
昨年の「今」はどうだったのだろうか。
旅先で「卒業式」という語を検索してみたところ、結果は似たようなものだった。昨年も謝恩会を途中で抜け出して加藤家に移動し、大城と大工さんたちの送別会を開き、翌朝、西に向かって移動している。車に乗って
日本海を眺め、倉吉や尾崎家の調査の想い出に浸っているのだ。行く先は大山町の文殊領遺跡発掘調査現場。車のなかで、届いたばかりの『マッセイホール』を聞き続けていた。ニールヤングの孤独な呻きと日本海の風景が絡みあった。1年たった今、毎日訊くCDはジェイムズ・テーラーの『
ワン・マン・バンド』に変わった。若いニール・ヤングとは真反対の、老成したジェイムズ・テイラーのパフォーマンスにひどく感銘をうけている。じつはDVDのほうがはるかにおもしろい。キーボードとたった二人のコンサートなのに、ドラムも入れば、アマチュア合唱団のコーラスも入る。このコーラスには釘付けになる。マジックのようなコーラス・・・
今年もまた謝恩会を2時間で切り上げた。卒業式も長いが、謝恩会も長すぎる。わたしは抜忍のように足音をしのばせ謝恩会の会場を後にして、そのまま西へ向かった。今年は「スーパーまつかぜ」の自由席に乗って、米子で鈍行に乗り換え、松江で下車した。
もう少し卒業生たちと時間を共有していたい、という気持ちはもちろんある。しかし、どこかでその気持ちを拭い取らなければならない。接触する時間が1日増えようと減ろうと大差ないと割り切って、西へ向かう。べつに東でもよいのだが、結果としてみれば、去年も今年も西に向かった。
松江の夜、飲むには飲んだ。美味い酒であるはずはなく、気が付いたら、ホテルでデジカメ写真の整理をしていた。卒業式と謝恩会の写真である。

日が変わり、快晴。
「
八雲立つ風土記の丘」の奈良時代復元建物はまだ屋根に茅がのっていなかった。茅は壁に結いつけられていた。内側がヨシ、外側はススキを段葺きにしている。まだラフな感じだが、最終的には綺麗になるだろう(綺麗になりすぎても困るのだが)。前回と前々回の指導でわたしを困らせた棟梁は不在。娘さんが相手をしてくれた。縄として使っている「麻ロープ」が妙に新しく見えるので最後に古色塗りしようということになった。館長は、それを「活用」の一環として市民参加でやるのが良いと言われた。そのとおりだと思う。このあたりで今日の指導は終わると思った。そこに茅葺きの親方があらわれ、状況は一変した。

笄(こうがい)とは簪(かんざし)のことである。
日本の木造建築にも「笄」と呼ばれる部材がある。茅葺き屋根の棟を覆う杉皮を固定するために突き刺す串を「笄」と呼ぶ。家のかんざしである。わたしたちは笄を使う棟の処理を常識だと思っているのだが、親方はいう。「あの材を使うと雨が漏りますよ」と。じつは現場に着いて、すぐにわたしは気づいていた。最後の最後、棟の杉皮を貫くはずの笄が、屋根に茅も葺いてないのに取り付けられて「堅魚木」のようになっており、「これはおかしい」と娘さんに指摘した。どうやら、出雲の民家では棟に笄を使わないようだ。よって、大工も茅葺き職人も、その材の扱いに不慣れなのだ。不慣れな方がたに強制しても意味はない。これについては、
「出雲の山間部にある茅葺き民家の棟を素朴にして納めてください」
という指示をした記憶がある。たしか40日ほど前のことだ。しかし、職人さんは施工業者が描いた実施設計図にこだわり、笄を使おうとしていた。わたしや館長や顧問は再び「出雲の民家の棟」に倣うべきことを説いた。この受け答えに時間がかかった。老匠の出雲弁が聞き取れないのである。

午後1時前には米子に着いた。迎えの車に乗って高速を走らせると、大山の雪峰が車窓の向こうに忽然とあらわれた。幸運というしかない。キンタマーニの
バトル火山口が雨に包まれたように、大山の峰はいつでも雲を巻いており、視野に納まること自体がまれなのだ。雪を抱く大山の場合、それを望むのはさらに困難になる。
『出雲国風土記』にいう「火神岳」(ほのかみだけ)。国引き神話では島根半島を引き寄せる杭となった。
伯耆の神嶺、あるいは心嶺と呼ぶべき霊峰である。
妻木晩田の指導は長く、不毛なものだった。正直、あまり愉快な時間ではなかったが、帰路でみる大山は、空気が澄んで往路よりもさらに美しく、疲弊した神経を癒やしてくれた。
昨年は日本海に感じ入り、今年は大山に癒やされた。
大山が新しい門出を祝ってくれている、と信じたい。
米子から鳥取に戻ろうか、とも考えたが、さんざん悩んだあげく、岡山にでた。
すでにわたしは奈良に戻っている。
- 2008/03/23(日) 00:30:43|
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