鷲峯山常忍寺(じゅうぼうざん じょうにんじ)は初代鳥取藩主池田光仲夫人の菩提寺であった芳心寺の住職によって、寛保元年(1741)に創建された日蓮宗の寺院である。創建後、正中山法華経寺の客席となり、また、幕府直触の格式をもつなど、江戸時代の鳥取藩では独自の地位を占める寺院であった(詳細は
連載Ⅰ参照)。
鷲峯山常忍寺本堂 構造形式: 入母屋造本瓦葺平屋建平入
建築年代: 文政元年(1818)再建 天保九年(1838)改築
常忍寺本堂は八間四方の総桜造として建立された中規模の日蓮宗本堂である。堂内の柱はいずれもミズメザクラで、正面側柱筋に尺三寸の丸柱を6本、堂内内外陣に尺五寸の丸柱を8本立てる。間口7間×奥行1間半の外陣と、間口7間×奥行4間の内陣に分かれ、内外陣とも中央間を3間、その両側に2間の余間を配す。内陣は外陣より一段高い「上段の間」として、内外陣境に無目敷居を通し、その上部には大断面の虹梁を飛ばす。中央間の虹梁のみ彫りの深い絵様を刻む。また内陣では中央間・両余間境に無目敷居を通し、その上部に絵様を刻む大断面の虹梁を飛ばす。つまり、内陣中央間の3方のみ絵様付きの虹梁で囲み仏壇を荘厳している。その中央間は奥行2間半の畳間と1間半の板間に分かれ、境に無目敷居を通すが、上部に虹梁はない。同じ位置の両余間では、虹梁を飛ばすが下部に無目敷居を通さない。また、これら余間の虹梁上には飛貫を通しており、それぞれ飛貫上の中備として蟇股を配している。

外陣から内側の柱は、側面の角柱のほかはすべて丸柱で、それぞれ柱の上端には禅宗様特有の強い粽(ちまき)があり、柱上には拳鼻付の平三斗を組む。中備は菊の御紋の板蟇股だが、側面のみ実肘木付の蓑束とする。天井は、内陣中央間が折上格天井、余間・外陣は棹縁天井である。内外陣の柱・長押・組物等はすべて古色塗り、須弥壇および厨子等は輪島塗。側柱筋の柱間はすべて二枚引違いガラス障子で、正面入口のみ四枚引違いガラス障子とし、上部に絵様を刻む大断面の差鴨居を通す。
側柱の外側は正面と両側面に幅半間の切目縁をめぐらせ、擬宝珠高欄をまわす。軒は一軒疎垂木。妻飾は蓑束立で、束と束の間に蟇股を配して虹梁を支え、その上に大瓶束を立てる。
向拝は間口3間分を1柱間とする。向拝柱は几帳面取角柱で切石の礎石上に立てる。柱は虹梁型頭貫で繋ぎ、その中備に菊の御紋の板蟇股を2枚配する。柱頭の組物は三斗組とする。木鼻は、向拝頭貫の先端を拳鼻、海老虹梁の先端を象鼻とする。

本堂の建築様式は「和様」を基調とし、粽など細部のわずかな部分に禅宗様様式を取り込んだものである。一方、内陣の仏壇は禅宗様須弥壇に宮殿を伴う。須弥壇の天井は吊束上に長押・頭貫・台輪をまわし、台輪上を詰組とする。台輪に詰組といえば「禅宗様」だが、組物は「和様」で統一する。そのうえ、台輪上の大斗に削出しの皿斗を配す。皿斗は「大仏様」であるから、はを基調とする和様・大仏様を取り込んだ禅宗様の須弥壇と言えるであろう。本堂本体には台輪・詰組・皿斗は見られない。本堂本体と須弥壇の様式が異なる理由は、建築年代のずれや大工の流派の違いなどを想定できるが、その理由は判然としない。ただ、以下に示す建築期間の長さが多少なりとも影響しているかもしれない。

本堂の再建は「文政の中興」と呼ばれた大普請事業の中核であった(『鳥府志』)。今回の調査で発見された2枚の棟札によれば、まず文政元年(1818)年、2代日顕によって発願された本堂が7代日逮によって完成し(棟札1↑)、さらに天保9年(1838)に8代日長によって改築されたものである(棟札2↓)。なお、内陣天井には天保2年(1831)の墨書も残っている。
現在の本堂は天保年間の改築後の姿をとどめるものである。ただし、天保の普請はあくまで改築であり、その元となる「文政の中興」時の建築材をかなり残すものとみてよいであろう。実際、内外陣の柱には大量の仕口痕跡も残っており、18世紀本堂の当初材を転用した可能性もあるだろう。
虹梁絵様は文政~天保の様式とみて不自然ではないが、向拝の虹梁型頭貫に関しては絵様が若干丸みを帯びており、本堂本体と建築年代がずれる可能性があるだろう。
平成10年、再建当初の位置から現位置に曳家され修復・改修されている。このとき背面の部屋を新装し、垂木から上の材を差し替えて桟瓦から「改良本瓦」に葺き替え、屋根に若干の反りを加えた。しかし、全般的にみれば、古材を再利用し旧状をよくとどめている。保存状況のよい江戸時代後半の日蓮宗本堂であり、火災や地震などの災害が頻発した鳥取市街地にあってはまことに貴重な木造建築遺産と評価できるであろう。(完)
- 2007/10/30(火) 22:26:40|
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