神仏習合の空間 悪天候のため摩尼山の登山を断念し、今回は不動院岩屋堂(ふどういんいわやどう)と舂米(つくよね)の棚田を見学した。
不動院岩屋堂は八頭郡若桜町岩屋堂にあるお寺で、国指定重要文化財に指定されている。高さ約13m、間口約7m、奥行約10mの天然の石窟内に嵌め込まれようにして建てられた建物であり、岩窟の中に建てられたことから窟堂(いわやどう)と称された。先生曰く、この岩窟は人の手によって掘られた人工の可能性が高いという。岩窟の中に堂の建つ様は力強く、神秘的でまさに不動明王が祀られる場所にふさわしいと感じた。また、不動院岩屋堂のすぐ隣には神社もある。この神社は巨岩の影にあり、仏教・神道とも巨岩を特別なものとしてみる考え方があるようだ。仏教と神道の融合を「神仏習合」といい、日本独特の文化である。二つの宗教の建物が隣り合わせで建てられているのは、非常に興味深くさらに詳しく調べてみたいと感じた。
舂米の棚田は八東川の支流春米川の上流域、陣鉢山・氷ノ山などに囲まれた山間地に位置する棚田である。舂米の棚田は「日本の棚田100選」に選定されている。「響きの森」でのミーティング後、棚田を俯瞰するビューポイントをめざしたが、土砂崩れのため通行止めとなっていた。今回は横から見学することになった。山の斜面の上に作られたため段々になった田を見ていると、狭い土地で何とか稲作をしようという昔の人の工夫を感じた。今はまだ田植えはしていないが、稲が成長した夏や秋には非常に美しい棚田を見ることができるのではないかと思った。米が実った時期にまたここにきて、棚田をもう一度見てみたいと思う。
不動院岩屋堂から舂米の棚田へ行く途中、氷ノ山自然ふれあい館「響の森」に立ち寄り、ゴールデンウィークの登山計画について話し合った。自家用車をもつメンバーを含むC班とD班は、やや遠方の山に行くことになった。
以下のような計画を組んでいる。(情報システム学科2年E.M)
C班: 4月28日 三徳山三仏寺投入堂(建造物が国宝)
D班: 5月6日 三徳山冠巌(かんむりいわ)経由で山頂をめざす。

↑「響の森」でGWに登る山の相談
[第3回「修験道トレッキング -山と巨岩の信仰を訪ねて」その2]の続きを読む
- 2012/04/30(月) 15:40:51|
- 景観|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0

26日(木)、P1&P3「修験道トレッキング」の3回めです。あいにく、天候は曇り空で降水確率も高かかったため、摩尼山ではなく、若桜町にある不動院岩屋堂と舂米の棚田に向かうことになりました。また、氷ノ山の「響きの森」で、GW中の登山について協議しました。登山は以下の班分けと候補を予め設定しておきました。車なしのA・B班は比較的大学から近く、バス利用可能。車ありのC・D班は大学からやや遠い山を選んでいます。
A班【車なし】: 川田、手登根、松岡、森本
B班【車なし】: 斎藤、阿保、古志、福田
候補:三角山(用瀬町) ▲508m山頂に巨岩と三角山神社あり
霊石山最勝寺(河原町) ▲334m中腹に御子岩(みこいわ)山頂に溶岩
大倉山(智頭町西谷) ▲1063m
氷ノ山(若桜町) ▲1510m
C班【車あり】:加藤(車)、野村、福永、大空
D班【車あり】:近藤(車)、中村、遠藤
候補:三徳山三仏寺投入堂(三朝町) ▲899m中腹の絶壁に奇跡の国宝建築
三徳山冠巌(三朝町) 投入堂の真反対にある巨巌。山頂をめざす
船上山(琴浦町) ▲615m後醍醐天皇籠城の山
大山(大山町) ▲1729m 伯耆富士 山頂から望む日本海は絶景
資料作成は私、白帯が担当しましたので、不動院岩屋堂と舂米の棚田の概要を述べておきます。学生2名のレポートは明日アップする予定です。
[第3回「修験道トレッキング -山と巨岩の信仰を訪ねて」その1]の続きを読む
- 2012/04/29(日) 23:27:29|
- 景観|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0

25日(水)、ゼミ時間を利用して、先週末に引き続き、裏山の茶室周辺を整備した。おそらく、たぶん、教師は4年ぶりの訪問である。3月末のナオキ送別以来、何度か学生が茶室に通い「現状」を知らせてくれていたが、やはり自分の目でみないと駄目ですね。
正面側の板屋根・トタン屋根はまだなんとかもっているのですが、背面側の波形ビニール板がまとめてめくれている。大きな穴があいているではないか。この穴をみて「大丈夫」と学生は伝えてきたのだから、どういう感覚をしているのか、さっぱり分かりまへん。これは塞ぐしかない。用意してきたブルーシートは、バーベキューの日にかける予定だったのですが、翌日は雨の予報なので、さっそく屋根に被せることにした。
しかし、脚立がない。身軽な匠や白帯をもってしても、屋根に上るのは難しい・・・わたしが脚立になりましたよ。匠をてんぐるましたのです。なにせ猪八戒ですからね、55キロの学生の一人や二人、らくに担ぎあげられます。
屋根にあがった匠は、動いている波形ビニール板を整え、畳みあげたブルーシートをひらいていきました。そして、てんぐるまで軒下におり、ブルーシート先端の金輪に紐を通して付近の樹木に結びつけた次第です。これで、しばらくは雨漏りに耐えられるでしょう。というか、よく今まで床が抜けずにいたものだと感心しきり・・・森の力ですね。森が風雨から茶室を護ってくれたのです。
このブログ記事がアップされるころ、すでにバーベキューは終わっているはずです。いまのところ、参加予定者は21名。チューター担当学生は7名ですから、その3倍が参加するわけで、はたしてどれだけ学生たちは肉を消費するのでありましょうか?
追加必至かな?
大減俸に苦しむ教師を、だれか助けて頂戴。
[茶室でてんぐるま]の続きを読む
- 2012/04/28(土) 22:29:39|
- 研究室|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
学術振興会の科学研究費は基盤研究C「石窟寺院への憧憬 -岩窟/絶壁型仏堂の類型と源流に関する比較研究」(課題番号
22560650)の最終年度にあたりますが、昨秋申請した出版助成申請の採択内定通知がありました。書名と目次を以下に示します。
書名: 建築考古学の実証と復元研究 序 -建築考古学への途
第1章 倭人伝の建築世界
第2章 竪穴住居の空間と構造
第3章 歴史時代の建築考古学
第4章 建築考古学と史跡整備
第5章 スコットランドの寒い夏 -結にかえて
判型はB5で、480頁を予定しています。出版社はいつもの通り同成社で、いつものように1万円以上の専門書として刊行されます。これまで同成社から出版した
3部作は編著でしたが、今回は単著の論文集です。刊行日は2013年2月末と決められており、これからまた「校正マシーン」の日々が激化することになりますが、GWから早速準備を始める覚悟でして、今年はブログを(少々)控えようと真剣に考えております。
この出版助成、じつは2010年秋に申請したのですが、昨年度は不採択でした。文学と工学の複合領域で申請したのが災いしたと判断し、2年目は書名などをわずかに変更し、工学のみで申請した結果、採択となりました。震災関係で科研費の総額が減少し、また研究費は災害復旧関係に傾斜していると予想されたので、正直なところ、再落選間違いなしと諦めていました。ですから、内定通知が届き、とても驚いています。大変な一年にまたひとつ大仕事が増えてしまいましたが、有り難いことに決まってますので、最善を尽くして編集・校正作業に取り組みます。
ご支援のほど、よろしくお願いいたします。

↑2012『大学案内』が完成しました。公立としての最初の大学案内です(大学院は含まれていません)。わたしは環境学部環境学科居住環境プログラムの説明係として登場しています。たいしたことを述べているわけではありませんが、クリックすると拡大しますので、ご笑覧いただければ幸いです。
- 2012/04/27(金) 23:49:23|
- 研究室|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
「廃材でつくる茶室」の整備 はじめまして、モミパンチです。
20日(金)4限、ゼミの活動に参加しました。修復建築スタジオからのこぎり2本とビニールシートとメジャーを持ちだし、裏山に建つ「廃材でつくる茶室」へ行きました。ここが27日の環境学部新入生歓迎バーベキューの会場になるのです。
まずバーベキューで使う道具確認をしました。錆びた金網、ブルーシート、大量の炭があります。古い炭ですが、湿ってはいないので、今度のBBQで使えそうです。次に電気を使えるかどうかの確認をしました。クラブハウスのコンセントから茶室まで3つのドラムで繋いでいたそうですが、コードが途中で切れていました。ドラムについては、大学所有のものを借りることになりそうです。そして、屋根の大きさを測りました。根の大きさは縦が5メートルで横が4メートルでした。これに見合うブルーシートを探さないといけません。防風・防水のカバーとして茶室に被せるのです。
最後に、雑木の伐採をして場所の確保に取り掛かりました。バーベキューには15~20人が参加することになるので、茶室周りの木や枝をのこぎりで何十本も伐採しました。これがなかなか大変でして、切りがない仕事なのですが、このあたりで十分だろうと思ったところでやめました。山を降り、スタジオで保管しているビニールシートを何枚かひろげ、茶室屋根のサイズに合うものを選び出し、サイズに合わものは畳んでしまい、解散しました。(モミパンチ)

↑洗えば使えそうな鉄板と、炭が段ボールひと箱分ありました。
[モミパンチ見参(Ⅱ)]の続きを読む
- 2012/04/26(木) 23:04:06|
- 研究室|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0

19日(木)、P1&P3「修験道トレッキング」の2回めで、最初の山登りに挑みました。1回めの登山ということで、資料作成は私、白帯が担当しましたので、立岩山坂谷神社の概要を述べておきます。
立岩山坂谷神社と磐座 立岩山(たていわやま)は、岩美郡岩美町と鳥取市福部町の境にある標高394mの岩山。『因幡志』の栗谷村(福部村栗谷)の項に「村の後の高山を聟山或は武庫山ともいう」とあるのは、同書の岩常村の項の記ともあわせて、当山のことをさしていると思われる。また同書には、坂谷権現(現
坂谷神社)についての記述があって、武庫山に連なる山の中に磐石(いわくら)があり、 そこに小祠(本殿)をなしたものとされている。立岩の名はこれに関係があるかもしれないし、その上部に聳える巨巌による可能性がある。坂谷神社本殿を覆う石壁には謎の白い線刻が無数に描かれている。本殿の上に巨岩が左右から重なりあって「岩屋」をつくる。自然にできた岩陰である。

坂谷神社と摩尼山は指呼の関係にあるほど近く、神社の山号が「立岩山」、摩尼寺山頂の巨岩(帝釈天降臨伝承地)は「立岩」と呼ばれるように、なんらかの関係性をもった可能性がある。坂谷神社と摩尼山の巌(いわお=巨岩)は、いずれも古い磐座(いわくら)信仰の対象であろうと推定されている。磐座は、神が宿るという巨岩であり、古代人はそれを恐れ敬った。いまなお神社等のご神体として祭られる巨岩が少なくない。古代、あらゆる自然物にカミが宿っていた。アニミズム信仰である。なかでも、美しい 円錐形をした山、あるいは山中の巨石は神々が降臨してくる場所として敬われた。信仰の中心が「神体山」、神の降臨する場が「磐座」と言えるだろう。摩尼山の立岩は古来「磐座」であり、帝釈天降臨によって山全体が「仏界」に変わった。摩尼寺「奥の院」のもとの姿は、坂谷神社のように巨巌が屹立するものであり、その岩を穿って仏堂を設け、また岩を削平して加工段(平坦面)を形成した可能性が高い、というのが教授の考えである。

坂谷神社は社叢(神社周辺の山林)が県の天然記念物に指定されている。スダジイ林を主体とする大規模な照葉樹林で、とくに参道石段の両側と本殿が鎮座する岩陰をくぐり抜けた一帯には、巨木のスダジイが群生している。また、参道と社殿一帯には、ケヤキの大木、大形のヤブツバキもまじり、クリハラン等の南方系のシダ植物も自生しており、分布上貴重な植物が多く確認されている。近辺には、直浪遺跡(湯山)、栗谷遺跡(栗谷)があり、両遺跡とも縄文時代の石器類や土器が豊富に出土している。(白帯)
「続き」に2年生2名のレポートを掲載します。
参考文献 『角川日本地名大辞典 31 鳥取県』角川書店、1982年
『日本歴史地名大系第三二巻 鳥取県の地名』平凡社、1992年
鳥取県指定文化財一覧 http://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1191476497440/activesqr/common/other/47048ffa008.pdf
超古代文明「イワクラ」資料提供:山添村いわくら文化研究会http://www.vill.yamazoe.nara.jp/iwakura/iwakura.htm

↑山頂に露出する凝灰岩の巨巌 ↓巨巌周辺の急傾斜面を上り下り
[第2回「修験道トレッキング -山と巨岩の信仰を訪ねて」]の続きを読む
- 2012/04/25(水) 23:50:17|
- 景観|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
シュルプリーズでジャンケン 18日(水)午後、第1回のチューター・ミーティングをおこないました。公立大学1期生(新1年生)から始まった試みです。チューターという制度を学外の方は良く分からないでしょうが、「担任」のようなものです。ただ、担任にして担任にあらず・・・学生番号順に世話係の教員が決まるのですが、昨年まではチューター所属の学生とともに何かの活動をすることはありませんでした。学生たちに何かよくないことがおこったとき、たとえば交通事故に遭うとか、成績が著しく悪化するとか、不登校になるとか、そういう事態を解決・改善するためにチューターの教師がいるんです。ですから、チューターの出番が少なければ少ないほど、学生生活は順調に進んでいるということになります。
今年もまた同じことを環境学部の第1期生に話そうと決めていたんですが、大学当局より、ガイダンス以後6週間、週に一度ミーティングをもつよう指示がありました。正直、「甘やかしすぎ」とも思ったのですが、ガイダンス直後の話しあいでは、学生たちから「バーベキューをして欲しい」との声があがり、その準備を兼ねて、第1回のミーティングを開催。シュルプリーズの菓子パンでティーパーティです。いつものことながら、仁義なきジャンケンは盛り上がりますね。勝った順にお菓子を選んでいくのですが、勝ち順が早いからといって、必ずしも高価な品にたるわけではなく、各々の人生を反映しているような、しないような・・・

7名の1年生が自主的に協議した結果、バーベキューは4月27日(金)夕刻からとなりました。会場は、あの懐かしい「廃材でつくる茶室」前の広場です。茶室は健在なのかなぁ??
ウェルカム、パンチ! 同日夕刻、ゼミ3年の新歓コンパを洋食屋「スノーラスカル」で開催。ヒノッキーが去り、代わりに倉吉在住のモミパンチ君(↓)がゼミのメンバーに加わりました。倉吉大好きの学生ですが、倉吉からの通学に苦しんでおり、当面は1限・2限の講義出席が課題になりそうです。新歓コンパには、養蜂のため国府で働き始めたハルキ君、山梨の同期生2名も仲良く参加しました。
モミパンチ君の初活動については、2日後にお知らせします。

↑左からハルキ、白帯、モミパンチ。風貌以上に愛嬌たっぷりの男です。
[モミパンチ見参(Ⅰ)]の続きを読む
- 2012/04/24(火) 23:36:48|
- 研究室|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
投入堂の周辺 観音堂と元結掛堂は登山事務所から約600mほど登った所にある。観音堂は江戸時代前期、鳥取藩主池田光仲によって再建された。元結掛堂は観音堂の洞穴側を回り込んだ先にある。県指定文化財。
その後、ようやく最終地点である投入堂の手前に到着した。蔵王堂と愛染堂の二つ合わせて投入堂である。その手前に建つ小さなお堂が春日造の不動堂。役行者の「蓮の花びらの伝説」によると、蓮の花びらの一枚が三徳山へ舞い降り、修験道の行場として始まりとされる。役行者が三徳山を訪れた時、山のふもとでお堂をつくり、法力でお堂を手のひらに乗るほどに小さくし、大きな掛け声と共に断崖絶壁にある岩陰に投入れたと言われている。「投入堂」という名の由緒である。

↑取材を受ける先生
投入堂は、玄武岩層と凝灰岩層の断層にできた岩陰に建つ懸造の堂宇である。しばらくすると霧がかかり始め、幽玄な赴きに包まれたが、それは危険の徴候でもあり、素早く下山の準備をした。汗が冷えて、肌寒い。三徳山は登山より下山が危険だと言われる。地盤が滑りやすく、体のバランスが不安定なため、崖から落ちるのでははないかとおののきながら下山した。

↑クサリ坂を必死に降りるボク
[Discover Japan -三徳山に奮う(Ⅱ)]の続きを読む
- 2012/04/23(月) 23:41:03|
- 景観|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
いざ、三徳山へ どうも白帯です。
17日、鳥取県唯一の国宝に指定「投入堂」がある三徳山に登ってきた。(エイ)出版社の雑誌『Discover Japan』の次号で建築の特集が予定されており、、三徳山三仏寺投入堂についても8頁を組むことになり、先生が構造と歴史的観点からインタビューを受けた。また、ぼくの卒業研究に深く関係がある。天候が心配だったが、三徳山に近づくにつれ、晴れ間がひらがっていき一安心だ。道中、車の中で、先生は娘さんに「猪八戒」と言われたことを気にしていた。だが、先生は「長州小力」級だと否定している。医者にも注意されていたようで反省していた。年齢を重ねるにつれ苦労することがうかがえた。
三徳山は修験道の行場として名を知られている。山伏の修行が盛んに行われていたころ、裏行場、上段行場、中段行場、下段行場と呼ばれる4つの行場があった。三徳山の地形は起伏に富んでいるため、難所も多く、きびしい行場であった。下段行場が、現在の参拝登山道である。ここを登っていく。
参拝受付案内所で出版社の方と合流し、投入堂へと向う。石段を登り、本堂(↓)にお参りをした後、本堂裏にある登山事務所で手続きをした。ここが恐怖の始まりである。
投入堂登山の心得として、
・入山届を提出すること
・2人以上で入山すること
・靴の確認を受けてから入山すること
・立ち入り禁止区域には、入らないこと
・荒天時は、入山を禁止するが掲示してある。これらを守ることで登山での安全を確保するのだ。
宿入橋が修験道の入り口である。そこから登っていくと、十一面観音堂が見えてくる。春日造こけら葺のお堂である。汗をかきながら進むと三徳山登山で最初の難関であるカズラ坂を通る。カズラ坂は、木の根が縦横に交差する坂で、両手を使って木の根をつかみながら登っていく。急な坂でしっかり木の根をつかんでいないと危険きわまりない。先生もしんどそうだったが、ぼくもとても登るのがしんどくて、体力をつけないといけないと痛感した。

↑急な坂で滑りやすく危険
[Discover Japan -三徳山に奮う(Ⅰ)]の続きを読む
- 2012/04/22(日) 23:52:04|
- 景観|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0

「金輪御造営差図」(原図)の視察にあわせて、①「木綿街道」周辺の地籍関係資料の収集、②「斐川平野の築地松」の見学も実施しました。②については、おぎんの報告にあるように収穫の多い調査ができました。陰手刈り(のうてごり)職人や、築地松民家を活用している所有者の方、行政関係の方とも繋がりをつくることができ、2日間の視察にもかかわらず、研究の土台が築かれつつある感触を得ています。安来出身者として、地元が卒論研究テーマとなる幸運に恵まれた、おぎんの奮起を期待しています。
さて、私のほうも継続して「木綿街道」町並み調査について研究を進めております。2月末のシンポジウムでは主に町家調査についての成果を報告しましたが、今後、木綿街道周辺における近世の町並み復元についても触れておかねばなりません。資料としては、和田先生にご提供いただいた江戸中期の「地銭帳」「検地帳」がありますが、古地図や地割図などの町割を示す資料が未発見でした。
今回は、松江法務局出雲支局の訪問と、シンポジウムでお会いした地元郷土史家の方からの情報収集が目的です。

松江法務局では、昭和40年代以降から実施されている国土調査によって作成「地籍図」および、明治22年頃に実施された地租改正作業による「地押調査図」が管理されています。町並み復元の調査においては後者の「地押調査図」が重要となるでしょう。事前の問い合わせで、松江地方法務局出雲支局で保管されている「閉鎖和紙公図」(材質が和紙。現行の公図は電子化されており、それまで現行の図面として備付られていたもの)が明治22年の地押調査図(↓)であり、無事、その複製を入手することができました。ただ、その原図の上から、平成6年にいたるまでの地籍の変遷が和紙で上貼りされているため、当時の地割を確認できません。今後、「地銭帳」などの文献資料を参考にしつつ、復原的な考察が必要でしょう。

地元郷土史家のNさんともお目にかかり、当時の町割を示す資料として、明治初期の地割図が広島大学図書館に所蔵されているとの情報を得ました。さらに平田本町の江戸末期の地割図を所有している方も紹介していただき、次回訪問時に確認することになっています。Nさんには今後の調査への協力約束していただき、心強い限りです。
さっそく、GWに広島へ行こうかな・・・
[木綿街道のこと(XXⅨ)]の続きを読む
- 2012/04/21(土) 23:12:46|
- 景観|
-
トラックバック:1|
-
コメント:0
出雲大社宝物殿へ 4月10日(火)。深夜のゼミ室で内職をしていたところ、教授からある資料を手渡されました。例の「金輪御造営差図」(原図)の特別公開に関する記者発表資料ですね。教授は「いちはやく現物を見たい」と言われるも、出雲での「原図」公開は報道発表からわずか3日後、そして3日間のみということで、スケジュールの調整ができないご様子。熟慮の末、ご自身は被災地訪問を兼ねて東北(宮城県多賀城市)での公開に行くことで落ち着き、ゼミを代表して私が視察に行くこととなった次第です。
私自身、「金輪御造営差図」には思い入れがあるんですね。出雲古代歴史博物館で展示されている、出雲大社境内遺跡で出土した大型本殿跡の復元模型のひとつが教授によるものであり、その復元プロジェクトに私自身かかわらせていただいたのです。当時はまだ3年生で、正式に浅川ゼミへの所属が決まってから初めてのプロジェクトだったでしょうか。教授の指導のもと「金輪御造営差図」をはじめ、遺構図や文献と睨めっこしてああでもない、こうでもないと検討した日が懐かしいな・・・。推理小説を読み解くようで、楽しくてしょうがなかったと記憶しております。
昔話は置いておいて、『金輪御造営差図』(原図)です。「
原図」の視察にあわせて、木綿街道の追加調査および、おぎんの卒業研究テーマである「斐川平野の築地松」の視察なども含めて行程を調整したため、出雲大社を訪れたのは、15日の日曜日。公開の最終日となってしまいました。
鳥取と違い、出雲はまさにお花見日和。黒松の千歳緑とソメイヨシノの桜色で彩られた参道には、透き通るような晴天も手伝って多くの観光客。参道のベンチでオニギリでも頬張りたいところではありましたが、なにより「原図」の公開を見なければいけませんからね。花より原図ということで、桜吹雪とお花見客を掻き分けて、出雲大社の宝物殿である「神祜殿」へ向いました。
[金輪御造営差図の原図(Ⅱ)]の続きを読む
- 2012/04/20(金) 23:51:10|
- 建築|
-
トラックバック:1|
-
コメント:0
築地松の剪定作業 16日(月): 出雲駅のひとつ手前、直江駅で8時半ころタクヲさんと落ち合い、築地松の剪定をしているというお宅に向かいます。その前に、斐川町役場に寄りました。築地松に関するヒアリングをするためです。築地松の専門ではなかったですが、担当の方にも挨拶しました。事務局は出雲市役所内にあり、「築地松景観保全対策推進協議会」という組織を知りました。また、この協議会の発行している「ついじまつ」という情報誌もあり、最新号を入手することができました。わかりやすく解説してある冊子です。
その後、約束していた剪定しているお宅へ。平野では「あのコンビニを右にまがる」「何個目の信号を…」などという目印がないので、電話で道順を聴いたにも拘わらず、辿りつけませんでした。道の分かる所まで行き、電話して教えていただき、なんとか到着。休憩中に道具を見せてもらい、築地松についていろいろご教示いただきました。
出雲の方は、テレビなんかに出ると大騒ぎします。知り合いが出たりしていても周りの人に自慢します。私の姉の職場が斐川なのですが、2月の木綿街道町並みシンポジウムでわたしの名前が新聞に載っただけで、みなさん「見たよ!すごいね!」という感じでした。夕方、鳥取に帰る前に木綿街道に立ち寄ってみると、みなさん、來間屋生姜糖本舗とご主人Kさんが先日発売された漫画「食いしんぼ」(『ビッグコミックオリジナル』掲載)に出たという話題で持ちきりでした。
話がそれましたが、陰手刈師Mさんはあのテレビに自分が出ている、誰々があのローカルに出たという情報を楽しそうに口にしておられました。そして、自分が出ているというテレビのDVDを貸してくれました。このDVDには陰手刈の第一人者であると思われるSさんも出ているそうです。勉強しなさい、と貸していただきました。また、手書きで出雲屋敷や築地松について説明を書いたものをくださいました。とてもありがたいです。勉強します。
[斐川平野の築地松(Ⅱ)]の続きを読む
- 2012/04/19(木) 23:48:25|
- 景観|
-
トラックバック:1|
-
コメント:0
築地松と陰手刈師 私は島根県出身なので、卒業研究のテーマとして「斐川平野の築地松」の景観を、木綿街道を含めた視野で研究できればいいなと考えています。築地松とは、出雲地方の屋敷の北西に植えられている背の高い黒松のことです。出雲空港から出雲大社へ行く途中の斐川平野の農道周辺にたくさん見受けられます。集落形式は「集村」ではなく、「散居村」です。前にも教授が紹介されているように、富山県砺波平野と斐川平野が散居村の双璧と言われ、いずれも立派な屋敷林を備えています。出雲の場合、その屋敷林が「築地松」になるわけです。ちなみに、島根県の県木は黒松です。正式な築地松には黒松を用いますが、最近ではマテバ、シイ、モツ、タブなどの雑木なども多々見受けられるようになりました。
築地松の剪定は「陰手刈り(のうてごり)」といい、また、その職人を「陰手刈師」といいます。現在、斐川町、大社町、美談町、その他の地域に20人程度おられます。後継者が少ないのが、景観保全にとって大きな問題になっています。毎年陰手刈りの講座を開き、参加者も20~30人を数えるのですが、実際に職人を目指す人はその1割程度らしいです。危険な仕事でもあり、築地松の剪定は寒い時期の半年しかないので、他の時期は庭師として庭の剪定などをして整形を維持する陰手刈師さんが少なくないようです。高さ10mもある松の木から落ちると生命に危険が及びます。とても危険な仕事なのです。

先週末、タクヲさんが出雲大社に展示される「金輪御造営差図(原図)」の視察に行かれるということで、わたしも出雲に行って築地松の下調べをしようと決心し、便乗させてもらいました。
14日(土): 昼すぎころ現地に着き、そのまま斐川平野を車で徘徊。築地松のある民家をチェックしたり、撮影したりしました。また、庭に築地松のある「出雲キルト美術館」では美術館の代表の方に話を聴くことができました。その後も現地の方に教えていただいた築地松を見に行ったり、歴史民俗資料館となっている原鹿の旧豪農屋敷・江角家を見学したりもしました。江角家の敷地にも築地松があります。5年に1回くらいの頻度で剪定しているそうです。散策途中には、剪定している最中の陰手刈師(:築地松の剪定をする職人)の方にも遭遇し、少し話を聴き、月曜日には築地松を剪定する情報も得ました。
築地松の点在する平野のなかには、荒れ放題となっているものや、枯れてしまっているものなど、管理が行き届いてないものも見受けられました。また、この日はとても天気が良く暖かかったので、外で畑仕事や草刈り、農作業している方々にもたくさん出会いました。この土地で盛んな生業なども調べてみると、築地松の景観とのかかわりもあるのかもしれません。茅葺き民家も数軒残っていました。空家になっているものもあります。
[斐川平野の築地松(Ⅰ)]の続きを読む
- 2012/04/18(水) 23:52:10|
- 景観|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
週末の嗤い話を一つ。
長い髪が好きなんだ。少なくとも自分のパートナーには髪を長くしてもらいたい。しかし配偶者は、近年、主人の意に逆らい、定期的に髪を切るようになった。短髪のほうがなにかと動き易いらしい。このたびも、鳥取での激務を終え、長時間運転し、ようやく奈良の家に辿りついて顔をあわせると、また髪を切っている。もちろん、それについては不満があり、「似合わない」を連発するのだが、配偶者は娘と結託し、
「可愛いよね、これ、可愛いでしょ?」
「うん、可愛いよ、ママぁ」
などとほざいているのである。(なにがママぁだ、バ~ロ~)
翌朝めざめて顔をあわす。やはり短髪が気に入らないので、わたしは、ソファに坐る配偶者に対し、
「孫悟空みたいだ」
と酷評してやった。当の本人は、
「そんなことないよ」
と受け流すのだが、隣に坐っていた娘が、こちらを睨み、
「そっちは猪八戒やん」
ときやがった。これに配偶者は笑う。たいそう笑う。身をよじって、おおいに笑い、笑いがとまらず、目に涙を浮かべている。大粒の涙がポロポロ落ちるほど、笑いがとまらない。反論する気を喪失するほどの笑いであったが、どうやらそれは嗤いではない。
(なに言ってんだ、おまえなんか、沙悟浄も入ってるでないの)
とやり返そうとして、口に出すのをやめた。なんたって大人になりましたからねぇ。
[西遊記に嗤う]の続きを読む
- 2012/04/17(火) 03:45:26|
- 未分類|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
茅葺きの里 「清流の里」をあとにし、茅葺き民家の残る新田集落内の道を歩いてみました。集落内には茅葺き民家が何棟か残っていますが、多くは鉄板を被せています。しかし、茅露出の建物を2棟続きで発見しました。1棟はオモヤではなく附属舎のようですが、もう1棟(↑)は立派なオモヤで、大阪からのIターン者がお住まいになっておられます。なんでも智頭町役場で働いておられりそうですが、訪問時がご不在で「CLOSE」の札が立てかけられていました。このほかにも京都や神戸などからの移住者の方もおられると聞きました(「とんぼの里」にお住まいなのかもしれませんが)。大阪や神戸などから移住され、定住も考えておられる。都会の人をそうさせる魅力が、この集落にあるということでしょう。澄んだ空気、豊かな自然に恵まれており、棚田や茅葺き民家に代表される日本農村の原風景が残っているからではないかと思いました。休耕田もそれほど目立ちません。農業活動が盛んにおこなわれているからこそ、素晴らしい棚田の景観をみることができるのです。そしてIターン移住者が集落に活気を与えています。
冬になるとこの周辺地域は大雪に見舞われます。多いときでは1日に70㎝も積もり、鳥取市内に比べて寒さも厳しそうです。この日も小雨が降っていたこともありますが、市内よりもやや肌寒さを感じました。しかし、「雨には雨の日の良さがある」というのが先生の口癖で、たしかにこの日の風景も小雨に煙り、幽玄な赴きを感じさせました。
[西谷新田再訪(Ⅱ)]の続きを読む
- 2012/04/16(月) 23:38:37|
- 景観|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
NPO事務局「清流の里」 環境学部1年の「
環境学フィールド演習」で訪れる予定の智頭町
西谷新田地区をゼミメンバーで訪れた。先週のレポートにあるように、西谷新田は集落まるごとNPO化してむらおこしに取り組んでおり、茅葺民家と棚田の景観やIターン居住者のパン屋さんを訪れるのを楽しみにしていた。新田に着くと、石垣畦畔を伴う棚田と杉林の山々の風景が一面にひろがり、鳥取にこのような場所があることに驚愕した。
まず「
パン工房アイ」で、アップルパイとクリームパンを注文しカフェのテーブルに着いて、「森のコーヒー」と一緒にパンをいただいた。窓からみえる棚田の風景を眺めながらいただくパンとコーヒーは格別なものだった。門前にはお客さんが次々やってきて、みるみるパンが売れて行った。有名なお店だということがよく分かる。パンだけでなく、有精卵や原木栽培椎茸なども販売しており、先生とタクヲさんも買いあさっていた。

お店の方によると、パン工房の建築設計は、最初大工さんに任せていたが、設計図を何度みても気に入らないので悩んでいたところ、Sさんというインテリア・デザイナーを紹介され、すべてを任せることにしたそうだ。Sさんは、西粟倉在住の工芸作家でもあり、智頭の町中で「craft&cafe 和楽」という和工芸ギャラリー兼喫茶店を共同経営されている。大阪からのIターンだそうである。まだぼくたちは「和楽」に行ったことがないけれども、以下のサイトを発見したので紹介しておきます。
craft&cafe 和楽 鳥取県八頭郡智頭町智頭472-1 ℡.0858-75-0151
営業時間 10:00~17:00(水曜休業)
http://cms.sanin.jp/p/chizu/kankou/taberu/waraku/ 西谷新田の訪問前、なんどかNPOの事務局に電話していたのだが、つながらなかった。今回の訪問の目的はただパンを食べてジャズを聴くことではなく、NPO「新田むらづくり運営委員会」事務局の方々と話し合い、「環境学フィールド演習」への協力を依頼することだった。このことをパン工房の方々にお話しすると、その事務局は100mばかり下手にある「清流の里 新田」にあることがわかった。さっそく電話していただいた。普通の電話ではなく、テレビ電話で清流の里とつながり、事情を説明していただくと、閉館は16時だと言われ、大急ぎで移動することになった。ちなみに、智頭町は全戸がテレビ電話になっている。国の事業を町が受け入れ、すべての世帯がテレビ電話になったのが、当初は戸惑いも多く、賛否両論あったそうだ。

清流の里も智頭杉の木造建築で、杉材の温かみを感じる、休憩にはもってこいの施設である。ここも喫茶店を営業されているが、NPO特注の焼酎や農産物、工芸品なども販売している。奥の畳部屋は人形浄瑠璃を演じる大広間で、舞台があり、ショーケースに瑠璃人形が展示されていた。窓を開けてウッドデッキからみると棚田の風景がまた素晴らしい。

↑店の中、↓壁に掛けらている写真
[西谷新田再訪(Ⅰ)]の続きを読む
- 2012/04/15(日) 23:34:41|
- 景観|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
広島がガンバを4-1で下したゲームが録画で流れている。すでに酔っていた。得手とは言えない畳座敷の宴会で、日常では口にしないアサヒ・スーパードライを何杯も飲んだ。宴席が終わり、ひとり流れて隠れ家に落ち着いたのだが、頭が痛く、水割を飲む気になれない。レモン水を2杯おかわりした。一時間半ばかりそこで過ごし、「頭が痛くて、体調が悪い」ことを口実に店をでた。階段を下りて
マークローザに跨ろうとした瞬間、
ハニーキッチンの閉店を告げられた。しばらく門前で話を聞いた。
マークローザで野良猫のように街をうろつく。そのまま帰宅する気になれなくて、馴染みのドアをあけ、大画面の前に腰掛けた。客は二人だけ。もう一人の女性客は、ガイナーレの不甲斐なさを嘆いている。
「華のある選手がいない。試合がつまらない・・・」
飲物を決めかねたので、つまみから注文した。ブルーチーズとマーマレード。これにクラッカーがついている。このアテだと、アルコールだな。食後酒と言えば、シングルモルトか。「ハイランド・パーク」の12年を薦められた。スコッチでハイランドというのだから、ブリテン島スコットランドの高地「
ハイランド」のことだと店主も客も思っていたが、後で調べてみたところ、そうではないようである。ハイランドパークは、なんと、
オークニー島の地酒であり、「北の巨人」と崇敬されている。12年は安価で手に入る。中級の焼酎クラスだ。18年でも伊佐美ぐらいの値段で買える。飲みやすいシングルモルトの代表作で、ロックもわるくないようだ。飲みやすいのが玉にキズという批評もあるかもしれない。
ちょうどそのとき、ケルト音楽が流れていた。哀愁をおびたケルトではなく、賑やかなお祭り騒ぎのケルトで、なるほどこういう音楽がアメリカに渡ってブルーグラスになったのだろうと思ったものである。最近届いたライ・クーダー『プル・アップ・サム・ダスト・アンド・シット・ダウン』の雰囲気にも似ている。クーダーが少しマイナー調になると、明るいケルトに早変わりするような・・・ただ、クーダーに上等なスコッチはあわない。土の匂いがぷんぷんする(安物の)バーボンに限る。
[ハイランドパーク]の続きを読む
- 2012/04/14(土) 23:16:50|
- 食文化|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0

プロジェクト研究1&3がスタートしました。テーマは表記のとおり、「修験道トレッキング -山と巨岩の信仰を訪ねて」です。「修験道トレッキング」というタイトルを使うのは、これが3度目ですね。今回のは「山」だけでなく、「巌(いわお)」すなわち巨岩を主題としています。
公立化に伴い、学生は激増しており、1年生8名、2年生7名の班編成となりました。15人の大所帯をどうして運営してくか、教師の手腕が問われるところですが、学生の自主性にも期待しています。以下、授業概要です。
1.テーマ:
修験道トレッキング -山と巨岩の信仰を訪ねて
2.授業計画:
山歩きの好きな人、大集合!
日本人は古くから「山」や「巨岩」を聖なるものとみなし、崇拝してきました。それは国歌「君が代」の「巌(いわお)」という言葉によくあらわれています。鳥取県東部にも巨岩を含む山が少なくなく、神話・神道・仏教・修験道などと深く結びついています。山歩きを通じて、これらの巨岩を訪ね、それにまつわる信仰や自然認識を学んでみましょう。おおよそのスケジュールは以下のとおりです。
前期: 立岩山坂谷神社(福部)、摩尼山(覚寺)、霊石山(河原)、三角山(用瀬)
三徳山冠巌(三朝)、不動院岩屋堂(若桜)などの山と巨岩を訪ね歩く
中期: 密林に埋もれた摩尼寺「奥の院」遺跡の巨岩と窟(いわや)の清掃作業に
参加。仏堂や石段の痕跡を残す巨巌の正体を暴きます。
【この地域では椎茸栽培が盛んで、伐採した樹木をリサイクルして椎茸
栽培に挑戦するかもしれません】
後期: 調査資料の整理・分析と発表
- 2012/04/13(金) 23:43:43|
- 景観|
-
トラックバック:1|
-
コメント:0
10日の環境学フィールド演習のガイダンスで教壇に立っていたころ、島根県から一通のメールが届いており、その直後に新聞社から研究室に電話があったらしい。初授業を終えて少しリラックスした私は、シュープリーズでバウムクーヘンと菓子パンを買い、トスクで食材を仕入れて帰宅した。久しぶりに下宿で料理を作る。これは趣味に近いものだ。メールや取材依頼のことなど何も知らないまま時が過ぎ、食事を終えてパソコンを開き、ことの次第を知った。夕方7時をすぎている。メールは、以下のような書き出しから始まっていた。
「金輪御造営差図」の(現在公開されている写図の)「原本」が、この度、
公開されることになりましたので、取り急ぎ情報提供させていただきます。
受信メールの転載は「厳禁」状態にある。が、すでに新聞報道がなされているので、その枠を超えない範囲で要点を述べておこう。
平安~鎌倉時代の出雲大社本殿の平面を描く可能性のある「金輪御造営差図」は近世のものと思われる写図がこれまで公開されていたが、遷宮ならびに東北歴史博物館特別展「東日本大震災復興祈念特別展 神々への祈り」の開催にあわせて、「原本」が公開されることになった。その記者発表が突然10日午前におこなわれ、地元の研究者らも右往左往している。
県からのメールに驚きはしたが、授業準備にかまけて放置しておいたところに山陰中央新報紙から携帯に電話があり、取材を受けることになった。そこでまたパソコンの画面を開き、何がなんだか分からないまま、質問に答えた次第である。正直なところ、「これからしっかり研究するしかない」と述べるにとどまった。そのときの発言が昨日の1面に掲載されている(↓)。

↑
山陰中央新報 20121年4月11日(1)面 クリックすると拡大します(左=上、右=下)
[金輪御造営差図の原図]の続きを読む
- 2012/04/12(木) 23:35:03|
- 建築|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
公立鳥取環境大学の名刺を大学から頂戴しましたよ。授業も動きだしました。10日(火)、「環境学フィールド演習」のオリエンテーションがあり、居住環境プログラムの担当分3コマを説明しました。そうか、居住環境プログラムと言っても、何のことやら分からないでしょうね。環境学部環境学科は自然環境保全プログラム、環境マネジメント・プログラム、循環型社会形成プログラム、居住環境プログラムに分かれています。ここにいうプログラムは「コース」や「領域」などの組織とは違います。文字通り、履修のプログラムを示すものであり、学生はプログラムに所属するわけではありません。学生は一つのプログラムに限定した授業等の履修をすることもできますし、複数のプログラムに跨る横断的な履修をすることも可能です。
居住環境プログラムは、以下のようなスケジュールで「環境学フィールド演習」を実施します。
1.活動日時 6月19日、6月26日、7月3日(火)4~6限に実施。
2.班編成と活動内容 3班に分かれるローテーションするが、1班は天候にあわせてA・Bのどちらかを選択する。どちらを行うかは掲示板やメールで告知する。
1班A(晴天の場合): 摩尼山の遺跡と文化的景観自然とヒトとの融合作品としての「文化的景観」を因幡随一の霊山「摩尼山」の散策により学ぶ。[担当 浅川]
【行程】大学→(バス)→摩尼寺門前(茶屋と椎茸原木栽培)→(以下トレッキング)
→摩尼寺「奥の院」遺跡{余裕があれば清掃ボランティア}→摩尼山頂・立岩
{山陰海岸・砂丘・湖山池・大山などを眺望}→摩尼寺本堂→仁王門→門前→
(バス)→大学
1班B(雨天の場合): 尾崎家住宅と倉吉の町家・町並み鳥取県東部を代表する古民家「尾崎家住宅」(庭が国指定名勝、建造物は県指定文化財)と倉吉の打吹玉川重要伝統的建造物群を訪ねる。[担当 浅川・中治]
【行程】大学→(バス)→尾崎家住宅→打吹玉川重伝建地区(玉川周辺→
本町通商店街→淀屋→谷口ジローの漫画『遙かな町へ』に描かれた風景探索
→河原町周辺→(三仏寺投入堂遙拝?)→大学
2班: 智頭宿の町並みとIターン(田舎暮らし)促進活動 歴史的景観の保全が進む智頭宿で石谷家住宅(重要文化財)と上町・下町の町並みを見学後、集落ごとNPO法人化して活動する西谷新田の村おこしを視察する。[担当 遠藤・中治]
【行程】大学→(以下バス)→石谷家住宅と上町・下町の町並み散策→西谷新田
地区(パン工房アイ、清流の里、茅葺民家集落と石積棚田)→
那岐の廃校カフェ「ポスト」?→大学
3班: 若桜鉄道と八頭・若桜の地域おこし 若桜鉄道に伴う八頭町と若桜町の地域おこしを視察する。[担当 チョン]
【行程】大学→(バス)→きらめきプラザ八頭(案山子など八頭町の活動)
→郡家駅16:50発→(若桜鉄道)→若桜駅17:20着→駅舎と鉄道関係
近代化遺産→蔵通り・寺通り・カリヤと清流の町並み→
(不動院岩屋堂遙拝?)→大学
[環境学フィールド演習(居住環境プログラム)]の続きを読む
- 2012/04/11(水) 23:31:55|
- 環境|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
インドから買ってきた上級の紅茶葉はみるみる少なくなっていくが、茶葉がなくなったわけではない。ムンバイのスーパーで仕入れた庶民向けの茶葉はまだ山のようにある。そして、マサラも2箱ある。
マサラとは何か。ガラムマサラのことであります。では、ガラムマサラとは何か。シナモン、クローブ、ナツメグ、カルダモン、胡椒、クミン、ベイリーフなどの香辛料を磨って調合したミックススパイスです。「ガラム」とは「熱い」という意味。だから、ガラムマサラとは「熱い香辛料」ということでしょうね。インドでは1日5回ほどマサラチャイを飲んでました。
ここでマサラ・チャイのレシピをお教えしましょうか。
1)まず鍋の底に少しだけ水を貼って、茶葉を放り込み、そのままぐつぐつ煮る。茶葉は多めにして、濃いぃ濃いぃ茶を煮出します。
2)適当な、いい加減なところで、牛乳をどばっと注ぐ。まぁ、少なくとも、1リットルパックの半分以上は奉納しましょう。贅を尽くさねばね。ホットミルクのなかで、紅茶のエキスを抽出しているぐらいの感じがいい。それをとろとろ煮込む。とろ火でゆっくり煮込み、ふつふつと緩~く沸騰させ続け、茶葉のエキスが牛乳に出尽くしてしまうぐらいにする。
3)ここにインド人は、砂糖を大量に放り込みます。あんなにたくさん入れるのは熱帯の茶摘み労働などで失われた水分と栄養分を補給するためです。まともな肉体労働をしない日本人には甘すぎる。小さじ1杯で十分でしょう。まったくのノンシュガーより、ほんの少しだけ砂糖を混ぜるほうが、味に丸みがでます。
4)そして、最後にガラムマサラを適量ふりかける。これで、完璧なマサラ・チャイの出来上がり。
5)暖めたミルクポットの口に茶濾しを嵌めて、鍋のチャイを茶葉を濾しながらポットに移しましょう。あとはポットからカップに注ぐだけ。
香辛料と言えばハーブですが、この週末、ついにハーブの苗を仕入れましたよ。ミント2種、レモンバウム、バジル3苗、フェンネル(茴香)2苗、パセリ、イタリアンパセリの11株を鉢に植えました。
今年の「茴香」シリーズもお楽しみに!
最近、このアルバム(Take 10)ばかり聴いてます。ポール・デズモンドのアルトもクールですが、ジム・ホールのギターがすごい。ほぼ同時に「スモーキン@ハーフノート(ウェス&ケリー)」も届いたんですが、ウェスのギターはちと耳障りなんだ・・・デズモンドやマリガンやアート・ファーマーのバックを務めるホールは神がかってる。この世のものとは思えません。
- 2012/04/10(火) 23:45:30|
- 食文化|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0

パン工房アイのカフェには「
田舎暮らし」に係わる冊子やチラシがたくさんおいてあった。とくに『智頭町移住マニュアル』というパンフに神経集中。IターンやJターンを呼び込もうとするための広報誌であり、これまでの実績が網羅されている。アイのご主人もでているし、板井原「野土香」の店主さんも笑顔で登場している。そして、さらに驚いたのは、「野土香」が「野土花」であった時代の初代店主さんが那岐で廃校を改修した喫茶「ポスト」を運営されていることを知った(↓左・中)。西谷の車道を道なりに進めば那岐に至る。そのままひやかしに行こうかとも思ったが、次回の楽しみにとっておくことにした。カフェの壁はジャズ・ミュージシャンのコンサートチラシで埋め尽くされている。過去のものが多かったが、唯一カウント・ベイシー楽団の津山コンサートだけは今年の8月3日(金)開催のものだった(↓右)。流石、国際音楽祭のまち、津山だね。西谷から津山は1本道でつながっている。那岐から津山に足をのばすのもわるくないだろう。


アイの対面に奥神社の境内がある。新田の神様だね。それほど古い建物ではない。幕末~明治ころの本殿・拝殿だろう。奥神社から車にのって元きた道を下り始める。車窓にはいきなり棚田と民家が映り(↓↓)、右手にログハウス3棟がみえた(↑)。その下には、「文楽と体験農園 喫茶 清流の里 新田」という大きな看板を庇屋根に立てた木造平屋建の施設もある(↓)。周辺の棚田と茅葺き民家集落も見事だ。鉄板で覆われていない茅露出の民家を含んでいる(いちばん上の写真)。
ここは何なんだ。いったい何者だ。そういう驚きを禁じ得ず、帰宅後ネットで調べてみたところ、以下のサイトを発見した。
全国初の「集落まるごとNPO法人化」のむら
鳥取県智頭町 新田地区
http://www2u.biglobe.ne.jp/~SHINDEN/index.htm
↑清流の里 ↓車窓からみた民家と棚田
[新田まるごとNPO]の続きを読む
- 2012/04/09(月) 23:15:49|
- 景観|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
パン工房 アイ 智頭町西谷にパン屋さんがあって、そこの食パンがものすごく美味しいのよ、と教えていただいたのは、昨年の晩秋だったであろうか。アイという名のパン工房で、経営者は神戸からのIターンだというから、触覚がびくびく動いた。
大雪の冬があけて、ようやく西谷を訪れようとした日、
津野ではまた雪が降った。高速(鳥取道)にのらないまま国道53号を南下するのは、いったいいつ以来のことだろう。懐かしい風景の連続に心は躍ったが、あきらかに車量は少なくなっている。活力の衰微を感じないといえば嘘になるだろう。智頭の桜土手に提灯は吊されているけれども、まだ花は開いていない。山肌を彩っているのは梅と三椏である。春はまだ遠かった。
志戸坂峠の入口にあたる山郷あたりで右に折れる道があり、道路標識はその先に「西谷」があることを告げている。鳥取道開通以前、その標識をなんどみたか分からない。しかし、西谷の谷筋に踏み入ることはなかった。アイという名のパン工房があり、そのパン屋さんの主が神戸からのIターンで、しかも、ジャズ・カフェを併設しているという情報を得ていなければ、ぼくの人生に西谷との接触は生まれなかったかもしれない。

南行する国道53号から右に折れて西谷に向かうと、それまでとは違う空気を感じた。風景に差があるだけでなく、過疎の山間地であるにも拘わらず、なにがしらのパワーが運転席に押し寄せてくるような気がした。まもなく石垣を伴う棚田が車道の左右にひろがり始める。「伝えたいふるさと鳥取の景観」百景(2000年)に「新田の石積み畦畔」が選定されていることを後で知った。
新田は西谷の字名である。わたしの故郷の河原町にも新田がある。西郷地区のいちばん奥地にあり、そこから中学校に通う同級生がいて、苗字を覚えていないけれども、みんなから「新田」という愛称で呼ばれていた。新田は谷筋の最も奥地にあり、その生徒は毎朝4時に起きて、中学校に通うのだと聞いた。奥地にあるから歴史が古いわけではない。新田とは「新たな開墾地」を意味する。周辺の農村より歴史は浅いのである。西谷新田には「新田開拓三百二十周年記念碑」が立っている。参勤交替路であった上方往来沿いの街道集落をのぞく大半の集落は中世起源の農村だが、新田の成立は正保年間(1645年頃)という。
[サテンドール(ⅩⅠ)]の続きを読む
- 2012/04/08(日) 23:15:26|
- 食文化|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0

ぼくは河原町の出身なので、牛ノ戸焼の名はよく知っている。窯元がどこにあるのかも分かっているし、なにを隠そう、ぼくと窯元のお嬢さんは中学校の同級生だった。美人でしたよ。
ただ、窯元を訪ねるのは初めてのことだ。同級生の彼女がいたらどうしようか、なんて、少しだけ考えたりした。
牛ノ戸は久能寺ほどの古い歴史をもたない。天保8年(1837)、石見国江津の小林梅五郎によって開窯した。初代梅五郎から2代熊三郎、3代秀之助までは主として日用陶器(水壺、徳利、すり鉢等)を製作していたが、次第に衰微し、4代秀晴になって窯の維持も困難になった。昭和6年(1931)、柳宗悦、バーナード・リーチ、河井寛次郎、濱田庄司、吉田璋也らの激励と指導を受け、4代と5代栄一が新作民芸に取り組むようになり、現在の6代に至る。ちなみに、六代孝男さんは、同級生の姉婿とのことである。

吉田と柳が指導した緑釉と黒釉を半々に塗る作品が牛ノ戸の代名詞になっている。わたしは、どうもこの、半割色分けの器を好きになれない。なにか、一つのモノが引き裂かれたように感じるし、自分の日常の食器として使う場合、落ち着きを得ることができないような気がする。だから、いつものように、素朴で単純なデザインの器を選ぶことにした。ここでの狙いは「茶漬け」と「紅茶」である。
「美味しい茶漬けを食べる器」はすでに皿山で仕入れている。少し大きめの飯碗と壺だ。壺には、梅干しや奈良漬け、佃煮を入れる。蓋付きの壺に納めると、それらの食材はとても引き立ってみえる。大きめのお椀に飯を控えめに盛り、壺から梅干しや昆布を取り出して飯にのせ、急須から熱い茶を注ぐ。これでなにも言うことはない。これらの器は奈良に置いている。鳥取にも欲しいと思ったのだ。飯とみそ汁さえ作っておけば、壺になにかありさえすれば、それで十分食膳が完成する。これでよい、と思うのである。壺は3000円ぐらいしたが、緑色の渋い器をみつけた。飯碗はキズ物(↓)のなかから、比較的出来のよいものを拾い出し、安くしてもらった。
[牛ノ戸焼]の続きを読む
- 2012/04/07(土) 23:08:35|
- 民芸|
-
トラックバック:1|
-
コメント:0

2日は快晴で、よく動いた。皿山ですっかり陶芸の魅力にとりつかれたぼくたちは、地元の窯元をめぐりたいという欲望にかられていた。
灯台もと暗し。郡家の因久山焼の窯元は、大学から車で10分ばかりのところにある。八頭高に近い。かつては田園中にあったようにも思うのだが、いまは周辺が市街地化しており、老婆心ながら、登り窯に火を点けると、消防局が大騒ぎになるのではないか・・・なんて余計なお世話だわね。
登り窯から販売場にのぼっていく緩い石段に丸い陶器が埋め込まれている。それは、サヤをひっくり返したものだという。陶芸ど素人のぼくは、そのときはじめて「サヤ」という存在を知った。サヤとは焼成時に窯内で器物を保護するための粘土製容器のことである。丸と四角の両方があり、主屋の軒下や窯の屋根の下に積み上げてある。これがしばしば割れてしまうのだが、それを捨てるともったいないので、階段のぺイブに再利用しているのだ。風情がある。

年2回窯出しがあるとのことで、販売場にはたくさんの器が展示してあった。歴史をさかのぼると、貞享5年(元禄元年)の『因幡民談記』に「久能寺焼」の記載があり、明和元年(1764)に「因久山焼」に改名。その後まもなく鳥取藩御用達の窯元になった。旧郡家町の久能寺は古墳が多い地域として知られており、古代には八上郡土師郷と称し、「唐津場」という字名を残している。そもそも郡家(こうげ)とは古代の郡役所を意味し、そういう役所のバックグラウンドとなる窯場が古くからあったということであろう。その歴史が江戸時代の藩御用達となって華開いたのであり、老舗としてのブランド力を反映しているからか、値段が高い。値段が高いこともあり、クレジットカードが使用できる。鳥取という地域は不思議なところで、今でも、カードの使えるレストランが非常に少ない。だから、カードを使えること自体に驚いた。しかし、カードがないと、器を買いあさるのは難しいだろう。

↑軒下のサヤ。 ↓窯の中のサヤ。
[因久山焼]の続きを読む
- 2012/04/06(金) 23:23:13|
- 民芸|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0

2日と4日、摩尼寺を訪問した。門脇茶屋喫茶部のご夫妻が椎茸の原木栽培をしており、ちょっとした打ち合わせをしたかったのである。ごらんのとおり、楢の原木を長さ1m前後に伐って縦に並べかけ、穴をあけて菌を植え付ければ、1~2年で椎茸が大きく成長する。原木の伐採は10月以降がよく、しばらく乾燥させ、積雪の消えた3月に菌を植えつけるのだという。
昨年末に冬(どんこ)をいただき、その肉厚と旨みに唸った。2日、またしても、たくさんいただいた。その日の夕食は、次頁に示したとおり、椎茸を焼いて、生姜醤油をかけるだけ。猛烈に美味い。昨日紹介したコノスル(
チリのシャルドネ)とよくあう。

4日の入学式後、一人の青年が訪ねてきた。4期生で、環境政策学科卒業のO君。そうだな、愛称はハルキとでもしておこうか。チャックの親友で、ウクレレの弾き方を教えた記憶がある。ハルキ君によれば、「友達のいないチャックの唯一無二の親友」だそうである。かれは養蜂家(bee keeper)をめざしている。2年間千葉で修行し、このたび1年間、鳥取市国府町の農家で修行を積むことになった。
わたしはハルキ君に摩尼山のことを話した。ナオキというリーダーを失って困っているという事情も説明した。バイト代も奮発すると話した。バイト代の時給を聞いて、ハルキ君の瞳孔は大きくひろがった。どうやら貧乏しているらしい。
[椎茸栽培プロジェクト(Ⅰ)]の続きを読む
- 2012/04/05(木) 23:20:06|
- 生物|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
2日の辞令交付後、「たかや」で蕎麦をたくり、因久山焼の窯元を訪れ、摩尼寺門前で椎茸栽培の打ち合わせをして、ダウラで一休み。それからどういうわけか、ぼくたちはピオをめざした。自転車を買い換えたい衝動にかられたのである。
ピオでビアンキの中古車を購入したのは、タクオが4年生のときだったはずで、ぼくはまだ47歳だった。LABLOGの愛読者はよくご存じのとおり、田園町から大学の通学によく使った。寺町時代は軒下に置くしかなく、雨に晒され、辛い想いをさせたが、週に1回はビアンキで通っていた。大覚寺に引っ越してから、自転車通学したことは一度もない。弥生町との往復で何度か乗ったが、なにぶんこの冬の雪と雨には為す術もない。我がビアンキはすでにガタがきており、何度もパンクを経験し、車輪を緑から黒に変えた。タイヤの空気がよく抜ける。おまけに、機械音痴のぼくは、フランス製ポンプ(空気入)の扱いに未だ苦しんでいる。
とにもかくにも、この雨と雪である。鳥取では雪が降り積もり、奈良では雨が多かった。スロージョギングの回数は著しく少なくなり、冬に走ったのは2回だけ。春休みには4回走ったが、ご覧のとおり(↓)、また肥満に苦しんでいる。自転車に乗りたいんですよ。
ピオでの品定めには時間がかかった。ロードバイクは高すぎて手がでない。クロスバイクを推薦され、カナダのルイガノの新作(↑後)で落ち着こうとしていた。ルイガノには、たしかに憧れがある。3×9=27段変則で、落ち着いたカラシ色のボディ。値段は6万円弱。しかし、なんど考えても、ぼくの通学に27段変則が必要だとは思えないし、カラシは渋くて良い色だけど、全体のデザインが55歳の乗り手に対して若々しすぎる。それに、あまりにカッコよくて、購入直後の盗難も懸念された。
[さよなら、ビアンキ]の続きを読む
- 2012/04/04(水) 23:27:51|
- スポーツ|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
耕して天に至る 店をでて栢森の集落を歩く。清々しい。建造物(群)の質も高い。ただ、答申書にいうほど「大和棟」の民家は多くない。むしろ入母屋造茅葺屋根にトタンを被せた民家か、塗家造の厚い外壁に太い台格子の窓をはめこんだ豪壮な町家風の邸宅や長屋門が目をひく。栢森の売りは「アライバ」である。飛鳥川が畑谷川、寺谷川、行者の川に枝分かれする分岐点に栢森は位置している。甌穴の連続する寺谷川の清流が集落を貫き、その渓流に下りていく石段がたしかに残っている(Ⅰの写真を参照)。
渓流の源流域に目をやると、山上に入谷(にゅうだに↑)の集落がみえる。「天に届く村」のようだ。671年、大海人皇子(おおあまのみこ=後の天武天皇)は、兄の天智天皇から皇位譲位の打診をうけるも陰謀を察知し、近江大津宮から飛鳥嶋宮を経て吉野に身を隠す。栢森から寺谷川沿いを遡上し、芋峠を抜けて吉野にでた可能性が高いという。入谷は芋峠の谷筋とはすこしずれた山間部にあるけれども、大海人皇子と深く関連づけられており、海女(あま)族の隠れ里という伝承がある。その一方で、入谷の「入(にゅう)」は水銀(丹生)のことで、かつて水銀採取がおこなわれていたとも伝わる。わたしは、稲渕の棚田にあった稲藁積(ニウ↓)をみて、「入(にゅう)」を藁積ではないかと思った。とても水田が作れないような高地に棚田があり、秋の収穫期になると、ニウが階段状に群れをなし天に向かう・・・所詮、想像でしかないけれども。

入谷は「集村」ではない。かといって、「散居村」というほどでもない。人文地理学には「疎塊村」という概念があったように記憶しているが、それが集村と散居村の中間的定義だとすれば、入谷は山上の疎塊村というべき集落であろう。入谷を歩きながら、家内の故郷を思い起こした。入谷は佐治谷の
津野、津無、あるいは河原町の神馬を想わせる。津野・津無は集村だが、神馬は疎塊村だ。入谷と津野ではどちらが山奥か、というような議論になった。似たようなものだと思うのだが、たしかに車の便は津野のほうが少しよいかもしれない。
[奥飛鳥の文化的景観(Ⅱ)]の続きを読む
- 2012/04/03(火) 23:08:35|
- 景観|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
明日香はちがう 「奥飛鳥の文化的景観」に触覚が動いたのは3月中旬のことである。当然のことながら、ネットで資料を漁る。重要文化的景観選定(2011年9月)の答申文書には大概以下のようなことが書いてある。
--
奥飛鳥地域の記録は皇極天皇元年(642)に遡り、中世末には入谷・栢森・稲渕・畑の四大字が飛鳥川上流域のムラとして成立した。万葉植物の植生が卓越し、豊かな生態系が育まれている。河岸段丘面上や山裾に展開する小規模な集落は斜面地に平場を造成するために石積みを伴う。集落の中には「大和棟」の民家が点在しており、石積みと併せて独特の集落景観を形成している。稲渕では広大な範囲に棚田がひろがる(↑)。棚田には15世紀に遡る井手によって水が供給されており、管理されている。飛鳥川に降りる石段を設えたアライバ(↓)が現在も機能しており,また盆迎え・盆送りが飛鳥川を通じて行われるなど、飛鳥川と強く結びついた生活が営まれている。奥飛鳥の文化的景観は飛鳥川上流域の地形に即して営まれてきた居住の在り方と農業中心の生業の在り方を示す価値の高い文化的景観である。
--

こうしたネット情報を彷徨しているうちに、「
奥明日香さらら」というサイトに出会った。明日香村栢森(かやのもり)に所在する古民家改修レストランの公式HPである。HPのなかの「奥明日香さららのあゆみ」という項を読むと、以下のような沿革が示してある。

平成14年8月: 「神奈備の郷活性化推進委員会」発足。同時に女性を中心とした「特産品研究開発部会」の活動がスタート。
平成15年春: 地元で採れた野菜や山菜を中心とした食材で「作り手の見える食事提供」をコンセプトに、休耕地や空き民家を活用して「さらら膳」の提供を開始。(年に数回イベント開催~平成19年まで続く)
平成20年春: 栢森に「奥明日香さらら」を開店。現在も村おこしの拠点となる。
ぜひともお話を伺いたいという気持ちが強くなり、さっそくメールを送信して訪問日時の調整に入った。わたしは所属機関名こそ打ち明けなかったが、「建築史」と「文化的景観」の研究者であることを告白し、報告書2冊を持参することをお伝えした。「奥飛鳥の文化的景観」選定をむらおこしの一助とされようとしているのならば、わたしたちが鳥取で作りあげた文化的景観の報告書が役立つこともあるだろうと思ったからである。
3月末、雨や通夜や歯の治療にスケジュールを分断されながらも、なんとか時間を確保して栢森の「さらら」に辿り着いた。昼食は予約している。さらら膳(2000円/要予約)と黒豆うどんランチ(800円)。席についてまもなく報告書を給仕の方にお渡しした。
[奥飛鳥の文化的景観(Ⅰ)]の続きを読む
- 2012/04/02(月) 23:53:01|
- 景観|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
インド出張の直前、『税』という雑誌が届いた。わたしの専門領域とはあまりにかけ離れた媒体であるが、付箋のついた頁をめくると、「特別学術論文」として、以下の論考が掲載されている。雑誌の性格上、まったく異色の、孤高の論文のようにみえる。
田中章介「魏志倭人伝『収租賦有邸閣』の解釈」
『税』67巻3号:p.156-180、2012年3月
田中先生は本学の開学に携わった環境政策学科教授で、専門は「税制」であり、歴史学者ではない。同僚であった時間は短かったが、いくつかの大学で教鞭をとるかたわら、公認会計士事務所を経営されている。そんな先生が、魏志倭人伝の「収租賦有邸閣」の六字に注目されたのは、日本における税制の起源をさぐるためである。2010年の夏、そのお気持ちを伝えられ、いちどお目にかかって意見を交換し、その
翌日、発掘調査中の摩尼寺「奥の院」遺跡をご案内した。先生はなお健脚で、真夏の摩尼山を奥の院から立岩まで登り切り、本堂まで下りていかれた。
あれから1年半が経ち、発掘報告書の刊行とほぼ同時に上の論文が発表された。税制の起源に係わる日本古代史の稀有な論考の完成をお祝い申し上げます。
さて、論旨である。一言でいうならば、これまで「租賦を収むに邸閣あり」と訓読されることの多かった「収租賦有邸閣」の六字は、「租賦を収む。邸閣あり。」と読むべきだというのが要点の第一。わたしは「租賦を収むに邸閣あり」という通説に従ってきたが、漢文の原典代わりに使ってきた中華書局版『三国志』は、たしかに「収租賦。有邸閣。国国有市、交易有無、使大倭監之」という句読点を打ち、福永光司、小南一郎、石原道博らも「収租賦」と「有邸閣」を独立した二文として扱っている。その理由は「租賦」が「租」と「賦」という異なる税を一括する言葉であるからだ。この場合の「租」は穀物などの上納税であるのに対して、「賦」は兵役や労役を包含する人頭税とみなしうる。そして、穀物は邸閣(倉庫)に納められるが、人頭税は納められないので、「租賦を収むに邸閣あり」とは言えないという見解である。
なるほど。そう言われれば、その通りだ。わたしはこれまで「邸閣」を「大倉庫」と訳してきた。「邸閣」は東夷伝の十ヵ所において「軍用倉庫」の意で用いられているが、ひとり倭人伝のみ用法が異なり、古代史研究者の多くは「倉庫」と訳し、わたしは高句麗伝にみえる家々の小倉「桴京」と対比すべき共同体の「大倉庫」とみなしていた。かりに倭人伝の「邸閣」をも「軍用倉庫」と解すべきだとしても、字義的には「邸」にも「閣」にも軍事と係わる要素はなく、あくまで「大倉庫」が原意であり、それが状況に応じて「軍用倉庫」になったり、「税倉」になったりする、と考えており、田中先生も拙論に賛意を示されている。
しかし、いまこうして田中先生の御論文に接し、自分の考えが間違っているのではないか、と思うに至っている。田中先生が租・賦の二字の意味の違いにこだわられたように、わたしも倭人伝にみえる建築表現として、「宮室」の宮と室、「楼観」の楼と観の微妙な違いを抉りだして自らの解釈を示した。しかし、「邸閣」に限っていうならば、日野開三郎の旧説に盲従するばかりで、邸・閣の二文字の意味差を軽視し、ただ「大きな倉庫」と理解するにとどまった。いま手元にある字書を使って殴り書きしておく。ブログは学術雑誌ではないので、気楽に書いておこうと思うのである。
[「邸閣」再考]の続きを読む
- 2012/04/01(日) 22:25:38|
- 建築|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0