
7年前まで在籍した奈文研から、ごらんの報告書が送られてきた(↑)。奈文研は、とうとう国立博物館とも合併し、「独立行政法人 国立文化財機構 奈良文化財研究所」という正式名称に変わったらしい。
わたしが在籍したころは、奈良国立文化財研究と言った。中国で出版された漢長安城桂宮の発掘調査報告書には、その古い機関名が使われている。まずは書籍データからお知らせしておこう。
中国社会科学院考古研究所・日本奈良国立文化財研究所(編著)
『漢長安城桂宮 1996-2001年考古発掘報告』
発行: 文物出版社(北京市東直門内北小街2号楼)
発行年月: 2007年1月
ISBN: 978-7-5010-1997-7
定価: 320元
奈文研が「日中古代都城の比較研究」をテーマに中国社会科学院考古学研究所と研究協定を結んだのは1991年に遡る。わたしが入所して4年めのこと。まだ30代前半であり、あまりお役には立てなかった。この第1次5ヶ年計画では、おもに人事交流をおこなっていた。協定は1996年に延長された。この第2次5ヶ年計画の協定署名が漢長安城共同発掘調査の始まりである。
発掘調査した桂宮は、武帝の造営した後宮。漢の長安城は、都市というよりも宮城群といったほうがよく、しかも未央宮以外の諸宮はみな后妃と女官の城であった。ひらたく言えば、大奥である。大奥がいくつもあって、それらは皇帝が執政する未央宮と空中廊下(「複道」または「閣道」という)でつながれていた。かくして美女の群れに囲まれ、多くの中国の皇帝は早死にしていったのである。
桂宮の発掘調査は1997年11月に始まり、2001年5月に終わった。わたしは日本側の窓口を務めていた。現場で発掘調査に携わるのは、わたしより若い研究員たちばかりで、報告書を読むと、かれらの名前がきちんと記されている。わたしは年に3度も北京や西安に通い、中国側との交渉の席につき続けたのだが、どこにも名前が載っていない。
両研究所の所長は毛沢東と田中角栄のようなものだ。交渉の場にはつかない。高見の見物。交渉役を担うのは、中国側が副所長、日本側が部長である。周恩来と大平正芳の役割。これがシンドイ。わたしは大平正芳の秘書の役だった。これもしんどい。下手な中国語で交渉の通訳をするわけだ。中国側の通訳のほうが語学が達者だったから、ありがたいことはありがたいけれど、向こうの訳をよく聞いているとどうもニュアンスが違っていたりして、それを修正するのがわたしの仕事。
当時のわたしはゲンナリしていた。疲れていた。都城なんてどうでもいい。中国もどうでもいい。「復元」なんか糞くらえ・・・一刻も早く自分を牢獄に繋ぐ鎖を断ち切り、自由な世界に逃げ出したい。
そして7年が経った。いまは懐かしい。こうして分厚い報告書を手にして、そう思った。というか、こういう報告書を新鮮に感じてしまう。
書籍に同封されていた挨拶文を読むと、「引き続き日本語版の出版に向けて作業を開始いたします」とある。この日本語版の編集はわたしが担当するはずであった。しかし、わたしは敵前逃亡してしまった。今は中国からすっかり
引退したつもりでいる。
やり残した仕事なんだ。半年ばかり前から、ときどきそう考えるようになっている。だれが、この大仕事を仕上げてくれるのだろうか。
- 2007/09/20(木) 00:18:03|
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