別れの盃 マカオへの出立を5日後に控えた7月末の夕刻、舌右衛門は川釣りにでかけた。もちろん草叢の陰では伸太と利蔵が見張っている。舌右衛門は一刻ばかりで22尾のハエを釣り上げた。
「大将、これをフライにしてくれ!」
割烹料亭「飛鳥」の2階座敷では、清水多久左右衛門と岡村高堂が下呂舌右衛門を待ちかね、すでに酒を飲みはじめていた。
「すまぬ、すまぬ。夏の川釣りはやめられんな」
「今宵の首尾はいかがでございましたか」と多久左が問う。
「大小あわせて22尾のシラハエじゃ。学名オイカワ、知っておるか?まもなくここにフライが並ぶぞ」
「殿、お久しぶりにございます」と高堂が挨拶する。
「堅苦しいことを言うな、まぁ飲もうぞ」
この日の酒は「八上姫」という銘柄であった。
「これはどこの酒かの?」
「八上郡の曳田に酒蔵がございます」と多久左が答え、
「近くに八上姫神社がございます」と高堂が続ける。
「大國主命の側室か。辛口でうまい酒ではないか。八上姫も性が辛かったのかの?」
「ははは、おなごは甘かったり辛かったり・・・」
「許嫁はどちらじゃ?」と高堂に訊ねれば、
「・・・このブログをよう読んでおりますゆえ、答えられません」
「伸太と利蔵は加わりませぬのか」と多久左が訊く。
「忍びには忍びの仕事をしてもらっておる」
と言って、舌右衛門は目を上下させた。利蔵は天井裏、伸太は畳の下に潜んでおり、間諜の侵入を防御しているのである。
「なるほど、壁に耳あり、障子に目ありでございますな」
「ここは大丈夫と思うがな。何度も密談に使ってきた。して、天球丸の普請は相変わらずか?」
「はい、難渋しております」
「それにしても、あの郭はなんのために造営するのじゃ」
「大奥だと聞いております」
「大奥というほど奥方や女官はおらぬではないか。広すぎるな?」
「たしかに」
「天球丸の石垣については、宮部さまの代から築造が始まったと聞いておりますが」
「あぁ、下の腰巻石垣は宮部時代のものだが、当時の計画は頓挫したまま代が変わった。池田長吉さまの計画はまったく違うと聞いておる。高堂は指図をみておらぬのか?」
「一度もみたことがございませぬ。ただ部材の加工について、細かな指示が届きます。その材のうち八角円堂の組物のような材が混ざっております。直角ではなく、135度に振れているのです。これの加工がなかなか大変でございます」
「安土の天守閣でも再現する気かの?」
大将が揚げたシラハエのフライを女将が2階に運んできた。焦げ茶色の衣が香ばしい匂いを漂わせている。
「ふむ、美味しうございますな。川魚らしい臭みがまったく感じられません」
「冬のモロコほどではないがな、白身の肉がさっぱりしておる。小骨のおおい雑魚ではあるが、フライにすれば骨も難なく食べれられる」
「八上姫にようあいますな・・・」
「これを食べたら、店を変えるぞ」
2次会は薬研堀の茶屋で、ここでは伸太と利蔵も席についた。舌右衛門の歓送会である。
「鮎殿、しばらくすると、わしは国元を離れる」
「まぁ、どちらに行かれるのですか?」
「明国のマカオというところじゃ」
「異国に参られるのですか?」
「そうじゃな」
「どの湊から船に乗るのですか?」
「船ではない。飛行船というものがある」
「えっ、船が空を飛ぶのですか?」
「あぁ、気球に船を吊すのじゃ。そして、両翼についたプロペラをエレキテルでぐるぐるまわすと風にのってぐいぐい前に進んでいく」
「プロペラとは何でございますか?」
「忍者の使う十字手裏剣が大きくなったようなものじゃ」
「・・・そのような船はどこから飛び立つのです?」
「堺の湊津の南に埋め立て地があってな、そこを関西空港と呼んでいる」
「略して関空」と知ったかぶりの伸太。
「いつ国元にお帰りになるのですか?」
「ひと月以内には戻ってきたいが、どうなるかわからんな」
この夜は酒を飲むものが多く、キープしていた洋酒のボトルが空になった。
「殿、新しい瓶を1本入れてくださいませ! 入れておかないと帰って来れませんよ」
「メリケンの玉蜀黍酒はあるか?」
「エゲレスの麦酒ならありますけど」
「では、スコッチにするか」
「やったぁ!」
(1本8000円か、高くつくな・・・)
「あけましょうか?」
「いや、今宵はもう帰ろう。このボトルは鮎殿のために入れたのじゃ。再会の日のためにとっておこうぞ」
*『薬研堀慕情』 好評連載中! 「薬研堀慕情(Ⅰ)」 「薬研堀慕情(Ⅱ)」 「薬研堀慕情(Ⅲ)」 「薬研堀慕情(Ⅳ)」 「薬研堀慕情(Ⅴ)」 「薬研堀慕情(Ⅶ)」
- 2008/04/05(土) 00:40:54|
- 小説|
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