日中建築史と保存修復に係わる交流――1970年代中期に日本建築学会が派遣した訪中団の中に奈文研の鈴木嘉吉さんが参加して手記を残しています。建築史の分野での日中交流はどうだったのでしょうか。
鈴木さんはぼくが採用されたときの所長です。90年代には、芸術文化振興基金の助成で、中国文物研究所との共同研究も始まり、応県木塔(山西省朔州市)や独楽寺観音閣(天津市薊県)などを視察しました。応県木塔は世界最大の木塔ですが、鈴木さん、故岡田さん、濱島さんら日本建築史の大家をお連れして、中国文物研究所やその上位機関にあたる国家文物局の専門家と意見交換したんです。日本側の意見は「磚積みの初重は現状修理とし、木造の二重から上を解体修理せざるをえない」というものでしたが、中国側はこれに拒否反応を示します。解体などの極端な介入行為は「ヴェニス憲章に抵触する」というのが中国側の見解だったんです。2009年に環境大の学生を連れて応県木塔を再訪したんですが、二重から上の木造部分はぐちゃぐちゃになってました。危険きわまりない。鈴木さんたちの意見に従って解体修理しておけば、こんなことにはならなかったでしょう。
ただね、日本の修復方法が絶対に正しいというわけでもありません。修復技術を世界的にみると、日本のやり方が例外的で、批判の対象になることもしばしばあります。日本人は「復原」しすぎるからです。個人的な意見を述べておくと、木造建築にとって「解体修理」はやむをえないが、「復原」はできるだけ回避すべきだとぼくも思っています。日本の場合、解体前の姿ではなく、建立当初の姿に復原しようとする力が強く働く。いろんな時代の材料が重層化した現在の姿こそがオーセンティックであるとするラスキン流の思想とは相反します。だから、ヨーロッパは日本を批判する。批判されている日本が、こんどは中国を批判するというのも、おかしな話でしょう。日本がやってきた修復の方法を、中国や韓国などの近隣の国に押しつけるようなことがあってはいけないと思います。
――共同プロジェクトで中国の実情に触れられて、当時の中国文物・考古界における制度や技術はどのように見えましたか。
組織図としての「制度」は確立しているのでしょうが、それが現実の動きとは乖離している状況をみてきました。大同や五台山で重点文物保護単位の修理現場に連れていかれましたが、修理技師は常駐していない。まれに文物研や文物局の担当者が現場に赴いて指導しているんですが、指導者不在の間に、大工が古材を捨ててしまったり、古い塗装の上にペンキ塗装をしているような具合でして、ぼくたちを案内した技師さんが怒って職人を注意してました。現場監理の体制ができていない証拠ですよね。少なくとも、90年代はそんなレベルでした。
技術については否定的な意見もありますが、日本と比較して判断できるものでもないと思います。中国建築は非常に豪快かつ雄大に見えるけれども、近くに寄ると、材と材の間に隙間が空いていたりする。日本建築は繊細かつ枯淡で、部材相互は全部びしっと精度よく組みたてられています。日本から見ると、現代中国の技術は稚拙に映るかもしれませんが、日本建築は中国の技術をもとにして育まれたものですからね。比較してどうこうではなく、お互いさまなんじゃないですかね。
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- 2012/02/29(水) 00:00:45|
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