田七人参 慶長十六年九月のある日、舌右衛門が藩校で講義を終えた直後に急報が入った。澪が倭文の家で倒れたという知らせであった。舌右衛門は即刻、馬を飛ばして帰宅した。
3人の子どものうち、下のふたりは泣きわめいている。ただ、長女の久美はしっかりと看病にあたっていた。グスクとガキが早馬を走らせ、かかりつけにしていた町方の医師を拉致するように倭文に連れ帰っていた。
澪は奥座敷で床に伏せっていた。意識は朦朧としている。ときおり嘔吐するらしい。舌右衛門は、床に伏せっている澪に言葉をかけた。澪はぼんやりながら舌右衛門を認知したらしく、「あなた」とだけ答えて、また昏睡に落ちた。舌右衛門は医師に症状を問うた。医師は辛そうに答える。
「奥様は生死の境におられます。前から申し上げておったとおり、右半身に麻痺症状がでているということは、左脳になんらかの異変があり、脳を腫らしていたのでしょうが、とうとう左脳の内側で血管が切れてしまったようでございます。」
「脳内出血ですか?」
「さようでございますな」
「打つ手はなにかございますか?」
「飲薬と坐薬を併用してみようと思います。飲薬だけだと、奥様は吐いてしまわれるかもしれませんので」
舌右衛門はマカオで買い集めてきた薬品のうち、どうしても使ってみたい丸薬があることを医師に告げた。それは「田七」という野生種に近い人参の生薬であった。雲南の東南部から広西にかけての高原地帯で少数民族が焼畑栽培する人参だが、その根は人参というよりも芋のような格好をしている。この丸薬は漢方薬の中でも最高の値がついており、めったに手に入らない。町方の医師が問う。
「高麗人参とはまた違うのですな?」
「高麗人参の兄弟のような種だとも言われていますが、田七こそが人参の原種と主張する学者もおるそうです。中国南方の高原地域で少数民族が栽培しているのですが、取り入れまで7年もかかる。だから、田七という名がついておるのです。7年かけて畑地の栄養分を吸い尽くしてしまうので、その畑地は雑草も生えないような荒地と化し、同じ場所での連作はできません」
「下呂さまは、その生薬を服用されたことはあるのでございますか」
「えぇ、もちろんあります。明国留学中に原因の分からない体調不良に陥り、発熱がおさまらず、モノを食べてもすぐに下痢をして、どうにもならなかったのですが、医師の薦めで田七の丸薬を買い求め、それを少しずつ削って服用しましたところ、半月あまりでその病が癒えました」
「そうですか、それは試してみる価値がありそうですな。脳の腫れを抑える効能があれば言うことはありませんが、少なくとも奥様の体に滋養を与えることはできそうですので」
田七人参の丸薬は長辺約2センチ、短辺約1センチの楕円状の固形物で、これを少しずつ小刀で削って粉にする。そして、熱湯に溶かして冷まし口から飲ませるとともに、液を綿に染みこませ坐薬とした。3日めになって、ようやく澪は意識を回復させ始めた。看病をしている医師や家族が何を話しているのか、だいたいのことは分かるらしい。ただ、澪は言語能力を大きく減じており、何かを話そうとしても語彙が滅茶苦茶になっていて、意味が通じない。親族の名すら思い出せないでいた。
医師は言う。
「このまま脳のなかの出血が自然吸収して消え失せ、脳の腫れがひいてくれば、言葉は少しずつ話せるようになっていくでしょう。ただし、右半身の麻痺は進んでおりましてな。右手は使えず、右眼はみえず、ということになります。血液が脳の神経を切ってしまったのですから、その回復は不可能ですので、この点はお覚悟ください」
澪は、とりあえず生死の境からこの世に戻ってきた。日がたつにつれ、嘔吐はなくなり、粥やみそ汁を口からとるようになっている。言葉も少しずつ通じるようになってきた。
舌右衛門は藩校に休職願いを出した。最初は2~3ヶ月でかたがつくだろうと思っていたのだが、その後、半年のあいだに澪はさらに2度の出血を繰り返した。そのたびに、右半身の麻痺は進んでいく。ときに舌右衛門は発狂するのではないか、と思うことがあった。澪のいない余生を考えると、頭がおかしくなりそうだった。
暗く、寒い夜、イロリ間でひとりギターラをつま弾きながら、舌右衛門は澪と知り合ったころの想い出に浸ることが多くなった。
澪は農家の娘だった。舌右衛門は曹洞宗の信者で、林泉寺という山寺で座禅修行をした帰りに、寺の近くの田で百姓の一家が稲こきしているのをみた。秋晴れの澄んだ空気が気持ちよく、無意識のまま足が稲こきの田に向いていった。まもなく昼過ぎのお茶の時間になり、家族がみな畦で休み始めた。そのとき、頬被りをとった澪の素顔をみて一目惚れした。「山躑躅のような娘」だとみとれてしまい、立ち止まった。化粧っけがまったくなく、簪もせず、ただ髪を束ねて櫛を刺しただけの澪をみた瞬間、嫁にするならこの娘しかないとまで思った。
澪の父には見覚えがあった。林泉寺の本堂で般若心経をともに読経した記憶がある。父親も、それを思い出したのであろう、
「おさむらいさん、こうこでも食べていかんだか。麦茶もあるでな・・・」
と声をかけた。舌右衛門は好意に甘え、一家とともに畦で麦茶を飲み、沢庵をかじった。以来、澪のことが頭から離れなくなった。林泉寺に通う頻度は増し、座禅のあとには澪の実家に手みやげをもって立ち寄るのが習慣化した。澪は美しく優しい娘だったから村中の男に好かれていたが、そのことで女たちの嫉妬をかうようなこともなかった。自分のことよりも、他人のことを優先する人柄が好かれていた。
澪の父母は、澪に婿を取ろうと決めていた。その候補も絞りつつあった。澪は父が決めれば、婿を拒否することなく受け入れたであろう。舌右衛門はなんとしても澪を嫁にしたくなっていた。まずは澪に「嫁になってほしい」と伝えたが、あっさり断られてしまった。澪に意中の男がいるのかどうかは分からないが、「自分は家の跡継ぎであり、父母を困らせるわけにはいかない」と考えているようだった。舌右衛門は諦めなかった。振られても振られてもプロポーズを繰り返し、5度目のプロポーズで、澪はようやく「父母にあって話してみてください」と答えた。
舌右衛門は学問で生きてきた。とても、農家の跡継ぎになることはできない。だから、澪の父母に土下座した。
「この家の婿にはなれませぬが、澪どのを嫁にくださりませ」
父母は「どうしても婿にはなれませぬか」と何度か問うたが、そのころの舌右衛門はまだ若く、学問に対して情熱を燃やしていた。そして、明国に渡ろうと決意していた。明国にわたれば2~3年は帰ってこれない。そのあいだに婿をとられてはかなわぬと思い、早々に祝言をあげたいと父母に懇願した。そうして二人は夫婦になったのである。祝言の日、化粧をし白むくに包まれた澪は、山躑躅から、真っ白な笹百合に変わっていた。まもなく澪は子を孕み、舌右衛門が明国滞在中に実家で出産した。澪の父母は孫娘を溺愛した。
その孫娘が母の看病に奔走している。澪は病んでいたが、あかるかった。左手で箸をもつ訓練をかかさず、動かない右手でも匙をもとうともがいていた。そうして粥をすする姿をみているだけで、舌右衛門は涙がとまらなくなる。自分ならば鬱病になるだろうに、なぜ澪はこれほどあかるいのか。
澪の闘病生活は、舌右衛門の人生観を変えてしまった。
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