まだ「けんびき」症状が続いている。横になっている時間がとても長い。

今回のベトナム調査で、どうしても書いておきたかったのは、国境を越えて中国本土の地を踏んだことである。5年ぶりのことなんだ。かつて、「浅川と言えば中国」というイメージが定着していた時代?があった。いまも少しだけ「中国」の仕事がまわってくるんだが、たいてい断ることにしている。
「中国はもう引退しましたんで・・・」
もともと中国が好きなわけではない。2年も留学した人間が言う科白ではないかもしれないが、本心なんだから仕方ない。中国を学びたかったわけでもなければ、中国が好きなわけでもない(なぜ中国に行ったのか、その理由を話すと長くなるので割愛するが)。

中国との交流を進めていた奈良の研究所を辞めてから、一度しか中国を訪れていない。あれは2002年の夏だった。A放送のクルーズとともに1週間ばかり雲南の北部をまわった。昨年末にはマカオ(澳門)で調査をおこなった。澳門はすでに中国に返還されてしまったけれども、文化的には中国と一線を画する地域である。
というわけで、中国大陸側の中国領土に降り立ったのは5年ぶりになる。国境の町、凭祥(ピンシャン)は綺麗なところだった。ここにいう「綺麗」については、「衛生的」という意味に読み替えていただいてかまわない。わたしが中国に留学し、それ以降、毎年何回か訪問していた中国の田舎町は汚かった。都会も汚かった。つまり「非衛生的」で、肝炎の温床のような場所がいくらでもあった。
ところが、その一方で、古い町並みは良く残っていた。いまはそれが消え失せている。ここ10年ばかりの開発の嵐が街を変えてしまった。衛生的で現代的にはなったけれども、町並みは崩壊してしまった。まもなく北京オリンピックだ。北京だけ集中して大改造しているわけにはいかないのだろう。世界中の人びとがあつまる大イベントなのだから、国境の町はとくに重要なのかもしれない。


中越国境「友誼関」の土産物売り場の壁に写真がたくさん貼ってあった。ホーチミンと毛沢東、周恩来、劉少奇らの両国幹部が微笑ましく抱き合ったり、会話したりしている写真だ。恐ろしい写真である。写真に映る大物政治家たちは、内心、みな互いに憎しみあっていた。おそらく「殺してしまいたい」ほどの憎悪を抱き合っていただろう。実際、劉少奇は毛沢東によって葬り去られ、周恩来は毛沢東に忠誠を誓い続けながらも、毛から忌み嫌われ、最後には癌の治療さえ受けさせてもらえず死んでいった。いずれも毛に次ぐ№2の権力者である。
ホーチミンも毛沢東を警戒していたことだろう。それは、スターリンを警戒する毛沢東の姿と重なりあうが、ホーチミンの立場はさらにやっかいで、毛とスターリンの両方を警戒しなければならなかった。フランスやアメリカに打ち克つためには、中ソの戦力が必要不可欠だ。しかし、その戦力に頼りすぎると、両大国の属国になりかねない・・・昨年読んでいちばんおもしろかったユン・チアンの大著『
マオ』の内容が頭をかけめぐった。
- 2007/09/02(日) 18:42:51|
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