鮎のいない茶屋 一刻半ばかりの重い話も一息ついた。席を替えて、薬研堀の茶屋へ参ろう、と舌右衛門が切り出す。ここで着兵衛は暇を乞うた。許嫁の屋敷に挨拶に行き、明日はまた若桜城に出仕するという。高堂が別れ際に着兵衛に言った。
「おぬしは良いのぉ・・・鬼姫さまが鬼ヶ城を去れば若桜藩6万石は安泰じゃ・・・それに引き換え、鳥取藩6万石は風前の灯火・・・・」
着兵衛はいつもの笑みを絶やさなかったが、ことの重大さをわきまえ、
「いえ、いま鬼姫さまは鬼ヶ城に居られ、天久庵という天主堂に日参されているのです。いまお取りつぶしの危機にあるのは若桜藩のほうにございます」
と答え、割烹をあとにした。
茶屋で遊んだのは、マカオにわたる直前の八月末が最後で、季節は十月末になろうとしていた。旧暦の十月末だから、すでに冬が間近に迫っている。外は寒いが、茶屋はあいかわらず大勢の客で熱気を帯びていた。ただ、鮎の姿はない。
女将がさっそく挨拶にきて、大きめの部屋に案内した。部屋と言っても、建具をあけっぱなしにした続き間の一画で、まわりの動きが見通せるようになっている。女将はどこかよそよそしい。「鮎はどうした?」と訊ねるのもはばかられたが、舌右衛門は懐から派手な布袋を取り出して、女将にわたした。
「マカオの土産じゃ。姉妹に一つずつ買ってきたのでな」
女将は「あっ、嬉しい!」と言って袋の中を覗き込んだが、土産物の実体を知り、きょとんとしている。「まったく、この腕白坊主は困ったものね」と子どもを叱る母か姉の表情に近い。袋の中に納められた十字架のネックレスを恐るおそる取り出しては、すぐ袋に仕舞い、
「もう・・・こんなもの買って帰ってきて、わたしたちが捕まったらどうするの!?」
と舌右衛門を責めた。舌右衛門はただにやにや笑っていて、「ちゃんと、鮎にもわたしてくれよ」と念をおした。
舌右衛門、多久左、高堂、伸太、ヤスの5人が席につき、3人のおなごが相手をした。一人は美雪だったが、残りの二人は、顔は知っているけれども名を知らない。ボトルは出国直前に入れたスコッチで、たしかに高堂と拓左が封をあけ、すこっちだけ減っていた。
舌右衛門は退屈だった。ヤスもこういう場に慣れていないので、つまらなそうにしているが、残りの3名は3人のおなご衆と楽しそうに話をして酒を飲んでいる。舌右衛門は話に加わる気すらおきない。
(わしは茶屋遊びが苦手なのかな・・・)
と考えてしまう。
同席した3人のおなご衆は、舌右衛門のお気に入りが鮎だということ知っている。だからというわけではないのだろうが、舌右衛門とはあまり話そうとしない。舌右衛門は黙って話をしばらく聞いていたが、やはり、どうしても鮎のことが気になるので、会話に割って入った。
「あのな、このボトルは鮎のために入れたのだぞ。なのに、帰国したら鮎がいない。これは、詐欺のようなものではないか・・・なんでまた鮎は茶屋を辞めたのじゃ?」
「あまり言いたかないんですけどね、女将さんと鮎さんが家ですごい口喧嘩したって噂なんですよ。それで、鮎さんが辞めるってことになったらしい。そういう話しか聞いてないんです」
「で、鮎はいまどうしておるのだ?」
「江戸に戻って、縫子をしてるって聞いてますけどね」
おなご衆の言っていることが正しいのか、どうなのかは分からない。ただ一つはっきりしたことがある。鮎のいない茶屋は退屈きわまりない、という事実だ。
舌右衛門は鮎を口説いたこともなければ、店外に連れ出したこともない。鮎を自分のものにしようという欲が湧かない。かりに誘っても、まともに相手にしてくれるはずがない。鮎を贔屓にする客は何十人もいて、自分はそのうちの一人にすぎない、と割り切っていた。
そもそも、茶屋をひとりで訪れる勇気がない。だれかおなご衆が席についてくれればよいが、客が多いとひとりにされる。あの沈黙の時間がたまらなく厭だから、茶屋には必ず二人以上で行くことにしている。ひとりで行けば安くあがるが、大勢で行くので金がかかる。だから、茶屋遊びなどやめるべきなのだが、しばらくすると、また茶屋に行きたくなる。しかし、この夜、よく分かった。鮎がいればこそ、また行こうという気になったのだ。鮎がいない茶屋は、通う価値のない店に変わっている。
ひと月後、伸太と二人でもういちど茶屋を訪れたが、やはり鮎の姿はみえなかった。舌右衛門は薬研堀の茶屋に通う意欲を完全に失ってしまった。藩外からの客の接待の場として1~2度使い、舌右衛門と同い年だった高堂の父親が急死した後、高堂と二人でしんみりと1度飲んだぐらいで、薬研堀の茶屋は舌右衛門の生活世界からほぼ完全に消えてしまった。
それに、なにより舌右衛門の人生を揺るがす大事件が発生したのである。倭文の屋敷で澪が倒れた。茶屋遊びなど続ければ、天罰が下ろうというものだ。
*『薬研堀慕情』 好評連載中! 「薬研堀慕情(Ⅰ)」鮎の茶屋 「薬研堀慕情(Ⅱ)」紫陽花の散る庭 「薬研堀慕情(Ⅲ)」七夕の黒髪 「薬研堀慕情(Ⅳ)」天の川へ 「薬研堀慕情(Ⅴ)」分身の術 「薬研堀慕情(Ⅵ)」別れの盃 「薬研堀慕情(Ⅶ)」メイドのみやげ 「薬研堀慕情(Ⅷ)」澳門漫遊 「薬研堀慕情(Ⅸ)」曼徳倫の夕べ 「薬研堀慕情(Ⅹ)」伎楼通い 「薬研堀慕情(ⅩⅠ)」ビフォー・アイ・ワズ・ボーン 「薬研堀慕情(ⅩⅡ)」古本漁り 「薬研堀慕情(ⅩⅢ)」籠の鳥 「薬研堀慕情(ⅩⅣ)」無敵艦隊の実態 「薬研堀慕情(ⅩⅤ)」夜更けのノック 「薬研堀慕情(ⅩⅥ)」赤影見参! 「薬研堀慕情(ⅩⅦ)」冥土のミレット 「薬研堀慕情(ⅩⅧ)」利蔵の死 「薬研堀慕情(ⅩⅨ)」市中の山荘 「薬研堀慕情(ⅩⅩ)」複数の経路 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅠ)」知恵くらべ 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅡ)」凱旋帰郷 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅢ)」膝枕 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅣ)」若桜の着兵衛 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅤ)」十字架の茶室 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅥ)」地球と天球 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅦ)」郭の天主閣 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅧ)」鮎のいない茶屋 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅨ)」田七人参
- 2008/05/06(火) 00:33:46|
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