武田の旗を京都に立てるを見ることなくして死ぬことは
まことに残念である。余が死んでも三年間は死を秘めて置き、
その間に勝頼は武田の統領としての地位を確定せよ。
この有名な「信玄遺言」が武田家の統率を乱す。信玄の後継者として勝頼の地位を不安定なものにしてしまうのである。戦国の世にあって、3年という時間は短いようで長かった。結局、3年を待たずして勝頼は甲斐の国主となる。しかし、信玄を神格化する名将や御親類衆とのあいだの溝はなかなか埋まらなかった。すでに、ここに悲劇がある。
仔細は省略して、話を長篠の戦に移そう。この小説=漫画では「設楽ヶ原の戦」として語られる。なぜ武田は織田・徳川連合軍に敗れたのか。兵力を比較すると、武田方1万5千、織田・徳川方3万5千。そして、織田・徳川方には鉄砲3千丁がある。彼我の兵力の差を武田方が知らなかったわけではない。情報は十分もっている。しかし、織田方の武将の寝返り情報(ガセネタ)に惑わされながら、武田軍は撤退することなく、ついに陣太鼓を打ち鳴らした。
武田騎馬軍団は負け戦を知らない。信玄から勝頼に至るまで、武田の本隊は連戦連勝。この不敗神話に対する過信が、武田敗北の源泉ではなかったか。
なぜ武田軍は不敗であったのか。騎馬隊自身が強かったことはいうもでもない。信玄の采配も見事の一言。しかし、もう一つの要因を見逃してはいけない。信玄は負け戦をしなかった。厳密にいうと、「負けるかもしれない戦」を回避してきたのである。400戦負けなしで引退したヒクソン・グレイシーを思い出す。グレイシーは、とくに晩年(現役引退直前)、勝てる相手だけを選んで試合をしたと言われる。高田も船木も、グレイシーからみれば、絶対に勝てる相手として映っていたはずだ。
信玄には危険を察知する能力があり、ここぞという場面で兵を撤退させる勇気があった。勝頼にもそれがなかったわけではない。勝頼も名将のひとりである。
しかし、目の前に信長と家康がいた。馬除けの柵の向こうに信長と家康が陣を構えている。ここでふたりの首をとれば、天下が取れる。その誘惑が撤退する勇気を上まわった。もちろん、信長が情報戦をしかけ、武田軍の突撃を促したのだが、信玄ならば判断を狂わせることはなかったであろう。
冷静に考えるしかない。織田方の鉄砲3千丁。季節は梅雨で、雨が降れば鉄砲が使えなくなる。とはいえ、鉄砲が使えなくとも兵力に2倍以上の差がある。信長が研究に研究を重ねた結果の作戦である。天下無敵の武田騎馬軍団を打ち破るには兵力が2倍以上必要であり、さらに鉄砲3千丁を加えれば自軍の傷手を最小限に抑えられる。
サッカーに喩えるならば、甲斐は11人(イレブン)だが、織田・徳川は25人で試合をし、さらに飛び道具としてカカとメッシとルーニーを用意したようなものだ。FCバルセロナとガイナーレ鳥取がまともに試合をすれば、鳥取が負けるに決まっているが、鳥取のフィールド・プレーヤーが25人いたらどうなるだろうか?
はたして会戦の朝、梅雨はあけた。日本一の騎馬軍団の名将たちは陣太鼓の音を聴きながら、鉄砲の餌食となって悉く血にまみれた。
信玄ならばどうしただろうか。
考えてもせんないことだが、まず設楽ヶ原を決戦の場とすることはなかったであろう。兵力の差を考えれば、大平原を戦さ場とするのはあきらかに不利だ。起伏の多い山間部でのゲリラ戦にかけたのではないか。ゲリラ戦は武田側の真田勢が最も得意とする戦法でもある。
では、信玄が設楽ヶ原で指揮をとっていたとしたら、どうなったであろうか。兵力に大差があるのだから、なにより情報戦を制することに気を配ったであろう。自軍の策を悟られないように情報を徹底的にコントロールしながら、山間部に後退していったのではないか。大雨の夜、決戦にでるような構えをみせながら、本隊は一夜にして陣を背後の山上に移し、多勢に無勢の局面を打開しつつ最終的には甲斐の国にいったん引き上げたような気がする。
これとは別の意見をお持ちの方は是非コメントをください。
先にも述べたように、勝頼も名将であった。しかし、軍議において諸将の意見をまとめ、最善の策をとることができず、長篠では信長の策にはまって自滅した。甲斐にもどっても、その威厳は長続きせず、「落城の将」となって、ついには織田の追っ手に首をとられる。
「落城」という言葉が重い。切腹か、討ち死にか。
- 2008/01/28(月) 00:00:02|
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