地球と天球 若桜城の奥にあって鬼姫が日参する茶室が「天久庵」、そして、今まさに急ピッチの普請が進む鳥取城の新しい郭が「天球丸」と呼ばれている。「天久」と「天球」は同音異字の語であるけれども、だれもが「異字」ではなく、「同音」であることに注目した。舌右衛門は言う。
「たぶん鬼姫さまは天球庵とされたかったのだろうが、それを控えて天久庵と号されたのであろうな」
3人の弟子は、師匠が何を言おうとしているのか、まだよく分からない。
「ならば、その、天球とはいったい何でございますか?」
と問うたのは高堂であった。
「天球とは、西洋の古い天文学の用語でな。天は球体の面をしていて、その面に星や太陽が張り付いている。その球面を天球と呼ぶ。星や太陽は天球にあって、地球のまわりをぐるぐる廻っているという考えかただ。これを天動説という」
「星や太陽が地球のまわりをぐるぐる廻っているというのは、当たり前ではござりませんか。宇宙はまるいのですから、天球という概念が間違っているとは思えませんが、どこが古いのでしょうか」
「宇宙はまるくないのだよ。宇宙は無限にひろがっていて、そこに無数の星がある。地球はそのような星の一つにすぎない」
「地球は宇宙の中心ではございませぬのか」
「その他大勢の一つだ・・・」
「信じられませぬ」
「天球の星や太陽が地球の廻りをまわるのではなく、地球が自らくるくる回転しながら太陽の廻りをまわっている、という考え方を地動説という。地動説は古くから西洋にも中国にもあったのだが、確かな根拠に基づいて科学的な解釈を示したのはニコラウス・コペルニクスという司祭者だった。たしか天文12年(1543)のころだったはずだが、死の間際にコペルニクスは『天球の回転に就いて』という書を発表して、本格的な地動説を唱えるのだよ」
舌右衛門は「万有引力」「重力」「自転」そして「地動説」について理路整然と説明するのだが、
「信じられません・・・」
を高堂は繰り返す。多久左右衛門と着兵衛は、高堂より少し理解してきたようだ。
「まぁ、理解できないのが普通だ。ただしな、織田信長公は南蛮人が地動説を説いたとき、即座に理解されたと聞いておるぞ」
「信長公は、天才なのか狂人なのか、よう知りませんが、殿はなぜこんな知識をお持ちなのですか」
「明国に留学しておったとき、中国と西洋の天文学を学んだからだ。高堂、おまえが地動説を理解できないのは当たり前なのだ。かの西洋人にしてもな、とりわけ旧教徒は地動説に否定的で、カトリック信仰を冒涜する思想だとして地動説を主張する科学者たちを弾圧し続けている」
ふと、サラの青い瞳とブロンドの長髪が目の前に浮かんだ。サラと和訳した英文の新聞にも、ガリレオ・ガリレイという学者が批判の的になっている記事が含まれていたからだ。このころローマ教皇庁は地動説の否定にやっきになっており、ガリレイもローマの審問所に呼び出され糾弾されている。
「キリシタンにとってはな、天球が存在してもらわなければ困るのだよ」
と舌右衛門は講義を続けた。その理由を3人は知りたがった。舌右衛門はあっさり答える。
「天球の支配者が天主でなければならないからだ」
天主とは、もちろんキリストのことである。
「然らば、天球丸という郭の名は、天主の支配する世界という意味ではありませぬか」
と述べたのはしらふの着兵衛であり、二人の兄弟子は師匠と弟弟子の会話に眩暈を覚えていた。
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- 2008/05/04(日) 00:33:21|
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