五輪塔余話 発掘調査で五輪塔片がいくつも出土し、岩陰の内側や周辺では今も石仏と並んで五輪塔が祭られています。五輪塔は落武者などの無縁仏を供養する墓標であり、霊感の強い方は塔の背後に「水をくれ、助けてくれ」と叫び苦しむ落武者の像がみえるとか? そんな「都市伝説」を知った学生たちは、発掘作業中に五輪塔片を足で踏んだり、調査具でこづいたりしたことをひどく気にかけ、次第に「祟り」を畏れるようになっていきました。そこで、先生が比叡山やスリランカやネパールで仕入れた線香を焚き、塔片に水をかけて供養するのが日課になっていったのです。ちょうど祖霊をお迎えし供養するお盆のころのことでした。

五輪塔は平安時代の中ごろ、日本で生まれ、全国に普及しました。文字通り、5つの「輪」によって構成されています。それは、古代インドにおいて宇宙を構成するとされた五大元素を表現したものです。五大元素とは「地(a)」「水(va)」「火(ra)」「風(ha)」「空(kha)」であり、五輪塔では、下から方形の「地輪」、円形の「水輪」、三角形(屋根形)の「火輪」、半月形の「風輪」、宝珠形の「空輪」が積み上げられています。このように五輪塔は仏教の宇宙観を表現する墓標・供養塔ですが、その形状は、密教とともに伝来した「宝塔」や「多宝塔」に似ています。宝塔は古代インドのストゥーパ(卒塔婆)が中国化したものであり、多宝塔は宝塔に裳階(もこし)をつけて「上円下方」を表現しています。ストゥーパは仏舎利(ブッダの遺骨)を埋納する墓であり、五輪塔は無縁仏を供養する卒塔婆だと言うことができるかもしれません。
室町時代の後期以降、空輪から地輪までを一材とする「一石五輪塔」が造られるようになります。「奥ノ院」で出土した戦国時代~江戸時代の五輪塔片や一石五輪塔は、羽柴秀吉による鳥取城渇殺の犠牲者を弔うものとも考えられ、いま一度きちんと供養してから卒業しようと思っています。(ヒノッキー)
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- 2012/03/10(土) 00:06:17|
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