
漢委奴國王印の出土地として知られる志賀島を初めて訪れた。丘の上に志賀海神社がある。三間社流造。参道の脇道に神明造の末社「印鑰社(いんやくしゃ)↑」があり、また本殿境内から外海をみる遙拝所は、神宮皇后三韓征伐を縁起としつつ、伊勢神宮を指向しているというから、よほど天照大神と結びつけたいのだろう。志賀海神社を支える安曇族は海民であり、近隣の宗像だけでなく、出雲、伊勢、住吉とも関係があるのかもしれない。
祝宴の後、久留米に移動したら、夕方になっていた。アルコールを抜くために町をぶらぶら。自ずと、足は寺町にむく。本堂の刷新、とりわけコンクリート造への変身には驚いたが、山門や鐘楼は古い木造建築をよく残している。渦が細くて、まぁるい。これは江戸時代初期の絵様の特徴であり、そういうふうにみえる唐草紋が多いので、寺の由緒を記した看板に目をやると、慶長から元和の開基のものが圧倒的に多い。一国一城令(1615)のころまで遡る山門等が少なからずあり、元和7年(1621)の有馬氏転封にあわせて近世寺町が整備されたのだろう。絵様は少し派手になる宝暦以降(18世紀後半)のものもあり、さらに遅れて文化文政期以降(19世紀後半)のものもいくつかみられた。いちばん奥の遍照院には庭園があり、森蘊(もり おさむ)先生の設計であることが分かったが、アジャンタと同様、すでに閉門になって中に入れない。人はだれもいないから、ドル紙幣をばらまいても意味はない。日本は良い国である。

↑久留米寺町の本泰寺。元和七年(1621)創建。山門は当初のものか。次頁上は真教寺山門。15世紀の創建だが、元和七年、寺町に寺地を拝領。本堂は寛政3年(1791)の再建といい、山門もこの年代に近いか。絵様のお勉強でした。
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- 2012/03/18(日) 00:26:16|
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