ビフォー・アイ・ワズ・ボーン サラの部屋で、好物の白い発砲性ワインを飲みながら、ふたりはよく話をした。中国語が7割、英語が3割の、途切れとぎれの会話ではあったが、日増しに意思の疎通はよくなっていく。
「どうして、こんなところで遊女をしているの?」
「どこの国の男も同じことを訊くのね、もううんざり。なぜ知りたいの?」
「まぁ、訊いておいてもよいかな、と思ったぐらいさ」
「その程度の理由なら、あまり話したくないわね。だって、話し始めると、とても長くなるのよ。いろんなことがあって、複雑にこんがらがっていて、わたしの語学力ではきちんとした説明はできないわ、残念ながら。ただひとつ言えることはね、いまこうして生きているだけマシだってこと」
「それなら、話題を変えよう。いまヨーロッパでいちばん強い国といったら、どの国なのかな?」
「いちばん強いって、どういう意味?」
「軍事的にさ。戦争したら、どこが強いっていう意味だよ」
「そりゃ、わたしの国でしょうね?」
「イギリスかい?」
「そう」
「どの国の人も、自分の国がいちばん強いと思っているんじゃないかい?」
「そうかなぁ・・・、オランダはオランダのほうが強いって思ってるのかな、やっぱり」
「日本人はみな、イスパニアが強国だと信じているんだよ」
「イスパニアって、スペインのこと?」
「スペインはもう落ち目ね」
「いつごろから落ち目なの?」
サラは話をさえぎった。どうやら話題に退屈しているらしい。
「ねぇ、葉巻を吸わない? マスターがハバナ産の上等な葉巻を用意してくれてるのよ」
サラはまるい缶から太い葉巻を1本取り出し、口にくわえて火を点け、口紅のついた葉巻の吸い口をそっと舌右衛門の唇におしあてた。舌右衛門はしばらく煙をくゆらせていたが、葉巻をいったんサラにかえすと、同じ質問を繰り返した。
「だからさ、スペインが没落したのはいつごろからなんだい?」
サラは葉巻の煙をふっと吹き出しながら、
「ビフォー・アイ・ワズ・ボーン」
と答えた。
舌右衛門は眼を見開き、「ハウ・オールド・アー・ユー?」と問う。サラは、女性に年齢を訊くなんて失礼よ、という顔をしながら、
「21」
と素っ気なく答えた。
この時代の年号を西暦に直すのはそう難しいことではない。関ヶ原の戦がおこなわれた慶長五年が西暦1600年ちょうどにあたる。下呂たち3名がマカオにわたった慶長15年は1610年。サラの生年を単純に計算すれば、1610-21=西暦1589年だから、日本では天正十七年。秀吉が九州征伐を終え、翌十八年より小田原城攻めに転じたころである。ちなみに、秀吉は関ヶ原の2年前、慶長三年(1598)に亡くなっている。
「あのさ、スペインの海軍ってね、日本では無敵艦隊って呼ばれてるんだ。世界最強の艦隊だとだれもが思っている」
「無敵艦隊って、Armada Invencibleの訳ね。それはねぇ、じつはイギリス人が名付けたものなのよ」
「やっぱりイギリスはスペインの艦隊を恐れていたんだ」
「違うのよ、皮肉をこめて、無敵艦隊と呼んだの」
「皮肉?」
「そう、アイロニー。わたしが生まれる前のことだから、よく分からないのだけれども、アルマダの海戦っていってね、スペインが大艦隊を組織してイギリス征伐に乗り出し、ブリテン島のまわりを一周したらしいの。そのあいだにイギリス海軍と何度も戦ったんだけれど、その海はイギリスのホームグラウンドなんだから、どの海戦でもイギリスはスペインに勝ってしまうのね。連戦連勝で、スペインはぼろぼろに負けてしまった。もう全滅というぐらいひどい負け方だったって聞いてるわよ。もちろんイギリス人は大喜びでね、完敗したスペインの大艦隊を揶揄して『無敵艦隊』と呼んだんだとわたしは教えられたのだけれど、・・・わたしもきちんと学んだわけではないから、くわしいことはわからないわ」
「ともかく、スペインが『無敵艦隊』と自称しているわけじゃなくて、・・・」
「イギリスがスペインを馬鹿にして『無敵艦隊』と呼んだということ」
舌右衛門は(信じられない)と思ったが、話に相づちを打つことにした。
「なんだ、それじゃサッカーの世界と似たようなものじゃないか?」
「そうそう、スペインのナショナル・チームはアルマダ(無敵艦隊)ってあだ名されているけど、たいして強くないものね」
「でも、スペインとイングランドがサッカーで戦うとすれば、どちらが勝つかわかんないよね?」
「まぁ、似たようなレベルね。たしかに、オランダのトータル・フットボールには敵わないわ」
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- 2008/04/10(木) 00:19:12|
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