十字架の茶室 着兵衛は下座についた。横に坐る高堂が「駆けつけ三杯」と徳利を掲げたが、着兵衛は
「申し訳ございません。わたくしは下戸でございまして、酒を一滴も飲めません。不躾をお許しください」
と高堂に頭を下げた。
「着兵衛はタイムキーパーのように真面目で、よく働く男だが、敢えて欠点をあげるとすれば、酒が飲めぬことなのじゃ、許してやってくれ」
と舌右衛門が着兵衛を庇ったが、二人の兄弟子は「酒を飲めぬとは人生の楽しみの半分を知らぬ奴じゃ」という顔をしている。高堂が憮然として卓におこうとする徳利を着兵衛は奪うようにとりあげて、高堂、多久左右衛門、舌右衛門の順に酌をしてまわった。
「どう言い訳して、若桜の城下を抜け出してまいった?」
「祝言間近の許嫁が鳥取城下におりますので、その親御さまにあわなければならない、と上役には申し上げました」
この説明は、あながち嘘ではない。話題は一点に集中した。
「さて、鬼姫さまは鬼ヶ城におられますのか?」
「若桜のような田舎町は厭じゃと申されて、姫路城にながく滞在されておられたのですが、一月ばかり前に鬼ヶ城に戻られました。ただし、山崎公とは別居に等しい状態で、他の家臣や側室などと接触されることもなく、奥の一画に閉じこもっておられるということにございます」
多久左が舌右衛門のほうを向いて問う。
「なぜ姫路から若桜に戻ってこられましたのでしょうか? 夫婦仲がよくなるはずもありませんし、姫路におられたほうが気楽な毎日を過ごせましょうに・・・」
姫路で情報を得たばかりの舌右衛門が「姫路は姫路で鬼姫の扱いに苦慮しているようだぞ」と答えると、着兵衛がさらに説得力のある理由を示した。
「どうやら、若桜の鬼ヶ城を引き払い、弟君のおわす鳥取城に移られる準備のために戻ってこられたとのもっぱら噂でございます」
当世有数の孟女を鳥取城が受け入れようとしているという話を聞き、多久左と高堂は目を丸くした。舌右衛門がさらに問う。
「・・・着兵衛、ほかに変わったことはないか」
着兵衛は「騒動らしい騒動はおきておりません」と前置きしながら、一つ気になることがあり、腰元からの又聞きであると断りつつ、こう述べた。
「まるで隔離されているようなお住まいの奥に庭があり、その片隅に鬼姫さま専用の茶室があるのですが、その茶室がおかしな形をしておるというのです」
「おかしな形の茶室?」
「はい、十字形の間取りをしているのですが、屋根は十字形ではなく、隣接する軒の先端を結んで八角形にしているとのことでございます。」
「十字形平面の八角屋根か・・・」
「しかも、鬼姫さまはこの茶室に日参されておわしまする」
割烹「飛鳥」の2階座敷は講義室に変わった。師匠は弟子たちに「この建物をどう思う?」という質問を投げかける。「八角円堂を真似た茶室ではないか」と述べたのは高堂で、「鬼姫さまは熱心な臨済宗の信徒でございますゆえ、仏堂風の茶室を建てられたのではないか」と多久左は推量した。
師匠は「違う」と言い切った。
「八角の屋根が円堂のそれだという可能性はあるにしても、十字形の間取りをどう説明するのか。十字形平面の仏堂がこの世に存するのか」
と弟子たちの力量を試すように師匠は問い直す。弟子たちは答えに窮している。
「小型の天主堂ではないのか」
というのが師匠の解であった。天主堂とは、むろん教会のことである。十字の平面が十字架を象り、それを覆う八角屋根はドームの表現だという解釈に、弟子たちは度肝を抜かれた。その解釈が正しいとすれば、鬼姫は隠れキリシタンということになるからである。
「鬼姫さまは男勝りの孟女で、しかも、禅の修行を欠かさぬ熱心な仏教徒だと聞かされております。隠れキリシタンなどということがありえましょうか」
と拓左が疑念を示すも、舌右衛門はまばたきひとつぜず、「それは、キリシタンであることの隠れ蓑ではないかの」と呟き、さらに着兵衛に茶室の名を問うた。着兵衛は即座に答える。
「天久庵と号しております」
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- 2008/05/03(土) 00:50:50|
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