夜更けのノック これまで調査したすべての成果から判断する限り、当時の日本が最も警戒すべき国はスペインではなく、むしろオランダであると舌右衛門は判断せざるをえなかった。
歴史学的にみて、この推測は決して誤っていない。オランダ東インド会社は1624年に無政府状態にあった台湾に侵攻し、安平にゼーランジア城、台南にプロビンチア城を築いている。その2年後、スペインはオランダに対抗して台湾北部の淡水にサン・ドミンゴ城、基隆にサン・サルバドル城を築いたが、1642年にオランダはスペイン勢力を一掃し台湾の独占的植民地経営を成し遂げたのである。
いうまでもなく、オランダと徳川幕府との関係は良好であった。のちに鎖国が始まっても、中国とオランダだけが平戸に入港・居留を許される。オランダが台湾を拠点として、徳川幕府への働きかけを強めた賜である。
舌右衛門は考えにかんがえた。かりに伊達政宗の使節をローマに派遣したとして、スペインの艦隊は日本にあらわれるだろうか。その可能性は低いと言わざるをえない。スペインはなお西欧の強国であったが、大西洋の制海権を新興国イギリスが脅かしており、一方、アジアにおいても、属国であるはずのオランダが軍事と経済の両面で優位にたっている。徳川幕府を崩壊させるだけの海軍力がスペインにないはずはないのだが、かりに大軍をもって日本に侵攻した場合、大西洋の制海権をイギリスに奪われかねないし、徳川幕府に与するオランダとの海戦も覚悟しなければならない。
「何むつかしい顔してるの?」
とサラが問いかけてきた。
「勉強疲れさ・・・」
と舌右衛門は答える。
「それじゃ、ワインでも飲んだら。ねぇ、夕食は広東にする? それともポルトガル料理??」
「広東料理をお願いしようかな。量は少なめでいいから」
二人はサラの部屋で円卓を囲んだ。大きな鯛の蒸し物が円卓の中央に置かれている。舌右衛門は箸を使い、サラはナイフとフォークを使って、鯛の身をほぐし、口に運んでいった。白いワインとの相性はとても良い。
「ねぇ、これで仕事は終わったの?」
「あぁ、だいたい西洋の事情は理解できたよ」
「じゃぁ、もうわたしは用なし?」
「いや、まだすぐに帰国するわけじゃないからね」
沈黙の時間が流れ、サラは視線をそらしながら、ぶっきらぼうに言葉を発した。
「ねぇ、わたしをあなたの国に連れて行ってくれない?」
「どうしてまた、そんなこと言いだすの?」
「あなた以外の男に抱かれるのが煩わしくなってきちゃった」
「こんな年寄りの相手をするより、もっと若くてお金持ちの男を選んだほうがいいんじゃないかい。わたしには君を惹きつけ続ける自信はない。それに、マカオのほうがずっと刺激的で楽しいところだと思うけどね」
「日本に大きな町はないの?」
「江戸や大坂は大都会さ。そういう都市なら、君も気に入るかもしれないが、わたしの故郷は田舎町だから、きっと退屈になってマカオに帰りたくなるだろうね」
「どんなところ?」
「夏は結構涼しくてね、居心地はいいんだけど、冬には雪が積もる。寒いよ」
「ロンドンだって雪は降るし、寒いわよ」
「ロンドンの食べ物は美味しいの?」
「いえ、マカオのほうがだんぜん上ね。こんなに美味しい魚料理は食べられないもの。あなたの国の食べ物は?」
「海産物はとても美味しい。ただ、日本人は生の魚や貝を好んで食べるんだ」
「魚や貝を生で食べるの?」
「そう、新鮮な魚介類は生で食べるよ。信じられないだろ?」
サラは「貸し切り」状態がまもなく解除されることを喜んでいいのか、悲しむべきなのか、考えあぐねている。「籠の鳥」の退屈さを味わってしまったとはいえ、その退屈さが舌右衛門に対する恋しさとだぶってしまったことが妙に腹立たしい。貸し切りが解除されることで身辺に危険が及ばなくなるのは、ありがたいことではあるけれども、だからといって、普通の遊女の生活に戻ることが嬉しいはずもない。
「ねぇ、ほんとにあなたの国に連れていってくれない?」
今度は舌右衛門の目をみつめて、真顔でそう言った。舌右衛門は困った顔をした。
「君を足抜けさせるだけの財力がわたしにはないんだよ」
「王賢尚さんに頼んでみたら? だって、わたし、日本に行っても情報源になるし、通訳や翻訳だってできるわよ・・・」
「頼んでみるかな・・・ある日本の豪商がわたしたちのスポンサーだから、その大金持ちが認めてくれれば、君を連れて帰れるかもしれない」
「・・・それで、今夜はどうするの?」
「ここに泊まるさ。明日の朝、宿舎に戻って資料を整理しなおし、帰国のスケジュールを練り始めようと思っているんだ」
夕食後しばらくして、だれかがドアをノックした。ドアの外には伎楼のマスターが立っている。王賢尚の遣いが十字楼までやってきて、マスターに伝言を頼んだという。緊急の事態が発生したので、ただちに宿舎に戻っていただきたい、との指示であった。
こんな夜更けにいったい何の用なのだろうか。ひょっとしたら、大坂で戦が始まったのかもしれない。それを堺の今井宋薫が知らせようとしているのか、などと勘ぐりながら、舌右衛門は隣の部屋にいる利蔵と伸太に声をかけ、宿舎に戻ることを伝えた。サラに解読してもらったすべての資料は風呂敷に厳重に包んで背中に巻き付けた。
舌右衛門は「また来るから」と言ってサラの頬に唇を近づけ、サラは「ほんとに来てね、必ず」と答えて、脚を軽く折り曲げながら頬に唇を受け、ウィンクした。
時刻は深夜0時をまわっており、伎楼の外は闇に包まれていた。これが最後の十字楼になることを3人はまだ知らない。
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- 2008/04/16(水) 13:46:25|
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