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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

恩師来鳥 -蓮如の道

西川先生01尾崎家01

 大学時代の恩師が出雲大社の公開で昇殿され、鳥取経由で帰京されるという連絡が一月ばかり前にあった。先生は日本都市史のパイオニアで、とくに蓮如が各地で築いた「寺内町」の研究で知られている。毎年、研究室の成果物を送っているのだが、とりわけ『尾崎家住宅』の報告書に注目された。尾崎家住宅に残る仏間、すなわち堅田門徒の「道場」をみたいということなのでご案内した。
 先生は16日の夕方に駅前のホテルにチェックインされており、某准教授、某助教とわたしの3人でお迎えに。ホテルから懇親会場の「匠」にお連れした。まもなく県庁からM女史も合流。
 何年か前に来鳥された際も懇親会は「匠」だったのだが、前回は2階で魚料理、今回は1階でしゃぶしゃぶとした。肉は河原の和牛とのこと。美味しかったな・・・7時から始めて10時過ぎまで先生は間断なくお話しされた。とくに記憶に残ったのは、中国の連邦国家制のお考えである。
 ほかには、中国とロシアのおかげで、マルクスはいい迷惑を被ったというお話。つまり、マルクスのいう社会主義は資本主義が高度に発展した段階でようやく到達するものであり、イギリスとか北欧諸国あたりが採用すれば結構うまくいったかもしれないが、中国とロシアという封建国家がいきなり社会主義を飛び越えて「共産主義」を唱えたばかりに、マルクス主義の中身がマルクスの主張とはまったく異なった悲惨なものになり、「マルキシズムは駄目だ」という烙印を押されてしまった・・・中国とロシアのおかげで、マルクスは大変な迷惑を被った・・・・たしかにそうかもしれない。
 「匠」をでてホテルまでお送りし、残る3人とお茶でも、と思ったのだが、まぁいいか、と考えなおし、「茶屋」へお連れした。というわけで、3人は鮎殿のモデルさんとご面会。ここでも話は弾みましたね。鮎殿とM女史と助教は同世代で、とくに女性ふたりで「占い」の話に熱中してました。それはさておき、M女史はどうしても出雲大社本殿の公開に行きたいというのだけれども、あそこは結婚前のカップルが行くと御破談になる神社として有名だから気をつけるよう諭しておきました。

西川先生01尾崎家02仏間01

 翌17日、9時にホテルにお出迎えし、まずは加藤家住宅へ。ここでエアポートが待っていたのだが、まだ雨戸も開いていない。肝心のパンフレットも届いていない。どうしてか、と訊けば、

   「ホカノさんがまだ・・・・」

とのこと。自分のゼミの恥を公開することになるから書かないほうがよいのだろうが、やっぱり書く。

  これまでいろいろな人類と出会ってきたが、ホカノ以上に学習能力のない
  人物がこの世にいるとは思えません。

 この日と同じような遅刻はすでに何回あったか分からない。20回は優に超えている。叱ろうと、ゼミで退席しようと、F判定をしようと、何をしても変わらない。なにより、宮本制作の模型が滅茶苦茶に壊れてから2週間しか経っていない。

 わたしはどうすれば良いのだろうか。いきなり、真剣に悩んでしまった・・・またまたまた、悩んでしまった。今年、かれは頭を丸めた。自らを戒めているのだと信じていた。だから、こういうことがおきないはずだった。しかし、現実には、この2週間で3回連続して、類似の事件をおこしている。

庭と民家




西川先生02安楽寺01

 加藤家住宅の視察は半時間ばかりで終わり、青谷上寺地の展示館へ移動。見学も終わるころ、ホカノが下級生2名を連れてあらわれた。正直言って、この段階から来てくれても、なんにも嬉しくない。視界に入るだけで神経が負の方向にぶれてしまうからだ。しかし、辛抱するしかない。ともかく、先生のご案内に集中しなければならない。
 昼食は鹿野の「蕎麦道場」。そして、湯梨浜の尾崎家へ。さっそく先生を紹介した。蓮如研究の専門家だということをお知らせしておいたので、大歓迎である。尾崎家では、加藤家とちがってすでに雨戸も開けてあった。快晴の松甫園は格別である。おかげで、少し気持ちが柔らいだ。先生は熱心に見学されていたが、建物よりも扁額や巻物についての質問が多かった。これは勉強になった。たしかに盲点である。主屋や仏間の飾り物の作者や年代をもっときちんと訊いておくべきだと思った。
 仏間を視察後、安楽寺本堂の内部をみせていただいた。先生はご住職に質問を続けられている。あたりまえのようで、ハッとさせられたのは、西本願寺から東本願寺への改宗期。たしか、ご住職は宝暦3年(1753)と言われた。18世紀のど真ん中であり、現在の尾崎家の建造物と庭の推定造営期と重なる。報告書の追記になるが、

  1.もともと尾崎家の屋敷は現在の安楽寺の境内にあった。
  2.屋敷がいまの場所に移り、庭や建物を造営したのは18世紀の中頃である。
  3.その後、旧宅地に安楽寺を移設した。
  4.安楽寺の移設と東本願寺への改宗は宝暦3年には終わっていた。

ということになるだろう。

 視察は終わり、寺町の住宅にいったん戻ったが、そこから9号線にでて一路京都へ向かった。京都の五条烏丸で先生は下車された。

巻軸
↑巻軸に描かれた明治時代の松甫園(主屋座敷)。この絵をもとに、松甫園は復元整備されたという。




  1. 2008/05/17(土) 23:52:50|
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