
27日午前、神魂神社に参拝し、出雲大社本殿の公開を意識し焦り始めたわたしは、出雲の設計事務所で働いている1期生の拓左、じゃなかったタクオに何度か電話した。そのときタクオは松江に来ていた。タクオは前日本殿を見学したらしく、いろいろ情報を教えてくれたが、電話で話し合う限りでは午後3時半の受付〆切には間に合わないという結論に達した。
わたしが焦っているもう一つの理由があった。5月16日に大学時代の恩師が出雲経由で鳥取に来ることが決まっていて、わたし自身が鳥取のホテルを予約していたのである。恩師が出雲経由にした理由は訊ねていない。とはいえ、その期間にも出雲大社本殿の公開があることを考えれば、理由を訊く必要などありはしない。なにせ、60年に一度の本殿公開なのだから、全国の歴史研究者や建築史研究者が出雲に集まるのは目にみえている。
師匠に、鳥取でこんなふうに質問されたら、どうしよう・・・
「なんや、あんた、まだ大社本殿、みとらんのか?」
こうみえても、わたしは出雲大社研究者の末席を汚しており、その名も
『出雲大社』というムック本まで出しているし、
古代出雲歴史博物館にはわたしが復元設計した模型まで展示されている。そんなわたしが、近隣の県に住みながら、恩師よりも昇殿が遅れたとなると、こんな恥ずかしいことはない。とにもかくにも、真っ先に昇殿しておかなければならない立場にあることを、米子への移動中、考え続けていた。
結果、カントリーパブハウス「夢」で、104を通じて出雲大社社務所に電話し、権宮司様のご厚意により、午後4時まで来着という条件で昇殿が認められることになったのである。くりかえすまでもなく、このため、六弦倶楽部
第6回練習会を中途退席することになり、メンバーの皆様には大変ご迷惑をおかけした。再度、お詫び申し上げます。

出雲大社には午後3時40分に着いた。拝殿脇のあたりで権宮司様と落ち合った。大変歓迎してくださったのだが、わたしのジーンズが行く手を阻んだ。タクオやだれだったかもう1名の方から、「ジーンズでの見学は駄目なんですよ」と念押しされていたのだが、わたしのジーンズは無印の黒で、ジーンズには見えにくいし、たぶん白装束を羽織ることになるから大丈夫だろうと踏んでいたのだが、やはり駄目だった。
「これ、ジーンズにみえますか?」
「みえますね、履き替えましょう。わたしのズボンがありますから、それでなんとか・・・」
「いや、それが、メタボでして、普通のズボンは入らないんです」
「ウェスト、何センチですか?」
「だからメタボということは85センチを超えておるわけでして、いま腰巻き振動ベルトを使って必死でエステしてまして・・・」
「とりあえず、ずぼん探してきますので、受付所で待っていてください」
ということで、わたしは受付所に坐ってまっていた。まもなく権宮司様は袋に二つのズボンを入れてもってきてくださった。急ぎ、ある場所でズボンを履き替えたのだが、やはりフックが届かない。仕方ない。ベルトをぐいっと引っ張り、ズボンが落ちないようにして、ベルトの部分をシャツで覆い隠した。さらにジャケットを着て、その上から白装束を羽織った。これで、フックの細部は完全に隠された。
わたしは権宮司様に連れられて八脚門から楼門をくぐった。たしか8年前、いちどだけ楼門をくぐり、本殿の足下まわりを一周し、写真を撮らせていただいたことがある。例の巨大な3本柱がみつかり、その調査委員会が組織されたばかりのころであった。
「ここに入るのは、福山敏男先生以来のことですよ」
と言われ、ことの重大さに驚きながら、およそ20分で八脚門の外にでた。


今回は違う。楼門をくぐり、そのまま階をのぼっていった。もちろんわたしだけがのぼったのではなく、多くの団体客と一緒だった。ただ、わたしは団体とは別行動で、権宮司様が1対1でご案内くださった。
もちろん写真撮影は禁止されている。だから、ここに映像で本殿の内部を示すことはできない。権宮司様は鏡天井の出現年代について質問された。わたしは、鏡天井といえば禅宗様のイメージが強いことを申し述べたが、仏教建築に天井が出現するのは10世紀の法隆寺講堂以来のことだから、平安時代にも絵を描いた天井があった可能性があるでしょう、と答えた。本殿の天井は、ご存知のように、極彩色の「八雲」が描かれている。内部の装飾性は神魂神社ほどではないが、この鄙びた意匠については「反仏教」を掲げた寛文の造替以降のもので、それ以前は神魂に勝るとも劣らぬ強烈な絵画が天井や扉に描かれていた可能性が高いであろう。

階の正面奥にある御内殿は切妻造平入の建物であった。流造ではなく、左右均等の切妻屋根であるという。御内殿の正面右側の壁には末社らしき小祠が数社附設されている。これはいわゆる「客人(まろうど)社」にあたるものであろうとのこと。こういう小社をみるのも、もちろん初めてのことである。
ちなみに、訪問客は筵敷きの廻り縁を歩く。本殿の内部は正面2間分の建具が外されているが、中に入ることはできず、正面の縁から内部を覗く。本殿を理解する上で大事な要素はスケール感である。床上本殿部分の大きさを体感し、記憶の中に刻み込む必要がある。なんとならば、古代や中世の高大な本殿も、床上の神殿部分の大きさは現本殿とさほど変わらないからである。その感覚がとりあえずは分かった。
大勢の見物客の邪魔になってはならないし、権宮司様の大切なお時間を潰すわけにはいかないので、20分ばかりで殿から降りた。その後、本殿のまわりを一周し、楼門の2階にあがらせていただいた。楼門は仏教建築の影響が非常に強い。組物その他の細部は和様を基調としている。
あせって大社まで車を走らせたので、加藤家住宅のパンフ以外には何の礼物ももっていかなかった。金一封を包もうとしたのだが、今回の公開は無料だということで断られた。ただご迷惑をおかけしただけで、なにも奉仕できない自分が情けなかった。ともかく、自分にできうることは権宮司様の貴重なお時間を奪ってはならないということであり、ずぼんを履き戻したあと、足早に大社を去った。権宮司様には、この場を借りて、深く深く御礼申し上げます。

少し時間が余ったので、久しぶりに出雲古代歴史博物館を訪れた。お目当ての2名は、やはり不在だった。不在だろうと思っていったら、実際に不在で、しかも1名は異動になっている。わたしは13ヶ月ぶりに自分の設計した復元模型の展示をみた。そして、カフェで一休み。すり下ろした生姜を茶こしで漉して炭酸水で薄め、メープルシロップで味付けする本物のジンジャーエールを飲んだ。800円もしたが、健康的な味がした。そのカフェでタクオに電話すると、大社方面に向かっているというので、旧JR大社駅(県指定文化財)の前にある蕎麦屋で落ち合うことにした。駅の駐車場に車をとめると、隣に軽自動車が駐車した。驚いたことに、その車からおりてきた若い女性は、作務衣のような衣装をきている。よくみると、さきほどジンジャーエールを飲んだ博物館カフェのウェイトレスさんだった。作務衣のような衣装はカフェのユニフォームであり、彼女はユニフォームをきたまま出退勤しているのだ。
わたしとタクオは「大梶」という蕎麦屋で、釜揚げとわりご2枚をたいらげた。
- 2008/04/29(火) 00:18:34|
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