度も述べたように、因幡の民の霊魂は極楽に昇天する前に、必ず摩尼寺「奥の院」に一旦滞留すると信じられてきた。岩陰仏堂の上段南側にある小祠の岩窟がおそらくその位牌壇として長く機能してきたのであろう。130体を超える石仏は国中の民が寄進したものであり、その伝統は近代まで続き、いまもなお参拝者が絶えない。参拝者の一部は本堂を超えて立岩や「奥の院」を巡礼する。こういった信仰の姿は仏教崇拝というよりも、現世御利益を願う典型的な庶民信仰のあり方を示すものであり、「民俗文化」としての価値を十分もっている。因幡国の民は昔も今も、日常生活のなかで、摩尼山を通じてあの世と往来している。そういう風土に育まれた生活の中の信仰の場として摩尼山は位置づけられる。
久松山と山陰海岸をつなぐ重要文化的景観へ 摩尼山は鳥取市北部における景観保護の繋ぎ役として非常に重要な役割を担っている。鳥取のシンボルたる国史跡「鳥取城跡」(久松山)と山陰海岸国立公園を繋ぐ中間地に位置しており、摩尼山を景観保護エリアにすることで久松山と山陰海岸国立公園は一連のエリアになる。摩尼山は山陰海岸ジオパークの一部であることから「地質」の保護対象であるのは間違いなかろうが、国立公園には含まれないため「風景」の保護対象にはなっていない。景観の保護を確固たるものにするためには、山陰海岸国立公園への編入に尽力するのが第一の課題になるだろう。しかし、国立公園の評価対象は「自然の風景地」であり、文化遺産は二次的な要素にすぎない。ところが、摩尼山は因幡国山中他界の霊山として長く信仰の対象であり続け、山中には本堂を中心とする現境内や「奥の院」遺跡、130体を超える石仏群などの文化的資産を豊富に有しており、その価値を無視することはできない。そこで、摩尼寺「奥の院」遺跡を史跡に指定し、摩尼山全体を名勝に指定、もしくは重要文化的景観に選定することを提案したい。
熊本県の「
天草市津の漁村景観 」が雲仙・天草国立公園の範囲に所在する重要文化的景観であるのを模範として、山陰海岸国立公園に含まれる重要文化的景観もしくは名勝となることが、文化資産としての摩尼山の理想的な保護形態だと考えている。
すでに日本全国で重要文化的景観の選定は30ヶ所を超えた。しかるに、中国地方では1例も選定を受けていない。摩尼山が中国5県最初の重要文化的景観に選定されんことを願っている。
2012/02/25(土) 00:00:42 |
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世界遺産条約からみた摩尼寺「奥の院」遺跡 中橋教授が述べているように、法的な制度をもって摩尼山の保護を図る必要がある。ここでは原点に立ち返るしかない。われわれは文化的景観の研究から出発し、ここまで辿り着いた。摩尼山、あるいは摩尼寺「奥の院」遺跡は、はたして文化的景観としての保全が可能であろうか。この問題については、すでに今城愛[2011]が検討している。その研究を要約しつつ、新たな視点を示してみよう。
まずは世界遺産条約における「文化的景観」の定義と類型を振り返っておこう。「世界遺産条約履行のための作業指針」第47項によれば、「文化的景観は、文化的資産であって、条約第1条にいう『自然と人間の共同作品』に相当するものである。(後略)」。そして、世界遺産における「文化的景観」は以下の3領域4タイプに分類される。
A.人間の設計意図の下に創造された景観で、庭園や公園など。
B.有機的に進化してきた景観
B-1.残存している(又は「化石化した」)景観
B-2.継続している景観
C.(自然要素の強力な宗教などと)関連する景観
摩尼寺「奥の院」の場合、世界遺産の文化的景観の類型としてふさわしいのは「化石化した景観」であろう。人工的に形成された加工段、礎石、岩陰、岩窟などの遺構が、現在も周辺の豊かな自然地形や植生と複合化して、みごとな「自然と人間の共同作品」が生まれている。世界遺産の類例としてラオスの「ワット・プーと関連古代遺産群」をとりあげておこう。ワット・プーは「山寺」という意味であり、聖地である山の麓に建てられた寺院の遺跡である。化石化(遺跡化)したモニュメントと自然の融合景観だけでなく、いまなお「山」を信仰する人びとが遺跡を巡礼している。「化石化した景観」としての意義だけでなく、「関連する景観」としても意義のある遺跡なのである。
このように、摩尼寺「奥の院」もまた「信仰」に係わる「関連する文化的景観」と評価することができる。平安時代後期以降、因幡の民の霊魂は極楽に昇天する前に、必ず摩尼寺「奥の院」に一旦滞留すると信じられてきた。山中他界の霊場として認知されており、因幡地域にとって最も重要な「聖なる山」であったし、いまも摩尼山に対する畏敬の念は薄れていない。摩尼山は強い信仰心によって因幡の民衆と結びつき、その「聖なる山」としての性格が地域性をもって継承されてきた。このような性格の世界遺産として、ニュージーランドの世界複合遺産「トンガリロ国立公園」が思い起こされよう。トンガリロ国立公園は世界自然遺産に登録された後、「山」がマオリ族の信仰の対象であることにより「関連する文化的景観」としても評価され、1993年に世界文化遺産に登録され、結果として世界複合遺産になった。物質としての「山」は自然である。しかし、マオリ族や世界中の多くの民族が「山」そのものを神霊もしくは聖域と認識している。そういう認識は「文化」的事象であって、山が「自然」と「文化」の両面から評価される所以である。このあたりの二重の価値は、摩尼山にもそのままあてはまるだろう。
[摩尼寺「奥ノ院」遺跡の環境考古学的研究(ⅩⅥ)]の続きを読む
2012/02/24(金) 00:00:20 |
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山のジオパーク ここで時間を昨年(2011)師走の17日に巻き戻す。同日、重要文化財「仁風閣」で「山林寺院の原像を求めて-栃本廃寺と摩尼寺『奥の院』遺跡-」と題するシンポジウムを開催した。文字通り、栃本廃寺と摩尼寺を中心に山林寺院の諸問題を論じたシンポジウムであるが、
パネル・ディスカッション の最後に摩尼山の保全とグリーン・ツーリズムに関する討議をおこなった。ここで主役を務めたのは、鳥取環境大学の同僚、中橋文夫教授(ランドスケープ・デザイン専攻)である。中橋教授はシンポジウム資料集に「摩尼寺『奥の院』遺跡をグリーン・ツーリズム的視点から見た史跡公園・文化的景観の保全・活用・整備の方向性について」と題する論文を寄稿している。摩尼山が山陰海岸ジオパークに含まれることを強調し、これまで「山のジオパーク」が軽視されてきた経緯に注意を促しつつ、計画の方向性として以下の7点を指摘している。
(1)山と海を繋ぐ歴史自然巡回廊の構築
(2)豊かな自然を生かしたエコミュージアム構想
(3)身近な生き物とふれあう生態回廊の構築
(4)森の文化的景観を楽しむ、里山林整備計画の導入
(5)「行」ができる歴史体験型庭園としての整備
(6)摩尼山、久松山を拠点とするロ号国営公園の誘致
(7)眠れる資源、坂谷神社の巨岩
この内容は歳があけた
1月9日の日本海新聞(19面) に「山のジオパーク『摩尼山・久松山』 里山歴史公園の視座」と題して掲載されている。「山のジオパーク」という視点はまったくの盲点であり、山陰海岸と摩尼山の一体化というアイデアに魅力を感じる。
国立公園か国営公園か 上の提案は緑地景観保全計画の面ではまことに適切な指摘がなされているけれども、文化遺産の立場から一抹の不安を覚えたのは「ロ号国営公園の誘致」という提案である。ロ号国営公園の問題に焦点を絞って、中橋教授の当日の発言を引用しておこう。
やはり法的ないろんな制度をもって、摩尼山をちゃんと都市計画で
位置づけていく必要があります。たとえば、摩尼山は山陰海岸国立
公園から(1.5kmしか離れていないのに)国立公園から外れています。
環境省は、なぜ摩尼山を国立公園に入れなかったのでしょうか。
それはそれで今後検討していくとして、摩尼山を国営公園にできない
のかと思うのです。久松山と摩尼山を一体にとらえた国営公園です。
国営公園は山陰地方にはありません。日本でないのはここだけです。
これは国策としてちょっと具合が悪い。まもなく高速道路(鳥取道)
も全面開通しますし、そういうことを機会にして、国営公園を誘致
してはどうでしょうか。その場合、国営公園にはイ号とロ号があります。
イ号は総合的なスポーツ・レクリエーションを目的とした公園で、ロ号
は国家的歴史資産の保全活用を目的としています。吉野ヶ里遺跡、
飛鳥歴史公園、平城宮跡がロ号国営公園の代表ですね。と言いながら、
じつは、今からの時代はもう国営公園と違いますよ。鳥取県は近畿圏の
広域連合に入っていますよね。そういう広域連合が考える広域利用の
公園のあり方というのも、基本的に検討すべきだと思います。今後、
それも地域主体でやっていくのですよ。もう国に任せたらだめだという
意見も強いわけです。地域の方がボトムアップでやる。そういう自然参画系
の公園はどうであるべきか、検討していく。(後略)
[摩尼寺「奥ノ院」遺跡の環境考古学的研究(ⅩⅤ)]の続きを読む
2012/02/23(木) 00:00:01 |
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冬の「奥の院」 2011年度最後の調査は、歳を跨ぎ、正月
17日 におこなった。前年の年末年始、山陰海岸の漁船群を沈没させるほどの大雪が鳥取県を襲った。摩尼山の門前では約120㎝の積雪があり、元旦から停電になったと聞いている。それにひきかえ、2012年の正月は穏やかで、門前に雪はなく、不安な気持ちを抱えながらも、「奥の院」岩陰仏堂の石仏調査を敢行することにしたのである。ところが、山道に入るや根雪が増してゆき、その深さはまたたくまに30~40㎝に達して調査隊の行く手を阻んだ。なんとか「奥の院」に辿り着き、Ⅱ区の加工段を見渡すと一面銀世界ではあったが、その奥にみえる岩陰には雪がない。リーゼントヘアーのように張り出した巌(いわお)の陰に隠れた絶好の避難場所になっている。しかも、岩陰の内部が明るく写しだされている。いつもは薄暗く、仏像や岩肌が霞んでみえにくいのに、その日はそれらが浮かび上がるようにして眼前にあった。
一つの原因は落葉である。岩陰を隠していた大樹・小木の枝から枯葉が落ち尽くして陽光が岩陰の奥に届いている。繁茂していた草も枯れ果てた。いまだ苔生してはいるけれども、巌を隠す植生は範囲を大きく狭めており、銀幕からの反射光で裸体になった岩肌が照らし出されている。そこで、わたしたちは新しい発見をした。岩陰(Ⅲ区)から岩窟(Ⅳ区)に直線的に上っていく石段を確認できたのである。それは巌を削りだして石段状に加工した刻み階段であった。すでに摩耗が激しく踏み石の姿は概形をとどめる程度だが、階段の痕跡であるのは間違いない。やはり、岩陰と岩窟は一体化した二階建の仏堂だったのであり、この遺構もまた『因幡民談記』にみえる二重仏堂の一部をなすものである。
こうしてみると、巨巌・岩陰・岩窟を覆う雑木の伐採や除草は「奥の院」の歴史を知るための有力な調査手段であることが分かる。伐採すべき樹木のなかには「大樹」も含まれるが、ここにいう「大樹」にしても樹齢はせいぜい20~30年であって、「天然記念物」扱いできるようなものではない。雑木の親玉と言うべき樹木であり、その樹根が巌や地下遺構を破壊する源になっている。
加工段と岩陰・岩窟を遮蔽するこれらの大樹・灌木を伐採し、丁寧に除草すれば、崇高なモニュメントたる巌が姿をあらわし、加工段と岩窟・岩陰の一体化した遺跡景観が恢復されるであろう。発掘調査に携わるスタッフ全員が、いつもそれを願い事のように考えていた。今回、冬の「奥の院」を訪問し、長い石段を発見したことで、その想いはいっそう強くなった。この伐採清掃作業は、いわば垂直的な発掘調査というべきものであり、今後できるだけ早いタイミングで実践しなければならないと考えている。その作業は「調査」であると同時に「整備」でもある。伐採清掃作業によってあらわになった巌・岩陰・岩窟と加工段が、木造建築部分を失った「奥の院」上層遺構の全体像を示すものであり、一般公開されるべき対象にほかならないからである。
木彫仏の保存処理 今回の石仏調査では、岩陰下段の仏像群の種類だけでなく、上段北側に鎮座する虚空蔵菩薩が文化6年(1809)の寄進であることが背面刻字よりあきらかになった。また、石の彫りかたや風蝕からみて、岩陰の千手観音像や不動明王像も虚空蔵菩薩の制作年代に近いと思われる。一方、2010年度後期のプロジェクト研究2「歩け、あるけ、アルケオロジー」では、摩尼山で130体の石仏を調査しており、文化文政年間頃の寄進を少なからず確認できている。現境内から立岩の閻魔堂に至るルートが江戸時代後期以降の主たる参拝路であり、「奥の院」が廃絶していたその時期にあっても、「奥の院」に複数の石仏が寄進されている点は興味深い。廃墟となった「奥の院」はなお信仰の場として活きており、その伝統は現代に継承されている。岩陰の地蔵菩薩は近代の作(寄進)であり、賽銭箱に近いⅢ区の埋土からは戦後の貨幣が出土しており、なにより今もまた参拝の客がときおりみられる。
[摩尼寺「奥ノ院」遺跡の環境考古学的研究(ⅩⅣ)]の続きを読む
2012/02/22(水) 00:00:22 |
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VIDEO ピノキオ待っているんです。チェックしてくださいって、資料をどっと手渡したまま消えちまった。明日(今日?)から卒業研究展で、その設営だそうですが、設営するパネルの資料をわたしの手許においてったんだから、どないもこないもなりもへん。いつパネルを設置するんや??
気晴らしにユーチューブを彷徨していたら、バーニー・ケッセルのこんな演奏に辿り着きましたよ。
良いですねぇ。こういうブルースを、ジャズ喫茶のJBLで聴きたい。そんな店をもちたいなぁ。平田で店開こうかな・・・1日のお客さんは5人ぐらいが理想だ・・・だはは
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鳥取環境大学環境デザイン学科卒業研究展 は以下の日時・会場で開催されます。皆々さまのご来場お待ちしております。
日時:2012年2月21日(火)~2月26日(日)
会場:とりぎん文化会館フリースペース
ピノキオさんは論文部門でパネル数枚展示します(はずです)。
8世紀の神社遺跡に関する日本で最初の本格的な復元研究 ですので。
檜尾 恵(卒業論文)
「律令時代の神社遺跡に関する復元研究
―出雲市青木遺跡のケーススタディ―」
Reconstruction Study on the Shinto Shrine's Building Remnants
in the Ancient Times of the Political System based on the Ritsuryo
Codes -A Case Study on Aoki Ruins in Izumo-city -
2012/02/21(火) 00:00:44 |
研究室 |
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オーガー・ボーリング調査 1.調査の目的 摩尼寺「奥の院」遺跡の発掘調査(2010)では、Ⅰ区・Ⅱ区の加工段(平坦面)で地山(自然堆積層)を確認できなかった。2011年のボーリング調査は、前年未確認であった地山を確認し、摩尼寺「奥の院」遺跡の層位関係を見極めようとするものである。調査前に、いくつかの障壁に突きあたった。土壌の専門家を現場に案内し協議した結果、Ⅱ区の地山は斜面の傾斜からみて地表面下2.5m以上の深さと推定されるが、機械ボーリングの機材を山上に運び込むのは不可能であり(経費も尋常ではなく)、現実的にはハンドオーガー・ボーリング以外の手だてのないことが判明した。しかしながら、摩尼寺「奥の院」遺跡の下層整地土には多量の凝灰岩片を含み、地表面からの掘削はきわめて困難であろうという見込みが示されたのである。
ボーリング調査は、本来地表面からなすべきものだが、地盤の固さや凝灰岩片の多さを考慮し、Ⅰ区・Ⅱ区の深掘トレンチの底面から掘削作業をおこなうこととした。機材はハンドオーガーとハサミスコップを併用した。ボーリングの方法は以下のとおりである。掘削前にレベル測量で掘削面(上面)の標高を確認。1回の掘削で深さ15~20㎝の土壌が得られる。その土壌を観察し、「色彩」「土質」「凝灰岩片の有無」などを記した土壌名と標高をラベルに記して、土壌とラベルをビニール袋に収める。この作業を掘削可能な深さまで反復し、土壌の変化を観察する。Ⅱ区における下層整地土の特徴として、①赤みがかった「赤褐土」であり、②粘性が比較的強く、③凝灰岩片・凝灰岩粉を含む、という3点を指摘できる。この3つの特色が薄くなればなるほど、地山層である可能性が高くなる。
2.Ⅱ区のボーリング調査 Ⅱ区はB区北西隅の深掘りトレンチの埋め戻し土を取り上げた。この部分では、表土の下5㎝前後の位置で赤褐シルトの層を検出しており、これが上層遺構面である。地表面下15㎝の位置で凝灰岩片混じりの層があらわれ、地表面下50㎝はシルト層、その後70㎝まで凝灰岩片の混じる粘質土の層となっていた。以上は、下層遺構面から上層整地土の層である。ここまで2010年のトレンチ調査で判明しており、トレンチ底からボーリングをおこなった。ボーリングでは、地表面下約3m(トレンチ底から約230㎝)まで掘削に成功した。表1に示したように、掘削の回数は30回(№1~30)である。
No.1からNo.3までは多くの凝灰岩片を含む茶灰色系の粘質土であった。2010年度の断面調査では、このレベルではすでに土壌は「赤褐土」系であったが、ボーリング調査では赤みが薄れていた。あるいは、発掘調査時に3ヶ月以上露天に晒したことで変色をきたしたのかもしれない。
No.4から土層は「赤褐土」の色彩を取り戻し、標高が下がるにつれ、赤味は強くなっていく。いずれも粘質は強く、凝灰岩片を含むことが多い。No.12では粘質土に少量の砂質が混じり、No.13になると粘質層から砂質層へと変わる。No.16・No.17では土壌の赤味がとても強くなる。No.19になると、凝灰岩片は極微量の凝灰岩粉になり、No.20からは凝灰岩の要素は肉視では確認できない。No.23から下では土壌から赤味も消え、土壌は茶灰系の色に変わり、凝灰岩は含まれない。No.28から下の土壌はとても軟らかい砂質で、No.29でハンドオーガーが硬い何か(岩盤?)にあたり、No.30では空回りした。No.30土壌はサラサラした砂質であるため、ハンドオーガーで取上げることができなかった。
以上を総括すると、凝灰岩粉が肉視で確認できるのは№19(地表面下2.32m)であり、土に微かな赤みを確認できるのは№27(地表面下2.88m)までである。この間の土質はすべて砂質系である。したがって、浅くみれば№20(地表面下2.38m)、深くみれば№28(地表面下2.88m)より下の層を地山とみることができる。ただし、岩盤の削平に伴う「削り屑」と推定される凝灰岩片・凝灰岩粉が遺物に近い要素であり、その要素の消える№20(地表面下2.38m)あたりを地山層の上面とみてよいのではないだろうか。
なお、ハンドオーガーが空回りし、土壌の採取が難しくなったNo.29(地表面下3.04m)あたりでほぼ岩盤に達していると推定される。
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2012/02/20(月) 05:14:41 |
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植生からみた「奥の院」の境内 Ⅱ-A区とⅡ-B区のL字トレンチで、それぞれ上下層1ヶ所ずつ、計4ヶ所の土壌の花粉分析と植物珪酸体(プラント・オパール)分析をパリノ・サーヴェイ社に依頼した。土壌試料は、以下の4点である。なお、A005などの番号はパリノ・サーヴェイ社の分析番号、それに続く( )内のNo.002などの番号は発掘調査現場における土壌採取の通し番号を示す。
Ⅱ-A区L字トレンチ: A005(No.002/上層) A009(No.006/下層)
Ⅱ-B区L字トレンチ: B002(No.018/上層) B007(No.023/下層)
A区・B区とも、下層の土壌サンプル(No.006、No.023)は花粉化石の産状が壊滅的な状態であり、下層の植生復元は不可能である。上層についても、花粉化石の保存状態は良好といえないが、No.018では計460の花粉・胞子を検出した。分解に強い花粉が選択的に多く残されている可能性があり、当時の周辺植生を正確に反映していない可能性もあるが、パリノ・サーヴェイ社は以下のように分析している。
木本類をみると、マツ属が優占する。このうち亜属まで同定できたものは、
全てマツ属複維管束亜属であった。マツ属複維管束亜属(いわゆるニヨウマツ類)
は生育の適応範囲が広く、尾根筋や湿地周辺、海岸砂丘上など他の広葉樹の
生育に不適な立地にも生育が可能である。また、極端な陽樹であり、やせた
裸地などでもよく発芽し生育することから、伐採された土地などに最初に進入
する二次林の代表的な種類でもある。このことから、当時の遺跡周辺でも、
二次林や植林としてマツ属が存在していたと推測される。また、ツガ属、
スギ属等の針葉樹、クマシデ属-アサダ属、コナラ属コナラ亜属等の落葉
広葉樹、シイ属等の常緑広葉樹などが周辺の森林を構成しており、林内や林縁
にはウコギ科、ミズキ属、タニウツギ属等も生育していたことが窺える。
一方草本類では、少ないながらもイネ科、タデ属、カラマツソウ属、
サツマイモ属-ルコウソウ属など、開けた明るい場所に生育する「人里植物」
に属する分類群が認められ、カヤツリグサ科、アブラナ科、ヨモギ属、
キク亜科、タンポポ亜科等も同様である。よって、これらは遺跡内やその周囲
の草地植生に由来する可能性がある。
植物珪酸体の産状の観察からは、(略)周辺において少なくともクマザサ属
やメダケ属を含むタケ亜科の生育がうかがえる。
この分析で特筆すべきはマツ属の多さである。現在の摩尼寺「奥の院」周辺は照葉樹と落葉広葉樹の混交した原生林に近い植生を示し、2次林であるところのマツはほとんどみられない。しかし、『因幡民談記』所載の喜見山摩尼寺図にマツと思われる樹木が多数描かれており、「奥の院」をはじめ建物の周辺に集中している。絵図の表現と花粉分析の結果を照合するならば、上層期(16~18世紀頃)では、周辺の原生林と境内を識別しうるマツが多く植えられていたことが分かる。神社の叢林(鎮守の森)が照葉樹を中心とする原生林的な植生を示すのに対して、仏教寺院は照葉樹ではなく、マツに代表される針葉樹をしばしば伽藍の境界に並木のように配する。上層期の「奥の院」においても、おそらく周辺の自然地形と「境内」を区画する境界として松(の並木?)が利用されていたのであろう。しかも、境内地には「人里植物」が生育していた。山頂に近く自然の豊かな「奥の院」にあっても、周辺の自然地と境内地を識別しうる人為的な植生がみられたことに注目したい。
2012/02/19(日) 01:57:45 |
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強烈なケンビキに襲われ、まる24時間、葛湯しか口に入らないほどの症状に苦しんだ。熱はない。体中が重い肩凝りのようで、あとは、
It's only Gary Peacock!
であります。
バレンタインがねぇ・・・その翌夜もねぇぇぇ・・・なんてことは冗談にしておいて、14日から16日まで大学院関係の行事が集中してあり、科長としてほぼ最後の公務だったんですが、異常に疲労が蓄積してしまったようです。
昨日は、ずっと床に就いてましたが、少し体調が上むくと、あちこちにメールか電話して、「ケンビキだ、けんびきだぁ」と吹聴してまわったんですが、だれも見舞いにきてくんない。ば~ろう、おまえらのせいで、こんな体になったんだからな・・・あっ、痛てて、いててぇぇ・・・もう、絶対、遺産分けてやらん・・・
ひとつ興味をそそる返信がありまして、ケンビキに「兼備気」という漢字をあてている。いまネットを漁ってみたんですが、「兼備気」ではまったくヒットなし。ケンビキの語源は「けんぺき」もしくは「けんべき」であり、その漢字は「痃癖」「肩癖」だそうです。この熟語はちゃんと広辞苑にも含まれており、驚くなかれ、日葡辞書にも「ケンベキ」が掲載されているとのこと。
あぁぁぁ、また肩凝ってきた・・・
VIDEO ゲイリー・ピーコックは13歳からピアノを始め、20歳で兵役に就き、ベースをマスターした。本人曰く、「ベースを初めて手にしたとき、両の腕は正しくベースを弾きはじめ、それ以来わたくしはベースの練習というものをしたことがない」。スコット・ラファロの後継者のようで、じつは同年生まれ(1936-)というから、驚きだ。
・・・タウナーとピーコックでは、力量のちがいが歴然ですね。
2012/02/18(土) 00:18:02 |
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三徳山三仏寺の年輪年代測定と前身建物 2002年に三徳山三仏寺で部材の年輪年代測定がおこなわれ、投入堂西扉(辺材型)の最外層年代が1078年、納経堂身舎丸柱(辺材型)の最外層年代が1082年を示したことで注目を集めた。用材とされたヒノキの伐採年代は11世紀後半に遡り、投入堂および納経堂が1100年前後に建立されたことがあきらかになったのである。さらに投入堂の本尊「蔵王権現」6-1右足(樹皮型)の最外層年代が1025年、「蔵王権現」6-6本体(辺材型)の最外層年代が1011年、愛染堂古材№1叉首台(辺材型)の最外層年代が1021年を示すことなどから、おもに美術史の研究者によって前身建物の存在が指摘された。これをうけて、投入堂(蔵王堂・愛染堂)の立地する岩盤の痕跡調査がおこなわれ、わたしも参加した。調査の結果、岩盤に200以上のピットを確認したが、柱を納める基礎となるようなピットの数は極端に少なく、かりに前身建物が存在するにしても、現位置での建替としか考えられない。すなわち、現状のデータでは、三徳山三仏寺「奥の院」における投入堂の建立は11世紀前後であり、その前身建物が存在するにしても11世紀前半までしか遡り得ないのであり、役行者に係わる縁起の年代とは相当な開きがある。
六郷満山との比較 さて、大分県は磨崖仏でよく知られているが、磨崖仏を覆う岩屋(いわや)と掛屋(かけや)も数多く残っている。ここにいう岩屋とは、絶壁に掘り込んだ横穴であり、掛屋は岩屋の前方に設ける懸造の建物である。岩屋を掘って仏像を祀る場合、その正面に掛屋をつくって風雨を避け、そのなかで人びとは礼拝する。山陰ではすでに遺跡化した「奥の院」が少なくないから、「岩屋の前には掛屋があったのだろう」という推定の域をでないのだけれども、大分では「岩屋の前には掛屋があった」と言い切ってよいのである。
現在、六郷満山周辺で最も古い掛屋は宇佐市院内町の龍岩寺「奥の院」礼堂であり、棟木下端に「奉修造岩屋堂一宇□□□ 弘安九年丙戌二月二十二日 大旦那沙弥」の墨書銘を残し、鎌倉時代13世紀後半(1286年)の建造と知られる。岩窟内に3体の木彫仏を配し、その前方に懸造礼堂を設け、木像を保護している。岩窟の上部から外側に向かってのびる片流れ屋根の礼堂で、中国石窟寺院の「窟檐」を彷彿とさせる。これが最も素朴なタイプの礼堂だが、六郷満山には流造や入母屋造の懸造礼堂を半割にして岩屋に密着させるものがある。
六郷満山にはもう一つ避けて通れない建造物がある。豊後高田市田染の蕗(ふき)に境内を構える富貴寺は、他の六郷満山諸寺院と同じく、仁聞開山伝承をもち、宇佐神宮の庇護を長きにわたって受け続けた。その境内に国宝の大堂(おおどう)が建っている。宇佐八幡大宮司の到津(いとうづ)家文書によれば、大堂の建立 は12世紀後半であり、様式的には平安時代後期の建築とされる。 正面3間×側面4間の小さな和様の阿弥陀堂で、九州最古の仏教建築でもある。屋根は宝形造の行基葺。阿弥陀如来を納める四天柱のみ丸柱とし、側柱はすべて面取角柱とする。不思議に思う方も多いであろう。なぜ、このように小さな阿弥陀堂が「大堂」なのか。それ以前はどうだったのか、考古学・歴史学的な証拠はなにもないが、六郷満山及びその周辺諸山の寺院に多く残る茅葺きの「草堂」(草庵風の仏堂)や掛屋に注目すべきではないだろうか。富貴寺大堂の竣工以前、この地の本堂や講堂などの主要仏堂 はおそらく掘立柱の「草庵」であり、富貴寺に初めて本格的な礎石建瓦葺の本堂が建設された結果、従来の草堂に比して大きく立派だから「大堂」という尊称が与えられた可能性がある。
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2012/02/17(金) 00:00:36 |
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上層出土土器の古さについて 上層の整地年代については、上層最下層にあたる整地層で15~16世紀の備前焼すり鉢(№26)や青磁の香炉(№35)・皿(№55)が出土している点から室町時代後期以降の形成と推定される。しかし、注目したいのは上層から鎌倉時代以前の土器が多数出土している点である。下層は発掘面積が小さく、Ⅱ区で出土した土器は7点に限られたが、、Ⅰ区最下層出土の13点を除くと、上層出土土器の総数は125点を数え、うち50点が鎌倉時代以前のものである。
さらに年代を絞り、平安時代以前の土器ならば上層だけで45点、平安時代初期(9世紀)から奈良時代以前に遡りうる土器は12点もある。これまで何度か述べてきたように、下層加工段の形成は10世紀以降であり、建築物の存続年代を考慮するならば、鎌倉時代に近い平安時代末期が想定される(それは不思議にも藤原秀衡の年代と重なり合う)。しかし、上層で8~9世紀に遡りうる土器がこれだけ出土している点を鑑みれば、摩尼寺「奥の院」遺跡におけるヒトの活動がその時代にまで遡りうる可能性を当然想定しなければならない。
放射性炭素年代について 株式会社パレオ・ラボに依頼して、加速器質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代測定をおこなった。研究費の関係上、2010年度に2点、2011年度に6点に分けて分析を委託した。まず2010年度の成果を述べる。なお、以下に示すPLD-1740などの番号はパレオ・ラボ社の測定番号、それに続く( )内のC007などの番号は発掘調査現場における採取の通し番号を示す。
PLD-17409(C007): 40216BC(95.4%)39460BC
PLD-17410(E003): 1665AD(18.4%)1689AD 1730AD(48.3%)1785AD
1793AD( 9.6%)1810AD 1926AD(19.2%)1954AD
PLD-17409(C007)はⅡ-A区の下層整地土に炭化した粒子を確認したので、その炭化粒子を含む土壌全体をサンプルとしたものであるが、旧石器時代に相当する年代を示した。地山に含まれていた何かが整地層に混入して炭化したとしか考えられない。
PLD-17410(E003)は下層井戸SE01廃絶時に井戸に差し込まれた推定「井戸神の息抜き」の土壌をサンプルとしたものである。最も信頼性の高い年代が1730AD~1785ADであるが、その信頼性は48.3%にとどまり、可能性のある年代は1665AD~1954ADと幅がひろい。とりわけ近代にあたる1926AD~1954ADが2番目に高い19.2%を示している点をみると、調査時になんらかの要素が混入した可能性もあり、土壌化したデータそのものの不安定さをも考慮すると、このAMS年代を井戸の廃絶期と認定するのは難しいであろう。
2011年度の年代測定対象6点のうち最後に送付したPLD-19605(通し番号なし)は、2011年10月21日におこなったオーガーボーリング調査の際、ハサミスコップで取り上げた灰色粘土に付着した枯葉であるが、その年代測定結果は1955AD(95.4%)1957ADであり、「ボーリング調査時に表層より下層へ葉が侵入した可能性」が高いため、特論への掲載を割愛した。この1点をのぞく5点はいずれも2010年度の発掘調査時に採取したサンプルであり、以下の年代結果が得られた。
PLD-19413(C005): 1493AD(76.4%)1603AD
PLD-19414(C008): 807AD(57.9%)903AD 916AD(34.0%)967AD
PLD-19415(C013): 1489AD(76.9%)1604AD
PLD-19416(C025): 989AD(95.4%)1030AD
PLD-19417(E002): 1953AD(95.4%)1956AD
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2012/02/16(木) 00:00:36 |
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昨年10月16日に
予報(Ⅰ) を掲載してから音沙汰なしとなっていましたが、シンポジウム「雲州平田『木綿街道』の町並み保全にむけて -現状と課題-」のチラシがようやく完成しましたので、ここにお知らせいたします。シンポジウムは2月26日(日)、わたしもおぎんさんとペアで発表します。準備を急がないといけません。(白帯)
以下、シンポジウムの次第です。
雲州平田「木綿街道」の町並み保全にむけて -現状と課題- 平成24年2月26日(日)13:00~
於 石橋酒造酒蔵ホール/出雲市平田町
0.ご挨拶 13:00-13:10 長岡 秀人(出雲市長)
1.趣旨説明 13:10-13:20 來間 久(木綿街道振興会)
「これまでの木綿街道振興会の取り組み」
2.都市と景観 13:20-14:40
13:20-14:00 清水 重敦(奈良文化財研究所景観研究室長)
講演1「文化的景観としてみる都市と町並み」
14:00-14:40 和田 嘉宥(米子高等専門学校名誉教授・島根県文化財保護審議委員)
講演2「近世出雲地方における在町の復元 -平田本町を中心に-」
14:40-14:50 break01
3.雲州平田「木綿街道」の町並み調査報告 14:50-16:00
14:50-15:10 清水 拓生(鳥取環境大学大学院修士課程)
報告1「木綿街道の町家と町並みの調査」
15:10-15:30 仲佐 望・中島 俊博(鳥取環境大学学生)
報告2「町並み・川並みの修景と撤去町家の移築計画」
15:30-15:45 苅谷 勇雅(小山工業高等専門学校長、元文化庁文化財鑑査官)
コメント1「町並み保全の全国的視点からみて」(仮題)
15:45-16:00 松本 岩雄(島根県教育委員会文化財課長)
コメント2「文化財行政の立場から」(仮題)
16:00-16:10 break02(会場設営変更)
4.パネル・ディスカッション 16:10-17:10
司 会: 浅川 滋男(鳥取環境大学大学院環境デザイン領域)
討論者: 苅谷 勇雅、和田 嘉宥、松本 岩雄、清水 重敦、清水 拓生、
眞田 廣幸(前倉吉市教育委員会次長)
小村 俊美(木綿街道振興会)
5.閉会の辞 17:10
6.懇親会 17:30~
会場:石橋酒造酒蔵(会費3000円)
事務局: 木綿街道振興会事務局(平井)
TEL080-3025-6901 FAX0853-62-5463
e-mail: momen_kaido@yahoo.co.jp
↑ クリックすると画面が拡大します。裏面(右)に申し込み用紙がついていますので、プリントアウトして必要事項を書き込み木綿街道振興会事務局のFAXに送信、もしくはe-mailでご連絡をお願いいたします。申し込み締切は2月17日とありますが、やや遅れてもかまいません。
2012/02/15(水) 00:00:07 |
講演・研究会 |
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年度末です。発掘調査報告書の編集に追われています。自然科学的分析を依頼していた業者さんからレポートが送られてきており、そろそろ研究のまとめに入らなければならないので、ここに連載することにしました。
土器からみた下層整地の年代観 2010年度におこなったⅠ区・Ⅱ区加工段の発掘調査で地山を確認できなかったので、2011年度はハンドオーガー・ボーリング調査を試み、Ⅰ区では地表面下約2.5m、Ⅱ区では地表面下約3.1mまで掘削した。その深さで器材は空回りし、岩盤にあたる触感を得た。凝灰岩片を含む下層の整地土はⅠ区では地表面下約2.1m、Ⅱ区では地表面下約2.5mまで続き、地山はその深さよりも下にある砂質土の層もしくは岩盤と判断した。Ⅱ区の下層整地土は赤味がかった粘質土であり、本報告書では調査時のラベル名を引用し、しばしば「赤褐土」と略称している。この粘質土は凝灰岩の破片や粒を含む。Ⅰ区の場合、下層整地土に赤みはなく灰褐色をしているが、凝灰岩の破片や粒を含む粘質土である点は共通している。
Ⅱ区の山側にあたる西壁の付近には、平たく掘削された凝灰岩の岩盤層が幅1~2mの範囲でひろがり、その岩盤は突然消えて赤い粘質土に変わる。当初は急峻な山崖のように反り上がった巨巌があり、それを平らに削ったものと推定され、その平たい岩盤面で10個のピット(p201~p210)と1つの溝状遺構SD01を検出した。このうちSD01は南北方向に伸びず、約2.5mの範囲でしか存在しないので、人工の「溝」とは考え難い。おそらく山状に盛り上がった二つの巨巌の接点にあたる谷底の残存であろう。SD01からは平安時代の土師器杯(№51)・土師器皿(№52)、岩盤表面パック層と岩盤に穿たれたピットP3からも同時代の瓶(№49・50)が出土しており、凝灰岩盤の削平は平安時代以降になされたものと推定される。2010年11月27日の公開検討会での意見を尊重するならば、これらの土器は10世紀以降のものと推定される。
Ⅱ区下層の遺物で年代が示されたのはこの4点にすぎない。平安時代の土器が出土したこれらのピットや溝状遺構はゼリー状の灰色土でパックされており、そのパックをはがした遺構の表面もしくは埋土から土器が出土している。下層の廃絶年代ではなく、下層の形成年代を示す遺物であると考えられよう。凝灰岩片を含む下層の、Ⅱ-B区「赤褐土」で土器が1点出土しているが(№72)、器種・年代とも不明である。ただし、土層の序列からみるとゼリー状のパック層は岩盤と接する「赤褐土」上まで伸びており、岩盤の削平と同期に「赤褐土」の整地がなされたと判断してよいだろう。
岩盤上ピットのうちp201-p202-p203は7尺等間で一直線に並び、それとほぼ直交する位置で掘立柱の堀形と抜取穴(p301)がみつかっており、一つの建物SB02としてまとまる可能性がある。また、下層井戸跡SE01の埋土上に形成された土壙SK102でみつかった凝灰岩の沓石は掘立柱の根元を固め、礎石建のようにみせる役割を果たしたものであろう。p201の形状が方形を呈し、沓石もまた方形の孔を備えることから、下層岩盤上に建った建物は細い角柱によって構成されたものであり、その規模から考えて「草庵」あるいは「草堂」をイメージさせる。
岩石鑑定からみた整地と礎石 すでに述べたように、下層整地土の「赤褐土」には大量の凝灰岩片を含む。この凝灰岩片は、当然のことながら、岩盤の削平に伴って削りだされた岩屑と想定されるが、肉視だけでは科学的根拠を伴わないので、パリノ・サーヴェイ株式会社に鑑定を依頼した。岩種鑑定を依頼したのは5点であり、以下に鑑定の結果を要約する。
№01(Ⅱ-C区の下層整地土に含まれる凝灰岩片): 変質凝灰岩
№04(Ⅱ-C区の削平凝灰岩盤の一部): 変質凝灰岩
№06(Ⅱ-C区西寄りの上層礎石の一部): かんらん石単斜輝石玄武岩
№13(Ⅱ-D区北壁地下の推定「安山岩」岩盤の一部): デイサイト質凝灰岩
№17(Ⅲ区岩陰近くで採取した凝灰岩片): デイサイト質凝灰岩
[摩尼寺「奥ノ院」遺跡の環境考古学的研究(Ⅸ)]の続きを読む
2012/02/14(火) 00:00:13 |
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卒業研究公聴会 時が来るのは早いもので、いつの間にやら2月10日(金)、卒業研究発表当日になっていました・・・
まだ、できてない!!!!! 前夜、午前2時過ぎにパワポがいちおう完成。チェックが終わったのは未明の4時半ころでした。先生は5時すぎに、カチカチに凍った道路を運転して帰宅されましたが、わたしの方は、修正がどうもうまくできず、時間だけが刻々と過ぎていきました。報・連・相がきちんとできるようになりたいです。
13時に公聴会がスタートしましたが、先生は会場をほったらかしにして、演習室に来られました。わたしの状況を確認するためです。まだパワポは完成していません。13時に制作部門の発表会が終わり、先生はまた演習室に戻ってこられました。40分の休憩時間を利用して最後の発表練習です。先生は、半ば諦め気味でしたが、ここでまた若干の修正が・・・
本気で間に合わないかもしれないと焦りっぱなしでしたが、頼りになるゼミのみなさま(おぎんちゃん、白帯君、タクヲさん)に助けて頂いたおかげで、なんとか発表前に会場へ辿りつくことができました。最初は発表の順番は早い方がいいと思っていたけれど、この日ばかりは発表の順番が遅くて救われました。
17:04-17:24 @13講義室
発表者 : 檜尾 恵
論文題目: 律令時代の神社遺跡に関する復元研究
―出雲市青木遺跡のケーススタディ―
Reconstruction Study on the Shinto Shrine's Building Remnants
in the Ancient Times of the Political System based on the Ritsuryo
Codes -A Case Study on Aoki Ruins in Izumo-city -
あっ!服装!・・・入った瞬間、発表者みんなスーツ姿。すっかり服装のことを忘れていました。とはいえ、用意する間もなく、即自分の番がまわってきました。できたてほやほやのスライドで、いざ発表です。あまりにもぎりぎりすぎたせいか、中間発表の時よりも緊張を忘れられ、息継ぎが混乱せずできたのでそこはよかったです。でも、途中途中スライドの修正がしきれていない箇所が沢山あったので、未完成物を見せる形になってしまい、恥ずかしさと悔しさでいっぱいです。発表が終わった後は続けて質疑応答です。この時間が発表よりも苦手です。結局答えられず仕舞い・・・、先生にフォローしていただいたおかげで、その場を乗り切ることができましたが、他の発表者はすぐに答えられているのに、自分は全然駄目で情けなさを感じました。
[律令時代の神社遺跡に関する復元研究(Ⅳ)]の続きを読む
2012/02/13(月) 00:10:11 |
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ダージリンを啜りながら、今年最初のヴァレンタイン・チョコをかじってます。先週、特養で母親にもらったチョコレート。私と息子に同じものを用意してくれました。
ごらんのとおりのお洒落なチョコで、驚いたことに、袋にはCSNYの四文字がみえます。ついに、クロスビー・スティルス・ナッシュ・アンド・ヤングもお菓子業界に打って出たか・・・なんて訳ありません。CSNYとは、
Chocolate Show in New York
のイニシャル4文字です。ニューヨークの略称はN.Y.だから、正しい商標はCSN.Y.でした。
真っ黒の紙バッグ(↑)だけでなく、箱(次ページ上)もお洒落ですが、後者はなんとなく高田渡の「
スキンシップ・ブルース 」を彷彿とさせるデザインですね、だはは・・・
チョコは6個入り。マンゴー、カシス、コーヒー、アップル、キャラメルの5種類があって、そのうち1個がだぶってる。いったいだれに頼んで、88歳の老婦が、こんな上品なチョコを探しあてたのか?
来週はいよいよヴェレンタイン・ウィークですが、おじさんたちは冬眠だよね。家で寝てよう。
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2012/02/12(日) 10:05:02 |
食文化 |
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VIDEO 静かな夜に One Quiet Night パット・メセニーのソロギター第1作『静かな夜に』は1月下旬に届いていたんですが、ブログ記事にも優先順位があり、紹介が遅れてしまいました。いうまでもなく、バリトンギターと特殊な
ナッシュビル・チューニング によるソロ演奏です。他人の作品は3作だけで、他の10曲はオリジナル。現在、アマゾンでは30レビューの4★半ですが、3★ぐらいが妥当ではないかな??・・・この演奏だと、いわゆるアコギ系であって、ジャズ系ではない。後者が前者に優ると言いたいわけではありません。この系列だと、たとえばピエール・ベンスーザンのほうが上でしょうね。変則ナッシュビルも結構ですが、長く聴いていると、甲高い金属音がシャリシャリ耳についてくるばかりで、メロディが聞こえてこないのが難点ではないでしょうか。こういうとなんですが、2枚を通しで聞くと、『ワッツ・イッ・オール・アバウト』の最後の曲がいちばんいい。ごく普通のエレガット(ナイロン弦ギター)を使った「
アンド・アイ・ラブ・ハー 」です。ビートルズのバラードを飾り気なく弾いていて好感がもてる。
じつは、『静かな夜に』のスコアも入手ました。スコアのレビューは一人だけでしたが、「レギュラー・チューニングのTABもついている」と書いてあったので思わず手がのびた。でも、こうしてCDを聴いてみると、あんまり演奏する気になんないな。強いて練習するとなれば、ノラ・ジョーンズでお馴染みの「ドン・ノウ・ワイ」ですかね。上の映像がそれですが、後半になって意図的にマイナーっぽくコード進行を崩してくんだけど、これ、どうかなぁ・・・やはりメロディが聞こえてこないとね。ギターで歌いたい。
さて、また英語のお勉強です。次ページに、メセニー自身のライナーノーツを訳してみました。難しかった。ひどい訳だと思います。どなたか修正してください。
[ パット・メセニーの憂鬱(Ⅴ)]の続きを読む
2012/02/11(土) 00:09:35 |
音楽 |
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2年前の11月、大覚寺のマンション(3DK)に「移住」して以来、人生が少々ラクになった。寒暖に伴う空調、キッチン、トイレ、風呂、デジタルTV、オーディオなどが揃い、ようやく人並みの生活に追いついたような気がする。おかげさまで、鳥取に住むことの「持続可能性」を10年めに実感できたのである。
先週、入試関係の業務で福岡に出張した際、10歳ばかり年上の新任教員から「古民家に住み、休耕田を耕して暮らしたいので、よい物件があったら紹介してほしい」との相談を受けた。長く都会暮らしをしてきた方々には、古民家に住み、休耕田を耕すことが夢のように思えるのかもしれない。人生晩年の生き甲斐にしたいのである。これに対して、「休耕田での米づくり・野菜づくり」を持続させるためにも、住まいは「マンションのほうが良いですよ」と敢えてアドバイスした。あるいは、かりに古民家に住むならば「相当な修理代をかけて改装する必要がありますよ」とも述べた。
「修理代をあまりかけたくない。少し前まで人が住んでいたような物件がいい」とその先輩は宣う。残念ではあるけれども、そんな良好な物件が簡単にみつかるはずはない。職場は古い施設のリノベーションで面積を確保し家賃を抑える一方、個人はマンションに住む。そういう『自遊人』編集部のライフスタイルに敬意をあらわしたい。まことに適切な判断だと思う。
なお、株式会社自遊人は、2006年の移住時に低温倉庫、物流倉庫を新設しており、2008年から主要業務を雑誌制作から食品販売事業に転換。そして、2010年には農業生産法人「自遊人ファーム」を設立している。この生業転換の根幹に「倉庫」がある。「倉庫」といえば、島根県の川本町と雲南に大収蔵庫をもつネット通信販売の古本屋「エコ・カレッジ」を思い起こす。エコ・カレッジの代表、尾野さんは雑誌『AERA』1月2日/9日合併号で「日本を立て直す100人」の一人に選ばれていた。巨大な物流倉庫を過疎地に置くことで、インターネット時代には成功を納めることができる。ならば、雲州平田「木綿街道」に残るあの酒蔵群もその流れに乗れるのではないか。空き地に倉庫を新築するよりも、酒蔵を倉庫に変えるほうが手っ取り早いのだから。【完】
2012/02/10(金) 00:09:54 |
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「居住」という二文字を「いじゅう」と読んだのは黒帯である。6期生のなかでも成績上位の学生であった黒帯にしてこうだから、あとは推して知るべし。「住居」を「じゅうきょ」と読むにも拘わらず、「居住」を「いじゅう」と読むのはなぜか。「いじゅう」は「移住」ではないか。
以上はたんなる前ふりである。
仙台出張の経由地、上野のコンビニで『自遊人』という雑誌を発見。特集は
「移住」という選択肢。 となっている。145頁オールカラーの雑誌は税込み680円という安価であり、躊躇することなく購入した。
雑誌『自遊人』は2000年に創刊された。その4年後に「半農半X」のライフスタイルを模索し始め、2006年に編集オフィスを東京から新潟県南魚沼市に完全移転した。豪雪地帯の里山に移住してすでに6年が経過している。その、自らの体験を中心に特集を組んだものである。詳細は、雑誌を読んでいただくに限るので、冗長な解説は控えるが、わたしがとくに「田舎暮らし」で重要だと感じたところを抜粋引用させていただく。
まずは、「ほたるの里」という自然公園に建つ元宿泊施設のリノベーションについて(p.42)。宿泊施設が編集オフィスに生まれ変わったのである。
よく「設計は誰が?」と聞かれるのですが、すべて工務店との現場合わせです。
壁を壊して、柱を抜きながら「この部分の仕上げはこんな感じで」とスケッチを
描いて渡していったので、予算も激安。東京ではあり得ない広さとコストを実現
しています。
劇的ビフォーアフターの「匠」、すなわち建築家は要らないという指摘である。改装ならば確認申請も不要であろう。つぎに自宅について(p.45)。
移住と同時に温泉大浴場付きのマンション(93㎡)を650万円で購入。古民家
暮らしもいいのですが、雪国で古民家に住むのは大変です。仕事場の雪掻きも
ありますし、春から秋は農作業もあるので、「できるだけ生活のベースはラク
にしたほうがいい」とマンションを購入しました。(略)ちなみに東京から
移住したほとんどの社員がマンションを購入・・・(後略)
[自遊人の移住(Ⅰ)]の続きを読む
2012/02/09(木) 00:00:21 |
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ブラウニー 2月4日は本学の一般入試が全国7ヶ所であり、わたしは福岡を担当した。新聞報道されているとおり、一般入試A方式だけで1200人近い受験者があり、大阪、福岡、岡山が受験者数のトップ3を占める。200人を超えたのは、この3会場だけであった。昨年、全試験の受験者総数が300人弱だったはずだから、ほぼそれに匹敵する人数の受験者が福岡に集まったことになる。試験会場はまるでコンサートホールのようだった。来年から公立化する私学が、私学としておこなう最後の入試に、国公立の志願者が殺到しているのである。バブルだね。
前夜、福岡入りした。福岡は仙台のようにバブルな夜とは言い難いが、仙台の「
ケリー 」の記憶がなまなましくあり、ネットでジャズ喫茶を検索すると、天神の「ブラウニー」がヒットした。ほかにも何軒かあるのだろうが、時間の余裕がなく、「ブラウニー」を訪ねることにした。だって、ブラウニーといえば、クリフォード・ブラウンの愛称でしょ。それだけで十分だ。50~60年代のバップを聴かせる「スタンダードの店」だと紹介されている。ジャズと言えば、この時代に限る、と多くのマニアが思っていることだろう。メセニーもジャコもバップ好きからみれば、やっぱりフュージョンなんだろうな。
ブラウニーは安国寺横のビルの6階なので、難なく探しあてた。期待に胸をふくらませ、店に入る。全部で20席ほどあり、ベランダにもテーブルを設えているが、お客はカウンターに3人だけだった。カウンターの内側には店主とサポートの男性が二人。5人で楽しく話している。
テーブル席に一人腰掛けた。スタンダードをうたう女性ボーカルの声がスピーカーから聞こえてくる。あぁ、やっぱりいいな・・・と思いつつ、しばらく聴いていると、LPでなく、CDの音だと分かった。オーダーを聞きに来たサポートの男性に「だれですか?」と訊くと、「MAYUMIという地元出身のジャズ・ボーカリストのCDが発売されたので、それをかけているのです」とのこと。発音も綺麗だし、歌も上手い。が、ジャズで儲かるほどのボーカリストになれるか、といえば、残念ながら苦しいかもしれない。ダイアナ・クラール、ノラ・ジョーンズ、小野リサ、ジョアンナ・ウォン・・・ああいうアンニュイなかすれ声の全盛期にあって、正統的なジャズ・ボーカルで食べていくのは大変だろうね。
VIDEO [サテンドール(Ⅸ)]の続きを読む
2012/02/08(水) 00:00:11 |
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2月初日、ゼミに少しだけ遅れて研究室に上がって来られた先生は、豆まきの豆と鬼のお面をもっていました。「さあ、今日は豆まきだ!」・・・その前にゼミの課題進行状況のチェックです。
私は雲州平田「木綿街道」の町並み修景案についてアドバイスをいただき、白帯くんは撤去町家の移築計画を2案提出し、先生とともに検討しました。9日の学科会議に成果提出しなければならないので、アドバイスいただいたことなどを参考にしながら、もう少し木綿街道の町並みと川並みの修景ついて案を向上させようとおもいます。ヒノッキーさんも卒論の追い込みで毎晩研究室の机でパソコンに向かっておられますが、この日は先生にチェックを受けた後、豆まきに参戦しました。タクヲさんは、なっなんと、広島でインフルエンザに感染し、そのまま自宅療養中で欠席です。人数が少ないので余計寂しいですが、よく休んで早く復帰してほしいです(来年はゼミ生が増えるといいな・・・)。
さて、先生に青鬼のお面をかぶせ、白帯くんと私が赤いお面を頭にまいて、いよいよ豆撒き開始!・・・というとき某准教授が研究室に入って来られました。すかさずお面をかぶせられ、豆を投げられ「鬼は~外!」(ヒノッキーさんがカメラでパチリ)。
准教授は先生大事なお話があったようで、先生とともに退室。私たちはしばらく待機していましたが、その間、鬼のお面を大変気に入ったようで白帯くんが、自ら頭に2つ3つ並べて被りはじめました。顔、両横顔、そして後頭部にも。先生が戻ってこられて、すかさずカメラでパチリ!
そして、豆まきを再開しました。やたら鬼のお面を被っている白帯くんは先生に豆を投げつけられていました。ヒノッキーさんはカメラをみんなに向けたり、豆を投げたり・・・私はというと、その光景を眺めながら、豆をポリポリ食べていました。歳の数くらいは食べたとおもいます、すみません。また来年も楽しみです。(おぎん)
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2012/02/07(火) 00:00:57 |
研究室 |
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清武が負傷で欠場というニュースを聞いた時点で、シリア戦の敗戦を予感した。負けるにしても、1点差にとどめてほしいと願っていて、その範囲で納まったことを幸運だと思うべきかもしれない。
GK権田の致命的なミスが連続しなければ1-0で勝っていたことになるが、試合内容を比較すればあきらかなように、負けるべくして負けた試合だった。何が問題かといって、ボール・ポゼッションでシリアに劣っていたことが情けない。たとえば、2010南アW杯で優勝したスペインはグループリーグ初戦のスイス戦を0-1で落としたが、ゲーム内容とポゼッションでは圧倒していた。今回のシリア戦でも、日本が内容で圧倒し、守備的な相手を崩せないまま僅差の番狂わせとして敗北していたなら、老婆心は不要だろうけれども、ごらんのとおりの内容だから、このさきどうなることやら・・・不安な気持ちが拭えない。
中盤が弱すぎる。山田、東、山村(扇原)、山口の4名でポゼッショを持続さなければいけないのだが、中途半端にボールを失う機会が非常に多かった。中盤でゲームメイクできないから、永井の速攻に頼るしかなく、前線へ放り込んだボールは大半が奪われ、敵のペースになってしまった。とくにボランチの機能停止は目に余る。
昨日のゲームに引き分ければ、五輪出場はほ確定しただろう。ただ、かりに本大会に出場したとしても、今のチームではグループリーグ敗退は目にみえている。外国で活躍する23歳以下の選手に加え、強力なオーバーエイジ3名を招集しないかぎり、北京五輪と同じ結果が待っているだけだとみな思ったはずだ。
ずいぶん前から、五輪本戦のメンバーを考えていた。オーバーエイジの3人枠は本田・遠藤・今野が最善であり、それが無理なら長友、長谷部、トゥーリオという手もある。23歳以下の選手では、香川・宮市・宇佐美などを招集したい。たとえば、以下のような布陣を組むのである。
宮市
香川 本田 永井
遠藤 清武
比嘉 今野 山村 酒井
権田
このメンバーがうまく機能すれば、本戦でのベスト4も夢ではない。うまくいけば、ナデシコの成績を上まわることだってありうる、などと夢みていたのだが、後半45分のアルサリフのゴールによって、ただの夢に終わる情勢に追い込まれてしまった。
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2012/02/06(月) 00:04:10 |
サッカー |
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卒業研究公聴会と展示会のお知らせ 均等に進む時間と不均等に進む自分のペースでなかなかゴールが見えてこない卒論。両者が比例してくれればいいのですが、想いとはうらはらに反比例の日々で・・・とはいえ、提出期限はせまってきます。1月31日が卒論概要と論文の締切日でして、ようやく提出し終え、Februaryを迎えたヒノッキーです。
ご挨拶が遅くなりましたが、2012年初ブログとなります。今年もよろしくお願いいたします。
ということで、概要・論文の「提出」という第1段階は突破いたしました。中身については、概要の方は先生からの沢山の助言をいただき完成へ至ることができましたが、論文に関してはいったん提出したものの、これは仮提出のようなものでして、これから手直しが順番待ちしております。論文を書かねば・・・ですが、次には卒業研究の公聴会が待っています。論文の成果発表です。
公聴会は2月10日(金)13時~ 会場は、まず26講義室にて制作の発表、休憩をはさんだ15:40から13講義室に移動して論文の発表というスケジュール予定です。ちなみに私の発表テーマ・時間は以下の通りです。
17:04-17:24 @13講義室
発表者 : 檜尾 恵
論文題目: 律令時代の神社遺跡に関する復元研究
―出雲市青木遺跡のケーススタディ―
Reconstruction Study on the Shinto Shrine's Building Remnants
in the Ancient Times of the Political System based on the Ritsuryo
Codes -A Case Study on Aoki Ruins in Izumo-city -
自分の発表は最後の方です。今から緊張しております。そして、間に合うのかも心配ですが、良い発表ができればと願っています。(ヒノッキー)
公聴会後、「卒業・修了研究展」が開催されます。皆々さまのご来場お待ちしております。
日時:2012年2月21日(火)~2月26日(日)
会場:とりぎん文化会館フリースペース
2012/02/05(日) 00:00:18 |
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ケリー 仙台の夜にジャズ喫茶を所望した。知人の一人がジャズ好きで何軒か行きつけの店があり、国分町の「ケリー」という店にご案内いただいた。16席しかない狭いせまい店で、カウンター席とレコード棚を挟んで大きな四角テーブルがあり、そのテーブルで相席となった。『アンダーカレント』が流れている。ビル・エヴァンスの透明なピアノにジム・ホールの甘いギターが融けこんでいく。学生時代、よく聴いたアルバムで、まだLPが家に残っているはずだ。
バーボンソーダを注文すると、まもなくマイルスの『いつか王子様が』に変わった。わたしは本ブログで何度かマイルス嫌いであることを表明しているが、このアルバムはいいね。なんたって、ピアノがウィントン・ケリーだから。そう、この店の名「
ケリー 」はウィントン・ケリーからとったものなんだ。マイルスのミュート・トランペットの枯れたメロディからコルトレーンのソロに変わるとやや無粋に聴こえる。このころのコルトレーンはまだマイルスを超えていない。ポール・チェンバースのベースが効いてるね、とくに出だしには驚くな・・・
知人は、さかんにリクエストを迫る。バーボンソーダを3杯あけたところで、また迫られ、しょうがないから、
「ダイアナ・クラールの
ライブ・イン・パリス か・・・ルック・オブ・ラブでもいいですよ」
とお願いすると、対面にいた線香さんが「かっこいいですね」と呟いた。かっこつけたつもりはまるでなくて、ただダイアナ・クラールが聴きたかっただけなんだけど、ジャズを知らない人にはそう聞こえるのかな。
リクエストして、少々反省。CDの音はクリアすぎる。やはり50~60年代のLPを大スピーカーで聴くべきだった。あの時代の音が味わえる場所なんだから、CDは控えたほうがいい。
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2012/02/04(土) 00:00:57 |
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仙台市縄文の森広場 銀幕に覆われた山田上ノ台(仙台市縄文の森広場)は、すでに名勝地の風格を漂わせている。竣工後7年を経て、市街地の歴史公園は着実にその存在感を増していると実感した。
震災の被害はなかった。垂直壁のない伏屋式の竪穴住居は強い。ときに「柱が太すぎるのでは?」というご批判を頂戴しているようだが、検出された柱径よりもやや太くすることで耐震性は増す。そういうねらいが設計段階からあった。3.11大震災で倒壊もしくは破損していた場合、昨日も述べたように、土屋根竪穴住居の復旧は優先順位の最下位に回されたであろう。現実には、かの大震災に際して、3棟の竪穴住居は微動だにしなかった。構造と木柄の勝利である。
メンテナンスも良好だ。大雨が降ると10号住居で雨漏りするが、煙出にビニールシートを被せれば雨漏りはとまる。樹皮葺きの棟飾りに似た煙出キャップを工作してはどうか、と提案した。大雨の前にキャップを被せておけば、雨は漏らないはずだ。それにしても、なぜ10号住居だけ雨が吹き込むのか。骨組の模型をみなおして、その理由が分かった。棟飾の転びが10号だけ緩いのである。他の2棟はもっと外側にせり出している。10号もそれに倣えば、雨水の吹き込みはなくなるだろう。
それにしても、木材の艶光りは素晴らしい。小屋組の材は真っ黒、柱はこげ茶色で、燻蒸煙の拡散量がよく分かる。壁の堰板は薄茶色で、中間部にシミができているけれども、水分の浸透量は少ない。北海道常呂の竪穴住居では、5年で堰板が腐った。山田上ノ台では垂木や堰板にカビもキノコもまったく埴えていない。白いカビがひろがると、まもなく垂木は腐り、屋根が崩落する。富山の北代で、その恐ろしい現実を知り、震えがきた。山田上ノ台の竪穴住居は、内部が明るく、カラッと乾燥している。土屋根の下に隠した二重の防水シート、周堤内側のコンクリート壁、地面の三和土(たたき)すべてが良好に機能している。
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2012/02/03(金) 00:00:16 |
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仙台城の石垣崩落 3.11以来、「優先順位」という言葉をしばしば耳にする。大震災以降における予算配分の優先順位、ということである。当然のことながら、原発事故の収束、除染、被災者の生存・生活に係わる施設等の復旧などが最優先事項であり、「文化財は最後」というのがだれしも共有する認識であった。3次補正予算が成立し、ようやく文化財復旧の事業が動き始めたようだが、文化財の内側でも優先順位がある。わたし個人の意見を述べておくと、やはり被災者の生存・生活に係わる物件に優先権があり、その点、「遺跡」は最後の最後におしやられても仕方ないものではないか。文化財に指定・登録された民家・社寺建築などの建造物には、住まい手や宗教活動に関わる人びとがいる。それらの関係者が安全かつ安心に利活用できる状態に早く復旧しなければならない。一方、たとえば縄文集落遺跡で整備された復元建物や覆屋が倒壊したとしても、人間の生活・生業にはほぼ100%影響を与えない。だから、しばらくのあいだブルーシートを被せて放置しておくことになるだろう。
仙台城の石垣は大地震によって広い範囲で崩落し、きわめて危険な状況を招いている。生活道路に積石が雪崩落ち、車道に柵がめぐらされて、通行禁止になっているのである。当然ことながら、優先順位は上位にあり、第3次補正予算で石垣修復の事業が始まった。
仙台城は伊達政宗の居城として知られる全国屈指の近世山城だが、国の史跡に指定されたのは平成15年(2003)に下る。つい最近のことだと知って、驚いた。本丸の一部を護国神社、二ノ丸を東北大学のキャンパス、三の丸を仙台市立博物館が占めていることが影響したのだという。しかも、史跡内に車道が走っている。施設相互の連絡のためばかりでなく、市民の通勤路の一部としてしばしば渋滞を引き起こすほどの車量があったと聞く。おまけに、仙台はパンダ騒動で揺れている。城内道路は、パンダを飼う動物園のアプローチになるので、パンダお目見えまでには、どうしても石垣を復旧せよ、とのお達しが届いているそうだ(こんなこと書くと、ジャニーズ批判の火に油を注ぐかな?)。
石垣修復の難しさは、鳥取城で思い知らされている。あの複雑な石垣の立面を正確に測量し、一つひとつの石に番付し、解体して積み直す。大変な仕事であり、事を急ぐと、誤った復元になりかねない。しかし、だから、「完璧な復元工事」を強く要求すべき時期でもないだろう。石垣の積み方と生活道路の復旧のどちらを優先すべきかと問われれば、パンダの問題を棚上げにしても、「生活優先」であろうとわたしは思う。限られた時間内にできるかぎりの努力をして復旧していただくしかない。
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2012/02/02(木) 00:00:04 |
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権現造と大崎八幡宮 本殿と拝殿を相の間(石の間)で繋ぎ、全体の平面を「工」字形にする社殿様式を権現造(ごんげんづくり)という。権現とは東照大権現、すなわち徳川家康の神号の略称であり、権現造の代表が日光東照宮(1617造営、1636造替)であるのは言うまでもなかろう。家康の没後、徳川家は日光に権現造の霊廟を築いたが、じつは豊臣秀吉の豊国廟(1599)がそれに先んじていた。意地悪な見方をするならば、徳川は秀吉の廟を壊して、同形式の廟を家康のために造営したと言ってよいかもしれない。ただ、権現造形式の霊廟の起源は平安時代に遡り、そのはしりは菅原道真を祀る北野天満宮だという。現在の拝殿・本殿等は慶長12年(1607)、豊臣秀頼が造営したものである。
一方、仙台の大崎八幡宮は坂上田村麻呂が宇佐神宮を勧請したとの社伝があり、伊達政宗が慶長9年(1604年)に造替を始め、同12年(1607)に竣工した。八幡造から権現造への展開は、構造的にみて十分おこりうる進化であろう。それはさておき、わたしは慶長9年(1604年)を重視し、講義で「大崎八幡神社が権現造最古の遺構」と説明しているが、竣工年からみると、北野天満宮と同年である。いずれも「桃山様式」の代表作であり、朝鮮の影響がみとめられる。とくに、彩色に半島の特色が投影されていると言われる。東照宮よりも豊国廟に年代が近い点、気になるところだ。豊国廟もこういう色合いの建築だったのか、それとも秀吉の性格を反映して、東照宮に似たど派手なデザインだったのか・・・よく知らない。
明治以降、大崎八幡神社と呼ばれていたのだが、近年(1997)、大崎八幡宮という旧名に復している。名称変更と言えば、鳥取市の樗谿神社(おうちだにじんじゃ)も「鳥取東照宮」に昨年改名された。江戸時代の社名は「因幡東照宮」であり、旧名に復したとは言えない。樗谿の樗(おうち)という植物には気品があり、文字は難しくて書きにくいが、「おうちだにじんじゃ」という呼び名を愛した市民も少なくなかろう。昨年の文化財保護審議会でも、近代史の専門家から文化財名称の変更に対する異義申し立てがあった。ちなみに、因幡東照宮(1650)は権現造になっていない。石の間がなく、本殿と拝殿・弊殿が棟を分けている。山陰の場合、権現造の代表例をあげるとすれば、出雲市の日御碕神社(の下社)であろう。
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2012/02/01(水) 00:00:01 |
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