メイドのみやげ 慶長十五年八月三日の朝、町人姿に身をやつした3名は堺の湊津にいた。もちろん飛行船などこの時代にあるわけがない。「飛行船」という冗談に目を白黒させた鮎の顔がふと浮かんだ。そこに電信音が鳴った。
{出発の日ですね、お土産待ってます!}
という文字が並んでいる。
「鮎殿でございますか?」
「あぁ」
「返信なされませんのか?」
「・・・」
舌右衛門は考えこんでしまった。どうも最近ひねくれていて、(所詮、営業メールだ)と割り切ってしまう自分に情けなくなるときすらある。今回もその思いは同じであり、とうとう返信せずに船に乗ってしまった。考えれば考えるほど、鮎のような若々しい美人が腹のでた中年男に惚れるはずがない、という結論に至る。とすれば、すべての電信は「営業用」という判断をくだすほかない。
(十歳若かったらな、もっと積極的になれるのだが・・・)
(おなごは男から金を巻き上げればよいのだからな)
2日後の夕刻、船はようやくマカオの沖合に辿りついた。そこは阿媽角という岬の近くで、岸辺に阿媽閣という廟が建っていた。その廟の周辺の岸辺には、家船(えぶね)が群れて水上に大集落を営んでいる。船に住み魚介類の捕採に勤しむ海民をマカオでは阿媽(アマ)と呼び、その祖先を媽祖と呼んで阿媽閣に祀っているのだ。日本でも海女・海士をアマと呼ぶが、環東シナ海のひろい海岸域では沿海漁民の呼称としてほぼ共通しており、この国境なき海人集団がときに倭寇などの海賊に早変わりするのである。
舌右衛門ら3名は小舟に乗り換え、家船の群れを掻き分けるようにして、港に着岸した。そこに、王賢尚と名乗る大柄の明人があらわれ、3名を出迎えた。
「宗薫さまから文を頂戴しております」
という流暢な日本語を、その中国人は話した。
「宗薫とは、堺の今井宗薫さまですか?」
「さようでございます」
今井宗薫は、千利休、津田宗及とともに茶の「三大宗匠」と称せられた今井宗久の跡継ぎで、徳川家の信頼篤く、明国に御朱印船を派遣する豪商としても知られている。もちろん舌右衛門は、その有名な貿易商人に会ったこともない。
「これからさっそく宿舎に参ります」
「賓館か飯店ですか?」
「いえ、一軒家を借りてございます」
「洋館ですか?」
「はい」
借家となる洋館は聖ポール教会堂からセナド広場へ至る三叉路の近くに建っていた。その三叉路は大三巴街と賣草地街と高尾巷が交わる屈折点で、立派な石敢当を祭っている。
「館を警護する屈強な男を3名、調理人の男を2名、さらにメイドを2名雇っております。この7名には、なんなりとお申し付けください」
「メイドとは何でございますか?」と伸太が訊く。
「メイドとは、召使いの女でございます。お三方の身のまわりの世話をいたします。一人は中国の女で、わたしと同じくらい日本語が話せます。もう一人はポルトガルの女でして、こちらは日本語はできませんが、中国語を話せます。器量と気だてのよいおなごを選べ、と宗薫さまの文にありまして、あちこちに声をかけたのですが、お気に召しますかどうか。」
伸太はうきうきとして、その話を聞いている。
「あっ、言い忘れましたが、その2人のメイドには夜伽をさせてもかまいません。それだけの金子はわたしてございます。」
伸太の目が大きく開き、しばらくして、生唾をごくりと飲み込んだ。
「下呂さまは武家と聞いておりますが、お付きの方は忍びでございましょう?」
「さようでございます」
「ならばよくご存じでしょう。見知らぬ土地で仕事を始める前に、まず土地の女とねんごろになることです。自ずと情報が入って参ります。」
(そういえば、開高健と今西錦司も同じことを書いておったぞ)
「わたしが案内いたしますので、しばらくは酒場や遊郭であそびほうけて暮らされませ。金子はいくらでも用意いたします」
3人はただ黙って、王という中国人の説明に聞き惚れていた。
*『薬研堀慕情』 好評連載中! 「薬研堀慕情(Ⅰ)」 「薬研堀慕情(Ⅱ)」 「薬研堀慕情(Ⅲ)」 「薬研堀慕情(Ⅳ)」 「薬研堀慕情(Ⅴ)」 「薬研堀慕情(Ⅵ)」 「薬研堀慕情(Ⅷ)」
- 2008/04/06(日) 00:49:56|
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