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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

黒船「八尾南」(Ⅰ)

 週末(23日)、某研究所の先輩のお誘いで「大和弥生文化の会」に出席してきた。会場は橿原考古学研究所で、たぶん約十年ぶりに橿考研の門をくぐった。
 第43回例会のテーマは、ずばり「竪穴住居」。以下のような次第で会は進んでいった。

  1.趣旨説明
  2.松本「奈良県内の竪穴住居跡」
  3.橋本「芝遺跡の竪穴住居跡」
  4.深澤「四分遺跡の竪穴住居跡」
  5.正岡「八尾南遺跡の竪穴住居跡」
  6.討論

 2~4で奈良県内の事例を知れたのはもちろん大きな収穫であったが、なんといっても衝撃をうけたのは5の八尾南遺跡である。八尾南遺跡は大阪の集落遺跡(弥生後期)だが、今回は報告書刊行直前の特別招聘スピーチとして出席者の目を釘付けにした。

 わたしが八尾南遺跡のことを知らされたのは2004年のことであった。当時、科研「大社造の起源と変容に関する歴史考古学的研究」の一環として「山陰地方の掘立柱建物」シンポジウムを企画しており、複数の筋から八尾南での大発見に関わる情報がもたらされていた。八尾南という集落は洪水によって村が水着けになり、旧生活面が集落存続時に非常に近い状況で地下に埋もれていた。竪穴住居を例にとると、通常は竪穴の埋土となって消滅する周堤(竪穴のまわりに築く土手)が立体的に残っており、機能不明と思われていた中央ピットには木組が残り、さらに驚いたことに、竪穴の南東隅に梯子材が床面に突き刺さった状態で立てかけられていた。
 この遺跡を視察することなく時は流れていった。ただし、「隅入」の構造は、わたしに刃を突きつけていた。それ以前に復原した住居は、基本的に柱の位置(桁と梁が交わる位置)で「隅サス」と呼ぶ材を斜めに架けて棟を支える構造に復原していたからだ。竪穴住居をテント構造の発展形とみなすならば、これが自然だろうと考えていたのである。しかし、隅に入口が開いていたとするならば「隅サス」は使えない。その後、2006年に倉吉のクズマ遺跡でも隅に門道をともなう古墳時代後期の住居跡がみつかり、やや大袈裟な言い方ながら、

  「自分に残された竪穴住居復原の最後の課題は隅入の構造だ」

と思うようになっていった。それほど八尾南の発見は、わたしの研究を揺さぶったのである。八尾南は竪穴住居研究における「黒船」のような存在であった。

 今年度の卒業研究で、けんボーに鳥取県内の縄文・弥生・古墳時代の竪穴住居を1棟ずつ復原してもらうことにした。そのうちの1棟はクズマ遺跡の隅入住居である。八尾南の発見以来ひきづっていた竪穴住居の「隅入」構造の解明にケリをつけたいという思いがあったからこそ、クズマを復原の対象に選んだのである。結果としていえることは、「隅サス」の構造を放棄し、アイヌのケツンニに近い3脚構造もしくは4脚構造を採用することによって、隅入の構造は十分復原しえるというものであった。じつは、大林太良が1954年に検証しているように、アイヌのケツンニも円錐形テントの骨組に起源を求めうるものであり、そういう構造は下味野童子山の松菊里型住居や智頭の枕田遺跡の縄文住居にも採用可能であることがあきらかになってきている。(続)


 
  1. 2008/02/25(月) 01:26:33|
  2. 史跡|
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