
昨夜インターンシップの報告会があり、我が研究室では唯一部長(3年)がプレゼンテーションしました。この夏の
東京での活動報告です。彼女の発言は教員を驚かせました。
全部で3つの復元模型を作りました。
そのなかで竪穴住居は5回も作りなおして、
とても苦労しましたが、できあがったときには
とても達成感がありました。
大学の授業よりずっと充実感を感じました・・・
「大学の授業よりずっと充実感を感じた」との発言に教員たちは目をシロクロするしかなく、それについて「何故?」と質問する教授がいたほどです。
そして今日、わたしはチャックを引き連れ、妻木晩田へ。復元建物実施設計の指導を依頼されたからなんですが、わたしはチャックに予言しておきました。
「君たちが夏休みに作った模型をみせられるんだよ。」
チャックは半信半疑です。はたして、妻木晩田の生涯学習室においてあった3棟の復元模型は、部長とチャックがこの夏休みにインターンシップで制作したものでした。チャックは一月半ぶりに自分の作品と再会したわけです。担当の文化財技師に教えてあげました。
「この模型はね、かれらが作ったんですよ」
「えっ、そうなんですか!?」

掘立柱建物から講評していきました。板倉は少し立派すぎるんですが、なかなかよく勉強していますね。杉皮で屋根を葺くので、屋根の転びは余計ですが。床高ももう少し高いほうがよく、妻入ではなく、平入にして正面2間それぞれに扉を設けるほうがよい、とコメントしました。屋根倉は素朴な建物で、そう大きな問題はなし。
問題は大型の竪穴住居です。部長が5回作り直して達成感を得たという模型であります。なんと、この竪穴住居はこの
3月に燻蒸の火で焼けてしまった洞ノ原8号住居でした。焼けた建物はわたしが2000年度に設計したものです。

いつものとおり、正直な感想を述べると×ですね。この復元は困る。どこが困るか、箇条書きにしておきます。
1)まず旧地表面と周堤の規模について理解できていない。遺構検出面は旧地表面(弥生時代の生活面)から少なくとも20~30cmは削られており、さらに周堤は幅約3m、高さ50~60cmはあったはず(松尾頭でこれと同規模の周堤がみつかっている)。要するに、遺構検出面から周堤の上端までは70~90㎝あったはずだが、模型では約30cmの高さしか確保できていない。これがすべての寸法計画を間違った方向に導いた主因である。
2)垂木は周堤のほぼ中央に配列すべきなのに、ずいぶん内側に寄っている。この結果、柱を低くせざるをえなくなり、入口(門道)の棟木が本体の棟とほぼ同じぐらい高くなってしまった。本体に対して門道の容積があきらかに大きすぎる。
3)「屋根勾配を40度に」という指示が事務所側からあったらしく、すべての屋根面で40度を維持しようとしたために、垂木尻が内側に寄りすぎることになった。
4)上の間違いを補正するためには、旧地表面の高さと周堤の規模を適正に復元した上で主柱を高くし、垂木尻が周堤のほぼ中点にくるように並べ、屋根勾配は各面でややずれてもかまわないので、40~45度に納めるようにすべき。
5)棟が短すぎる。梁・桁の交差点で球心方向にサスをわたしたため棟木をのせるスペースがほとんどなくなった。各交差点でサスの方向を微妙に変え、一定の棟木の長さを確保するようしなければ構造が成り立たない。
6)いちばんの問題は「火打ち梁」。この竪穴住居は5本柱平面であり、放射状の垂木配列が自然に作れるから「火打ち梁」など使う必要はない。わたしは以前に4本柱の正円形平面に対して「火打ち梁」の採用を考えたことがある。それは4本柱にあわせて垂木を配列すると隅丸方形になってしまうからである。「火打ち梁」のアイデアでヒントとなったのは、栄山寺八角堂の柱配列だが、この円堂は奈良時代の終わり頃の建物であり、そもそも弥生時代の住居建築に構法を援用しようとすること自体に無理がある。

焼けた建物の復元を急ぎたいなら、その建物の元の設計にまずは敬意を払うべきではありませんかね。わたしが陣頭指揮をとっていた奈文研遺構調査室が時間をかけて制作した模型があって、その模型はある業者の手にわたってしまっているんですが、写真は妻木晩田事務所の先輩たちがもっているだろうから、いそぎ先輩たちに連絡をとり模型の写真をよくみることです。その模型は洞ノ原に建っていた復元建物とは似ているようで、違っている。どこが違っているか、よく観察してください。そうすれば、今回の模型のどこが×なのかも理解できるでしょう。

↑御所野遺跡(岩手県一戸町/縄文中期末)西区の大型住居の修復が完了し、完成写真が送られてきた。
- 2007/10/19(金) 23:31:21|
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