インド出張の直前、『税』という雑誌が届いた。わたしの専門領域とはあまりにかけ離れた媒体であるが、付箋のついた頁をめくると、「特別学術論文」として、以下の論考が掲載されている。雑誌の性格上、まったく異色の、孤高の論文のようにみえる。
田中章介「魏志倭人伝『収租賦有邸閣』の解釈」
『税』67巻3号:p.156-180、2012年3月
田中先生は本学の開学に携わった環境政策学科教授で、専門は「税制」であり、歴史学者ではない。同僚であった時間は短かったが、いくつかの大学で教鞭をとるかたわら、公認会計士事務所を経営されている。そんな先生が、魏志倭人伝の「収租賦有邸閣」の六字に注目されたのは、日本における税制の起源をさぐるためである。2010年の夏、そのお気持ちを伝えられ、いちどお目にかかって意見を交換し、その
翌日、発掘調査中の摩尼寺「奥の院」遺跡をご案内した。先生はなお健脚で、真夏の摩尼山を奥の院から立岩まで登り切り、本堂まで下りていかれた。
あれから1年半が経ち、発掘報告書の刊行とほぼ同時に上の論文が発表された。税制の起源に係わる日本古代史の稀有な論考の完成をお祝い申し上げます。
さて、論旨である。一言でいうならば、これまで「租賦を収むに邸閣あり」と訓読されることの多かった「収租賦有邸閣」の六字は、「租賦を収む。邸閣あり。」と読むべきだというのが要点の第一。わたしは「租賦を収むに邸閣あり」という通説に従ってきたが、漢文の原典代わりに使ってきた中華書局版『三国志』は、たしかに「収租賦。有邸閣。国国有市、交易有無、使大倭監之」という句読点を打ち、福永光司、小南一郎、石原道博らも「収租賦」と「有邸閣」を独立した二文として扱っている。その理由は「租賦」が「租」と「賦」という異なる税を一括する言葉であるからだ。この場合の「租」は穀物などの上納税であるのに対して、「賦」は兵役や労役を包含する人頭税とみなしうる。そして、穀物は邸閣(倉庫)に納められるが、人頭税は納められないので、「租賦を収むに邸閣あり」とは言えないという見解である。
なるほど。そう言われれば、その通りだ。わたしはこれまで「邸閣」を「大倉庫」と訳してきた。「邸閣」は東夷伝の十ヵ所において「軍用倉庫」の意で用いられているが、ひとり倭人伝のみ用法が異なり、古代史研究者の多くは「倉庫」と訳し、わたしは高句麗伝にみえる家々の小倉「桴京」と対比すべき共同体の「大倉庫」とみなしていた。かりに倭人伝の「邸閣」をも「軍用倉庫」と解すべきだとしても、字義的には「邸」にも「閣」にも軍事と係わる要素はなく、あくまで「大倉庫」が原意であり、それが状況に応じて「軍用倉庫」になったり、「税倉」になったりする、と考えており、田中先生も拙論に賛意を示されている。
しかし、いまこうして田中先生の御論文に接し、自分の考えが間違っているのではないか、と思うに至っている。田中先生が租・賦の二字の意味の違いにこだわられたように、わたしも倭人伝にみえる建築表現として、「宮室」の宮と室、「楼観」の楼と観の微妙な違いを抉りだして自らの解釈を示した。しかし、「邸閣」に限っていうならば、日野開三郎の旧説に盲従するばかりで、邸・閣の二文字の意味差を軽視し、ただ「大きな倉庫」と理解するにとどまった。いま手元にある字書を使って殴り書きしておく。ブログは学術雑誌ではないので、気楽に書いておこうと思うのである。
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- 2012/04/01(日) 22:25:38|
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