富士屋のかわら版 山上の丸での評定については、山下の丸で勤務する下級武士には伝わらぬようにするという掟があった。しかし、今回の評定は藩を揺るがす大事であり、意固地な長吉の策謀に反感をもつ重臣たちは、酒の席などで、自分の家来にしばしば不満をぶちまけた。しぜん噂が噂を呼んで城内に浸透し、家臣一同に混乱をもたらし始めている。
舌右衛門が城内で作事方の清水多久左右衛門と出くわしたとき、多久左がしみじみと語った。
「殿が飛鳥でお話しになった憶測が、まさに現実になろうとしておりますな・・・困ったことにございます」
「・・・どういう噂を聞いておる?」
「長吉公はいったん天主閣の建設を保留にされたのですが、仙台藩が遣欧使節を派遣したという報せをうけて、また普請熱が高まり、天球院さまもまた一刻も早く天主閣をみたいと熱望されている由」
「ほかには?」
「山上の丸の評定で諫言を繰り返した筆頭家老が隠居を命じられました」
舌右衛門は少し俯いていたが、何かを思いついたらしく、顔を上げ、「かわら版を使ってみるか」と呟いた。多久左が「どういうことでございますか」と問う。
「伸太がな、最近仕事がないので、富士屋という刷り物屋で働いておるのよ」
「そこでかわら版を刷り、天主閣の件を触れまわるということですか?」
「あぁ・・・」
「あまりにおふざけが過ぎますと、身に危険が及びますし、なにより藩のお取り潰しの材料として幕府に使われませぬか?」
「いや、まぁ、藩がどのように火消しするか、試してやるわい」
舌右衛門はそのまま富士屋を尋ね、旦那に挨拶した。旦那は宮部時代、藤原西右衛門という武家だったが、関ヶ原後に禄を失い刷り本屋となった人物で、長吉の施政には不満をもっている。
「景気はいかがでございますかな?」
「はぁ、このご時世でさっぱりでございますな」
「ちとおもしろい企てがあるのですが、お耳をお貸しください」
「伸太どのはどうされますか?」
「あぁ、あれも呼んでくだされ」
3人はひそひそと密談を始めた。富士屋の主人はこの企てに大乗気になった。
「下呂さま、ワクワクしますな。藩のお偉方の鼻をあかしてやりましょう。版画の腕をふるいますので、おもしろい文面を考えてくださいまし」
「あまり派手にやりすぎると、藩がお取り潰しなって、わたし自身が禄を失いますがな」
「禄を失ったとしても、わたしと同じ身の上になるだけではございませんか」
「まぁ、そうです。問題は伸太の演技力だがな、おまえは変装できるのであろうな」
「はい、これでも忍びのはしくれでございますゆえ、変装の基本は学んでございます」
「で、だれに化けるつもりだ?」
「かわら版屋といえば、コロッケですが・・・」
「なるほど、それでいくか」
その3日後、伸太は二階町の辻にたっていた。とりあえずコロッケの格好に扮装してはみたのだが、いまひとつサマになっていないので、鬼の仮面を被ることにした。グスク、ヤス、ガキの3名がサクラ兼見張り係りとして町人姿で辻を固めている。
「さぁさぁ、大変だよ。鳥取城は大騒ぎだ。若桜の鬼ヶ城から鬼姫さまをお城に迎え入れたんだがね、その鬼姫さまがさ、なんと隠れキリシタンだっていうんだよ。あの豪傑女が十字架のネックレスをして、アーメンってお祈りしてるってんだからおもしろいじゃねぇの。おまけに長吉公は、天球丸に大きな大きな天主堂を造ろうって魂胆だってんだから、気が触れちまったんじゃないかい。このままだと、鳥取藩はお取り潰し間違いなしだよ! ほら、あとはこの極彩色のかわら版を読みなんせ。1枚たったの十文だ・・・さぁ、買った、買ったぁ!」
またたくまに人集りができ、奪うようにかわら版を買っていく。辻から辻へ移動して、同じ口上で宣伝すると、また伸太のまわりに人集りができ、かわら版は飛ぶように売れていった。しばらくして、騒動を知った町方の同心と与力が現場に向かったが、もちろん見張りの3人から伸太に合図がでており、伸太は町家の庇に飛び上がって背面の軒の陰に隠れ、変装をといた。この時代の町家は農家に近い茅葺きや杉皮葺きの平屋が多かったが、二階町など一部の街区では瓦葺きか板葺きの厨子2階をもつ御店が軒を連ねていた。厨子2階の町家は、2階を低い物置としているので、大屋根と1階の庇とが近接しており、庇に上がれば身を隠しやすい。大柄の者なら動きにくいが、小柄の伸太は庇の裏側を疾走するように移動した。東町のあたりで小路にあらわれたとき、伸太はごく普通の町人になりきっていた。
現場でかわら版をみた同心と与力は、文面にも驚いたが、極彩色の版画に目を見張った。鬼の顔をした天球院が首に十字架のネックレスをかけて、左手に薙刀、右手に聖書をもって「アーメン」と唱えている。おまけに、鬼姫の背景にはセント・ポール教会に似た「天主閣」の絵がうっすらと描かれているではないか。同心と与力はまわりにいる町人からかわら版をとりあげたが、すでに数百枚が町人の手にわたっているらしく、そのすべてを回収することは不可能であることを知った。二人はただちに城に戻り、この件を上司に報告した。
伸太はころあいを見計らって富士屋に戻った。すでに印刷の版は焼却処分されていた。同じ炉に変装の衣装など証拠となるものをすべて放り込み焼却しようとしているところに、富士屋の主人があらわれた。
「どうでしたかな、首尾は?」
「はぁ、よう売れました。今宵は茶屋にでも参りましょうか」
伸太は深夜ふたたび町家の庇にひょいと上って、大屋根の軒裏に隠しておいた売れ残りのかわら版を路面に撒き散らした後、薬研堀の茶屋の門前で富士屋の旦那と落ち合った。
暖簾をくぐると、驚いたことに、鮎がいた。鮎も伸太を発見したが、他の客の席についたままで、伸太を無視し、挨拶にもあらわれなかった。
*『薬研堀慕情』 好評連載中! 「薬研堀慕情(Ⅰ)」鮎の茶屋 「薬研堀慕情(Ⅱ)」紫陽花の散る庭 「薬研堀慕情(Ⅲ)」七夕の黒髪 「薬研堀慕情(Ⅳ)」天の川へ 「薬研堀慕情(Ⅴ)」分身の術 「薬研堀慕情(Ⅵ)」別れの盃 「薬研堀慕情(Ⅶ)」メイドのみやげ 「薬研堀慕情(Ⅷ)」澳門漫遊 「薬研堀慕情(Ⅸ)」曼徳倫の夕べ 「薬研堀慕情(Ⅹ)」伎楼通い 「薬研堀慕情(ⅩⅠ)」ビフォー・アイ・ワズ・ボーン 「薬研堀慕情(ⅩⅡ)」古本漁り 「薬研堀慕情(ⅩⅢ)」籠の鳥 「薬研堀慕情(ⅩⅣ)」無敵艦隊の実態 「薬研堀慕情(ⅩⅤ)」夜更けのノック 「薬研堀慕情(ⅩⅥ)」赤影見参! 「薬研堀慕情(ⅩⅦ)」冥土のミレット 「薬研堀慕情(ⅩⅧ)」利蔵の死 「薬研堀慕情(ⅩⅨ)」市中の山荘 「薬研堀慕情(ⅩⅩ)」複数の経路 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅠ)」知恵くらべ 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅡ)」凱旋帰郷 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅢ)」膝枕 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅣ)」若桜の着兵衛 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅤ)」十字架の茶室 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅥ)」地球と天球 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅦ)」郭の天主閣 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅧ)」鮎のいない茶屋 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅨ)」田七人参 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅩ)」天球院入城 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅩⅠ)」天下分目 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅩⅡ)」富士屋のかわら版 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅩⅢ)」賞金首
- 2008/05/09(金) 00:38:43|
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