正体 舌右衛門の太刀が振り下ろされる瞬間、鮎は身を反らせて太刀をかわし、そのままくるりと反転して、縁の上に跪き、身構えた。猫のような身軽さである。一連の敏捷な動きが、鮎の正体を証していた。
「・・・・だんな、あたしを殺そうってんですか」
と鮎は舌右衛門を睨みつける。舌右衛門は、にこりと笑い、
「すまん、すまん、これは竹光じゃ。わしが命の恩人のそなたを殺そうと思うわけなどないわ。ただ、くのいちであることを証明してみたかっただけだ」
と答えて、竹光の太刀を鞘におさめた。
「命の恩人?」
と鮎は問う。
「あぁ、命の恩人だ。マカオに派遣された賊がそなたでなかったら、わしは殺されておった。生かしてくれたことを心から感謝しておる。利蔵の件は残念だが、伊賀者と甲賀者の斬り合いなのだからな、仕方あるまい・・・」
鮎はたちあがって、向拝の階(きざはし)をおりていった。芝居も終わった、という諦め顔をして舌右衛門に問う。
「下呂さま、あたしが甲賀のくのいちだって、いつから気づいたんですか?」
「この境内で襲われたときから怪しいと思い始めた。あの夜、刺客を送った主犯はだれか、と考えたのだがな、池田長吉以外はありえぬ、と直感した」
「どうしてですか?」
「わしがマカオに行くことを知っていたのは、柳生の密書を受け取った長吉だけなのだ。それに、分身の術を使う忍びが甲賀の者であったからな。池田長吉は鳥取城に移封される前は近江甲賀郡水口城3万石の城主であり、水口でわたし自身、短期ながら宮仕えしていたのだからな・・・当然、長吉は甲賀の忍びを大勢囲いこんだまま鳥取にやってきたと考えるべきであろうが」
「長吉さまと甲賀が結びつくのは分かりますが、茶屋までは結びつかないでしょう?」
「襲われたのが、茶屋をでた直後だったからな。茶屋でおなご衆はわしらの話をいくらでも聞けるのだから、こちらの動きが茶屋を通して長吉に筒抜けになっておる、とあのとき感じとったのだ」
「そんなに早くからお気づきでしたんですね。たしかに、あの夜、わたしは本堂の屋根の上で決闘の一部始終をみてましたよ。予想以上に手強い相手だって思ってね、倒すには研究が必要だと」
「どうして、みだれ髪を使わなかった? 髪を黒く染めていたのに」
「あの日は風向きがわるくてねぇ・・・」
鮎は自分が甲賀のくのいちであることを認めた。こんどは舌右衛門が鮎に問う。
「平戸経由でマカオに行ったのか」
「えぇ、マカオには大坂方の商人もいますからね。そこを拠点に下呂さまを見張っておりました」
「どこまで侵入していたのだ?」
「宿舎の洋館も、十字楼という遊郭も、みんな覗かせていただきましたよ」
「王賢尚の手下たちには悟られなかったのか?」
「ああいう柄のでかい連中は力はあるでしょうが、でくの坊でしてね。気配を察知する能力なんかありゃしませんよ。わたしは影ですから、暗くなれば、こちらのもの。暗闇で気配を消せば、だれもわたしに気づきません」
「ということは、わしの部屋の天井裏におったのか?」
「いましたよ。殿がエゲレス女やポルトガル女とお戯れになるところ、きっちり覗かせていただきました。あちらでは男日照りでしたから、結構刺激が強くてねぇ。それにしても、殿は、床上手ですわね。なんで、わたしもこういう風に抱いてくれないのかって、ふふふ」
舌右衛門はその話を聞いて赤面し、「馬鹿をいうでない」とうろたえたが、鮎はただ微笑んでいる。舌衛門は、話題を変えた。
「そなたが赤影としてわしを仕留めなんだこと、長吉は怒らなかったのか」
「伊賀者をひとり殺ったところに、王賢尚の手下がかけつけたので、残りの二人は打ち損じたんですが、資料はまるごと奪いとりましたって申し上げたら、まぁ仕方ないとお答えになるだけで、お怒りにはなりませんでしたよ」
舌右衛門が「あの暴君も、おまえには優しいのだな」と言うと、しばらく間をおいて、
「わたしたちは長吉さまの伽もさせられますからね」
と鮎は答えた。舌右衛門は目を剥いた。が、そう言えば、くのいちの美女を側女におく武将も少なくないことを思い出した。
「・・・くのいちは少女のころから性技を鍛えられると聞いておる」
「えぇ、そのとおりですよ。あのとき、隙のできない男はいませんからね。手強い相手を葬るには床がいちばんですよ」
「・・・・」
「長吉さまは正室も側室ももう飽きた、と申されます。くのいちの性技を知ったら、普通のおなごでは満足できぬ、とたいそう喜ばれておりまして、わたしと妹がかわりがわりに伽をするのです」
「・・・茶屋で客はとらぬのか?」
「とりますよ。この業界じゃ、一度寝てやったら、その男は3年通ってくるっていいましてね。いちど寝ただけで、まるで自分の女にしたような顔してさ。あれは自分の女だと思っている男が隣り合う席に坐って、なにも知らない・・・たいそうな貢ぎ物もしてくれますよ。一両や二両の小遣いはすぐくれますしね。下呂さまだけです、わたしを外に誘いだそうとしなかったのは。今夜、初めて誘い出されたと思ったら、このざまなんだから・・・」
舌右衛門は『課長 島耕作』を思い出していた。銀座のバーのマダム、松本典子が同じことを言っていたからだ。一度寝てやったら、男は3年通ってくる。とくに、若いころに遊んでいない真面目な中年サラリーマンはメロメロになって、なんでも貢ぐ、と。
*『薬研堀慕情』 好評連載中! 「薬研堀慕情(Ⅰ)」鮎の茶屋 「薬研堀慕情(Ⅱ)」紫陽花の散る庭 「薬研堀慕情(Ⅲ)」七夕の黒髪 「薬研堀慕情(Ⅳ)」天の川へ 「薬研堀慕情(Ⅴ)」分身の術 「薬研堀慕情(Ⅵ)」別れの盃 「薬研堀慕情(Ⅶ)」メイドのみやげ 「薬研堀慕情(Ⅷ)」澳門漫遊 「薬研堀慕情(Ⅸ)」曼徳倫の夕べ 「薬研堀慕情(Ⅹ)」伎楼通い 「薬研堀慕情(ⅩⅠ)」ビフォー・アイ・ワズ・ボーン 「薬研堀慕情(ⅩⅡ)」古本漁り 「薬研堀慕情(ⅩⅢ)」籠の鳥 「薬研堀慕情(ⅩⅣ)」無敵艦隊の実態 「薬研堀慕情(ⅩⅤ)」夜更けのノック 「薬研堀慕情(ⅩⅥ)」赤影見参! 「薬研堀慕情(ⅩⅦ)」冥土のミレット 「薬研堀慕情(ⅩⅧ)」利蔵の死 「薬研堀慕情(ⅩⅨ)」市中の山荘 「薬研堀慕情(ⅩⅩ)」複数の経路 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅠ)」知恵くらべ 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅡ)」凱旋帰郷 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅢ)」膝枕 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅣ)」若桜の着兵衛 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅤ)」十字架の茶室 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅥ)」地球と天球 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅦ)」郭の天主閣 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅧ)」鮎のいない茶屋 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅨ)」田七人参 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅩ)」天球院入城 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅩⅠ)」天下分目 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅩⅡ)」富士屋のかわら版 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅩⅢ)」賞金首 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅩⅣ)」伊賀者の末路 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅩⅤ)」幕府の間諜 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅩⅥ)」評定半日 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅩⅦ)」再会 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅩⅧ)」告白 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅩⅨ)」正体 「薬研堀慕情(ⅩⅩⅩⅩ)」依頼
- 2008/05/19(月) 00:16:30|
- 小説|
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