古本漁り イスパニアの大艦隊がアルマダの海戦でエゲレス軍に大敗して壊滅したというサラの話を聞いて、舌右衛門は大きな衝撃をうけた。しかし、それはサラの生前の出来事であり、どこまで史実に近いのかは分からない。また、かりにアルマダでイスパニア艦隊が壊滅していたとしても、それから20年以上の歳月が流れているわけだから、イスパニアの軍事力が回復している可能性も十分あるだろう。
これから先は又聞きでは駄目だと、舌右衛門は判断した。より客観的で確実な証拠を探し求める必要がある。とりあえずは古本屋を中心に書店をくまなく探索することに決めた。この本屋めぐりには、メイドの小李とミレットにも同行してもらうことにした。利蔵と伸太はマカオの街の地理には明るくなってきたけれども、もちろん語学はさっぱりできない。小李の漢語とミレットのポルトガル語は資料探しの有力な武器になる。資金は潤沢にあるのだから、本を細かく選び分ける必要などない。とりあえず、「キーワードはArmadaだ」と全員に示しはしたが、そのキーワードがみあたらなくても、関係ありそうな資料は欧文であろうと、中文であろうと、手当たり次第購入するよう指示した。買いためた本の運び屋として、利蔵と伸太はよく機能した。
その一方で、舌右衛門は王賢尚を通じて、マカオの公立図書館と公文書館での資料閲覧の要望書を当局に提出していたのだが、予想どおり、公文書館への立ち入りは認められなかった。ただ、役人への鼻薬が効いたのか、図書館での閲覧については許可がおりた。図書館にも小李とミレットが同行し、舌右衛門を加えた3人で関係ありそうな文献を筆写していった。
夕食後、二組に分かれて資料を整理した。読める文献は日本語訳し、ノートにペン書きしていく。舌右衛門の部屋では舌右衛門とミレットが欧文の資料を整理し、利蔵の部屋では利蔵と伸太と小李が中文の文献を整理した。ただし、伸太はしばしばひとりで夜遊びにでかけるようになった。小李はとぼけたコメディアンのような伸太をおもしろい男だとは思っていた。しかし、伸太と利蔵のどちらかを選ぶとなると利蔵がタイプらしく、利蔵と小李は次第に仲睦まじくなっていった。
伸太にしてみれば、3人で利蔵の部屋にいても「居場所がない」という疎外感を覚えるだけ。ならば、夜遊びにでるしかない。舌右衛門もそれを咎めはしなかった。
ミレットは天真爛漫で情熱的なラテン系の美人だった。黒髪に黒い瞳。少し中国の血が混じっているのかもしれない。アングロサクソン系の知的な匂いを漂わせ、ブロンドの長髪に青い瞳のサラとは、なにもかも対照的に映ってみえる。サラはたしかに魅力的で、これまで多くの男を狂わせてきた自信が彼女に一種の風格すら与えているが、その気位の高さがマイナスに働く場合もあった。ミレットは美貌という点でサラに一寸劣る。しかし、なにぶん陽気で愛嬌があり、周囲をなごませる天性の資質を備えており、男たちはその癒しの魔力にいつしか心を奪われてしまう。舌右衛門は、ミレットと二人ですごす夜の仕事の時間が楽しみになっていった。笑いのたえない、艶やかな時間が流れていく。
「あなたの唇はとっても柔らかい。女の子のような唇だわ」
とミレットは驚いている。西洋人の男の、男らしいが、がさついた唇に比べれば、日本の小男の唇は女か稚児のように柔らかく、それがとても新鮮に感じられたのだ。
いろんな国の資料を漁るといっても、ここはマカオである。漢語とポルトガル語の資料だけで8割近くを占めた。まずはポルトガルとマカオの関係について学ぶしかない。
ポルトガル人が初めてマカオにやってきたのは1513年前後。明国の地方志に「澳門」という地名が記されているにも拘わらず、定住したポルトガル人は「澳門」の音訳や意訳ではなく、AmacaoもしくはMacaoという音声を使って、この地を呼んだ。この地名は舌右衛門らが着岸した「阿媽角」の広東語の音声アマコに因んでいる。澳門渡来後、ポルトガル人はただちに明王朝との交易を始め、1557年には明から居留権を獲得したが、この時期のマカオの領有権はあくまで明にあった。しかし、マカオは中国大陸における唯一のヨーロッパ人居留地であり、長崎方面との貿易を一時はほぼ独占していた。また、フランシスコ・ザビエルがマカオを拠点に日本や東南アジアで布教活動を進めたこともよく知られていよう。
舌右衛門が驚いたのは、ポルトガル本国の事情であった。この時期、ポルトガルはスペインの支配下に置かれていたのである。14世紀後半から続いていたアヴィシュ王朝が1580年に断絶し、スペイン王フェリペがポルトガル王を兼ねるようになり、ポルトガルはスペインの属国として17世紀を迎えていた(1640年に再独立)。このことをミレットに訊ねると、すこぶる機嫌が悪くなる。彼女は顔を強ばらせ、
「わたしたちはポルトガル人であって、決してスペイン人ではないわ!」
と吐き捨てるように言い、ポルトガルの国家的アイデンティティを強く主張する。しかし、舌右衛門はポルトガルを併呑してしまったイスパニアという国に対して、再び畏怖を覚えるようになっていた。
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- 2008/04/13(日) 00:30:46|
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