市中の山荘 慶長十五年九月十六日の夕刻、舌右衛門と伸太をのせた船は堺の湊津に着岸した。今井宗薫の手の者十名以上が二人を湊で出迎え、厳重に警護し、堺市五ヶ荘花田の今井屋敷まで導いた。宗薫は関ヶ原の功により河内・和泉二国の代官を命じられており、豪商であると同時に武家でもあった。その屋敷は織田有楽斎から譲り受けたもので、東西29間(約55メートル)×南北32間(約61メートル)の規模であったという。
離れの一部屋に二人は案内され、重要な資料はすべて大番頭風の男に手渡した。その日はすでに夜が更けていたので、宗薫との面会はないと伝えられた。大番頭風の男は、
「夕食は何になさいますか、なんなりとご用意いたしますが」
と舌右衛門に訊ねた。舌右衛門は湯漬けを所望した。大番頭風の男は呆れたような顔をして目を見開き、
「そんなご遠慮なさらずとも。獲れたての魚もございます。刺身でも煮付けでも・・・」
と説得したが、
「いえいえ、ほんに湯づけが食べたいのです。沢庵と梅干と塩昆布をつけてくださいませ」
と舌右衛門は念を押した。マカオで毎日食べてきた中華料理とポルトガル料理にも飽き、日本に帰ったら、とりあえず湯づけを食おうと決めていたのである。舌右衛門と伸太は、沢庵と梅干と塩昆布を湯漬けに混ぜて、何杯も腹にすすりこみ、「日本人に生まれて良かった」としみじみ語り合った。
翌朝目覚めると、庭の向こうに母屋や茶室がみわたせた。その屋敷は堺という大都市の街中にあったが、離れからみる景色には街の匂いがしない。当時の文人は「市中の山荘」を好んで普請した。都市のなかに築く山荘こそが贅を尽くした住まいだと考えられていたのである。人工環境のなかにいかにして「自然」を取りこむか、という点に贅を注いだと言い換えてもよかろう。その屋敷は、未だ桂離宮ほど数寄屋に傾(かぶ)いてはいない。母屋や離れは書院造であり、茶室は自然の素材を活かした本来の「侘び茶=数奇」の世界を表現するものであった。あえて近い例をあげるとするならば、大和郡山市に残る慈光院をイメージすればよいかもしれない。茅葺きの母屋を中心とする屋敷構えである。
「今井宗薫さまの御屋敷というからには、太閤がお住まいになった聚楽第とか伏見城のような豪勢な御殿に近いものかと思うておりましたが、案外、田舎めいておりますな」
と伸太は言う。落胆の色を滲ませた感想のように聞こえた。
「秀吉は田舎者の成金だから、キンピカの茶室を造って喜んだりしておったがな、茶匠というのは侘び錆びを重んじる。こういう枯淡の世界に美を求めるものなのだ」
と舌右衛門は説いてきかせた。
「屋敷は大きいですが、これぐらいなら国元の大庄屋にもございますし、家の造りもわれらが住む百姓家とさして代わり映えがせぬようにも思いますが、これが枯淡でございますか?」
「百姓家に美がある、ということが分からんか?」
「百姓家に美しさがあるのでございますか? マカオの洋館に比べれば、ただの薄汚い掘立小屋にすぎないようにみえまする」
「百姓家は美しい。茅葺きの屋根も、黒光りした柱や梁も、塗りっぱなしの荒壁にも美がある。農家や草庵の素朴な美しさを凝縮させたものが茶室なのじゃ。侘びや錆びとは、そのような美意識の境地をいう。こういう視座からすれば、中国の建物や庭はみな過剰装飾の悪趣味だと言わざるをえない」
「そういうものでございますか。だれがどうみても、マカオの洋館のほうがはるかに美しいと感じるのではありますまいか」
「そう思うなら、それでよかろう。中華料理やポルトガル料理のほうが湯漬けより美味いということだな」
「いえいえ、昨晩の湯漬けはほんに美味しうございましたな。日本に生まれて良かったと感じ入りました・・・」
まもなく大番頭風の男が、今井宗薫と面会する時間になったことを知らせにきた。二人は母屋の二十畳座敷に招かれた。廻り縁の向こうには枯れ山水の庭がひろがっている。しばらくして宗薫が座敷にあらわれた。もちろん代官である宗薫が上座、すなわち押板(床)の前に坐り、舌右衛門が縁側から対面した。
宗薫はまもなく還暦を迎えようとしていた。総白髪に茶匠らしい風格を漂わせており、表情は穏やかだが、ときに鷹のように鋭い目をする瞬間がある。
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- 2008/04/22(火) 00:00:40|
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