若桜の着兵衛 翌日、舌右衛門は城に出仕した。担当の奉行に「国元に戻りました」とだけ伝えると、しばらくして、その奉行から「おって藩主よりお召しがあるだろうが、最近は病気がちなので、面会は遅れるかもしれん」との沙汰をうけた。
その奉行は、舌右衛門が江戸に内地留学してきたものだと思っている。藩主と一部の重臣だけが幕府の密命を知っていた。
舌右衛門は城中でとくに用もないので、作事方の清水多久左右衛門を冷やかしに行った。一緒に昼飯を食おうということになり、お濠端の蕎麦切り「たかや」で待ち合わせた。舌右衛門は無類の蕎麦好きで、もりの大盛りを食べているだけですこぶる機嫌がよい。血圧が少し高いので蕎麦は良い薬にもなる。蕎麦湯を飲みながら、話が弾んだ。
「これほどの長旅になるとは思っておりませんでした。さぞかしお疲れのことと存じます」
「いや、まぁ、いろいろあったが、おもしろかった。くわしいことは、また高堂も招いて一献傾けるときにでも話してしんぜよう」
高堂という名を聞いて、多久左右衛門にある記憶が蘇った。
「そう言えば、薬研堀の茶屋から鮎どのが消えてしまいました!」
「えっ、なんでまた・・・・」
「二十日ばかり前、高堂と二人で茶屋に行ったのでございます」
「多久左・・・」と声をかけながら、舌右衛門は弟子の顔をみずに言葉を続けた。
「わしのボトルをあけたのか」
多久左右衛門は笑って誤魔化すしかない。
「あはは、あははっ・・・スコッチをすこっちだけ頂戴いたしました、だはは」
(人の芸をとりおって・・・)
「それで、鮎どのの姿が見えませぬゆえ、女将に訊いたところ、体調が悪いのでしばらく休むことになった、と申します」
「病なのか?」
「それが美雪どのやほかのおなご衆に訊きましたところ、鮎どのと女将が喧嘩して、鮎どのが茶屋を辞めたのだと言うのです」
「あのな、前にもそういうことがあったのじゃ。あの姉妹は仲がよいのか悪いのか。1年ほど前にも喧嘩して、鮎がひと月ばかり茶屋を休みおった。また、ひと月かふた月もすれば、戻ってくるのではないかの」
「それならよろしうございますが」
「まぁ、近いうちに行ってみよう。土産物も届けねばならんしのう。高堂と日取りを案配しておいてくれ」
その6日後、舌右衛門は弟子の清水多久左右衛門、岡村高堂と料亭「飛鳥」で落ち合った。いつもの2階座敷にポルトガル・ワインをもちこんでの酒宴である。高堂がワインの味に唸っている。
「殿は、かように妙味の酒を毎晩飲まれておったのですか?」
「晩に限らぬ、葡萄酒は昼でも飲む。食事には欠かせぬ飲み物である」
「うぅ~ん、この泡の感触がたまりませんな・・・魚とも味がよう合いますし」
多久左右衛門もまた白い発泡性の葡萄酒が気にいり、気が付けば2本のボトルが空になっていた。ただ、高堂も多久左右衛門も天井が気になって仕方ない。
「なにやら、今宵は天井がミシミシしておりますな。利蔵はマカオで食べ過ぎて太ってしまったのではありませぬか?」
と訝しがっている。舌右衛門は真実を話すことにした。
「利蔵はマカオで討ち死にした・・・」
弟子の二人はその言葉に驚いた。赤影の襲来から利蔵の埋葬に至るまでの経過を真剣に聞いている。そして、
「では今宵、天井裏におるのはだれなのございますか?」
と高堂が訊ね、舌右衛門が「ヤスじゃ」と答えると、弟子の二人はプッと吹き出した。
「あれは忍びのなかではいちばん重い輩ではございませぬか。25貫(×3.75=93.75㎏)もある巨漢が天井の上におるわけですな。あの大食らいが腹も減らしておることでございましょう、さきほどから腹の虫の音がグゥグゥ聞こえて参ります」
と高堂が言えば、
「グスクはどうしたのですか。グスクなら、屋根裏に潜んでも音は立てますまいに・・・」
と多久左右衛門が問う。
「それがな、グスクもガキも今宵はおなごと逢うらしくての、ヤスしかおらんのよ・・・」
「天井板はもちますかな?」
「梁の上に俯せになって梁に抱きついておればよいのだが、窮屈しておるであろうな。つい最近も、倭文の家で囲炉裏間の床板を抜きおったのよ。どこで術を学んだのか、ヤスはスキップのようにして飛び歩く癖があり、着地の瞬間、床板がバリッと破れてしもうたわ」
「根太の上を歩けば、そのようなことにはなりますまいに」
「そうなのだ、根太の上をスキップすればよいのに、根太と根太の間をスキップするから、床板が破れてしまうのだわ」
床下に潜む伸太も、この話を笑いながら聞いている。舌右衛門は話題を変えた。
「今宵は、もう一人、弟子を招いておる。藩校の後輩で、嶋田着兵衛という若者がおったのを覚えておらぬか」
「あぁ、たしかチャックという愛称で親しまれておりましたな」
「そうじゃ。あれがな、今は若桜鬼ヶ城に奉公し、勘定方で働いておる。おそらく、まもなくあらわれるであろう」
「着兵衛も忍びの仕事をしているのでございますか」
「いや、忍びではないが、草のような仕事をしてもらっておる」
草とは、敵方の家臣として生まれ育ちながら、間諜の仕事をする忍びのことをいう。とくに、忍術の訓練をうけているわけではないが、主君や重臣に可愛がられるような資質と演技力が必要とされる。
「あの者は上役から可愛がられるでしょうから、草として適役でございますな」
と多久左右衛門が話しているところに、座敷の襖がさっと引き開けられた。
「殿、お久しぶりにございます。嶋田着兵衛、若桜からただいま到着いたしました」
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- 2008/05/02(金) 11:49:34|
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