鳥取西高校が12年ぶり、22回目の「夏の甲子園」出場を果たした。なにを隠そう、わたしは西高の卒業生である。創立100周年だった2年生のとき、野球部は18回目(17回目だったかも?)の「夏の甲子園」出場を果たした。今回と同じ2回戦からの出場で、その初戦は仙台育英に 3-1 の勝利。続く3回戦は富山商業?に 0-1 で惜敗した。2戦とも応援に行って、じつに楽しかった。
大学に進んでからも、たまに西高は甲子園に出場したので、しばしば応援にかけつけた。まだ小さい子供をつれての家族のレクリエーションだったから、クーラーボックスにビールやジュースをぱんぱんにつめて甲子園に行く。「西高の卒業生です」と言えば、家族の分だけアルプス席のチケットがもらえる。子供たちは、甲子園に入れるというだけで、喜んでいた。

しばらくして、西高の野球部は弱くなり、甲子園の出場権を得ることはなくなった。代わって台頭してきたのが八頭高である。じつは、わたしのワイフは八頭高の卒業生だから、これも大歓迎。八頭高がはじめて「夏の甲子園」に出場したのは、1996年だったと記憶している。キーワードは前園真聖。そう、あれはアトランタ・オリンピックが終わった直後の夏休みだった。家族全員で八頭高の試合を観戦したのだが、たしか宇部商業を相手に 0-8(1-8?)の大敗だった。フォア・ボールが多く、送りバントは失敗ばかり、打ったヒットは1~2本。締まりのない負け方に呆れかえった我が家の面々は、梅田まで戻ったあと、欲求不満を解消するために、長居競技場をめざしたのであった。
お目当てはJリーグ公式戦の横浜フリューゲルス対セレッソ大阪。凱旋した前園は、オリンピックでこなしたトップ下ではなく、前線に残る2トップのうちの一方として得点したはずである。当時のフリューゲルスは、セレソンのメンバーでもあったジーニョがトップ下だった。前園はオリンピックから帰ってきた筍の時期で、移籍が噂されていたが、まだフリューゲルスでプレーしていた。このシーズンを終えてからヴェルディに移籍し、かれの人生は下降曲線を描き始める。
八頭高は弱いチームだったが、甲子園に出ると聞くと、その後も毎回、応援に駆けつけた。だから、緑色の帽子がたくさん溜まっている。で、今日の西高は強かったかといえば、やはり弱かった。弱かった、という表現は不適切だと非難されそうだから、言い方を変えよう。鳥取県代表と千葉県代表の実力差は 1-7 というスコアに的確にあらわれている。31年前、仙台育英を 3-1 で下したチームはもっと強かった。ピッチャーのコントロールは正確でフォアボールは少なく、打者に長打が多かった。クローザーだった加藤くんは、唯一人の2年生で、卒業後、法政大学に進学。江川につぐ法政№2のピッチャーになり、日本生命野球部時代には日本代表にも選ばれた逸材である。そんな西高を知っているだけに、残念なことは残念だったのだが、甲子園のアルプス・スタンドで久しぶりに「校歌」を2回も歌わせていただいて、とても感謝している。
銚子商業の校歌よりも、鳥取西高の校歌のほうが品があって、ずっといい曲だ。間違いない。
data: 第87回全国高校野球選手権大会 第6日(8月11日)第4試合
銚子商業 7-1 鳥取西高

今日は出発時間が早すぎたため、時間をもてあました。こういうときは呑むしかない。まずは、前にも紹介した梅田駅の立ち呑み串カツ屋。つぎに甲子園の大衆食堂。この段階で、すっかりできあがってしまったのだが、あまりの暑さにアルコールの抜けも早かった。しかし、甲子園のスタンドでは呑む気にならず、アイス・ブロックばかりかじっていた。甲子園のスタンドで、生ビールを飲まなかったのは高校2年以来のこと。試合後、満員電車に乗りたくなかったので、ファミレス風の居酒屋に入った。まわりは西高の同窓生ばかり。後ろの席の3人組は80歳代の大先輩で、「鳥取一中の卒業生なんじゃ」とのこと。「フォアボールが多すぎるンじゃ」と辛口の批評を続けながら、刺身をパクパク、ビールをグビグビ。焼酎の量も、当方をはるかに上まわっていた。

- 2005/08/11(木) 23:55:35|
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