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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

南無妙法蓮華経

 年度末に訃報2件。一つは親族の急逝。丹波篠山まで足を運び、通夜に出席した。日蓮宗の通夜を初めて体験した。南無妙法蓮華経。
 人事異動の報せも続々届いている。私立大学としての本学の終焉に伴い、大学を去る方々からの挨拶が目白押し。淋しくもあり、羨ましくもある。わたし自身も異動する。本日をもって3年間務めた大学院研究科長を退任いたします。任期切れではない。これもまた、大学の公立化に伴う異動である。楽しかったし、良い勉強をさせていただいた。おかげさまで、先日、あるエグゼクティブから「あなたも大人になった」と誉められましたよ。謹んで御礼申し上げます・・・55にして大人になったんだから、まだまだ青春だ。長生きしてやる。スロージョギングさえ続ければ、フォエヴァー・ヤングさ。
 新大学の辞令は2日にいただくことになっている(大丈夫だろうか?)。旧大学の退職金もいただけるそうです。冗談じゃなく、これを元手にジャズ喫茶でも始めるかな? 良い物件があったらお知らせください。常乃屋のような土蔵もよいけれど、嶋屋のような町家の店だなでもいい。20席限定。客は多くないほうがいい。小路の「隠れ家」でフリージャズのLPに針を落とす。デレク・ベイリーの『バラード』から始めようか。すると、感受性の鈍い老若男女みな姿を消し、カウンターに残るのは店主だけ・・・いや、通がいた。あなたは分かってくれるんだ、こういう音楽を。
 珈琲とスコッチと黒ビールと炭酸水しか飲み物はなく、アテは、そうだな、パンとオイルサーディンとチーズだけにしよう。いや、「ふろふき大根」と「とろろ昆布の湯豆腐」ぐらいは用意しておこうか。腹が減ったという輩には「おいしいインスタントラーメン」か「100円の冷凍お好み焼き」を350円で作ってあげよう。

 室生、飛鳥、丹波篠山の続きは京都だ。京都と言えば、ホームデンティスト。親知らずに側面から穴があき、やっかいなことになっていたのだが、綺麗に銀がおさまった。庭のイシランメとボケが同時に開花し、桜も咲き始めた。わたしは、ただ歩く。スロージョギングを再開したばかりだが、その日は高の原駅まで歩いて往復した。暖かく、気持ちよい。
 歩き疲れ、よく寝た。ドンルキアーノを飲んで、また寝た。




Take5は「3+2」拍子の反復ですが、Take10だと「3+3+4」拍子の反復になる。スロージョギングにあわせるとすれば、Take10だよね?
  1. 2012/03/31(土) 23:09:07|
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2012世界卓球 ドルトムント

 「2009世界卓球 横浜」からまる3年、石川佳純にまた痺れた。福原や平野にない何かを、この少女はもっている。キム・ギョンアは、結果として、石川を倒したが、石川の強さを身をもって知ったことだろう。
 第5戦第5セット、8-4と石川がリードし、勝敗は決したかにみえた。そこから5連続ポイントを許し、8-9と逆転され、シーソーゲームとなり、最後は12-14の負け。どこで流れが変わったのだろうか。
 石川の攻撃をキムはとても嫌がっていた。石川のスマッシュに耐えられなくなっていた・・・あのペースとやり方を変えなければ、8-4から点数はほぼ平行移動し、そのまま石川が勝っていただろう。それだけ実力差があるようにみえた。石川はキムに負けたのではなく、自分に負けてしまったのだろうか。

 わたしは石川が勝つと信じていた。他の選手では負けるかもしれないが、石川は勝つ。そう信じて画面を凝視し続けた。家族は男子フィギュアのSPを視たがったが、わたしは譲らなかった。世界選手権のメダルがかかる日韓戦は、(浅田真央以外の)世界フィギュアより、プロ野球開幕戦より、リマスター版「カリオストロの城」より優先順位が上にある。そう考えているのは、わたし一人だったが・・・
 石川が負けた瞬間、頭が真っ白になった。悔しい。サッカーの日韓戦で負けても、こんな気持ちにならないだろう。ロンドンオリンピックで雪辱してほしい。メダル、メダルとうるさいマスコミにいつも呆れてきたが、この夜に限っていうと、卓球女子団体と石川個人に、ロンドンでメダルをとって欲しいと心底思った。また、応援します!


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  1. 2012/03/30(金) 23:56:47|
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あなうらめしや(Ⅶ)

2012ほんぜん05


本 善

 龍穴と天岩戸の参拝を終えたぼくたちは、宇田松山に向かった。まる一年前に訪れた、あの小路の食堂で夕ご飯を食べたくなったのである。というよりも、この日の夕飯はあの大衆食堂にしようとはなから決めていた。
 今年もまた、夕暮れに松山町に着いた。重伝建の町は、少しだけ修景事業が進んでいる。修景部分は白木のままで、古材との対比が目立った。こういう手法があっても全然わるくはない。そしてまた今年も、「奈良一」で瓜と西瓜の奈良漬けを買った。日田で仕入れた小鹿田焼の壺に入れたい。茶漬けをすするのだ。

2012ほんぜん06


 その後また、ぼくたちは満法寺にぬける小路をめざした。そこに大衆食堂「本善」がある。小路に入って不安になった。本善に灯りがついていない。しかし、扉は開いている。中は暗かった。「ごめんください」と何度か呼びかけると、しばらくしておじいさんがあらわれた。まもなくおばあさんの声もした。コンクリートブロックのインテリアはもちろん健在だ。カーティス・フラーの穏やかなトロンボーンが聴こえてきそうな、やわらかい昭和の空間をコンクリートブロックの障壁が貫く。その不釣り合いな調和のなかに身をおいていると、前衛的なエリック・ドルフィのバスクラリネットがギャア、ギィと唸る。そんな幻聴を捉えたのは、おそらくぼくの三半規管だけだろうが・・・アナログTVのスイッチが入り、ストーブに火が点く。天井の蛍光灯にあかりが灯り、準備万端。ぼくたちは、チキンライスとたまご丼と中華ソバを注文した。10分ばかり待つ。どういうわけか、オムライスと玉丼がでてきた。

  「えっ、オムライス、言わはったでしょ?」
  「いえ、チキンライスだったんですけど・・・でも、かまいませんよ」


2012ほんぜん02


 オムライスも、玉丼も美味しい。横に坐ったおじいさんに質問を投げかける。おじいさんは超然としている。82歳で、すでに50年以上食堂をやっていて、本善は矢野家の屋号で、息子たちは後を継いでくるかどうかさっぱり分からん、と言われた。そうこうしているうちに、中華ソバをおばあさんがもってきた。小さなお椀2杯に分けてくれている。こちらも旨い。上下の写真にメニューが映っているけれども、読めないでしょうね。定番料理ばかりですが、お値段は500~600円のものばかり。こういう大衆食堂が減ってしまったでしょう・・・・ぜひ松山町に来て、本善でお食事を楽しんでください。
 今日はインテリアをどがどかアップしておきます。看板娘(おばあさん)の写真が撮れなかったのが残念でした・・・


2012ほんぜん04

2012ほんぜん03

2012ほんぜん01

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  1. 2012/03/29(木) 23:59:19|
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龍の穴

2012室生龍穴神社04縦


 室生寺の少し奥に室生龍穴神社がある。針葉樹の叢林に囲まれた境内は車道から目に付くが、古めかしさをいまひとつ感じない。境内そのものに興味がない、というわけでもないが、めざすは「奥宮」と呼ばれる龍穴そのものであった。境内から800m車道を進むと、左に折れる林道があり、そのまま車で上がっていける。まもなく、「吉祥龍穴」の看板に至る。その上手に「龍の馬場」と呼ばれる平地があって渓流が流れ、「招雨瀑」という滝(↓)から緩やかに落ちてくるところの対岸に「龍穴」がある(↑)。
 林道から鳥居をくぐり、整備中の小径をくねくね下りると拝殿に至り、対岸に龍穴がみえる。注連縄がなければ、聖地だとは分かりにくいかもしれない。このような窪地や岩窟に龍がとぐろを巻く風景は、摩尼寺「奥の院」の龍女伝説にも表現されている。摩尼山の場合、美少女が日本海に身をなげて龍となり、龍は岩窟から天に舞い上がり、山頂の立岩に降臨して帝釈天となる。帝釈天はほんらいバラモン教の神インドラだが、密教にとりこまれ、梵天と並ぶ二大護法善神となった。


2012室生龍穴神社02横


 仏教における龍とはナーガ(蛇)のことで、大乗仏教では釈尊像の光背にしばしば五本指か七本指のナーガを配する。仏の守護神でもある蛇は、善悪両面をもつ存在で、『佛教藝術』 319号(2011年11月)掲載の濱田瑞美「仏陰影窟攷」には、以下のような説話が紹介されている。

   インド北西部のナガラハーラで悪事を働いていた龍を降伏するために、
   釈迦は彼の地に飛来した。龍は改心した後、去ろうとした釈迦に対し、
   龍の住んでいた石窟に留まるよう請う。釈迦は龍の願いを受け入れ、
   龍窟の壁の中に水からその身影を留めた・・・

 その釈迦のお姿こそが仏影であり、仏影が仏像となって石窟に安置され、石窟寺院が成立するというわけである。どうもこういう話を読むと、摩尼寺「奥の院」の岩窟にとぐろを巻いていた龍が飛天し、立岩に降臨して帝釈天になったという伝承は古い仏教説話をうまく変形させたもののように思われてならない(もっと直截な元の説話があるのかもしれない)。摩尼寺においても、実際に岩窟(岩陰)には仏像が祀られるようになるわけだから、龍から帝釈天への変化と同時に、たんなる岩窟(岩陰)から仏堂への変化が生じており、龍の住まう窟(岩屋)に岩窟仏堂の起源を求めうるだろう。


2012室生龍穴神社05岩戸01

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  1. 2012/03/28(水) 23:15:59|
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池の鶴山舎

2012おんた003ワイン立01
↑使用後  ↓使用前
2012おんた003ワイン立02


 上の写真は間伐材を加工して作ったワインボトルの・・・なんてったらいいのかな・・・ワインボトル刺し? ワインボトル入れ?? ワインボトル立て???・・・ぜんぶしっくりこない。娘は訊く。「なんで倒れないの」
 それはですね、要するに、物理学における力の釣り合いがX軸とY軸の両方で成立しているからということなんですが、いや、時計まわりのモーメントと半時計まわりのモーメントが釣りあっていると説明するほうがよいのかな・・・そうか、「ワインボトル・バランサー」なんてどうだろう?
 ちなみにこのワイン、朱雀生協で仕入れたスペインのドンルキアーノ(赤)ですが、お値段が、なんと、ほんとに、驚きの、信じられない、嘘のような、正真正銘、噂の398円。きっと不味いだろう、不味ければ料理酒にすればよいと開き直って買ったんですが、これが、あっさりして美味しいの。一回の夕餉で空っぽになってしまいました。この情報が流布する前に買い占めてしまおう。

2012池の鶴山001


 重要文化的景観「小鹿田焼の里」を構成する棚田「池の鶴山」への初詣では39ヶ月前。犬に噛まれた。棚田のいちばん上に民家があり、その前にレンタカーを停めさせてもらった。そして、大急ぎの写真撮影。夢中で棚田の俯瞰をレンズで捉えていると、犬が飛びかかってきた。民家の飼い犬で、飼い主のおじさんと息子は笑っている。その場所を再訪した。今回は犬も人間もいない。山道の向こうに小型のトラックが停車している。その車が動き始めた。あぁぁ、すれ違いか・・・この細い道でやっかいだな、と頭を抱えていたところ、トラックの近くで手招きする人がいる。おそらく「この駐車場に入れ」という指示だと察知し、そのとおりに車を動かした。
 そこは「池の鶴山舎」の駐車場だった。キャッチコピーをそのまま拝借すると、棚田の宿・木工房「池の鶴山舎」。上の写真の左側に映っている銀色トタンが犬飼いの民家で、右端にちょこんと見えるのが鶴山舎である。

2012池の鶴山004

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  1. 2012/03/27(火) 23:54:52|
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列車のゆくえ

 『1Q84』は不思議な小説だった。どこかで聞いたことのある名前の人物があらわれて、似たような経験が続々と綴られ、現実と小説が錯綜していく。夜空を見上げると、二つの月が浮かんでいるような気がしてしかたない。黄色い月と緑の月が並んでみえるのではないか。自分も「こうではなかったはずの」2o12年を生きているのかもしれない。そんな想いにかられていた。
 渋滞の首都高速から国道におりる螺旋階段が、1984年と1Q84年の通路だとしたら、2012年から2o12年への出口はいつどこにあったのだろうか。ルアンプラバンまでは順調だった。おかしな兆しが見え始めたのはミャンマーであり、クチャでもすでに世界は歪んでいたのかもしれない。どこかの洞窟か石窟に抜け道があったのだろうか。アジャンタに出口があったとすれば、これ以上の不幸はない。いや、アウランガバードに向かう長距離列車がどこかの駅で切り替わった線路に乗り入れ、軌道を変えてしまったのか・・・
 五十日(ごとび)におかしな出来事が集中する。その始まりは5日で、富士屋の倒産を知らされた。10日はインドの出発日。苦行の始まりだ。15日はふかえりの送別会と同時に空気さなぎにドウタが宿り、20日は小学生向けのメッセージを訓じる長話に、顔がねじ曲がった。25日にドウタは消えた。

 『1Q84』はbook2まで比較的楽に読めた。book2で終わったとしても、大いなる余韻が残って良かったのではないか、と思いながら読み進めるbook3が結構辛い。大雨の事故渋滞に苦しんだ中国縦貫道の西宮名塩パークでbook3を読み終えた。なるほど、こういう結末か、ならば、book3もたしかに必要だとは思ったが、book3では「青豆」「天吾」に加えて「牛河」の章が加わり、謎解きに時間を費やした。「牛河」の章は説明的すぎる。すでに読者が理解していることを、牛河の立場で推測していく部分が少なくなく、読者は文字数の多さに辟易し始めるだろう。


2012おんた002

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  1. 2012/03/26(月) 23:58:52|
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日田豆田

2012豆田02


 2010年末に杵築、臼杵、佐伯、豊後高田、湯平温泉、大分市中戸次など、大分県内の町並み保全地区を訪問し、翌年1月3日にレポートした。それらの町並みはすべて重要伝統的建造物群保存地区ではない。それぞれの町が独自に町並み保全を実践している。当然のことながら、重伝建地区とは風情がちがう。いつものように気取った言葉使いをするならば、オーセンティックな景観ではない、「作られた町並み」の匂いが感じられる。極端な話、伊勢の「おかげ横丁」を彷彿とさせる町並みがそこにはある。そして、正月のおかげ横丁ほどではないが、町は旅客で賑わっている。だから、オーセンティックであろうとなかろうと、旅客を呼び寄せることはできるのであって、重伝建に選定されることが「まちおこし」と同義では決してないことが分かる。

2012豆田01オンタ


 大分県内の重伝建地区は日田市豆田地区のみである。皿山の「小鹿田焼の里」から20分ばかり車に乗れば豆田の市街地に着く。駐車場の対面に小鹿田焼の専門店があり、驚いて店だなを覗き込んでべらべらしゃべっていると、「あぁぁ、皿山に行って来られたんですか!?」と内側から声がかかり、引き込まれるように店内に入って器をみた(↑)。
 良い器が揃っている。窯だしの日は戦争だと教えてくれたのは、この店の人だ。こういう小売り店が良品を買いあさっていくのである。値段も、それほど高くはない。しかし、1軒めで買うのは愚かなので、いったん外にでた。目の前には土蔵造の大きな町家がみえる。どうやら、重要文化財「草野本家」のようだ。このあたりで、塗籠の防火建築は「土蔵造」でも「塗家造」でもなく、「居蔵造」と呼ぶらしい。建築年代は江戸時代中期以降で、最も古いのが享保10年(1725年)ころの仏間、その他の部分は安永元年(1772年)の大火後、江戸後期から明治初期に建て増しされたものという。付属建物では、座敷蔵の瓦に享保16年(1731年)の銘があり、仏間に近い年代を示している。大分県最古の町家として価値は高く、2009年に県指定文化財から重要文化財に格上げされた。草野本家を含む豆田(10.7ヘクタール)が重伝建地区に選定されたのは、その5年前の2004年のことである。
 2月後半から3月末まで、日田は「雛祭り」一色に染まる。草野本家でも豪壮な雛壇の飾り付けがあり、雛祭りに係わるさまざまな道具や人形が展示されており、そのなかに用瀬の流し雛も含まれていた。

2012豆田03草野本家01
↑草野本家  ↓草野本家の雛壇
2012豆田03草野本家02雛祭り

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  1. 2012/03/25(日) 01:08:59|
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小鹿田焼、再び

2012おんた焼き06


 大分のkyonkyonさん、お元気ですか?

 3年3ヶ月ぶりに日田皿山の重要文化的景観「小鹿田焼(おんたやき)の里」を訪れました。じつは、まる3年間愛用したミルク・ピッチャーを割ってしまいましてね。これが悔しいの。小鹿田焼は窯元でみていても、そんなに惹きつけられなかったんですが、家に届いて、他の器と並べると、断然輝いてみえる。味があると言ったほうがよいのかもしれませんが、日々使いたくなる民芸ほんらいの魅力があって、とくに紅茶にはまって以来、ミルクピッチャーが体の一部のようになってしまい、割れたときは、ほんと辛かった・・・

2012おんた焼き05


2012おんた焼き03地図  窯元をまわる前に蕎麦屋に入りましてね。たしか、ゴボウ天麩羅蕎麦を食べたんです。壁に窯元の地図が貼ってあって、まぁ、そんなものはあってもなくても同じなんですが、左に貼り付けておきましょう。10軒の窯元のうち集落のほぼ中央にあるのが黒木富雄家で、道から工房まで8連の登り窯があって、よく目立ちます。しかし、店だなに並んでいる器は少ない。釜だしした器はすでに大量に売れてしまい、そこに残されたものは「傷物」の大安売りか、大皿などの高価な器のどちらかでした。こういうふうに、商品がほとんどなくなっている窯元もあれば、大量の品が店だなに置かれている窯元もあります。
 窯元によって、作品の出来映えはちがう。それはよく分かりました。だから、購入した十数個の器は3~4の窯元に限られてしまいましてね。しかし、小鹿田焼の里が素晴らしいのは、窯元が共同で土を採り、作品に個人銘を入れることを慎むなど、小鹿田焼の品質をコミュニティとして保護する取り組みしていることです。つまり、「没個性」=「地域性」に徹し、ブランドとしての小鹿田焼のイメージを保持しようとしているわけです。いまは「知的財産」権がうるさくて、わたし自身、復元CGの掲載許可を滅多にださないことで悪名が高いのですが、落款を作品につけないところなどは尊敬に値しますよね。無署名の美学、無名の芸術。できれば、見習いたいけれども、研究という分野では、それでは済まされない問題も多々あるからな・・・


2012おんた焼き01

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  1. 2012/03/24(土) 23:29:49|
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摩尼寺「奥の院」遺跡の環境考古学的研究(ⅩⅩⅡ)

実績報告サマリー

 鳥取県の世界遺産申請は頓挫している。この閉塞的状況を打開するため、2009年度鳥取県環境学術研究費助成研究「文化的景観の解釈と応用による地域保全手法の検討」によって国際シンポジウム「大山・隠岐・三徳山-山岳信仰と文化的景観-」を開催した。そこでの結論は、三徳山だけでなく、対象範囲を大山・隠岐国立公園や山陰各地の密教系諸山にひろげ、とくに「奥の院」の考古学的研究と国内外の比較研究を進めるべきというものであった。シンポジウムの成果は、2010年度科学研究費補助金基盤研究Cに採択された「石窟寺院への憧憬 ―岩窟/絶壁型仏堂の類型と源流に関する比較研究―」に継承され、摩尼寺「奥の院」遺跡(鳥取市覚寺)の発掘調査をおこなった。県内外を問わず、密教寺院の「奥の院」に考古学的なメスが入れられることはほとんどなく、摩尼寺における発掘調査はきわめて意義深いものであるが、初年度の調査で十分な成果が得られたとは言えない。その問題点を克服するため、本研究により、国際シンポジウム報告書(↓①)の編集・刊行と摩尼寺「奥の院」遺跡出土遺物の自然科学的分析を併行して推進した。結果として、以下2冊の報告書を刊行した。

 ①鳥取環境大学建築・環境デザイン学科&鳥取県教育委員会歴史遺産室(編)
  『大山・隠岐・三徳山 -山岳信仰と文化的景観-』2011年9月 
 ②浅川滋男(編)『摩尼寺「奥の院」遺跡 -発掘調査と復元研究-』2012年3月

 報告書②は2010年度の発掘調査(科研費)と2011年度の環境考古学的分析(県環境学術研究費)の成果を総合したものである。2011年度の成果としてとくに重要な点を列記する。
 1)ハンドオーガーボーリング調査により、自然堆積層が地表面下2.5mに達することがあきらかになった。
 2)花粉分析の結果、上層期の「奥の院」にマツ属が多く植えられていたことがあきらかになり、『因幡民談記』所載絵図との一致をみた。
 3)2010年度発掘調査では土器の編年によって、下層を平安後期、上層を室町後期~江戸時代前期と推定していたが、遺物の数が少なく信頼性が高いものとはいえない。2011年度は放射性炭素年代測定をおこない、上記の年代観が正しいことが裏付けられた。
 4)下層整地土に含まれる大量の凝灰岩片は、地下で発見された平らな凝灰岩盤と同じ「変質凝灰岩」であり、岩陰仏堂周辺の「デイサイト凝灰岩」とは異なることが判明した。したがって、岩陰の掘削年代は不明というほかないが、そこに安置された木彫仏は平安時代末期の作との見方が専門家より示された。
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  1. 2012/03/23(金) 03:33:33|
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摩尼寺「奥の院」遺跡の環境考古学的研究(ⅩⅩⅠ)

02宝珠山岩屋神社06


宝珠山岩屋神社・熊野神社

 竹棚田は福岡県朝倉郡の宝珠山村にある。県境を越えれば、大分の日田皿山だ。棚田のすぐそばに宝珠山が聳える。その山が仏界であることを示す名称だが、そこにあるのは寺ではなく、神社であった。これを岩屋神社という。ただし、岩屋権現という別名ももっている。「権現」とは「(仏が)仮の姿で現れた」神であることを意味する。いわゆる本地垂迹思想による神仏習合のあり方を示すものである。
 宝珠山村は、九州修験道の中心地「英彦山」に近接することから、修験道と密接にかかわり、ほぼ全域が英彦山権現の神領とされていた。『岩屋神社来歴略記』によると、起源は継体天皇25年(531)にまで遡る。後魏の僧、善正が渡来して彦山を開創し、翌年、宝珠山で宝泉寺大宝院を開基したと伝える。また、役行者も岩屋に入峰したと記す。六郷満山と同様、神仏習合が著しく進んでおり、宝珠山という「仏界」に岩屋神社(岩屋権現)がある。そこには権現岩、熊野岩、重ね岩、貝吹岩、鳥帽子岩、見晴岩、馬の首根岩と呼ばれる7つの「大岩」が聳え、その一部に社殿が付随する。

02宝珠山岩屋神社02


 山麓の鳥居をくぐり石段を上がるとまずは天然記念物の「岩屋の大椿」があり、さらに上がると琴平宮に至る。巨巌に穿つ隧道(トンネル↑)をぬけて、またしばらく上がると、権現岩の岩陰に建つ岩屋神社本殿(重要文化財)に至る。岩屋神社本殿は元禄11年(1689)の再建で、茅杉皮重ね葺き一重(ひとえ)入母屋造の外殿と厚板葺き片流見世棚造の内殿からなる。内殿の前には薦(こも)で包まれたご神体の宝珠石が祀られているという。
 岩屋神社から左上手の熊野崖の中間あたりに熊野神社(重要文化財)がみえる。伝承によれば、そこは天狗が蹴って穴をあけた熊野岩のくぼみであるという。貞享3年(1686)に村民が建立した板葺き三間社流見世棚造の社殿は、まるで「小型の投入堂」のようにみえる懸造の建物である。彦山は養和元年(1181)、京都の新熊野社(いまくまのしゃ)の荘園として後白河法皇によって寄進され、以後、熊野修験道の影響下に入った。岩壁や岩盤には柱穴などの部材を納める痕跡と思われるピットが複数残っており、中世の熊野社は現在よりもはるかに大きかったと推察されている。

02宝珠山岩屋神社08熊野神社
↑岩屋神社(右)と熊野神社(左)の全景。↓岩屋神社の外殿と内殿
02宝珠山岩屋神社04

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  1. 2012/03/22(木) 12:23:07|
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卒業

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 3月20日、栄えあるヒノッキー先輩の卒業式です。私は先輩に贈る花束を店に受け取りに行っていたこともあり、卒業式に参加することができませんでした。そのため、先輩が表彰を受け取る姿を拝見することができず、残念でした。一部には、「式に出なくて正解」との声もあがっていましたが・・・??
 学科ごとの学位授与式(26講義室)で、先輩は学科賞卒論金賞を授与されましたが、先生がその姿を撮影しようとすると、先輩は脱兎のごとく逃げてしまったとのこと。これはいつものことですが、ヒノッキーさんは写真を撮られるのをとても嫌がります。ですから、下のような写真ばかりになってしまうのです。

IMG_0575.jpg


 撮影タイムになって、鳥取市に就職されたエアポートさんと部長さんがやってこられました。ここで、ヒノッキー先輩もかんねんし、記念写真に収まるようになりました。大学本部棟の入口の前で、花束とみんなのメッセージが入った剣玉を贈りました。その後、謝恩会まで時間に余裕があったので、4409ゼミ室にあがって、いつものようにミルクティで談笑しました。先生はインド旅行の際に買って帰ってきたスカーフをヒノッキーさんにプレゼントされていたのですが、先輩をそれを身につけていません。昨年は、上海土産のスカーフとネクタイを卒業生はみな着用していたのに、なんてこった・・・と残念そうにされており、部長さんがヒノッキーさんに着付けされたところ、ようやく卒業式らしいファッションになりましたが、すでに卒業式は終わっています。

IMG_0595.jpg

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  1. 2012/03/21(水) 00:31:56|
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私学最後の紀要

2012紀要表紙01


『鳥取環境大学紀要』第9号・第10号合併号 刊行!

 明日10時より、2011年度の卒業式が挙行されます。私学としての最後の卒業式が本学11講義室でとり行われるのです。卒業するヒノッキーだけでなく、ナオキ、アシガルと共にする時間も残り数時間です。新たに船出する彼ら3人の成長をお祈り申し上げます。
 もう一つ「私学最後」のニュースをお届けしましょう。『鳥取環境大学紀要』第9号・第10号合併号が刊行されました。開学10周年記念特集号からまる2年ぶりの紀要であり、私学としての最後の紀要でもあります。論文4編と報告6編に加えて退任記念講演もあわせると160ページのボリュームとなっています。10周年記念号では、岡垣と大給がそれぞれファーストネームで論文[査読2名]を投稿しましたが、今回は論文[査読2名]と報告[査読1名]に以下の2篇が掲載されました。

[論文] 清水拓生・中島俊博・小林巧三・浅川滋男(2012)
 「鳥取市里仁古民家の改修計画 -医食同源の空間をめざして-」
 『鳥取環境大学紀要』第9号・第10号合併号:p.71-90

[報告] 岡垣頼和・浅川滋男(2012)
 「岩窟・岩陰型仏堂と木造建築の関係についての調査ノート」
 『鳥取環境大学紀要』第9号・第10号合併号:p.135-158

紀要の図書情報は以下のとおりです。
  書名: 『鳥取環境大学紀要』第9号・第10号合併号
  発行日: 2012年3月1日
  発行者: 鳥取環境大学情報メディア・紀要専門委員会
  印刷所: 勝美印刷株式会社
  ISSN:  1347-9644

 抜刷はまだ手元にはありませんが、1論文につき50部配布されます。月末に刊行される報告書『摩尼寺「奥の院」遺跡-発掘調査と復元研究-』とあわせて各所に送付予定ですが、入手希望の方はご連絡ください。次頁に概要を転載します。(タクヲ)
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  1. 2012/03/20(火) 00:18:07|
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竹棚田

01竹地区の棚田04


 カーナビゲーション付きレンタカーに乗っているのに道に迷うのは日常茶飯事のことだが、迷ってしまった結果、思いも寄らぬ収穫を得ることがある。日田皿田の小鹿焼(おんたやき)の里をめざしながら、辿り着いたら、筑前岩屋駅。名水百選「岩屋湧水」の水くみ場で、ペットボトルやらビニールタンクをもった人たちが溢れている。筑前岩屋駅に岩屋湧水があり、隣の駅は彦山。当然のことながら、触覚がぴくぴく動き、案内板に目をやると、すぐちかくに宝珠山岩屋神社があり、その上手には棚田百選「竹地区の棚田」のあることが分かった。

01竹地区の棚田05


 カーナビの指示とは真反対の方向に車を進め、まもなく「竹棚田」の交流館に到着。展望台から、11ヘクタールに及ぶ棚田をパノラマで一望した。棚田はとてもよく整備されている。住民主体で組織した「棚田景観保存委員会」の活動の賜であろう。大分や九州の棚田に特有な(朝鮮の匂いがする?)石垣が美しく、小雨に霞む幽玄な山々の遠景と見事に融け合っている。日田の皿山を訪れたのは2008年末であり、「文化的景観」の研究に着手し、キム姉や部長さんが卒業論文をまとめる直前のことであった。あのとき「蕨田の棚田」を訪れて、棚田のオーナー制度に接し、それはとりわけキム姉の卒論に影響を与えた。

01竹地区の棚田01 竹棚田でオーナ制度があるのかないのか分からなかったが、案内板等の情報によると、6月に「田植え体験」、10月に「稲刈り体験」のイベントをおこなって、都市住民との交流を進めているという。重要文化的景観「小鹿田焼の里」を構成する「池の鶴」棚田と比較すると、竹は規模が大きいが、鶴山のほうが素朴で自然な風趣がある。言い換えるならば、竹は整備が進みすぎている感なきにしもあらず。が、こういう努力をしなければ、棚田を持続させるのは難しいだろう。明後日レポートする宝珠山とあわせて重要文化的景観に選定される日も近いかもしれない。

01竹地区の棚田03


01竹地区の棚田02

  1. 2012/03/19(月) 00:00:13|
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久留米の寺町

01いんやくしゃ01


 漢委奴國王印の出土地として知られる志賀島を初めて訪れた。丘の上に志賀海神社がある。三間社流造。参道の脇道に神明造の末社「印鑰社(いんやくしゃ)↑」があり、また本殿境内から外海をみる遙拝所は、神宮皇后三韓征伐を縁起としつつ、伊勢神宮を指向しているというから、よほど天照大神と結びつけたいのだろう。志賀海神社を支える安曇族は海民であり、近隣の宗像だけでなく、出雲、伊勢、住吉とも関係があるのかもしれない。
 祝宴の後、久留米に移動したら、夕方になっていた。アルコールを抜くために町をぶらぶら。自ずと、足は寺町にむく。本堂の刷新、とりわけコンクリート造への変身には驚いたが、山門や鐘楼は古い木造建築をよく残している。渦が細くて、まぁるい。これは江戸時代初期の絵様の特徴であり、そういうふうにみえる唐草紋が多いので、寺の由緒を記した看板に目をやると、慶長から元和の開基のものが圧倒的に多い。一国一城令(1615)のころまで遡る山門等が少なからずあり、元和7年(1621)の有馬氏転封にあわせて近世寺町が整備されたのだろう。絵様は少し派手になる宝暦以降(18世紀後半)のものもあり、さらに遅れて文化文政期以降(19世紀後半)のものもいくつかみられた。いちばん奥の遍照院には庭園があり、森蘊(もり おさむ)先生の設計であることが分かったが、アジャンタと同様、すでに閉門になって中に入れない。人はだれもいないから、ドル紙幣をばらまいても意味はない。日本は良い国である。


02久留米寺町01
↑久留米寺町の本泰寺。元和七年(1621)創建。山門は当初のものか。次頁上は真教寺山門。15世紀の創建だが、元和七年、寺町に寺地を拝領。本堂は寛政3年(1791)の再建といい、山門もこの年代に近いか。絵様のお勉強でした。
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  1. 2012/03/18(日) 00:26:16|
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摩尼寺「奥の院」遺跡の環境考古学的研究(ⅩⅩ)

01アジャンタ02


天竺の窟院

 昨秋の新疆ウィグル自治区クチャの千仏洞から今回のインド三大石窟寺院に至るまで、1984年頃の中国留学生活に舞い戻ったかのような旅程を強いられている。苦行としか言いようがない。たとえば今回の場合、3月10日(土)早朝に家を出て関空から飛びたち、香港で7時間の待ち時間を凌いで、さらに7時間のフライトに耐え、ムンバイ(旧ボンベイ)空港に到着したのが深夜25時半、つまり11日の1時半(日本時間の5時)であった。出国手続きを終えて外にでると2時半になっていて、ようやく顔を合わせたガイドから「4時半起床」を告げられた。ホテルにチェックインする必要などないではないか。そして、6時40分発の列車に乗った。1時間遅れの列車に8時間揺られて、アウランガバードに到着したのが午後2時半すぎ。ガイドは謂う。「ここからアジャンタまで120キロです」。エローラなら約30キロの位置にあるのだが、日曜(11日)はエローラの休日であり、月曜(12日)はアジャンタの休日なので、このわずかな時間を逃すと、アジャンタの視察が不可能になる。わたしを乗せた車は午後5時10分に山麓の駐車場に辿り着いた。そこから、山上の窟院群までバスに乗る。遺跡に着いたとき5時半になろうとしており、「閉門!」の大声が響いた。ガイドの指示にしたがって「机の下」をばらまきまくり、なんとか手前の何窟かをレンズに納めたが、6時になって、ついにポリスが完全閉門に踏み切った。わたしたちは対岸に渡り、窟院群の遠景を撮影する以外に術がなかったが、まもなく日没がアジャンタとの接点を完全に断ち切った。

01アジャンタ01


 アジャンタからアウランガバードに戻る車のなかで、痺れるような疲弊に心身を抉られていた。それでも、残された力を振り絞り、「二度とあの列車に乗りたくない」ことをガイドに告げ、移動手段を飛行機に変えるよう依頼した。復路に列車を使うと、今度はエレファンタ島の窟院群を見逃すことにもなりかねない。それだけは、なんとしてでも避けなければならなかった。古本で取り寄せた『1Q84』の帯コピーが何度も頭をかけめぐる。

   「こうであったかもしれない」過去が、その暗い鏡に浮かび上がらせるのは
   「そうではなかったかもしれない」現在の姿だ。

 わたしが1日早い9日(金)に出国していたならば、10日にエローラを2時間ばかり見学し、11日にアジャンタを思う存分堪能できたはずである。しかし現実は、そうではない暗い鏡に映し出されている。


02エローラ01
↑エローラの食堂(じきどう)
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  1. 2012/03/17(土) 01:18:29|
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葬送

ゲイリー・バートンの葬送が聞きたくなる。空気さなぎにドウタが宿った?




  1. 2012/03/16(金) 00:20:56|
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木綿街道のこと(ⅩⅩⅧ)

 2月26日に開催した町並みシンポジウムのレポートが、環境大学のTUESニュースに掲載されました。
 ご参照いただければ幸いです。

   http://tkserv.kankyo-u.ac.jp/tuesnews/latest/20120308/




古典的なピカソです。
  1. 2012/03/13(火) 23:55:29|
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律令時代の神社遺跡に関する復元研究(Ⅵ)

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青木遺跡ジオラマ完成間近!

 3月7日、青木遺跡復元模型の2回目のチェックのため、先生とタクヲさんの3人で京都へ向かいました。桂離宮の近くにある模型制作会社に到着したのは午後2時ころで、島根や京都から関係者が集合するまでまだ1時間もあり、悩みに悩んだ末、先生の母校を冷やかしてみることになりました。京大の工学部は数年前に桂に移転したそうですが、先生は「生まれて初めての訪問」だそうです。
 大きくて新しい建物が軒を連ねていますが、どこに行っても同じ雰囲気で、こういうのを「均質空間と言うのだ」と先生はおっしゃいました。どこからどこまでが敷地なのかわからなくて、ともかく広さに圧倒されました。方向音痴の自分では一端入ったら迷ってでてこられなそうです。
 設計はだれだろう?と皆で推測しましたが、作風がどこかゼネコンっぽい感じがすると思っていたところ、あとで日建設計だということが分かりました。京大の建築家たちは設計に関与しなかったのでしょうか?
 建築学科はC2というブロックにありました。「ここがさ、赤腹イモリの巣でね・・・」と生物学者のような訳の分からないことを先生はタクヲさんに語りかけておられました。
 そろそろ時間となり、模型会社に戻りました。前回の模型チェックは見に行けずじまいで、卒業研究展のパネルやパワポには写真のみ活用させていただきました。実物の模型を見るのはこれが初めてです。どんな感じになっているのかとても楽しみにしていました。
 模型の建築部分はほとんど完成していました。先輩方に沢山助けていただきながら何とか設計図を描き終えることができた9本柱の神殿も立体化しています。設計したものを実際に模型で見てみると迫力がありました。実際に形になるのはとても嬉しいです。また、自分は不器用なので、このような綺麗な模型が作れるようになれたらとつくづく思いました。その他の建物、樹木なども配置されており、やはり図面上よりも全体のイメージが湧いてきます。
 卒業研究の展示では風景パースを描いたのですが、作業が遅くなってしまい、自分で納得のいくものができていないので、模型をもとにより良いスケッチを描いてから卒業しようと思っています。(ヒノッキー)
 
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  1. 2012/03/12(月) 00:14:37|
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摩尼寺「奥の院」遺跡の環境考古学的研究(ⅩⅨ)

    Innermost Sanctum Ruins of Mani-dera Temple
     -Archaeological Investigation and Reconstruction Study-


      The Principal Investigator: ASAKAWA Shigeo
       Tottori University of Environmental Studies
                March, 2012

abstract:
 This is a report of excavation and archaeological study on the innermost sanctum ruins of Mani-dera temple located on Mt.Mani in Tottori city. Mani-dera is a Tendai sect Buddhism temple which has the legend of Sakra devanam Indrat's coming Advent and priest En-nin as the founder. While the present precincts are located at the foot of the mountain, there are the innermost sanctum ruins left near the top. The symbol of innermost sanctum ruins is the huge rock where double storied cave halls were drilled, and the two flat grounds were leveled in front of the huge rock. We excavated four trenches(200㎡) there for four months in 2010. By the excavation, we found many pits and a well remnant in the lower layer, and a large building remnant in the upper layer. According to the chronology of excavated potteries and radiocarbon dating, it is proved that the lower layer was made after 10th century, and the upper layer began after 16th century. We tried to reconstruct doule storied Buddhism hall of the upper layer.
 Mt.Mani is a part of San-in Kaigan Geopark, but has never been included within San-in Kaigan National Park. Finally we propose that Mt.Mani should not only be added to San-in Kaigan National Park, but also selected as Important Cultural Landscape, and the innermost sanctum ruins of Mani-dera temple should be designated as a historic site.

keywords:
  worship for huge rocks, asceticism, esoteric Buddhism,
  Buddhism hall in the rock cave, innermost sanctum, excavation,
  cultural landscape, reconstruction, environmental archaeology

contents:
 Chap-1. Background and Purposes of Research
 Chap-2. History of Mani-dera Temple
 Chap-3. Excavation for the Innermost Sanctum Ruins of Mani-dera
       Temple 
 Chap-4. Reconstruction Study on Remnants of the Buddhist Hall
       in Upper Layer
 Chap-5. Environmental Archaeological Study on the Innermost
       Sanctum Ruins of Mani-dera Temple and an Environmental
       Maintenance Plan 
 Appendixes: Analysis by Physical Science Methods
  A. Boring Survey
  B. Radiocarbon Dating
  C. Pollen Analysis and Plant Opal Analysis
  D. Identification of Rocks 104

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  1. 2012/03/11(日) 00:17:24|
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摩尼寺「奥の院」遺跡の環境考古学的研究(ⅩⅧ)

五輪塔余話

 発掘調査で五輪塔片がいくつも出土し、岩陰の内側や周辺では今も石仏と並んで五輪塔が祭られています。五輪塔は落武者などの無縁仏を供養する墓標であり、霊感の強い方は塔の背後に「水をくれ、助けてくれ」と叫び苦しむ落武者の像がみえるとか? そんな「都市伝説」を知った学生たちは、発掘作業中に五輪塔片を足で踏んだり、調査具でこづいたりしたことをひどく気にかけ、次第に「祟り」を畏れるようになっていきました。そこで、先生が比叡山やスリランカやネパールで仕入れた線香を焚き、塔片に水をかけて供養するのが日課になっていったのです。ちょうど祖霊をお迎えし供養するお盆のころのことでした。

2012檜尾gorinntou 五輪塔は平安時代の中ごろ、日本で生まれ、全国に普及しました。文字通り、5つの「輪」によって構成されています。それは、古代インドにおいて宇宙を構成するとされた五大元素を表現したものです。五大元素とは「地(a)」「水(va)」「火(ra)」「風(ha)」「空(kha)」であり、五輪塔では、下から方形の「地輪」、円形の「水輪」、三角形(屋根形)の「火輪」、半月形の「風輪」、宝珠形の「空輪」が積み上げられています。このように五輪塔は仏教の宇宙観を表現する墓標・供養塔ですが、その形状は、密教とともに伝来した「宝塔」や「多宝塔」に似ています。宝塔は古代インドのストゥーパ(卒塔婆)が中国化したものであり、多宝塔は宝塔に裳階(もこし)をつけて「上円下方」を表現しています。ストゥーパは仏舎利(ブッダの遺骨)を埋納する墓であり、五輪塔は無縁仏を供養する卒塔婆だと言うことができるかもしれません。
 室町時代の後期以降、空輪から地輪までを一材とする「一石五輪塔」が造られるようになります。「奥ノ院」で出土した戦国時代~江戸時代の五輪塔片や一石五輪塔は、羽柴秀吉による鳥取城渇殺の犠牲者を弔うものとも考えられ、いま一度きちんと供養してから卒業しようと思っています。(ヒノッキー)

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  1. 2012/03/10(土) 00:06:17|
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木綿街道のこと(ⅩⅩⅦ)

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町並みシンポジウム(5)-エクスカーション 

 こんにちは白帯です。
 2月26日の「木綿街道まちなみシンポジウム」も無事に終わり(自分の発表には少し難がありましたが)、その翌日、ミニ・エクスカーションをおこないました。
 朝から雪が降っており、すごく寒かったので、起きるのが大変でした。朝ごはんは、いつものことですが、持田醤油でいただきました。シンポジウムに参加された苅谷先生、和田先生、眞田さんもご一緒です。これまでの焼きおにぎりではなく、今回は筍の炊き込みごはんでした。とてもいい香りがして美味しかったです。
 ここで浅川先生は午後から開催される「鳥取藩主池田家墓所」委員会のために帰鳥。和田先生も亀岡に向かわれました。残りのメンバーでエクスカーションに出発です。道路は雪道になっていて滑りやすく、タクヲさんの車は四輪駆動ではないので、うまく前に進まず、苦闘の連続・・・
 まず初めに、大社町の鵜鷺(うさぎ)集落に向かいました。とてもきれいな町並みがあるところで、歴史的価値のある町家が数多く残っていました。訪問経験のあるタクヲさんが説明しながら町を案内されました。高台から望む町の風景はすごく良いもので、元文化庁監査官で伝建選定や文化財指定の携わってこられた苅谷先生もいたく感心されていました。ただ、「文化財としての価値はあるけれども、町並み保全は容易ではないだろう」と仰られます。その理由として、①住民の高齢化が進んでいること、②突出した文化財建造物がないこと、③立地条件が良いとはいえないこと、などを指摘されました。逆に言えば、振興会の存在や出雲空港に近い立地、そして江戸時代中期に遡りうる石橋両家の文化財建造物を有する木綿街道は、町並み保全に必要な「要素」に恵まれていると言えるでしょう。

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  1. 2012/03/09(金) 00:02:00|
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木綿街道のこと(ⅩⅩⅥ)

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町並みシンポジウム(4)-懇親会

 パネルディスカッション後、立食形式の懇親会が酒蔵でおこなわれました。たくさんの方に声をかけていただき、発表を終えたという実感が湧いてきたと同時に少しホッとしました。料理はもちろん、振興会のHさんたちが前日から準備してくださった手料理! そして、木綿街道の酒持田酒造の新酒いろいろです! どれもこれも美味しくて、お昼は食べる時間がなく腹ペコだった私は、全種類を制覇する勢いでいただきました。下準備に1週間くらいかけたといわれるスモークも絶品で、お酒に合い、美味しかったです。片付けの時間になっても、振興会の方々に混じって片付け合間を縫ってつまんでいました。
 懇親会は平田のお酒をいただき、終始いろんな方と話し、会話の中では地元の出雲弁(“ずーずー弁”)も入りまじり、とても楽しい時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました。
 これでやっと、平成23年度が一区切りつきました。このシンポジウムの成果と経験を生かし、県内就職を目標に頑張りたいとおもいます。(おぎん)



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↑研究室OBのホカノさんとチャックさんが参加されました。ありがとうございました。
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  1. 2012/03/08(木) 00:41:44|
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律令時代の神社遺跡に関する復元研究(Ⅴ)

ヒノッキー、卒業論文金賞受賞!

 3月5日(月)の建築・環境デザイン学科会議で、今年の卒業研究の受賞作が決まったとの知らせを聞きました。学生数が減っているので、例年とは異なり、論文・制作部門とも2作(金賞・銀賞)のみとなりました。結果は・・・

 論文部門の「金賞」!!とのこと。僅差ではなく、得票で圧倒したと聞き、とても嬉しいです!! 先生から呪文のように「ASALABは論文部門で6連覇している」と聞かされており、今年4年は自分一人・・・7連覇に期待がかかっていることを沸々と感じ、この期待に答えられるのか、とてもプレッシャーを感じていました。

 卒業論文の題目は、「律令時代の神社遺跡に関する復元研究―出雲市青木遺跡のケーススタディー」です。「遺跡の復元」というのは一度もやったことがなく、未知の世界で、ましてや論文など書ける文章力もなく、取り組み始めは分からないことだらけで戸惑うばかり。自分の勉強不足・知識の乏しさを思い知らされ、研究テーマについていけるか不安で仕方がありませんでした。研究発表・展示とも期限ぎりぎりになってしまい、ドタバタの日々・・・
 それが晴れてこのような名誉ある賞に! これも青木遺跡の復元研究でお世話になった、島根県教委のMさん、出雲博のHさんをはじめ、模型制作会社の皆様、そして、優しく厳しく最後の最後までご指導してくださった教授、サポートしてくださった先輩、ゼミ生みなさまのおかげです。自分だけでは賞どころか、作品すら完成できていなかったと思います。
 
 本当に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。ASALABの連覇記録を途切れさせず、白帯君、オギンちゃんにバトンタッチできて本当に良かったです。(ヒノッキー)


卒論集概要2012表紙  *論文の概要は以下に掲載されています。左は表紙で、富士屋さんの印刷です。
  
檜尾 恵「律令時代の神社遺跡に関する復元研究―出雲市青木遺跡のケーススタディー」『平成23年度 鳥取環境大学 大学院 建築・環境デザイン学科 環境デザイン領域 卒業・修了研究成果集』2012:p.24-25


2012檜尾論文概要01
↑ぼやけてますが、クリックすれば、読めるかも??
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  1. 2012/03/07(水) 00:23:21|
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木綿街道のこと(ⅩⅩⅤ)

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町並みシンポジウム(3)-学部生の発表

 わたしは第2部で、町並み・川並みの現状と修景計画について報告しました。まず、新町・片原町の町家・町並みの調査について、そしてタクヲさんの大型町家の報告に続き、片原町の三間長屋Sa邸について説明しました。Sa邸は建築年代が明治28年で、カケダシの生活空間がいまも残る長屋として、木綿街道内での数少ない例です。
 町並み修景計画については、「Sa邸」「片原町の端の空き家と駐車場」、また景観をスケールで分断している「3階建て建物」の3つについて私案を披露しました。これらの修景は、おもに木綿街道内の町家意匠を参考に、修景建物と、修景に用いる町家意匠の年代を合わせておこなったものです。川並みの修景もおなじように建具の意匠を変え、また古写真を参考に明治や大正時代当時の雰囲気(すだれ、石垣の川べり、目隠しの板壁を設けるなど)を各所に取り戻すようにとしています。
 最後に、今後の課題として「小路」と「カケダシ」について触れました。昨年先生が視察に行かれた、重要文化的景観に2011年2月に選定された「天草津の漁村景観」は、評価された「カケ」と「トウヤ」が木綿街道に残る「小路」や「カケダシ」と似ている例だそうです。来年度以降、調査が継続されるなら調査し、活用なども考えてみたいと思っています。
 ところで・・・わたしの発表は順調には行かず、パソコンが途中からフリーズしてしまいました。発表前の修正をした後、パワーポイントのデータをまとめタクヲさんのパソコンを使用することになったのですが、事前に使い方をきちんと確認しておかなければいけませんでした。タクヲさんに助けていただき、なんとか終えることができました。ご迷惑・ご心配をおかけしました。(おぎん)

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  1. 2012/03/06(火) 00:31:00|
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木綿街道のこと(ⅩⅩⅣ)

討論者


町並みシンポジウム(2)-パネル・ディスカッション

 「木綿街道町並み」シンポジウム第3部のディスカッションは第1部、第2部で時間が大幅に遅れたこともあり、およそ30分遅れのスタートとなりました。パネラーとして、講演・報告・コメントをした5人(清水室長、和田先生、苅谷先生、松本課長、私)に加えて、伝建地区の倉吉で長年にわたり行政の立場から町並み保全に取り組んでこられた眞田氏(元倉吉市教育委員会文化財課長)と、木綿街道振興会の小村氏のおふたりが参加。司会は教授です。
 ディスカッションは平田の町割り復元研究からスタート。和田先生の本町・新町の復元では、現在の石橋両家が建つ新町通り西面に地銭を納めていた屋敷がなく、江戸中期の本石橋の屋敷地が確認されていません。小村氏によれば木綿街道周辺は江戸中期頃に平田村から平田町・上ヶ分村、灘分村に分かれたそうで、「村」には地銭が課せられず、帳簿にも載らないのではないかとの指摘がありました。仮に本石橋家が村に建つ「民家」であったならば、農家型平面で曳き家の可能性を指摘した私たちの推測にも関係してきます。教授は「遺存地割」研究の重要性を指摘されました。平城京の復元でも、発掘調査をおこなう前から、航空写真と地積図によって条坊をほぼ復元しえたので、同様の歴史地理学的研究によって平田の町割りを復元した上で、地銭帳の記載と重ね合わせるのがよいとコメントされました。

賑わう会場

 次に石橋両家に関して意見を交わしました。建築年代については苅谷先生と清水室長から、より詳細な調査とくに旧石橋酒造の年代観を把握することの必要性をご指摘いただきました。
 旧石橋酒造の活用に関しては、苅谷先生から建物の利便性と安全性が第一に優先されるべきで、それには市との協調関係が不可欠との指摘。これには眞田氏、松本課長も賛同され、行政の立場から、木綿街道の住民主導のまちづくりを高く評価されました。ちなみに、本シンポジウムでは30人以上の地元住民が参加されたとのことです。

 「文化的景観」に関する討議では、会場からの質問が2つ取り上げられました。清水室長が講演で示した「DNA」という用語がキーワードになり、建物とそれ以外の要素との「間」を解読し、それらの継続性を評価することが重要であるとの説明がありました。木綿街道においては川並みのカケダシや、命名の由来となった「木綿」との関係をもっと突き詰める必要があるのかなと感じています。
 生業や生活を評価する文化的景観の制度は、景観のDNA継承を本質とし、モノ建築の保存にこだわる伝建制度とは反するようにみられがちですが、清水室長や苅谷先生の認識では、文化的景観の概念は伝建制度を包括もしくは補完しうるものであるということです。ただ、文化的景観の選定基準には「都市」の要素は明記されておらず、それが、歴史的町並みを文化的景観として捉えることを難しくしている現実があります。今後、制度も整備されていくことと思いますが、現時点では、文化財保護制度を利用した町並み保全をしていくのであれば、伝建制度のほうが圧倒的に使い勝手が良い、とは清水室長のご意見でした。


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  1. 2012/03/05(月) 00:20:29|
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木綿街道のこと(ⅩⅩⅢ)

会場正面①


町並みシンポジウム(1)-講演と報告

 2月26日(日)、シンポジウム「雲州平田『木綿街道』の町並み保全 -現状と課題-」が開催されました。一昨年の師走に振興会の方々と出会い、木綿街道に対する深い愛着と熱い想いに触れ、研究室として調査が始まったのがつい最近の事のような気がします。今回のシンポジウムは「木綿街道」の現状を理解し、今後の町並み保全の方向を探るものです。講師陣にはそうそうたる文化財関係者が顔をそろえ、振興会のご尽力もあって、定員の100名を超える参加者がありました。
シンポジウムは出雲市長の挨拶(↓)を皮切りに、振興会事務局がこれまでの取り組みを簡略的に報告後、3部構成の講演・報告・討議がスタートしました。

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 第1部「都市と景観」では、まず奈良文化財研究所の清水室長が「文化的景観としてみる都市と町並み」と題する講演(↓)。近年文化財保護法に加えられた「文化的景観」の定義を示し、とくに「都市の文化的景観」として保存の進む宇治・岐阜町・金沢などの実例を紹介されました。そして、モノの保存を重視する伝統的建造物群の制度と比較しつつ、文化的景観の制度では、歴史的な都市・人・建築物の間の仕組み(=町のDNA)の継承が重要であると説明されました。ついで、和田名誉教授(米子高専)の講演「近世出雲地方における在町の復元-平田本町を中心に-」。和田先生は、本石橋家の有形文化財登録の際に調書を書かれており、かねてより「地銭帳」(検地帳に相当)による出雲の在町の町割り復元の研究をされています。講演では、延宝九年(1681)の地銭帳から、あらたに平田「新町」の復元を試みられました。

 休憩を挟んで第2部「雲州平田木綿街道の町並み調査報告」へ。私事ではありますが、そうそうたる講師陣と100人以上の聴衆の前での講演とあって、発表前から汗だく。仁風閣が会場だったら汗も引いたんでしょうが、この日は聴衆の熱気と数台の石油ストーブで快適な環境でした。振興会の配慮に感謝いたします。


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  1. 2012/03/04(日) 00:00:33|
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サテンドール(Ⅹ)

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常乃屋

 木綿街道町並みシンポの前夜、松江に前泊し、東京からやってきたチャックを誘って「常乃屋」で飲んだ。いちども行ったことのない、そのジャズ喫茶は、県庁近くの旅館(廃業)の土蔵を改装した店である。1階はカウンター、2階は団体用のお座敷にしている。建物は古くみえる。古色の上塗りはしているものの、部材などの摩耗が激しく、小屋組も湾曲梁を使った古風なものだ。江戸時代に遡るのはまちがいなく、18世紀に入るもしれない。
 カウンターの席につくと、硬くて太いギターのソロが流れていた。パット・マルティーノだ。カウンターの目の前に「Now Playing」という小さな衝立があって、マルティーノの『Undeniable』というライブ盤のジャケットが立てかけられている。
 ギターを40年以上弾いている、と告白すると、マスターは、

  「どのギタリストがいちばんお好きなんですか?」

と問いかけてきた。

  「ギターという楽器はほんらい歌伴のために生まれたもので、ジャズという
   ジャンルに向いていない。とくにソロをとる楽器としては迫力が足りない。
   伴奏の楽器として最もふさわしい演奏をしているのは、フレディ・グリーン
   かもしれませんね」

という持論を述べると、「なるほど」とかれは頷き、

  「パット・マルティーノはどう思いますか?」

と質問を変えた。

01常乃屋02
 

 パット・マルティーノは19歳でプロになった天才である。しかも、伴奏役のサイドギターをおいて、縦横無尽にアドリブを展開するソリストとして知られている。言ってみれば、ジャズ界における寺内タケシだね。Mr.リズムを評価した私に対するあてつけのようにも受け取れるが、

  「いいギタリストですよ。代理コードとかテンションとか、
   すごく新しいセンスを感じるギタリストですよね」

と答えると、

  「そういう技術的なことはよく分からないんです」

と彼はぶっきらぼうに感想を述べた。代理コードが分からないと、ジャズという音楽は掴みにくい。

  「40年以上ギターを弾いてきて、昨年の秋、初めてD♭7が
   G7の代理コードになることが分かった」

なんて口走ると、ますます彼の顔は難しくなった(わたしにとっては実際、革命的な大発見だったんだけど)。


01常乃屋01
  
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  1. 2012/03/03(土) 01:34:07|
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ウズベキスタン戦の選手交替

 いまアルガルヴェ・カップをみながら、この文章を書いています。ポルトガルの由緒ある大会のようだけど、オープン戦のようなものだから、ナデシコさんたちも「調整」だと思って臨んでおけばいいでしょうね。永里姉が点とるぐらいだから、みんなリラックスしてるんでしょうが、いちばんいけないのは怪我だ。

 それはさておき、宮市みたかったねぇ。後半に乾と李を出して、まったく攻撃できなくなってしまった。ウズベクが守備的で、裏にぬけるゾーンはあまりなかったけど、宮市のスピードをライブで実感したかった。身長183㎝あるんだから、ハーフナーを下げたあとのヘディングも期待できた・・・欧州組がリーグ終盤で疲れていて、とくに長谷部にいつもの気迫が感じられなかった。遠藤も不調だった。
 まぁ、負けて問題ない試合なんだから、負けたってよいじゃないですか。
 最終予選は甘くはないけれども、本戦でベスト8以上をめざすなら、3次予選ごときを恐れてはいけない。本田、清武、宮市、トゥーリオ、酒井がいるよ。
 必ず勝ち抜いてくれます。

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  1. 2012/03/02(金) 00:00:03|
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中国と私(Ⅴ)

 遠く離れて

――先生は2001年に鳥取環境大に移られて現在に至るわけですが、今は中国とのおつきあいはありますか。
 ないに等しい状況です。奈文研時代は中国出張ばかりで、他の国々に行かせてもらえなかった。中国はぼくにとって「海外」ではなくなっていました。その反動で、環境大学移籍後しばらくは東南アジアとヨーロッパに通い続けましてね。心地良かったですよ(笑)。中国で日常的に感じてきたストレスが全然ないんだから。中国には8年間行かなかったんですが、ここ2~3年、科研費の関係で、石窟寺院の調査に出かけています。日本の岩窟型仏堂と中国の石窟寺院を木造建築との関係に着目して比較研究しているんです。2週間後には、新疆ウィグル自治区クチャのキジル千仏洞などを視察する予定です。中国最古の石窟寺院ですが、あそこは中国というより、中央アジアですよね。

――これから日本の建築界はどのように中国を認識していくべきだと思われますか。
 環境大学にいるからというわけでもないんですが、むしろ環境汚染について懸念しています。3年前、天安門広場に久しぶりに行ったんですが、広場から天安門が霞んでみえない。凄まじい大気汚染で、まともな写真が撮れない状態です。留学時代は空気が澄んで綺麗でしたよ。こんなところでオリンピックを開催して、マラソンを走らせたのかと思うと情けなくてね。国の「歴史文化名城」でありながら、開発優先で歴史的環境を破壊し続けてもいる。地方都市に行っても同じです。スモッグが町を覆い、煤煙の匂いが消えない。こういう公害大国の開発側に日本の建築界が巻き込まれているとしたら、とても残念です。
 反日運動も激化していますね。サッカー観戦時のマナーなんて最悪ですよ。92年のダイナスティ・カップで日本が中国に2対0で勝った試合の現場(北京工人体育場)にいたんですが、観衆は日本に拍手を送っていた。あの頃はなんだかんだ言っても「日中友好」が前提としてあった。江沢民以降の教育が問題なのでしょう。今年の8月にBSプレミアムで四夜連続放映された「家族と側近が語る周恩来」という番組を視て、とても感動しました。周恩来が今の中国を見たら嘆き悲しむのではないか・・・

――先生にとって中国とはどういう存在でしょうか。
 離婚しちゃった感じですね(笑)。もともと見合い結婚だったんだけれど、奈文研を離れるのと同時に別れてしまった。この夏休みに、ラオスとミャンンマーを訪問したんですが、中国よりずっとおもしろい。とくに軍事政権支配の長かったミャンマーは民主化し始めたばかりで、伝統的な文化が非常によく残っている。世界遺産がこれから一気に増えるでしょう。余生の貴重な時間を捧げるとすれば、ミャンマー、ラオス、ブータンなどの国々に貢献したいですね。
 東南アジアの大陸部は「インドシナ」と呼ばれているでしょう。文字どおり、土着的な民族文化をインド文明と中国文明が被覆している。ぼくはインド色の強い方がウキウキするんです。古代サンスクリット哲学の匂いがすると嬉しくなる。たとえばミャンマーには135の民族がいて、民族紛争が多発しても不思議ではないんですが、仏教が争いを抑え、多民族を束ねている。仏教が人々を温厚にしているのです。一方、中国とは何かと問われれば、ぼくは「世俗」と「権力」をキーワードの双璧としてあげたい。たとえば、ハノイに行くと広東と代わらない中国的な生活世界がある。げんなりするんです。ここまで来て中国に会いたくないよってね。古代インドの形而上学的世界とは遠すぎる。

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  1. 2012/03/01(木) 00:06:57|
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本家魯班13世

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