くりかえすけれども、「八尾南」の発表は衝撃的だった。
とくに驚いたのは壁の構造である。壁溝は壁の構造物を納めるための基礎だとだれもが考えていたはずだ。ところが、壁溝には板の蓋が被せてある。壁溝は住居内の暗渠なのだ。壁の外側や床に染みこんだ水分を集める溝といってよいだろう。発掘調査トレンチの排水溝と役割は同じであって、水を溜まったままにしておく場合もあれば、周堤の下に暗渠を通して外に排水する場合もある。
八尾南の場合、壁溝は板で塞ぎ、さらにアンペラ状の壁で覆っている。アンペラ状の壁は鳥取でも米子近辺でみつかっているが、わたしたちはてっきり編物を壁に貼り付けているのだと思っていた。発表者の見解は違っていた。壁際で裏込しながらアンペラを縦横に編んで壁に貼り付けていくというのだ。しかも、その裾は床面で切れるのではなく、床に接してL字状に折れていく。このL字状に折れたアンペラで壁溝の蓋を覆ってしまう。こういう壁のディテールを考えた研究者は、これまでひとりもいないだろう。現在進行中の妻木晩田遺跡の復原実施設計にも影響を与えうる情報である。
ところで、刊行間近という『八尾南』報告書には、竪穴住居の復原図や復原模型も掲載されるらしい。それをパワーポイントのスライドでみせていただいた。資料には残っていないので、記憶はやや曖昧だけれども、復原案には結構問題がある。じつは、
出雲大社境内遺跡の大型本殿復原模型の監修で京都の模型制作会社に通っていた際、八尾南の竪穴住居模型の制作が開始されたばかりで、その現場の制作風景をちらっとみせてもらったことがある。あらら、いったいだれが図面を描いたのかな、隅入の問題はどう克服したのかな、なんて思いながら長髪美貌の女性重役に頼んで図面をみせていただいた。
その図面は、驚いたことに、わたしたちが妻木晩田のために描いた断面図であった。会社には、こんな風に作ってくださいという指示があったんだそうである。(こりゃ、著作権違反じゃないの???)
今回、その模型をパワーポイントでみた。ところが、復原案は妻木晩田とは異なっている。なにがいちばん違うのかというと、周堤が垂木の内側にすべて納まっているのである。発表者に聞くと、根拠は以下の2点。
①周堤に垂木を差し込んだような痕跡がまったくない
②周堤の外側の一部に小ピットが群集し、その断面を確認すると、ごくわずかではあるが、棒状のものが突き刺さった痕跡のようにみえるものがある。
この2点については異論を唱える参加者ももちろんいた。①については、周堤を築いてから穴をあけて垂木などの材を差し込んだのならば痕跡らしい痕跡は残るであろうが、垂木材などの木組を完成させてから周堤を築いて根元を固めた場合、木材をおさめたピットなどの痕跡は残らない。②については、小ピットが周堤外側の全周をめぐるわけでもなく、一部にしか残っていない。しかも、それが垂木材などを突き刺した痕跡としてはあまりに浅すぎて木組を固定するには不十分である。
さて、報告書の復原案では①②の証拠をもとに、周堤の外側に垂木をめぐらしているが、その結果、柱が異常に高くなって建物全体のプロポーションが不自然となり、建物内部に納まる周堤の役割がまったく意味不明になっている。周堤の中心部に垂木尻が納まるようにすれば、この矛盾はすべて解決するだろう。建物のプロポーションは健全な姿を獲得し、垂木によって構成される木組は周堤によって固定される。
もちろん報告書の復原案が完全な誤りであるとは断言できない。報告書案は建物の構造的なあり方をやや軽視し、周堤周辺の痕跡を過度に重視した結果の産物である。考古学者がなにより尊重する「痕跡」が必ずしもすべての遺構に残るわけではないことをわきまえる必要があるのではないだろうか。建築学的な構造の論理と考古学的な証拠のバランスをうまく保ちながら、両者に不都合でない復原案を紡ぎ上げることが肝要と思われる。
なお、竪穴住居の復原模型は断面形状の分かる半裁型の模型であり、肝心要の「隅入」の部分は省略されていた。(続)
- 2008/02/26(火) 00:35:22|
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