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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

青柳山安楽寺(Ⅰ)

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 湯梨浜町宇野の尾崎家住宅に対面する青柳山安楽寺は、真宗大谷派(東本願寺派)の寺院だが、もとは一ノ宮神宮寺千二百石配下の天台宗の一院であった。本尊は薬師如来。16世紀後半まで宇野の後方丘陵南麓、僧ヶ谷に一堂宇を構えて「正来院」と号していた。正来院の堂宇は大永~天正の兵乱により焼失し、天正9年(1581)ころ僧ヶ谷より越えて字宮ノ前附近の鞍部に移設された。
 承応2年(1652)、第二代恵日は真宗大谷派に改宗し、正来院を青柳山安楽寺と改号した。その後、今の本尾崎の地に伽藍が移された。尾崎家はすでに宇野の豪農兼船主となっており、地元の有力者として安楽寺の移転にも大きな影響力をもったであろう。現在の境内に尾崎家墓地が特別扱いで配置されていることが、それを雄弁に物語っている。

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 さて、以前にも紹介したが、尾崎家の家伝書には、3代清右衛門の代[1647-1697]に字「蔵屋敷」という地に「石居=礎(いしずえ)」の屋敷を建てたために、近郷から多数の見物客が訪れたという記載がある。下って5代清右衛門の代[1745-1772]には、家督が増して家が繁盛したので、蔵を建て加えるたびにかつての「蔵屋敷」の敷地は狭くなったため、子孫は今の屋敷地に本宅(オモヤ)、御仏間(ブツマ)、蔵を数棟、門、長屋などを残らず新しく普請した、という記録も残っている。現在、「蔵屋敷」という字は存在しないが、尾崎家に対面する安楽寺の一帯が「本尾崎」と総称されである点はまことに示唆的ではないか。『羽合町史』は現位置への移転を真宗改宗時の承応とみる記載とともに、浅津の香宝寺が「宝暦年間」に独立して、乗蓮寺・安楽寺・法林寺・真光寺となったという」との説を紹介している。宝暦年間といえば、18世紀の中期にあたり、尾崎家の移転新築と時を同じくしている。
 ここで憶測を逞しくしておこう。安楽寺の敷地は「蔵屋敷」の有力な候補の一つといえるのではないか。安楽寺の敷地にあった古い尾崎家の屋敷が手狭になったので、対面のひろい敷地に宅居を遷し、旧宅地には庄屋としての地位と財力を誇示するかのように、宮ノ前にあった檀那寺を移設したという筋書きが想定できるのではないだろうか。この場合、安楽寺の改宗と再移築年代がずれることになる。

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 安楽寺は七代清右衛門(幼名文五郎、1846年没)が主要な堂宇を再建したものである。境内には赤瓦に覆われた山門・鐘楼・経蔵・本堂・庫俚などの諸建築が軒を連ねる。本堂・鐘楼・山門は文化年間以降幕末期の再建にかかる総ケヤキ造の建物。七代は幾度も大工棟梁を東本願寺などに派遣して視察させ、その様式をとりいれて本堂等を建築させたと言われる。また、木材・石材の調達、敷地の提供から工賃に至るまで、途方もない額を費やしている。『羽合町史』は、「本堂内部の扉・障子・欄間・格天井の構造や彫刻は堅実雄勁にして、欄間の彫刻は桃山工芸を思わしめる趣きがある。門扉の牡丹・獅子・岩・滝の配合刀法は、信州諏訪神社の彫刻をするため明朝風を練ったという立川流の図案と刀法に相通ずるものがある。本堂外陣の広さと格天井の高さと均衡もよくとれており、外陣の古色つややかさと内陣の金色に輝く荘厳美との対照もおちつきがある」と安楽寺建築の芸術性を絶賛している。また、本堂前の鐘楼基檀の石垣、尾崎家墓地の巨大な碑柱・石玉垣の技巧はすべて七代のときの作であるともいう。

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  1. 2007/06/26(火) 23:54:18|
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