長年のご愛顧、ありがとうございました 突然のお知らせですが、本日をもって、このサイトを終了します。原則として、今後、記事の更新はありません(何かの例外でこちらにアップすることもないとはいえませんが)。2005年の4月に始まったLABLOGは、まる7年の歳月を経て、画像容量がリミットに近づいております。どこかで転居せざるをえない状況に追い込まれておりました。
この7年間に書いたブログ記事の総数は2955本に及びます(一部削除しています)。総アクセス数は不明ですが、日々のアクセスから推算するに100万アクセスは超えているはずです。また、「拍手」の総数は10223に達しております。当初は記事の総計3000本での転居が踏ん切り良いだろうと計画していたのですが、なにぶん容量は限界に達しており、猶予はありません。この問題を解決すべく、昨年末より2期生のホカノ君と11期生の匠くんが新しいサイトの立ち上げに尽力しておりました。
そのサイトは、
LABLOG 2G と二人が独断で命名し、4月初旬に仮オープンしたのですが・・・・レイアウト等のデザインが気にくわない。教師が納得できないわけです。いろいろ注文をつけました。結構ほったらかしの時期もありましたが、催促すると改善してくれました。結果、課題の約70%をクリアできましたので、正式の引っ越しを決意した次第です。
新しいサイトは以下のとおりです。
LABLOG 2G http://asaxlablog.blog.fc2.com/ 明日以降、研究室の活動記録は
LABLOG 2Gに掲載されます。LABLOGを長年ご愛読いただきまして、まことにありがとうございました。
今後はLABLOG 2Gをお引き立ていただきますよう、研究室一同お願い申し上げます。
[転居のお知らせ]の続きを読む
- 2012/05/13(日) 00:00:53|
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ベイシー 陸前高田から仙台に戻るには、一関で東北自動車道に上がり、高速で南下するのが速い。一関と言えば、ベイシーではないか。日本で最も良い音を出すと噂されるジャズ喫茶だ。
もちろん行ったことは、ない。だから、予め104で番号を調べ、店に電話をかけた。店は開いているし、席もあることを確認。やはぎ食堂の駐車場でカーナビにベイシーの電話番号を入力すると、店名と位置が画面に示された。一時間ばかり車を運転した。鄙びた市街地に入り、「目的地周辺です」の音声が発せられたが、こういう場合、たいていGoal表示の位置はアバウトであり、捜し物はみあたらない。うろうろちょろちょろしながら、暗闇のなかに寿司屋を発見。厚かましいとは知りながら、暖簾をくぐり、ベイシーの所在地を訊く。
「ベイシー??・・・開いてるかな?」
と大将は答えながら外に出て、道順を丁寧に教えてくれた。
たしかに近くにある。大きな店だ。「隠れ家」的なジャズ喫茶を期待してはいけない。そこは小さなコンサートホールであった。


いつもぼくは、大型スピーカーを「冷蔵庫のような」と形容するが、ベイシーはちがう。片側のスピーカー(もちろんJBL)だけで冷蔵庫二つ分あるのだ。
それはもう、すごい音がする。たしかに、こんな力のある音を出すジャズ喫茶に入ったことはない。ベイシーではライブもしばしば開催されているようだが、わたしはLPだけで十分だと思った。40~60年代のスィングやバップのLPがターンテーブルにのる。バリバリという雑音をイントロにして、今はなき巨人たちの名演が室内に響きわたる、そのときめきは何にも代え難いでしょ。これ以上、なにを望むというのか・・・

メニューは質実、素朴。コーヒー1000円、缶ビール1200円。値は高いが、おかわり可のおつまみがつく。こういうやり方は、ラウンジ系スナックと同じだ。仕込みの不要な乾き物に飲料だけ。これがいちばん楽なの、と女たちはよく呟いた。昼はカフェ&レストラン、夜はラウンジを経営する姉妹は、儲からない昼の仕事のシンドさを嘆き、ついにその店を閉めてしまった。
夜は楽なんだ。厨房係は要らない。華々しく露出度の高い衣装に身を包み、厚化粧するだけで、男たちが集まってくる。となれば、ベイシーのLP音楽と着飾った女たちの役割はほぼ同じということになるかもしれない。カウント・ベイシー楽団の演奏は美女と同等の価値があると言えば、ベイシーは満面の笑みを浮かべてくれるような気がする。
[サテンドール(ⅩⅡ)]の続きを読む
- 2012/05/12(土) 00:27:54|
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聖なる松 -陸前高田 気仙沼でカーナビの目的地を「陸前高田駅」にあわせた。車は順調に進んでいく。海岸線の桜は満開そのもの。天気も快晴だが、相変わらず、精神状態はバランスを失っている。
県境を越えて岩手県に入り、陸前高田の市街地に近づき、カーナビゲーションは橋を渡るようドライバーを誘導した。ドライバーは指示どおり車を走らせる。
橋は消えていた。通りがかりの宅配車の運転手に道を訊ねた。大回りをして別の橋を渡り、陸前高田駅に辿り着いた。駅舎はどこにもない(↑)。基礎だけが残っている。レールもない。少し離れた位置にある踏切の両側に、わずかながらレールが残っていた(↓)。

噂の「一本松」を探した。一本松へ行く道は、瓦礫撤去の作業道路になっていて、車道からの入口に通行止めの標識がおいてある。しかし、一般車らしき車がその中に入っていった。わたしたちもそれに続く。あたりは瓦礫集積の山、また山。潮騒橋のたもとに数名の業者さんがたむろしていた。わたしたちの行く手を阻むこともない。
「どうぞゆっくりご覧になってください。みなさんがお帰りになったら、
入口を閉めますので」
とおっしゃる。お言葉に甘え、潮騒橋を歩いて渡った。
ご存じのように、すでに一本松は立ち枯れしている。しかし、その姿は見事だ。2000本の松が防風壁を築いていたのだ。その中の1本がこうして堤の上に立ち残っている。合掌するしかない。
わたしたちは、そこで、神聖なものをみた。

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- 2012/05/11(金) 00:00:12|
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大型魚船の二面性 -気仙沼 南三陸町のシンボルが防災対策庁舎なら、気仙沼のそれは船だ。第18共徳丸。全長60メートルの大型漁船が鹿折(ししおり)地区に打ち上げられたまま撤去されていない。気仙沼の船ではなく、福島県いわき市の漁船が停泊し、津波に押し流された。行政はこの船の「保存」を仕掛けているが、地域住民の反発は強いと聞く。しかし、ここにもまた供養の花束をもった参拝者が絶えない。

「本尊」の大黒様(←)は至福の笑みを浮かべている。どういうわけか、右手がない。
漁船のある場所から海はみえない。港まで約800m。800m流される過程で、船は建築物を押し倒していった。その残像がいまも住民の頭にあり、船を保存することに違和感があるのだという。南三陸町の防災対策庁舎も撤去が決まっている。

気仙沼も瓦礫がめくられ、広大な範囲で基礎が露出している。ただ、市街地奥向きのエリアで状況が変わった。古い町並みがかいま見える。町家風の商店が軒を連ねているが、1階はあきらかに津波で削られている。阪神大震災をほうふつとさせる倒壊家屋もみた。1階から切り離された2階が形を残したまま地面に着地しているのだ。阪神大震災の場合、2つのパターンが認められた。一つは1階と2階の接続部分が構造的に断裂し、2階が道路などに吹っ飛ばされる損壊、いま一つは瓦屋根を含む2階の重みに1階が耐えられなくなって2階が1階を押しつぶしてしまう損壊である。気仙沼の場合は後者であり、地震の横力だけでなく、やはり津波の影響が大きいであろう。
疑洋風の商店と土蔵がこのようなパターンで倒れ込んでいた。日本の修復技術をもってすれば、この商店街を元の姿に復旧することは決して難しくはない。修復に加えて、適切な耐震構造補強を施せば、地震に耐える建造物群として生まれ変わるだろう。しかし、それだけは津波を避けられない。商店街全体を高台に移転するしかないということだろう。

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- 2012/05/10(木) 00:02:40|
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ふんばれ、南三陸町 2日。昨日の帰路と同じ道を北上し、南三陸町をめざす。
南三陸町の港湾周辺市街地には、立体的に形を残す住宅はすでにみられない。鉄骨を剥き出しにしたビルの残骸がまばらに形を残し、その一方で、新しいガソリンスタンドや仮設の店舗がぽつぽつ出現している。
あてもなくレンタカーを運転し、魚市場エリアであったと思われる場所に行きあたった。その中の1棟の写真を掲載します(↑)。看板にみとれた(↓左)。その周辺を歩いていると、歩道に津波避難路を指示するペイブ標識を発見(↓右)。しばしば津波がこの街を襲っていた証である。


近くにガソリンスタンドを発見。1回めの給油に立ち寄った。以下は店員との問答。
「あの・・・24歳の女性が津波の警報を発し続けて、津波に呑み込まれた施設
はどちらにあるのですか」
「・・・あぁ、防災対策庁舎ですね。3階建の建物なんですが、あの娘は2階に
いて放送をやめなかった」
「・・・・」
「お腹には子どもがいたんです。防災対策庁舎では30名が亡くなりました」
「・・・・」
「目の前にある志津川病院(↑)でも80人が亡くなったんですよ」
ビルの3階まで津波に襲われたことが爪痕としてたしかに残っている。3階建のビルの場合、屋上に上がるしか助かる可能性がなかったということであろう。
防災対策庁舎(↓)には供養の花束をもった人が列をなす。焼香し、合掌。言葉はない。ワンバックやソロが嗚咽した場所である。

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- 2012/05/09(水) 14:33:18|
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被災地ツーリズムの報道 女川からの帰途、三陸道河北インターに近い北上川沿いのラーメン屋で夕食をとった。そこで読んだ河北新報1面に「被災地ツーリズム拡大」の記事を発見(↓)。観光業界が地域支援への貢献をめざすツアーを組織し、その参加者が増加の一途を辿っているという報道である。千年に一度という災害を五感で体験し、震災の語り部にお話を伺い、復興した仮設店舗などで地場産品を買う。それが被災地の理解と地域支援につながるという発想である。
わたし自身、今回、被災地に入ることで、おくればせながら現場の状況をわずかなりとも知ることができた。被災地に近いガソリンスタンドで給油し、食堂で定食をいただき、店舗でできるだけ土産物を買うよう努めた。帰宅後、息子にその話をすると、息子は真剣な顔つきになり、「おれも行ってこようかな」と口にした。
昨年はこういう気持ちにならなかった。災害のすさまじさを映像でみればみるほど、「自分にはなにもできない」という諦観が増幅し、自分にできることと言えば募金ぐらいしかないと思ったものだ。だからこそ、学生のチャリティ・フットサルに付き合ったのだが・・・・・自分自身、あるいは学生たちが被災地に入ることについては慎重にならざるをえなかった。被災地に入ることで、却って関係者にご迷惑をかける可能性がある。時機を待つしかないと判断し、この1月末まで現地入りを見送っていたのである。
年度も改まり、復興元年の年を迎えた。すでに道路はほぼ整備されており、仮設の店舗や食堂が増えてきたらしい。今こそ被災地に入り、わずかなりとも地域経済の復興に貢献したいと考えた。じつは、建築・環境デザイン学科の特別講義(いわゆる修学旅行)の候補地の一つとして、わたしは東北3県を想定している。予算的には難しいかもしれないが、学生にこの光景をみせておきたい。心のどこかに被災地のことがいつもあるよう生きていって欲しいと願っている。

↑河北新報1面(左)、30面(右)クリックすると画像が拡大します。
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- 2012/05/08(火) 00:15:59|
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猫と桜と鯉のぼり-石巻・女川 仙台、多賀城、塩釜ももちろん被災地である。今はその姿がみえにくくなっているだけのことであり、仮設住宅地や巨大な土嚢袋などが散在している。仙台空港の近辺には石油スタンドが今も復活していない。塩釜から北上し、松島(一月末に
瑞巌寺を視察)を経由して北上していくと、石巻で風景が変わる。港湾に近づくにつれ、倒壊した建物、基礎だけとなった敷地、山のように積み上げられた瓦礫に目を覆うようになる。そんな荒廃した光景のなかで、鯉のぼりの群が目を引いた。橋の両側に水色の鯉が勢いよく泳いでいる。
5月1日。子どもの日は近い。港湾近辺に居住者はいない。子どももいないはずだが、被災地の未来を担う鯉なのかとも思った。まもなくコメントが入り、事実を知った。以下のサイトをご参照いただきたい。
http://www.wadaiko.info/ritsunoyume/oomagarihama.html 青い鯉のぼりは、震災で亡くなったこどもたちへの贈り物である。
石巻の瓦礫は片づき始めているが、まだあちこちに散乱している。言葉にならない。言葉にするよりも、写真をみていただいたほうが早いだろう。他の被災地と異なるのは、建て残った住宅がところどころにみられることだ。陸前高田など、大型のビルを除けば、住宅は跡形もない。だから「良かった、幸運だった」とは決していえない。建て残ったとはいえ、居住施設としては使いものにならないだろう。形あるものも、じつは形がない。


石巻港から女川港にむかう途上山側に指ヶ浜地区仮設住宅があり、、そっと視察させていただいた。そこに猫がいた。津波と地震で多くの人間が亡くなったように、猫や犬も命を失った。漁港・漁村はとりわけ猫の多い地域である。魚に群がる猫が溢れているのだ。仮設住宅でみた猫は災害に耐えて生き残った。おそらく、避難者が猫を抱きかかえて高台にあがっていったのだろう。かりに、わたしが自宅近くで被災したとしても、猫を連れて逃げた。パソコンは諦めても、猫は捨てていけない。一緒に住んでいるもの以外、この気持ちは分からないかもしれない。
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- 2012/05/07(月) 13:29:17|
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多賀城の金輪造営図と鹽竈神社の桜 5月1日、宮城県多賀城市の東北歴史博物館に足を運び、東日本大震災復興祈念特別展「神々への祈り-神の若がえりとこころの再生-」をみた。伊勢神宮、下鴨神社、出雲大社に加え、地元の鹽竈(しおがま)神社の史料等を展示している。最大の目的は、ご存じのように、出雲大社が全国に先駆けて突然出陳した「
金輪御造営差図の原図」を観察することである(大社宝物殿での展示は
タクヲのレポートを参照)。
「金輪御造営差図」原図の展示パネルと図録には以下のような解説があった。抜粋引用しておく。
金輪御造営差図(鎌倉時代) (略)今までは江戸時代に写されたと思われる図(写図)が公開されてきました
が、(略)虫食い跡などの位置・形状がほぼ一致することから、本図はその原本
と考えられます。(略)原本にはない文字記載は、中心の柱「岩根御柱」の下部
の記載と左側枠外にある「国御沙汰(くにのおんさた)」の二ヶ所です。「岩根
御柱」の下部の記載は(略)判読しづらいですが、
長八丈厚三尺五寸□□□(弘四尺カ)二(または三)寸
と見えます。
「国御沙汰」の「国」については出雲国(いずものくに)を指し、この本殿造営
に対する出雲国の関与を示しています。これは天皇の宣旨(せんじ)に基づき
出雲国内に賦課される一国平均役によって、造営費用が賄われていたことを
示しているものと思われます。つまり、この造営事業が中央の許可を得て、
出雲国一国をあげた一大事業であったことを物語っています。
本図の製作年代は、(略)出雲国一国平均役による造営、つまり宝治二年
(1248)まで行われていた造営の時代まで遡るものと考えられます。

「国御沙汰」については、今のところ言及を控えたい。
「岩根御柱」下部【図では上側】の「長八丈厚三尺五寸・・・・寸」は、向かって右側の「桁」字の下部【図では上側】に記す「長八丈厚三尺弘四尺三寸」に非常に近い。わずかに中央筋の「厚」が5寸長いだけであり、ともに桁行方向の土居桁寸法を示すものと思われる。ちなみに、原図では右側「桁」の寸法を縦方向に記すのに対して、写図では横方向に書いている。また、梁行方向中央筋の右外側には「□(長カ)八丈厚三尺七寸□(弘カ)四尺二(または五カ)寸」という同種の記載があり、これも土居桁の寸法とみるべきであろう。
一方、、「宇豆柱-岩根御柱-宇豆柱」筋の上外側に「玖丈」(九丈)の記載がみえる点は写図と同じである。この寸法は棟桁の長さと思われる。側桁については、土居桁と同じ八丈であるため省略したのではないだろうか。
わたしは拙著『出雲大社』(至文堂、2006)および編著『出雲大社の建築考古学』(同成社、2010)において、「金輪御造営差図」に描く出雲大社本殿は境内遺跡で出土した大型本殿よりもひとまわり大きい、という意見を繰り返しのべている。上に示す土居桁や棟桁の寸法は境内遺跡出土の柱材との複合性という点で、あきらかに大きすぎるのである。したがって、「金輪御造営差図」に描かれた大社本殿がほんとうに存在したものであるならば、それは境内遺跡本殿よりも古い時代、要するに平安時代の本殿であった可能性を否定できないと考えている。
ただし、「引橋」だけはいただけない。「引橋長」までの字体と「一町」が違いすぎるし、「一町」の字間が狭すぎる。「一町」あるいは「長一町」は追記のように思われてならない。
博物館を離れ、十数年ぶりに多賀城政庁跡を訪れた(↓)。桜は散り始めだったが、風に揺れ、なお映えてみえる。正殿の階段に腰掛け、ミニストップで仕入れたお弁当をゆっくり味わった。
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- 2012/05/06(日) 23:12:59|
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妻木晩田遺跡を離れてそのまま第21回六弦倶楽部練習会へ。西伯郡伯耆町福兼の「いすず大山コテージ」内にある「山の家」が今回の会場です。 チョトロク代表の別荘(スタジオ)でして、まぁ立派なお宅に驚きました。練習会は1時すぎから始まりました。参加者は6名と少なめで、発表会というよりも、まさに練習会という緩い雰囲気で進んでいきました。残念だったのはビールが飲めなかったこと。みんな車で来てますからね、ノンアルコール・ビールで我慢するしかなかったわけです。
今回わたしは出し物というほどのものを用意しておりませんで、ふだんソファで弾いては配偶者に「五月蠅い」と叱られ、練習を邪魔されている曲目ばかり披露しました。
演奏曲目は以下のとおり。ギターはヘダウェイのエレガットです。
1.卒業 長谷川きよしのシングル2曲めの作品(1971)で、能吉利人の詞が衝撃的。とくにお気に入りの部分は、「鉄砲1本握りしめ、だれかを殺しに風の中。バカな話さ、大人になるなんて」。学生生活を終えて、社会人となる若者の心情をじつにうまく表現している。
前にも述べていますが、わたしはこの曲が大好きでして、じつは、ヒノッキーの卒業にあわせて練習を始めました(が、ついに彼女の前では唱わなかった)。「フォーク大全集」に簡単な譜面が掲載されているのですが、コードは間違いだらけ。ずいぶん修正が必要でした。いくつかの循環コードとそれに伴うアドリブの学習にこれほど役立つ曲はありません。たとえば、出だしはCmaj9-Am7-Em7-A7が2度くり返されて、終わりのほうはDm7-G7-G7♭9-Cmaj9。スケールは3つで足ります。また、代理コードとしてB♭maj7、E♭maj7、A♭maj7などもでてきます。これらのアルペジオを弾いてるだけでジャズっぽく聞こえます。
チョトロク代表以外の参加メンバーは、この曲が長谷川きよしの作品だということを知らなかった。配偶者に至っては、「あの曲はな~んにも感じない」とくる。
ミフさん、このとおりなんですよ・・・どおして来られなかったんですか!?
2.メドレー: You'd be so nice to come home to ~ 伊勢崎町ブルース 青江美奈にはまっていたのは、2010年末から2011年の年初あたりで、『
The Shadow of Love』と『
Passion Mina in N.Y.』という2枚のニューヨーク録音アルバムについてlablogで紹介しています。前者はジャズのスタンダードをオーソドックスに歌い上げた作品であるのに対して、後者は演歌の凄みを残してファンキージャズ風に仕上げた作品。今回は後者に収録された「伊勢崎町ブルース」を強く意識して編曲しました。代理コードを使いまくり、テンションをきかせたコードにウォーキングベースを絡ませ、マイルストーンもどきのリフも採用。前奏には、ヘレン・メリルでお馴染みのYou'd be so nice to come home to をもってきて、間奏部はモードっぽいアドリブパートを8小節挿入していたのですが、アドリブに関しては練習不足でした。出来がよいとは言えませんが、チェアーで眠っていたマコトさんが目を見開いてくださってたので(マコトさんはこういう曲を練習中?だとか)、それなりの衝撃はあったのかもしれません。
最近は譜面などというものはまったくみないのです。弾きたい曲があれば、適当にコードを配列させて弾いていく。そこから徐々にコードを変えていくわけです。どんな代理コードが良く響くのか、どんなテンションが適切なのか・・・などと考えながら適当に弾いている。それがなんとか形になれば人前に出せるレベルにはなる。人の曲ではありますが、このアレンジには私の知的財産がたっぷり染み込んでいる。こんな風にお茶を淹れる場合、「オリジナリ・ティー」と言うんです、だはは・・・
こういうやり方でしばらくギターを弾いていく予定です。

↑大山はいつみても凄い迫力。
[卒業-第21回六弦倶楽部練習会]の続きを読む
- 2012/05/05(土) 23:52:09|
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高床倉庫の比較 年度が改まり、初期整備で労苦をともにした文化財の専門家が妻木晩田事務所に復帰し、所長に就任した。文化財関係者が6年ぶりに遺跡の責任者に返り咲いたのだ。目出度い。これで遺跡も真っ当な方向にむかうであろう。この人事異動がなければ、私がセレモニーに参列することはなかったはずだ。
昨日述べたように、2006年から08年にかけて青谷上寺地遺跡出土建築部材の分析と復元研究に熱中していた。その際、青谷上寺地の部材を使って妻木晩田の大型高床倉庫を2棟復元し、CGで表現している。どうも、このCGが妻木山の復元建物に良くない影響を及ぼした感がある。
妻木山地区の復元建物では、屋根倉の出来が抜きんでてよろしくない。細い柱の上に大きな屋根をのせていて、全体のバランスが崩れているし(↑)、軒の出が長すぎる(↓)。洞ノ原の初期整備で復元した屋根倉(下2枚の写真)と比べれば明々白々。私たちは、青谷上寺地研究で屋根倉のCGを制作していない。だから、なぜこうなったのか、さっぱり理解できない。

一方、大型の板倉(次ページ上の写真)については、私たちの復元CGを意識し、それを表現することで良しと判断されたのかもしれない。これも困ったものである。われわれのCGはいわば見栄えの良いエスキスであり、基本設計図でもなければ、実施設計図でもないからだ。なにより重要な作業は、実施設計図に基づく「原寸検査」であり、ここで実物大レベルでの寸法チェックを目を凝らしておこなう必要がある。初期整備の建物はすべて厳しい原寸検査のプロセスを経ており、そこで、軒の出や床高などを細かく調整している。
妻木山視察後、洞ノ原の初期整備地区を再訪し、ずいぶん気持ちが落ち着いた。何度も述べておくが、洞ノ原の初期整備のほうが遙かに出来がよい。屋根勾配、軒の出、全体のバランス、いずれも秀でている。本来ならば、初期整備建物を叩き台にして、妻木山の整備でより質の高い復元建物を実現しなければならなかった。が、妻木山でレベルは落ちた。レベルが落ちたのは、私が監修しなかったことに一因があろうけれども、昨日も述べたように、なにより「体制」に問題があった。
復元建物は舐められている。竪穴や高床など、だれにでもできる。そう思いこんでいる人物が少なからずいる。だから、こういうことになってしまうのだ。妻木晩田は、弥生集落整備における「聖地」となるはずだった。妻木山43号という全国に比類なき焼失住居跡があり、加えて青谷上寺地7000点の建築部材研究の成果をバックグラウンドにしつつ、実証性の高い復元をめざし続けていれば、縄文集落遺跡整備における御所野に比肩しうる史跡公園になっただろう。御所野が三内丸山の反面教師であったように、妻木晩田は吉野ヶ里に対するクリティークになりえたのだが、現実には平々凡々たる復元建物が軒を連ねる展示場と化した。吉野ヶ里は安堵していることだろう。

↑↓洞ノ原の屋根倉
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- 2012/05/04(金) 23:39:57|
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周堤のみえない竪穴住居群 妻木晩田(むきばんだ)遺跡の整備事業が一段落したというべきか、完全に終わったのか、よく存じ上げないのだが、グランドオープンセレモニーなる催しが28日(日)開催された。県職員の言を拝借するならば、「先生も
いちおう来賓ですから」ということで、出席させていただいた次第である。
昨日、「廃材でつくる茶室」への回帰が4年ぶりであることを述べたばかりだが、どうやら時計は同じサイクルで巻き戻されている。妻木晩田を訪れるのも4年ぶりになるはずだ(5年ぶりかもしれない)。
読者の誤解を招いてはいけないので、ここではっきり書き記しておこう。
私は、新装開店された妻木山地区の復元「建設」に関与していない。しかしながら、復元「事業」に完全に関与しなかった、と言い切れないところに憾みがある。基本設計に先立つ模型制作までつきあった。その作業は最初から大きな困難を抱えていた。妻木山地区の竪穴住居はすべて「草葺きで復元する」という方針が基本計画で固められていたからだ。遺跡整備の基本計画がそうだから草屋根にする、という行政の考えに私は納得できなかった。そんなねじ曲がった前提は、研究者に通用しない。遺構を精査し、復元模型を何度も試行錯誤のうえ制作し検討を重ねることで、上屋構造の形がみえてくる。結果として、構造がみえにくい場合もあるけれども、最初から草屋根だと決めつけるのは科学的な態度とは言えない。

草屋根と土屋根では構造が異なる。前者は勾配が急であり、後者のそれは緩い。前者の場合、垂木は丸太で配列が疎ら、小舞上に茅を縦葺きするだけだが、後者の場合、垂木は板状で密に配し、木舞上の茅はまず横方向に並べ、その上に縦葺きした上で土を被せる。これを竪穴の深さや周堤の幅・高さなどと連動させながら、上部構造を推定していく。土と草でどちらがふさわしいかは模型の納まりで最終的に判断される。
ここで、模型制作のプロセスを回顧すると、平地にたつ竪穴住居は草屋根でも土屋根でも納まった。ところが斜面に立地する竪穴住居は、模型制作を通して論理的に思考を重ねていくと、草葺きでは納まらないことが判明したのである。県側の若い担当者は「背面側だけ土で覆い、正面側は草を露出させてはどうか」という奇っ怪なアイデアを提出したので、「そんな無茶をしたいなら、あなたの署名入りでやりなさい」と指示した記憶がある。29日、その竪穴住居をみると、越屋根以外は土屋根になっていた。至極妥当な復元であり、結果としてみれば、私の意見を受け入れたことになる。ありがたいようで、そうでもない。むず痒いところがある。他のすべての竪穴住居は草葺きになっているからだ。「居住単位」として同時に存在した複数の竪穴住居が1棟だけ土屋根だったとみなす学術的根拠はどこにもない。他の竪穴住居については、土屋根と断定できないのは確かだが、草屋根と断定できる証拠も同時にありはしない。ならば、残りの1棟(斜面にたつ竪穴)をよりどころとして、「居住単位」を構成する竪穴住居すべてを土屋根に復元するしかなかったのではないか。

↑洞ノ原先端の草葺き竪穴住居(明日の記事を参照)。
[むきばん建築クリテイーク(Ⅰ)]の続きを読む
- 2012/05/03(木) 23:33:02|
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感無量です。
いま調べてみたところ、茶室で
最後のバーベQを開催したのは2008年の7月下旬までさかのぼる。プロジェクト研究1&3「魔法の山」の打ち上げであった。そのころ、岡垣・今城・木村・福井(5期生)が4年生で、きっかわ嬢はまだ2年生。タクヲもまだ大学に戻っていない。修士課程のホカノ(2期生)が3年目で、「魔法の山」のメンバーを久松山に連れていって、広葉樹やシダの葉を採集したり、カスミサンショウウオの幼生を捕獲したりした。主人公の少女はシータ、懐かしいプロ研である。
あれからまったくバーベQをしていないわけではない。昨年は「医食同源」プロジェクトでバーベQを2回やった。豪勢極まりないバーベQだったが、あれは会場となったO家の主催であり、開催したというよりも、開催していただいた、という言い方が似合っている。

公立大学の1期生にバーベQを請われて思いつく会場は「廃材でつくる茶室」しかなかった。既報のとおり、ゼミ時間を利用して2度応急的な茶室の手当(修理・修復というほどのものではない)をして、27日(金)の夕刻に臨んだ。
ごらんのとおりの賑わいである。 わたしが現場に辿り着いたとき、すでにして、2台の焜炉のまわりに学生が溢れていた。知らない女子大生がいっぱいいる。チューター学生の友だち、あるいは友だちの友だちが続々やってきたらしい。総勢30名近い学生や教師が茶室まわりではしゃぎ続けた。肉が足るはずもなく、リーダーに1万円札を追加でわたした。リーダーはものすごい量の焼きそばの材料を買って帰ってきた。
茶室の案内や説明はなにもしなかった。三々五々、学生たちがあがりこんでいく。最後のほうでは、畳にゲロするヤツまであらわれたが、ゲロを拭いた新聞紙は焜炉で焼き、滅失させた。

[茶室でバーベQ]の続きを読む
- 2012/05/02(水) 23:48:11|
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摩尼寺「奥の院」遺跡-発掘調査と復元研究-』報告書が、ついに刊行されました。2010年度の摩尼寺「奥の院」遺跡発掘調査、2011年度鳥取県環境学術研究費助成研究「摩尼寺『奥の院』遺跡の環境考古学的研究」の成果をまとめたものです。これで摩尼寺「奥の院」遺跡に係わる「調査研究」の成果は一段落しましたが、今年は同遺跡および摩尼山の環境整備に係わるプロジェクトが予定されており、それはぼくの卒業研究のテーマでもあるので、この報告書を読み込み、深い研究をしていきたいです。(あの、ヒノッキーさんが金賞を取ったのだから、僕も取ってみたいです・・・が、おぎんさんが強力なライバルですね・・・)(白帯)
以下に図書情報と略目次を掲載します(詳細な目次は「続き」をご参照ください)。
書名: 摩尼寺「奥の院」遺跡-発掘調査と復元研究-
編集・発行者: 鳥取環境大学 浅川研究室(担当:浅川・林・清水)
印刷所: 中央印刷株式会社
発行日: 2012年3月31日
総頁数: 123ページ
目 次:
第1章 研究の背景と目的
第2章 摩尼寺の歴史
第3章 摩尼寺「奥の院」遺跡の発掘調査
第4章 摩尼寺「奥の院」上層遺構の復元研究
第5章 摩尼寺「奥の院」遺跡の環境考古学と環境整備構想
特 論 摩尼寺「奥の院」遺跡の自然科学的分析

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↑(左)表紙、(右)裏表紙
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- 2012/05/01(火) 23:11:36|
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