冥土のミレット 翌朝十時ころ、舌右衛門はぼんやりと目を覚ました。体はまだ痺れていて、視覚も定かではない。
(ここはどこだ、わしは生きているのか、死んでいるのか)
ベッドの脇には、ミレット、ポルトガル人の医師、王賢尚が並んで腰掛けており、ミレットは舌右衛門の額に流れる汗をくり返し拭き取っている。
「どうやら意識が回復し始めたようですな」
とポルトガル人の医師が漢語で呟き、舌右衛門のまぶたを開け、眼球をじっと覗いた。
「殿、わかりますか、ミレットです。メイドのミレットですよ」
(冥土のミレット・・・やはりここはあの世か・・・)
それから四半刻ばかりして、ようやく舌右衛門の意識は正常に近づいた。伸太は同じ部屋のベッドに横たわっている。流石に若い分だけ伸太の回復は早かったが、いつものおしゃべりは影を潜めている。舌右衛門が口を開いた。
「ここはわしの部屋か?」
王賢尚が答える。
「そうです。下呂さまのお部屋ですぞ。わたくしどもが見えますか? あちらのベッドには伸太どのも横になっておられます」
たしかに、ミレットと白衣の男と王賢尚の顔が眼前にある。
「なぜ、わしは生きているのじゃ? だれかがわたしを助けたのですか??」
「広場に倒れられているのを早朝、町の者が発見し通報して参りました。だれかが助けたというよりも、賊が殿を仕留めずに消えたとしか考えられません」
「わたしたちは貴公の指示で館に戻ろうとしておったのですぞ。貴公らはわたしらを探しに行かれなかったのですか?」
「わたくしどもは十字楼に何の指示も出しておりません。賊の罠だったのです。この館にいても、十字楼にいても、警護は固い。殿たちをなんとか人気のない夜の広場に誘いだしたかったのでしょう。変装して遣いの者に化けるか、だれかを金で雇って十字楼を訪ね、マスターに帰宅の指示を出したものと思われます。」
「それに、まんまと引っかかったというわけか・・・」
何度考えても、舌右衛門は納得できない。十字楼から持ち帰ろうとした英文の資料とその和訳文書はすべて奪われたというが、舌右衛門の頭のなかにはその記憶が詰まっている。自分を殺さない限り、そのデータをデリートできないではないか。あの忍びは、なぜ自分を殺さずに、資料だけ奪って消えたのか。だれから指令をうけ、何の目的で自分を襲ったのか。
舌右衛門は王賢尚に問うた。
「賊が残した物証はありますか?」
王賢尚は、
「はい、利蔵どのの腿に突き刺さった手裏剣と殿の体にまきついた黒髪をこちらに保管しております」
と答え、レースのカーテンが垂れ下がる出窓の棚に置いていた金物の平箱をもってきた。中には血に染まった手裏剣と黒髪の束が、まるで考古学標本のように納めてある。
「伸太、この手裏剣は?」
と問うや否や
「甲賀のものにございます」
と伸太は答えた。
一方、痺れ薬が染みこんだ「みだれ髪」は妙に不自然な艶光りを際だたせており、その茫洋とした光り加減をじっとみつめながら、舌右衛門は(甲賀の赤影か・・・)と心の中で呟いた。
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- 2008/04/20(日) 00:30:08|
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