
メリー・クリスマス!
イブの日に漓江を下りました。ご覧のとおり、ハロン湾と同じカルスト地形の雄大な風景のなかを船で遊覧するわけです。ハロン湾は「海の桂林」として、その景観を絶賛されていますが、スケールの大きさから言えば、むしろハロン湾のほうが桂林を圧倒しています。だから、桂林が「陸のハロン湾」と呼ばれてしかるべきだと思うのですが、清流から望むカルスト地形には、ハロン湾とは違う繊細な美しさ、というか清々しさがあって、23年ぶりにその魅力を堪能しました。
それにしても、もうへとへとでしてね。スケジュールがきついんだから。明日もまた5時半起きなんですね。だから、今夜は記念写真でも並べて終わろうね・・・

とりあえず行程ですが、まずは陽朔県揚堤(羊蹄)郷の埠頭まで車で移動し、そこから九馬画山(↑)の麓まで遊覧船で下向。九馬画山というのは、白い絶壁に九体の馬が描かれているようにみえる山でして、その九匹がみえる人は「総理大臣になれる」んだそうです。
そんなら、福田首相を連れてこい、ってなもんですが、かつて周恩来がここを訪れたとき、ちゃんと九匹みつけたんだそうです。で、わたしゃ3匹ですね。3匹しか看取れない。隣にいた日本の客は7匹までは分かると言ってたけどほんとかな??

この冬は川の水量が減っていて、遊覧船はこれ以上下れない。本来なら陽朔県の市街地にある西街まで下っていくんだけど、今は駄目だそうで九馬画山でUターンして、他の日本人客と一緒に昼食を食べました。
それにしても、漓江は変わった。わたしがかつて漓江下りをしたのは1984年のことです。当時は「住宿船」と呼ばれる家船がたくさん岸に泊まっていて、船に住む漁民たちは竹筏に乗って鵜飼いをし、捕れた魚を観光船に売りつけにきたもんです。いまはもう「住宿船」らしき板船はみあたらず、竹筏にはモーターとイスまで備わっている(モーターがついたのは昨年からとのこと)。やっぱり淋しいな・・・


いったん揚堤の埠頭まで戻り、そこから1時間半かけて高田郷の埠頭へ。ここは村中が竹筏観光に力をいれています。わたしたちも筏にのった。農協のような組織が観光会社を経営していて、筏を漕ぐ船頭のおじさんのほかに歌垣の歌をうたうチワン族の少女が同行。途中で鵜飼いのパフォーマンスまでみせてくれた。鵜は毎回見事に大きな魚を銜えて水面にあがってくる。そのたびに拍手喝采。捕れた魚はいったんイケスに入れるんですが、しばらくすると川に戻してやる。その魚をまた鵜は潜って捕りにいくんです。
某准教授は、こういう村をあげての観光業を評価していました。ハロン湾のクアバン村も、これぐらい結束してエコツアー業を組織すればもう少し収入も増えるのでは・・・たしかにそうかもしれないね。

それから、本来の終着駅である西街へ(もちろん車で)。いや、驚いた。84年には、Uターン基地になっていて、30分だけ街に下りたんですが、田舎のキタナイ街だった。それが、どうですか。みてくださいよ、この変わり様。まるで、麗江かホイアンみたいでしょ。いちばん上のサンタさんの写真も西街ですよ。「うまく修景したな」と感心しきりの声もある一方で、どこか嘘臭い町並みができあがっていて、しかし、その嘘臭い町並みの街に大勢の観光客が押し寄せている。地震後の麗江とよく似た雰囲気ですね。1週間ぐらいのんびりとバケーションを過ごす西洋人も少なくなく、おかげで「洋人街」という別名まで頂戴しているじゃありませんか。できれば、わたしたちも1~2泊ぐらいのんびりしてみたかったですね。実際の滞在は小一時間でした。

ホテルに戻り、夕食は広西師範大学のリャン先生を招待した。某民族学の大家からご紹介にあずかった先生なのだが、話を聞くと、むしろ考古系の研究者で、 滞日経験もながく、共通の知人が多くて驚いた。先生には四湖ナイトクルーズにもご同行いただいた。先生との話は弾んで楽しかったのだが、古城の外濠を大改修してうまれたクルージング・コースには少々興ざめがした。世界中の代表的な橋を7つも架けてたりしてね、とんでもない数の世帯を強制移住させているし、なにか勘違いしてんじゃないかって・・・いまに観光客が来なくなるぞって、心配になりましたよ。
えっ、余計なお世話だって?!
- 2007/12/26(水) 00:34:05|
- 文化史・民族学|
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