賞金首 キリシタン鬼姫と天主閣を描くかわら版は、ただちに重臣を通して長吉の元に届けられた。重臣たちは、それみたことか、という顔をしている。
長吉は即座に対応策を指示した。城下の辻という辻、それに橋の袂に高札を掲げて、以下のことを記すように申し述べた。
一、かわら版の内容はまったくの出鱈目であり、鳥取藩を窮地に
陥れようとする策謀にほかならない。
一、天球院は熱心な臨済宗の信者でキリシタンとはなんの係わり
もない。
一、天球丸に天主閣を普請するなどという計画もまったくない。
一、かわら版の作者について情報をもたらす者には褒美を与え、
犯人を知らせた者には金十両を与える。
かわら版は舌右衛門と富士屋の共作であり、それを売り歩いたのは伸太であるから、この3人の首に十両の賞金がついたことになる。賞金首になっただけの効果は十分にあった。長吉は、事実上、天主閣の造営を断念せざるをえなくなったからである。結果としてみれば、このかわら版事件は藩の家臣や領民に大歓迎されたと言える。
長吉は警戒感を深めざるをえなかった。大坂方に付くという意向が表面化すると、また新しいかわら版が頒布される可能性がある。今回の記事は「嘘だ」ということで誤魔化せたとしても、謀反にかかわる新たなかわら版が出たとなれば、幕府もこれを見過ごすわけにはいかなくなるであろう。ことは慎重に運ばなければならない。
かわら版事件は長吉に警戒感を抱かせ、諫言を続ける重臣団に有利に働いたが、長吉は野心を捨てきれずにいた。大坂方に付いて功をなし、姫路以上の城の主になりたい、という気持ちは揺らがない。かわら版事件の後始末に関わる評定でも、長吉はあいかわらず、
「わしの言うとおりにすれば、バラ色の未来が待っておる」
という主張を繰り返した。なんの根拠もない構想に重臣たちは辟易するしかなかったが、それに従えば、お家断絶は必至であり、なんとしてでも長吉を改心させねばならなかった。
議論は膠着状態に陥っている。すでに一年ちかく膠着状態が続いていた。長吉を隠居させ、嫡男の長幸を藩主に据えようと動く重臣もいたが、長幸はまだ藩主を嗣ごうとは思っていない。ただ、なんらかの調整が必要だという認識をもっており、評定の席で重い口を開いた。
「3年あまり前、駿府の御命によりマカオにわたって、西洋の事情を調べた者が藩校におるはずです。たしか、下呂とかいう学者でした。あの者を評定に呼んで、マカオで得た情報を細かに聞き、判断を下してはいかがでございましょうか」
嫡男の提案に長吉は厭な顔をしたが、重臣たちはこぞって長幸の進言を支持した。長吉は、これに条件をつけた。
「しばらく時間がほしい。あの下呂という学者はなにやら怪しいところがあっての、その身辺を洗わせるゆえ、ふた月後の評定に呼ぶことにしよう」
長幸と重臣たちは、藩主の意向に従った。
そのころ舌右衛門は富士屋で祝杯をあげていた。スルメの一夜干しをアテに、一升瓶の酒を茶碗で飲むささやかな祝宴だが、かわら版の企てがあまりにうまく運んだものだから、3人の顔に笑みが耐えない。3人は高札の文面をすでに暗記しており、それを復唱しては大笑いしていた。
ふと、伸太が話題を替えた。
「鮎どのが薬研堀の茶屋に戻っておられますぞ」
「そうか・・・」
舌右衛門がとくに喜んだ表情をしないので、伸太は拍子抜けした。
「会いに行かれませんのか?」
「あっしには係りのねぇことでござんす」
「・・・そうですな、奥様のことがございますゆえ」
「澪の苦労を思うと、茶屋遊びなんぞできんわな。で、おまえはなんで茶屋に行ったのじゃ」
「へへ、このかわら版があまりに売れましたもので、宵越しの銭はもたねぇ、さっそく茶屋で遊ぼうということになり、旦那さまとふたりで行ってきたのでございます」
「そうか、それで銭を使いはたし、今宵はスルメしかないわけだ」
富士屋の旦那は申し訳なさそうな顔をしている。
「いや、申し訳ありません・・・」
「なんのなんの、こういう酒がまた楽しいではござらぬか」
「そう言っていただくと助かります」
舌右衛門は伸太に問いなおす。
「それで、鮎は相手をしてくれたのか」
「・・・はっきり言って無視されました」
「そうか、わしが行ったとて同じ扱いであろうな」
それから数日して、舌右衛門は田中という家老に呼び出された。ふた月後、山上の丸での評定に出席せよ、という命である
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- 2008/05/10(土) 00:43:02|
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