評定半日 ピーンと張りつめた空気を断ち切るように、嫡男の長幸が口を開いた。この日の評定を仕切っているのは長吉ではなく、長幸であることを重臣たちは頼もしく思っている。長幸は粘り強く舌右衛門から情報を聞き出そうとした。
「西洋の事情をもっともよくご存知の下呂どのは、大坂方に付くという藩主のお考えについて、どう思われまするか」
「その件についての意見を述べるのは控えさせていただきます」
「なぜですか?」
「わたしの役目は、マカオで見聞した西洋の事情をお伝えすることでございます。その事実に基づいて、皆さまがたがご判断いただければよろしいかと。ただ、そう思っております。もっとも、わたしの述べることが、すべて大嘘だと申されるのでしたら、わたしの存在意義などありませぬが」
「いやいや、さきほどは父上も興奮のあまり口がすべったとお考えくだされ。多少なりともご意見をお聞かせいただけませぬか」
「いえ、こういう状況で江戸方に付くべきだとかりに述べたとしても、幕府の間諜だからだと非難されれば、それで終わりにございます」
舌右衛門は意見を述べぬといいながら、いま意見を述べたことに出席者は気づいている。長幸はこれを喜びながら、さらに問うた。
「意見を述べたくない、ということでしたら、なにか、もう少し参考になる事実はありませんか」
「今井宗薫さまのお屋敷で、今井さまと一刻ばかりお話をいたしました」
「ほう・・・」
「お互い腹を割って話したわけではありませんで、腹の探りあいに終始いたしましたが、今井さまはこのたびの事態を深く見通されているように感じました」
「と申しますと・・・」
「つまり、今井さまはこの藩の企みも、わたしを襲った賊のことも何もかもお見通しであるような発言を何度かなさいましたのでございます」
「ということは、駿府の大御所も同じだと言われたいのですな」
「さようにございます。大御所さまは、鳥取藩池田家に謀反の動きありとお察しのことと推察いたしました」
この発言に、再び重臣一同どよめいた。長吉だけが、それに反発し、
「所詮、その意見も、おぬしの推測でしかないのだろうが」
と切って返す。
ここで舌右衛門への詰問は終わった。それから藩主と重臣はいつもの論争を繰り返した。藩主は「大坂方に付いて功をなす」という主張を譲らず、重臣団はこれを諫めた。この日の評定で舌右衛門が述べた「事実」の数々は、あきらかに重臣団に有利に働いている。重臣団の諫言には説得力が増しているが、長吉は立場がわるくなると、伝家の宝刀を口にした。
「そこに坐っておる学者はな、学者でもなんでもない。伊賀の上忍じゃ。徳川家の犬として、わが藩に忍びこんでいるだけでな、わしはそのことを知っておったに、マカオにも行かせたし、今日まで生き延びさせてやってきたのじゃ。にもかかわらず、今日の評定では大法螺ばかり吹きおって、みな、この者の言うことは信じてはならぬぞ!」
長幸が長吉を諫め、「父上、お控えください」と言えば言うほど、長吉は激昂し、
「いまにみておれ、この藩に忍びこんでおる伊賀者はみな投獄し、拷問の上、十字架に磔りつけじゃ。思い知らせてやる!」
との恫喝を繰り返す。
舌右衛門は、その恫喝をただ黙って聞いていた。このような狂気の評定が半日続いた。昼下がりから始まった評定は暮れ六つをすぎて、ようやくお開きとなった。藩主と重臣は山上の丸にとどまったが、舌右衛門はひとり暗がりの石段を大手門に向かっておりていった。
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- 2008/05/13(火) 00:12:55|
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