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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

奥飛鳥の文化的景観(Ⅱ)

2012入谷02


耕して天に至る

 店をでて栢森の集落を歩く。清々しい。建造物(群)の質も高い。ただ、答申書にいうほど「大和棟」の民家は多くない。むしろ入母屋造茅葺屋根にトタンを被せた民家か、塗家造の厚い外壁に太い台格子の窓をはめこんだ豪壮な町家風の邸宅や長屋門が目をひく。栢森の売りは「アライバ」である。飛鳥川が畑谷川、寺谷川、行者の川に枝分かれする分岐点に栢森は位置している。甌穴の連続する寺谷川の清流が集落を貫き、その渓流に下りていく石段がたしかに残っている(Ⅰの写真を参照)。
 渓流の源流域に目をやると、山上に入谷(にゅうだに↑)の集落がみえる。「天に届く村」のようだ。671年、大海人皇子(おおあまのみこ=後の天武天皇)は、兄の天智天皇から皇位譲位の打診をうけるも陰謀を察知し、近江大津宮から飛鳥嶋宮を経て吉野に身を隠す。栢森から寺谷川沿いを遡上し、芋峠を抜けて吉野にでた可能性が高いという。入谷は芋峠の谷筋とはすこしずれた山間部にあるけれども、大海人皇子と深く関連づけられており、海女(あま)族の隠れ里という伝承がある。その一方で、入谷の「入(にゅう)」は水銀(丹生)のことで、かつて水銀採取がおこなわれていたとも伝わる。わたしは、稲渕の棚田にあった稲藁積(ニウ↓)をみて、「入(にゅう)」を藁積ではないかと思った。とても水田が作れないような高地に棚田があり、秋の収穫期になると、ニウが階段状に群れをなし天に向かう・・・所詮、想像でしかないけれども。

2012入谷04ニウ


 入谷は「集村」ではない。かといって、「散居村」というほどでもない。人文地理学には「疎塊村」という概念があったように記憶しているが、それが集村と散居村の中間的定義だとすれば、入谷は山上の疎塊村というべき集落であろう。入谷を歩きながら、家内の故郷を思い起こした。入谷は佐治谷の津野、津無、あるいは河原町の神馬を想わせる。津野・津無は集村だが、神馬は疎塊村だ。入谷と津野ではどちらが山奥か、というような議論になった。似たようなものだと思うのだが、たしかに車の便は津野のほうが少しよいかもしれない。


2012入谷01

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  1. 2012/04/03(火) 23:08:35|
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